蜂須賀重喜

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興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)
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万年山墓所の墓所(徳島県徳島市眉山町)

蜂須賀 重喜(はちすか しげよし)は、阿波徳島藩第10代藩主。

経歴

元文3年(1738年)、出羽秋田新田藩主・佐竹義道の四男に生まれる。母は内藤政森の娘。幼名は岩五郎、初名は佐竹義居(さたけ よしすえ)。

宝暦4年(1754年)8月25日、阿波徳島藩第9代藩主・蜂須賀至央末期養子として第10代藩主に就任する(至央は第8代藩主・蜂須賀宗鎮の実弟で、兄弟ともに讃岐高松藩松平家の一門松平大膳家からの養子である)。養子入りに際しての政胤(まさたね、「政」は藩祖・蜂須賀家政の1字を取ったもの)と改名する。この末期養子は、相次いで後継ぎが早世したために、家老の賀島出雲の提案により決定した。しかし、阿淡夢物語によれば、義道は四男である義居をどこかへ養子に入れようと画策しており、賀島出雲を懐柔して、義居が藩主になるよう根回しした結果徳島藩へ養子縁組が決定したとされる。しかし、阿淡夢物語のこの記述は潤色であり、事実ではない[1]

同年9月15日、第9代将軍徳川家重御目見する。同年11月25日に元服して家重より偏諱を受けて重喜と改名、従四位下阿波守に叙任する。後に侍従に任官する。

宝暦5年(1755年)4月15日、初めて領地に赴任する許可を得る。留野留川の規制という法令を出し、家中の統制を図る。宝暦・明和期の藩政改革の萌芽と言える(中期藩政改革)。重喜が中心となって行なった改革の内容は、財政再建としての倹約令の施行と、藩体制の変革としての役席役高の制、若年寄の創設などであった。役席役高とは第8代将軍徳川吉宗(家重の父)の享保の改革で行なわれた足高の制を模範としているが、身分序列の崩壊を招いたことで、その性格は異なる。

明和6年(1769年)10月晦日、藩政宜しからずとして幕府より隠居を命じられ、長男・喜昭(のち治昭に改名)に家督を譲る。重喜32歳。隠居後は明和7年(1770年)5月、江戸小名木屋敷に移り、大炊頭を称す。安永2年(1773年)、療養のため国元へ帰り大谷別邸に住む。天明8年(1788年)、かなりの贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになったので、同年8月、阿波の富田屋敷へ移り、江戸行きは免れた。

享和元年(1801年)10月20日、富田屋敷で卒去した。享年64。

阿淡夢物語によれば、女漁りを行い淫行に耽溺し、家臣達にも淫行を促したと書かれている[2]

重喜は小さな藩の生まれであるコンプレックスがあったとされ、それゆえ功を焦って性急な改革を行ったと言われる[3]

系譜

子供は16男14女。

なお、次男、四男、六男、十男、十三男、十四男、十六男及びその子孫は臣籍に下り、家老などに登用されて藩政に参画した。

偏諱を与えた人物

重喜時代

(*もともと「喜」の字は第7代藩主宗英の実父である隆喜から1字を取ったものである。)

脚注

  1. 中嶋・64頁
  2. 中嶋・64頁
  3. 中嶋・65頁

参考文献

  • 『新訂寛政重修諸家譜』第六。
  • 『藩史大事典』
  • 『阿波近世用語辞典』(高田豊輝著、徳島、自費出版、2001年2月)
  • 中嶋繁雄『名君・暗君 江戸のお殿様』(平凡社 ISBN 978-4-582-85355-1)など。

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