安達義景
安達 義景(あだち よしかげ)は鎌倉時代中期の武将。安達景盛の嫡男。鎌倉幕府の有力御家人。子に安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。
生涯
義景の「義」の一字は義景が15歳の元仁元年(1224年)に没した北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第2代執権の北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと思われる[1]。北条泰時から経時と時頼三代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあり、4代将軍藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条・三浦・安達の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった。
父景盛が出家してから17年後、将軍頼経が上洛した年に、義景は29歳で秋田城介を継承する。仁治3年(1242年)、執権泰時の命を受けて後嵯峨天皇の擁立工作を行ない、新帝推挙の使節となった。寛元4年(1246年)の宮騒動で執権北条時頼と図って反得宗派の北条光時らの追放に関与した。将軍家を擁する三浦氏と執権北条時頼の対立は、執権北条氏外戚の地位をめぐる三浦泰村と義景の覇権争いでもあり、宝治元年(1247年)、三浦氏との対立に業を煮やして鎌倉に戻った父景盛から厳しく叱咤されている。宝治合戦では嫡子泰盛と共に先陣を切って戦い、三浦氏を滅亡に追い込んだ。
時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた。建長5年(1253年)5月に出家し、翌6月に44歳で死去。
父景盛と義景が築いた安達氏の地位は、子の泰盛の代に全盛を迎え、時宗政権下で権勢を振るうこととなる。
登場する作品
- 北条時宗 (NHK大河ドラマ) - 2001年、演:小野武彦
関連項目
脚注
- ↑ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163))、その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されている(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)(→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)。よって、安達盛長以来幕府の信任を得て有力御家人となっていた安達氏(『世界大百科事典 第2版』・「安達氏」の項)もその統制下にあり、同じく北条氏と縁戚関係を結んでいた足利氏のケース(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年))と同様に、義景が北条義時、泰盛が北条泰時、宗景・盛宗兄弟と宗顕が北条時宗、貞泰が北条貞時、高景が北条高時から1字を拝領したと考えられる。足利氏において通字の「氏」が付かない足利家時について「時」の字が北条氏からの偏諱であることが指摘されており(小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、p.131))、「時」を通字としない安達氏においても、時盛、時顕が同じケースと考えられ、年代的に時頼、貞時から賜ったものとみられる。