北条久時
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北条 久時(ほうじょう ひさとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は赤橋流の北条義宗。赤橋久時とも。
生涯
弘安3年(1280年)、執権・北条時宗の命を受けて河内・信濃・日向・紀伊・摂津の5カ国を兼ねる守護となった。永仁元年(1293年)3月、六波羅探題北方に任じられる。永仁5年(1297年)6月、探題職を辞して鎌倉に帰還し、翌年4月に評定衆の一人に列せられた。その後も引付頭、寄合衆、官途奉行などに任じられて幕政の中枢に参与した。徳治2年(1307年)3月、36歳で死去。
人物
- 諱の「久」の字は、元服時に将軍・久明親王より偏諱を受けたものとされる[1]。
- 歌人として優れ、『新後撰和歌集』や『風雅和歌集』、『続千載和歌集』、『玉葉和歌集』などの多くに久時の作品が修められている。
- 息子のうち、嫡子である守時は鎌倉幕府最後の執権(16代目)に、英時は鎮西探題に、それぞれ就任した。
- 鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏は娘婿であり、室町幕府2代将軍足利義詮と初代鎌倉公方足利基氏は孫にあたる。
経歴
※日付=旧暦
- 1288年(正安元)、従五位下に叙し、右馬助に任官。
- 1289年(正安2)、刑部少輔に転任。
- 1293年(永仁元)、3月23日、六波羅探題北方に赴任。
- 1295年(永仁3)、12月29日、従五位上に昇叙し、越後守に遷任。
- 1297年(永仁5)、6月18日、六波羅探題退任。
- 1298年(永仁6)、評定衆と就る。
- 1301年(正安3)、一番引付頭人を兼帯。
- 1302年(乾元元)、一番引付頭人から二番引付頭人に異動。
- 1304年(嘉元2)、寄合衆も兼帯。月日不詳、武蔵守に転任。
- 1305年(嘉元3)、二番引付頭人から一番引付頭人に異動。
- 1306年(徳治元)、正五位下に昇叙。武蔵守如元。
- 1307年(徳治2)3月、出家。法号:因恵、因憲。11月28日、卒去。享年36
関連項目
脚注
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