楠木正成
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれた。後醍醐天皇の側近として名和長年、結城親光、千種忠顕らとともに「三木一草」とよばれた[1]。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。
目次
生涯
出自
河内の土豪説
太平記巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[2][3]。
楠木氏は橘氏の後裔とされる[4]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を仮りたとする説もある[5][4]。太平記巻第三には楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[4]。
また観世系図によれば観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[6]。
得宗被官説
筧雅博は、楠木氏の出自は、駿河国とした[7][8][4]。その理由として
- 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」のテンプレート:ルビはない。
- 鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。
- 観心寺荘の地頭だった安達氏は1285年入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏に滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる[9]。
- 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である後光明照院関白記(道平公記)に
くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん
と言う落首が記録されている[10]、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる[4]。
網野善彦は、楠木氏はもとは武蔵国御家人で北条氏の被官で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定した[11]。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる[7]。
また『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、テンプレート:ルビ、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている[12]
悪党・非御家人説
永仁3年(1295年)東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした[13]。
林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした[14][15]。兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした[15]。
元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[7]。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある[7][16]。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた[16]。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした[17]。
正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている[18]。
挙兵以前
元亨2年(1322)年、正成は得宗北条高時の命で紀伊国保田荘司湯浅氏を討ち、阿弖河荘を与えられた(『高野春秋編年輯録』)[11]。
挙兵から鎌倉幕府滅亡まで
元弘の乱
その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に正成が加担するようになった[11]。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教僧文観と醍醐寺報恩院道祐とされる[11]。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉国若松荘を正成は所領として得た[11]。しかし同年8月、倒幕計画が幕府側に知られると、後醍醐天皇と正成らは挙兵する(元弘の乱)。正成は「悪党楠兵衛尉」として鎌倉幕府の追及を受けた[11]。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[7]。
9月の笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は下赤坂城にて幕府軍と戦うが、敗退する(赤坂城の戦い)[11]。
正慶1(1332)年末、後醍醐・護良親王から左衛門尉を与えられた[11]。紀伊北部に出現し、湯浅宗藤と戦ったのち湯浅を味方につけた[11]。
後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦した。
宇都宮氏の宇都宮公綱と四天王寺で対峙するが、正成は宇都宮氏が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、兵を退いてしまった。
元弘3年 / 正慶2年(1333年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。後醍醐天皇が京へ凱旋する際、兵庫まで出迎え、同道警護についた。
建武の新政
後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政において正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され[11]、「朝恩に誇った」とされる[19]。
だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反し、追討の命を受けた義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破って京へ迫った。だが、正成は北畠顕家らと連絡し、足利方を京より駆逐する。
湊川の戦い
延元元年 / 建武3年(1336年)、九州で軍勢を整えた足利方が、再び京都へ迫った。この頃正成は、社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあること、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようである。正成は、後醍醐天皇に義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言したが容認されず、次善の策として進言した、京都から朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策も却下されてしまう。絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、湊川(兵庫県神戸市)で足利軍と戦うが敗れ、自害したとされる。
息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時、正儀らも正成と同じく南朝方として戦った。
死後
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』も正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。永禄2年(1559年)、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成は朝敵でなくなった。
影響
軍学
今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。
尊皇思想
江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。会沢正志斎や久留米藩の祀官真木和泉は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」 の創建を朝廷に建言した[20]。長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた[20]。
明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。
佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。
明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。
戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。もっともこの「悪党」という評価はあくまで歴史学のものであり、一般のものではない(悪党という言葉は、一般的に社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団などを意味する用語である)。NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社が抗議する事件が起きている。
墓所・霊廟・史跡など
- 大楠公首塚
- 大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院、檜尾山観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、尊氏の命によって送り届けられた正成の首級が葬られている。観心寺塔中院は、正成の曾祖父成氏が再建したと伝えられる、楠木家代々の菩提寺。
- 南木神社
- 大阪府南河内郡千早赤阪村に鎮座する建水分神社の摂社で、正成が祭神。本社の建水分神社は楠木家の氏神とされる。延元2年 / 建武4年(1337年)に後醍醐天皇により自ら彫刻の正成像が祀られたのが起源であり、後に後村上天皇より「南木(なぎ)明神」の神号を受けた。正成を祀る最古の神社。
- 楠妣庵観音寺
- 大阪府富田林市甘南備にある臨済宗妙心寺派の寺院で、楠木家の香華寺とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、河内西国霊場第二十番札所。正平3年 / 貞和4年(1348年)に楠木正行・正時が四條畷の戦いで戦死した後、正成の妻で正行・正時の母の久子が、草庵を建立。敗鏡尼と称して入寂するまでの16年間、この草庵楠妣庵に隠棲し、楠木一族郎党の菩提を弔った。敗鏡尼の入寂後、楠木正儀は観音殿を観音寺と改め、不二房行者(授翁宗弼)を住まわせた。観音寺は楠妣庵と共に、兵火による度重なる衰退を繰り返し、更に廃仏毀釈により廃寺となった。大正6年(1917年)に草庵楠妣庵が復元再建、同11年(1922年)に観音寺本堂が再建された。
- 長滝七社神社
- 岐阜県山県市長滝にある七社神社横に、八王寺宮と刻まれた楠公夫人久子の墓がある。正成の妻が楠木一族郎党の菩提を弔った後、戦乱の中、この地を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。地域の尊志を得て、久子(旧姓・南江)の生地甘南備村の字名、長滝、平井、掛、松尾等を伊自良に与えた。奥の院にある甘南備神社は、楠木家の遠祖と称える橘諸兄の父、美努王を祀る。甘南備村の口碑には、楠木正成夫人久子は、観音像を念持仏にして、行脚に出たが、終わるところ知らずとある。墓は、伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内西にある。楠公夫人がこの地に訪れた最大の理由は、新田義貞亡き後、その弟の脇屋義助が大将となり、北陸で敗れ、美濃の南朝一派と共に、最後の根尾城の戦いでも敗れ、根尾川の下流、本巣地区の北朝の根城を避け、一緒に戦った伊自良次郎左衛門の家臣と共に、伊自良に流れ、吉野に帰ったその経路に従ったものと思われる。
- 湊川神社
- 楠木正成(大楠公)の神霊を主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦いで斃れた一族十六柱と菊池武吉の神霊を配祀。戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀された。神社として創建されたのは比較的新しく、明治5年(1872年)のこと。神社創建以前から存在した墓所には、徳川光圀によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。異説もあるが、湊川の戦いで敗れた正成が弟正季とともに「七生報国」を誓って現在の湊川神社の北に位置する寺院廣厳寺の塔頭で共に自刃して自害したとされる、その後塚に移された戦没地ではあるが、墓所地と自害地を境内に有している。(廣厳寺本堂には正成とその一族の位牌が在る)
- 茨木城
- 大阪府茨木市に築城した城。現在は廃城となっている。
- 奉建塔(楠公六百年記念塔)
- 没後600年を記念して、昭和15年(1940年)に全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建てられた記念塔。正成討死の年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている(但し、旗印は史実ではなく伝承。非理法権天の記事を参照)。
- 楠公産湯の井戸
- 生誕の地から徒歩数分のところに「楠公産湯の井戸」とされる井戸がある。
- 春日大社
- 国宝の黒韋威矢筈札胴丸(甲冑)は正成が奉納したと伝わっている。
- 平泉寺白山神社
- 福井県勝山市平泉寺町平泉寺の神社。「楠正成公墓碑」がある。寺伝に拠れば正成の弟が当時、同寺宗徒であったがある日兄の夢を見た。のち、その日が戦死の日であったことがわかり、供養として墓を建てた、とされている。下って江戸時代には福井藩主の松平光通により、石柵と石畳参道が整備された。
関連作品
- 唱歌
- 小説
- 吉川英治『私本太平記』 講談社文庫:吉川英治文庫全8巻ほか
- 山岡荘八『新太平記』 講談社文庫:山岡荘八歴史文庫全5巻ほか
- 大佛次郎『大楠公 楠木正成』 徳間文庫、1990年10月 ISBN 4195991838
- アイヴァン・モリス『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』斎藤和明訳、中央公論社、1981年
- 高橋直樹「葛の楠木」『異形武夫』 新潮社、2001年4月 ISBN 4104452017
- 北方謙三『楠木正成』(上下) 中央公論新社、のち中公文庫 2003年6月、上 ISBN 4122042178、下 ISBN 4122042186
- 吉川佐賢『楠木正成 夢の花』(上下) 叢文社、上 2005年12月 ISBN 4794705387、下 2006年1月 ISBN 4794705395
- 安部龍太郎『道誉と正成』 集英社、 2009年8月 ISBN 4087713121
- 漫画
脚註
参考文献
- 植村清二『楠木正成』 至文堂(日本歴史新書)1962年、のち増補版中公文庫 1989年2月 ISBN 4122015871
- 黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社、昭和40年、1965年
- 網野善彦「楠木正成に関する一二の問題」『日本歴史』264号、1970年
- 林屋辰三郎『古代国家の解体』1955年、東京大学出版会、新版1983年
- 童門冬二『楠木正成 物語と史蹟をたずねて』(成美文庫)成美堂出版 1995年6月 ISBN 4415065724
- 『神戸と楠公さん 悲運の名将楠木正成公の生涯』湊川神社同編集委員会、神戸新聞総合出版センター 2006年10月 ISBN 4343003795
- 平泉澄『楠公・その忠烈と余香』 鹿島研究所出版会 1973年8月
- 森田康之助『楠木正成 美しく生きた日本の武将』 新人物往来社 1982年6月
- 森田康之助編『湊川神社史上巻(祭神篇)・中巻(景仰篇)・下巻(鎮座篇)』
- 湊川神社社務所 1984年3月・1978年2月・1987年12月
- 展覧会図録 『御殉節650年記念 大楠公展』 神戸新聞社、そごう神戸店1985年5月
- 佐藤和彦編『図説 太平記の時代』河出書房新社、1990年
- 兵藤裕己『太平記 <よみ>の可能性』講談社1995年、講談社学術文庫2005年
- 網野善彦「楠木正成」朝日日本歴史人物事典,kotobank.
- 筧雅博「得宗政権下の遠駿豆」『静岡県史 通史編2』1997年。
- 筧雅博『蒙古襲来と徳政令 日本の歴史〈10〉』講談社 2001年。
- 海津一朗『楠木正成と悪党』ちくま新書185,1999年。
- 新田一郎『太平記の時代』講談社、2001年
- 森正人「1930年代に発見される楠木的なるもの」人文論叢(三重大学)第26号 2009年
- 新井孝重『楠木正成』吉川弘文館、2011年
関連項目
- 熊野国造和田氏
- 桜井の別れ
- 後南朝
- 建水分神社- 楠木氏の氏神で、摂社に正成を祭神とする神社では最古の南木神社を祀る。
- 湊川神社
- 茨木神社
- 千早神社
- 千早赤阪村 - 正成の出身地で、村内に多くの史跡がある。
- 福井城 (摂津国)
- 二上山城 (大和国)
- 楠宏 - 正成の子孫で地理学者・地球物理学者
- 日本三忠臣
- 日本三悪人
- 楠谷町 - 楠木正成終焉の地の説あり。