楠木正虎
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楠木 正虎(くすのき まさとら 永正17年(1520年) - 文禄5年/慶長元年1月11日(1596年2月9日))は、戦国時代から安土桃山時代の人物。足利義輝、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。
生涯
備前大饗氏[1]の出、生国も備前テンプレート:Refnestで初名を大饗長左衛門(甚四郎)と言う。系図上の父は禁闕の変を起こした楠木正秀の子という河内大饗氏の大饗正盛で、その養子に入ったものか楠長譜(くすのき・ちょうあん)と名乗った。式部卿法印、従四位上河内守。子に楢村玄正。
松永家、織田家、豊臣家の右筆(書記官)を担当した。正虎は、書を飯尾常房に学び(飯尾常房は1485年に没しているので、実際にはその弟子筋の人物に学んだと推測される)、世尊寺流の当代一流の書家であった。
楠木正成の子孫と称し、朝廷に楠木正成の朝敵の赦免を嘆願した。久秀の取り成しにより1559年には正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を名乗り、楠長諳から楠木正虎と改名した。1575年には式部卿法印に叙せられ、松井友閑らとともに佐久間信盛の監督官の立場に任じられる。1581年2月の京都御馬揃えでは坊主衆の一員としての参加が確認できる(信長公記)。
出身である備前焼の有力窯元であった備前大饗氏とは親しい関係が続き、天正十年三月秀吉備前滞留の際は大饗邸に滞在した[2]。
1592年の朝鮮征伐に際しては、肥前国名護屋城において、石田三成の父である石田正継とともに記帳などにあたった。後に従四位上河内守に任じられた。
一説には由井正雪の養父となったとされる軍学者・楠不伝(楠木正辰)を正虎の子とするものもあるが、確証は無い。
脚注
参考文献
- 渡邉世祐 『吉野時代以後の楠氏』国史学25号 1935年
- 村田正志 『楠文書の研究』 國學院雑誌62巻9号 1961年 『村田正志著作集第二巻 続南北朝史論』 思文閣出版所収
- 谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』第二版 吉川弘文館 2010年
- 森俊弘 『中近世移行期の備前国人と地域産業』 岡山地方史研究会 『岡山地方史研究128』 2012年12月