石田正継
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石田 正継(いしだ まさつぐ、生年不詳 - 慶長5年9月18日(1600年10月24日))は、安土桃山時代の武将。父は石田為広(仲成・為厚とも。法名は前陸奥入道清心)といわれるが不明。子に石田正澄、三成などがいる。左悟右衛門・藤右衛門・太郎右衛門。従五位下隠岐守。「正継」は三成出世後の名乗りであり、それ以前は政成・為成・晴成などを名乗っていたといわれるが、いずれもはっきりしない。
略歴
出自について、近江国坂田郡石田村(現:滋賀県長浜市石田町)出身の地侍、または京極氏の被官とする説があり、和歌や文学に造詣が深い才人とされる。
三成が豊臣秀吉に仕えると、代官として三成を補佐する。文禄4年(1595年)、三成が佐和山城主に封ぜられると、正継も近江国内で3万石を領する。以後は佐和山城代として、三成留守時の庶政を掌った。朝鮮出兵では、楠木正虎とともに肥前名護屋城にあって帳簿関係を担当した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、正澄と共に佐和山城を守備する。関ヶ原で西軍が敗れた後、小早川秀秋らの猛攻に遭って半日を戦うも敗退して自刃した。墓所は京都市右京区の妙心寺で、当寺には正継の肖像画も所蔵されている。