吉川英治

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テンプレート:Infobox 作家 吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年明治25年)8月11日 - 1962年昭和37年)9月7日)は、日本小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県生まれ。

様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」といわれる。

経歴

生い立ち

1892年(明治25年)8月11日(戸籍面は13日)、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市)に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっているが、地名としては中村根岸はなく旧地名で中村町で現在の横浜市中区山元町に当たる。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、高瀬理三郎に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると、刑務所に入れられ出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。

山内尋常高等小学校に入学。当時騎手馬屋に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳のころから雑誌に投稿をするようになり、時事新報社少年誌に作文が入選した。家運が衰えたのはこのころで、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳のとき、年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。

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東京毎夕新聞社記者時代
(大正10年 - 大正12年)

人気作家への道

1910年(明治43年)に上京、象眼職人の下で働く。浅草に住み、このときの町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこのころから川柳をつくり始め、井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加する。1914年大正3年)、「江の島物語」が『講談倶楽部』誌に3等当選(吉川雉子郎の筆名)するが、生活は向上しなかった。のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。1921年(大正10年)に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ『親鸞記』などを執筆する。

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『神州天馬侠』執筆ころ下落合の家にて
(大正14年)

関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を講談社に送り様々な筆名で発表し、「剣魔侠菩薩』を『面白倶楽部』誌に連載、作家として一本立ちする。1925年(大正14年)より創刊された『キング』誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。このとき本名の「吉川英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を「英治」と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これをペンネームとするようになった。キング誌は講談社が社運をかけた雑誌だが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成させた。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。

『宮本武蔵』の誕生

こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、さらに養女をもらい家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。このころから服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。

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英治夫妻
(昭和12年)

1937年(昭和12年)、やすと離婚、池戸文子と再婚する。1939年2月より「新書太閤記」を連載。7月の「宮本武蔵」完結後、8月より「三国志」を連載。個人を追究したものから、2作品は人間全体を動かす力を描こうとしているのがうかがえる。『宮本武蔵』終了後も、朝日新聞からは連載の依頼が続き、「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表した。

1942年(昭和17年)、海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、海軍の戦史編纂に携わっていた。山口多聞加来止男の戦死を受けて、「提督とその部下」を朝日新聞に執筆し、安田義達の戦死後は「安田陸戦隊司令」を毎日新聞夕刊に連載している。[1]

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吉川英治
(昭和14年夏)

敗戦後の活動

敗戦後は、その衝撃から筆を執ることができなくなってしまった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活する。ただしこのころ、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。1950年(昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞を受賞。また『文藝春秋』からの強い要望で、1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なおこのころ身を隠していた辻政信に会い、逃亡資金を渡している。『新・平家物語』終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載する。『私本太平記』は、従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描く。1960年(昭和35年)文化勲章受章。しかし通俗作家と見なされ、芸術院には入れられなかった。

「私本太平記」の連載終了間際に肺がんにかかり、翌年夏にがんが転移し悪化。1962年(昭和37年)9月7日、肺がんのため築地国立がんセンターで死去。70歳。法名は、崇文院殿釈仁英大居士。従三位勲一等に叙せられ、瑞宝章を贈られた。疎開先だった東京都青梅市に、吉川英治記念館がある。なお東京都港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり、(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。

年譜

  • 1892年明治25年) - 神奈川県久良岐郡中村根岸(現横浜市南区)に生誕。
  • 1898年(明治31年) - 横浜市千歳町の私立山内尋常高等小学校に入学。
  • 1900年(明治33年) - 横浜市清水町に移転し太田尋常高等小学校に転校。
  • 1903年(明治36年) - 家運傾き小学校を中退。
  • 1909年(明治42年) - 年齢を偽って横浜ドック船具工となる。
  • 1910年(明治43年) - 上京。菊川町のラセン釘工場の工員なる。
  • 1911年(明治44年) - 蒔絵師の家に住み込み徒弟となる。また川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の筆名で作品を発表。
  • 1914年大正3年) - 三越百貨店が各種文芸を募集した「文芸の三越」川柳一等に当選。講談倶楽部に『江の島物語』一等当選。
  • 1921年(大正10年) - 旅先から応募していた講談社の懸賞小説三篇入選。山崎帝國堂広告文案係を経て暮れに東京毎夕新聞社入社。
  • 1923年(大正12年) - 人気芸妓だった赤沢やすと結婚。関東大震災を機に、文学で生計を立てることを決意する。
  • 1925年(大正14年) - キング誌が創刊され『剣難女難』を連載、人気を得る。初めて吉川英治の筆名を使う。
  • 1926年(大正15年) - 『鳴門秘帖』を連載。大人気となり、時代小説家として大衆文学界の新鋭となる。
  • 1930年(昭和5年) - 現代小説「かんかん虫は唄ふ」を『週刊朝日』に連載。このころから『貝殻一平』『松のや露八』などの維新ものを発表しはじめる。
  • 1935年(昭和10年) - 『宮本武蔵』の連載を開始。
  • 1937年(昭和12年) - 日中戦争勃発。毎日新聞の特派員として現地を視察。旅行中やすとの離婚成立。料理屋で働いていた池戸文子と結婚。文子16歳、英治45歳の歳の差夫婦だった。
  • 1938年(昭和13年) - ペンの部隊として南京漢口作戦に従軍。『三国志』の執筆開始。
  • 1944年(昭和19年) - 西多摩郡吉野村(現在の青梅市)に疎開、疎開地が後に記念館になる。
  • 1945年(昭和20年) - 終戦とともに一時執筆活動を休止。
  • 1947年(昭和22年) - 執筆再開。
  • 1948年(昭和23年) - 『高山右近』を読売新聞に連載。
  • 1950年(昭和25年) - 『新・平家物語』を週刊朝日に連載。
  • 1953年(昭和28年) - 『新・平家物語』で第1回菊池寛賞受賞。
  • 1956年(昭和31年) - 『新・平家物語』で朝日文化賞受賞。
  • 1960年(昭和35年) - 文化勲章受章。
  • 1962年(昭和37年) - 毎日芸術賞受賞。が悪化、死去。

