松井友閑

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松井 友閑(まつい ゆうかん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代武将松井長之の次男、松井正之の弟、松井康之の叔父。官名は宮内卿法印正四位下)、庵号は徳庵。

生涯

友閑は京都郊外の松井城で生まれた。松井氏は、友閑の祖父の松井宗富が8代将軍足利義政に仕えて以来、代々室町幕府重臣として仕えていた。松井家は代々山城守に任ぜられることが多く、兄は山城守正之。友閑は12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、永禄8年(1565年)、永禄の変で義輝が松永久秀らによって暗殺されると、後に織田信長の家臣となった。

永禄11年(1568年)の織田信長入京後には京畿の政務にあたり、織田氏右筆に任じられている。京都の豪商らに接触して名物の茶器などを供出させた。天正6年(1574年)3月24日、相国寺で開かれた信長の茶会では茶頭を務めた。同年、東大寺正倉院の名香蘭奢待を拝受した時には奉行を務めた。天正3年(1575年)には堺の代官に任じられた。信長主催の茶会では茶頭を務めている。

この頃になると堺の豪商・津田宗及とも親交を深めた。後にも信長が開く茶会には度々茶頭として呼ばれる事が多く、茶道に対する造詣が深かった人物と思われる(『兼見卿記』『宗及記』など)。7月3日、宮内卿法印(正四位下)の官位を授かった。村井貞勝武井夕庵と並んで、信長の吏僚の中でも最高の地位にいた。

織田家では主に財務などを担当したが、外交能力にも長け、上杉謙信宛の信長書状に副状を発したり、三好康長の投降交渉(高屋城の戦い)、本願寺との和睦工作、謀反を起こした荒木村重や松永久秀の説得交渉、後期には伊達輝宗大友宗麟ら遠方の大名との外交交渉にも奔走している。本能寺の変当時は堺で徳川家康を茶会も催して歓待中であり、変を知ると上洛を目指したが、途中で断念し、堺の町衆に変の勃発と信長の死を報じた。変後は豊臣秀吉に接近し、堺の代官として以後も活躍する。しかし天正14年(1586年)に突然不正を理由に罷免され、その後の消息は不明。

目利きで知られ、鳥丸家、松江宗訥とともに天下三墨蹟の一つとされた無準の墨蹟を所持した。武野紹鴎より「相阿弥茶湯書」を伝えられている。戦国武将だけではなく、茶人、文化人でもあったと言われている。

関連項目