大鹿村
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テンプレート:Infobox 大鹿村(おおしかむら)は、長野県下伊那郡の北部に位置する村である。
目次
歴史
- 大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社は明治末期の神社合併でできたが、もともとは本諏訪社といわれていた。諏訪大社の祭神である建御名方神が建御雷神との力くらべに負けて出雲から洲羽(諏訪)に逃げる際に一時的に滞在していたとする説がある。鹿塩の塩泉は建御名方神が鹿狩りをしているときに発見したという伝説や、御頭郷の最上位の席は鹿塩であったことなどいくつかの傍証となる事実がある。
- 嘉暦4年(1329年)3月、北条高時から信濃国の地頭・御家人に対して出された下知状により行われた諏訪大社五月会・御射山御頭に勤仕した郷村中に大河原・鹿塩の両村が記載されている。いずれにも地頭がいた(神長守矢文書)。
- 南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地の豪族香坂高宗に庇護され、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となった。
- 江戸時代:大河原村・鹿塩村の2か村は、徳川幕府の直轄領(天領)で、美濃国久々里の千村平右衛門預かり地として幕末まで一貫して変わらなかった。
- 1961年(昭和36年)6月:三六災害が発生、土砂崩れや土石流などによって村民55名が死亡。
- 2003年(平成15年)12月:隣接する松川町と任意合併協議会を設立し、合併に向けた検討を行ったが、2004年(平成16年)9月に行われた合併の賛否を問う住民投票で反対多数となり、松川町・大鹿村任意合併協議会は解散した。
- 2005年(平成15年)10月:北海道美瑛町などとともに全国7町村が発起人となり「日本で最も美しい村連合」を設立。大鹿歌舞伎という伝統芸能と、南アルプスを臨む美しい環境を守るためにも、参加が村発展の契機になることが期待されている。
- なお、この村には七不思議の伝承があり、その中でもっとも有名なのは、「鹿塩の谷で産まれた猫には、その仔一代は蚤がつかない」というものである。
沿革
- 1875年(明治8年)1月23日 - 筑摩県伊那郡大河原村・鹿塩村が合併して大鹿村(第1次)となる。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 長野県の所属となる。
- 1879年(明治12年)1月4日 - 郡区町村編制法の施行により下伊那郡の所属となる。
- 1882年(明治15年)4月15日 - 大鹿村(第1次)が分割して大河原村・鹿塩村となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大河原村・鹿塩村の区域をもって大鹿村(第2次)が発足。以降120年以上にわたり、大鹿村は合併を経験していない。
人口
地理
南アルプスと伊那山地に挟まれた山間の土地。中央構造線が村内を南北(国道沿い)に通っており、天竜川の支流・小渋川が南アルプスから西流している。村の北端は分杭峠、南端は地蔵峠の難所である。地蔵峠から北流する青木川と、分杭峠から南流する鹿塩川が中央構造線の谷筋に沿って流れ、小渋川に流入している。村の中心は小渋川と青木川の合流地点である上市場・下市場(大河原地区)と、鹿塩川と塩川の合流地点である塩河・塩原(鹿塩地区)の2か所に分かれており、このため村役場は、小渋川と鹿塩川の合流地点である落合にある。鹿塩地区では塩泉が湧出しており(鹿塩温泉)、海から遠く離れた奥山にありながら古くから製塩が行われていた。
中央構造線を挟んだ両側の地質が異なるため、両側の地形も異なる。東側(西南日本外帯)は三波川変成岩からなり地すべり地形が多数分布している。この地滑り平坦地上に集落が分布している。西側(西南日本内帯)は領家変成帯からなり崩壊地が多数分布している。こちらには平坦地がほとんど分布していない。
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山腹に点在する民家
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赤石岳を望む
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小渋川と大西公園
隣接している自治体・行政区
- 長野県
- 静岡県
行政
- 村長:柳島貞康(2009年1月24日就任)
交通機関
一般国道
都道府県道
バス
友好都市
ゆかりの人物
名所・旧跡・観光スポット
祭事・催事
扱った作品
- Beauty-うつくしいもの-
- おシャシャのシャン!
- 大鹿村騒動記(2011年東映)