著作

著作の情報はテンプレート:Harvtxtを参照。

全集

単行本

佐々木小次郎との巌流島の決闘までを描く長編。それまで講談の主人公だった宮本武蔵に書生的な求道者との解釈を加える。登場人物は幼馴染の又八や武蔵を慕うお通、沢庵、お甲・朱実母子など。宝蔵院や柳生石舟斎本阿弥光悦などとの出会いを通しての武蔵の人間的成長を主軸に、吉岡一門や佐々木小次郎、対決に介入する柳生一門などとの対決を描く。
中国の後漢末から三国時代の歴史物語を『三国志演義』に基づき、悪役扱いだった曹操を魅力的に描くなど人物描写に新たなる解釈を加えたり、戦闘場面を簡略化させるなどして描いてゆく。作品全体が日本人好みにアレンジされ、江戸期の湖南文山版に代わって日本の三国志物のスタンダードともいうべき地位を得た。
豊臣秀吉の生涯を描く。秀吉の幼少時から織田信長に仕え、ねねとの結婚、目覚ましい出世、本能寺の変を経て天下人になるまでの過程を描き、徳川家康との対決が強まる時点で終了(実際の秀吉の生涯はそれから約15年続く)で、突如終わった印象を与える(作者が晩年の秀吉の行状を嫌ったため)。なお架空人物では、幼少時に奉公した商家の若主人・於福などが登場する。
徳川光圀を描く。
謙信を領土欲を持たない義戦を貫いた武将として描いている。永禄四年の川中島の戦いがクライマックス。近年の調査によって新たに判明した史実が反映されていないため、歴史的には決して正しいとはいえないものの、作品評価は高く、現在でも版を重ね続けている。
諸作品で、不動の地位を得た吉川が生涯の最期に、『三国志』と並び広く読まれた演義小説の一つ『水滸伝』を、自己流に解釈した意欲作。円熟した筆致と軽妙洒脱な物語の展開は、吉川文学の完成された姿をみせているが、未完の絶筆となった。とはいえ、梁山泊に百八星が集った直後で、原作の120回の73回辺りでの(事実上70回本での完結)終了で、物語展開では区切りに至っており十分に読ませる作品である。

映像化作品

映画

テレビドラマ

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長男英明を抱く文子と次男英穂を抱く英治
(昭和16年)

家族親族

  • 妻 やす、文子
    • 長男 英明
    • 二男 英穂
    • 長女 曙美
    • 二女 香屋子
    • 養女 園子

系譜

吉川家は江戸時代小田原藩の下級武士であり祖父・銀兵衛は徒士並五石二人扶持で根府川番所につとめた。元々は「きっかわ」とよんだと吉川英治は言っている(『忘れ残りの記』)。

銀右衛門━銀右衛門━銀右衛門・・・勇助━銀兵衛━直広━┳英次━┳英明
                           ┣くに ┣英穂
                           ┣きの ┣曙美
                           ┣かゑ ┣香屋子
                           ┣素助 ┗園子
                           ┣はま
                           ┣きく 
                           ┣ちよ
                           ┣すえ
                           ┗晋

                        

馬主

1956年(昭和31年)までは競走馬馬主としても有名だった。馬主となったのは1939年(昭和14年)で、親友でやはり馬主だった菊池寛に勧められて馬主となったものであるが、特に戦後には数々の有力馬を所有していたことで名高い。中でもケゴン1955年(昭和30年)の第15回皐月賞を優勝している。他にもケゴンの全姉でスプリングステークスなど重賞5勝の牝馬チエリオなどがいる。

しかし、1956年(昭和31年)の第23回東京優駿(日本ダービー)で、出走した愛馬エンメイが1コーナーで発生した混乱に巻き込まれて落馬・転倒する事故が起き、エンメイは脚部骨折のために予後不良と診断され殺処分となり、鞍上だった阿部正太郎騎手も騎手生命を絶たれる瀕死の重傷を負った。当日の吉川は仕事のために大阪におり競馬場で直接事故を目撃したわけではなかったが、この一件で大きなショックを受け、程なく競馬の世界からすっぱりと手を引いた。

その後の吉川は、当時は体調が優れなかったこともあり医師の勧めでゴルフを始め、これが競馬に代わる晩年の趣味となったという。

その他

著作『宮本武蔵』が1984年にNHKにより役所広司主演でテレビドラマ化された際に、役所の歌う『独行道』という劇中歌が流され、視聴者にも概ね好評を博し、レコード化の計画も上がっていた。しかし、吉川の遺族は「原作のイメージと合わない。使うのを止めて欲しい。レコード化も止めて欲しい」とNHKにクレームをつけたため、この歌は数回流されただけでお蔵入りとなった。そのため、吉川の遺族は同作品の根強いファンたちからは顰蹙を買っている[2]

脚注

  1. 『回想の日本海軍』(原書房)所収の、「吉川英治先生と海軍」
  2. 『TVドラマ・プロデューサー』澁谷康雄著(太陽企画出版)

参考文献

伝記

関連項目

外部リンク

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