佐和山城
佐和山城(さわやま じょう)は、日本の城。中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡[1](現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した山城である。現・佐和山城址。 坂田郡および直近の犬上郡のみならず、近江支配の重要拠点であり、16世紀の末には織田信長の腹心丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城としたことでも知られる。
歴史
佐々木・六角・浅井・織田の時代
佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見える。
室町時代の応仁年間(1467- 1468年)は、六角氏家臣の小川祐忠が在城したテンプレート:要出典。
戦国時代が後期に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなって佐和山城は新興勢力である浅井氏の支城となった。 元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ激戦を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。
羽柴・豊臣の時代
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに、天正18年(1590年。時期については異説あり)には五奉行の一人である石田三成が入城した。三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、人をして「治部少(じぶのしょう。三成のこと)に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。
三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。
佐和山城の戦い
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
徳川方の兵士は「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」と思い、我先にと城内に乱入したが、城の壁は粗壁であり、また、何の装飾もない質素な作りであったという。しかも、石田屋敷にあったものは豊臣秀吉から送られた感謝状のみであったと伝わっている(『甲子夜話』)。
徳川時代、そして、廃城
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。三成は領地にて善政を敷き、領民からも大変慕われていたため、直政はその威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城全体の完成は元和8年(1622年)のことである。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に破壊されたため、城址にはほとんど何も残っていない。直政の死を三成の呪いと結びつけての一掃であったとする俗説もある。 しかしそれでも、石垣、土塁、堀、曲輪、その他施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。
関連事項
- 佐和山藩 :豊臣政権が近江国に立てた一藩で、佐和山城を藩庁とし、石田三成を藩主とする。徳川政権下で井伊氏に引き継がれたのち、彦根藩の立藩に替えて廃された。
- 佐和山遊園 :一個人によって石田三成のテーマパークが構想され、1970年代半ばより建設され続けているが、事実上、廃園状態となっている。
- 佐和山一夜城復元プロジェクト :彦根城築城400年祭のイベントとして、2007年(平成19年)9月1日から16日までの期間限定で開催された。
- 佐和山城跡は、西側山麓にある龍潭寺(彦根市古沢町1104)が所有しているが、好意により無料での入山が許可されており、境内に登山口がある。