太政大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記 太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、日本飛鳥時代から明治時代まで存続した官職

概要

太政大臣は律令に基づいて置かれたが、中国官制には相当するものがなく、日本独自の官職である[1]。日本史上、太政大臣は大友皇子から三条実美までの100人に及ぶ。その態様は一様ではないが、おおまかに次の4種に分類することができる。

  1. 大宝令以前の太政大臣
  2. 大宝令及び養老令に基づく太政大臣
  3. 武家官位としての太政大臣
  4. 明治時代の太政官制に基づく太政大臣

大宝令以前の太政大臣

日本最初の太政大臣とされているのは、天智天皇が天智天皇10年(671年)1月に任命した大友皇子である。近江令に基づくものと推測されるが、職務権限などの詳細は不明である。大友皇子が天智天皇の死去を受けてその後継者に擁立されたことから、たとえば推古天皇の治世における厩戸皇子のように、最有力の皇位継承者であると同時に天皇の共同統治者・政務代行者として位置づけられたものと考えられる。いわば皇太子摂政を兼ねた地位である。

これに続くのは、持統天皇の任命にかかる高市皇子である。飛鳥浄御原令に基づくものと推測されるが、これも具体的な内容はわからない。高市皇子の任命は持統天皇4年(690年)7月であるが、この直前、同年4月に皇太子草壁皇子が没していること、高市皇子が持統天皇10年7月に没すると、その直後の翌年2月に草壁皇子の子軽皇子皇太子に立てられていることから、高市皇子の地位も皇太子に準じるものであって、太政大臣という官職がそのことを表現しているものと考えられる。

大宝令・養老令に基づく太政大臣

通常「太政大臣」といえば、この大宝令・養老令の下での太政大臣を指す。太政大臣は太政官における最高の官職である。訓読みとしては「おほいまつりごとのおほまへつぎみ」(『令義解』)「おほまつりごとのおほまつぎみ」(『和名類聚抄』)「おほきおほいまうちぎみ」(『古今和歌集』)などと読む。唐名は大相国、相国太師など。定員1名。官位相当は正一位従一位

養老令「職員令」では、太政大臣の職務は次のように規定されている。

テンプレート:Quotation

「一人に師範として、四海に儀形たり」とは、天皇の師範であり天下の手本となる者であることを意味し、の令の三師太師太傅太保)の規定の丸写しである。「邦を経め(おさめ)道を論じ、陰陽を燮理(しょうり)す」とは、国家を治め道理を論じ自然の運行を調和させることをいい、唐の令の三公(司徒、司空、太尉)の規定の丸写しである。「その人なければすなわち闕けよ(欠けよ)」というのもやはり丸写しである(これにちなんで太政大臣の異名を「則闕の官」という)。日本における太政大臣は、中国の三師と三公を一身に兼ねるものと言える。『令義解』でも「尋常の職にあらず」と説明されており、ふさわしい人物がなければ空席とされることになっていた。

先駆者たち

大宝令が施行されても、しばらく太政大臣は任命されることがなかった。これはもちろん「尋常の職」ではなく「則闕の官」であることにもよるが、大友高市のふたりの太政大臣の前例も影響を与えている。皇太子に匹敵するほどの高い権威を有する人物でなければ任命できない一方、うかつに任命すれば皇太子の権威を脅かす存在になりかねないからである。このため、太政大臣の任命が必要な場合でも、あえてこれを避け、太政官の長官という側面だけを抽出した令外官である知太政官事を設置することでしのぐことが続いた。ただ、藤原不比等をはじめ、死後に太政大臣を追贈された例はいくつか見られる。

結局、太政大臣が実際に任命されるのは、養老令の施行後、天平宝字4年(760年)1月の藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)の任命まで時期がくだることになる。ただし、この任命は、天平宝字2年(758年)8月から同8年(764年)9月までの、太政大臣を「太師」と改称した時期に当たり、押勝が就任したのはこの大師である。これに続いて、天平神護元年(765年)閏10月、道鏡が、出家した天皇(称徳天皇)には出家した大臣が必要であるという理由で天平宝字8年(764年)9月に彼のために新設された令外官である「大臣禅師」から昇進して「太政大臣禅師」に任命されている。両者は特殊なケースではあるが、中世・近世の有職故実においても、近現代の歴史学においても、太政大臣の歴代から排除されてはいない。

人臣太政大臣と人臣摂政

正規のかたちで太政大臣が任命された初例は、斉衡4年(857年)2月の藤原良房である。ときの文徳天皇は、おりから病気がちであり、しばしば政務を執ることができないほど体調が悪化することがあった。一方で、皇太子惟仁親王はわずか8歳の幼少であった。文徳天皇としては、生母藤原順子の兄であり、正妻藤原明子の父であり、皇太子の外祖父であり、すでに右大臣として廟堂に重きをなしていた良房は、病身の自分を補佐するとともに、自分に万一のことがあった場合には前代未聞の幼帝として即位することになる惟仁親王の後見人として、もっとも頼りがいのあるうってつけの人材であったと言える。実質的には、良房の太政大臣任命は、いわゆる「人臣摂政制」の発足としての意味を持つものである。はたして文徳天皇は翌天安2年(858年)2月に没し、惟仁親王が9歳で践祚した(清和天皇)。『公卿補任』や『職原鈔』などは、良房が清和天皇の践祚と同時に摂政に任じられたものとして記述している。良房は、順子や明子と協調しながら、事実上の摂政としての役割をはたしてゆくことになる。

清和天皇の良房に対する信任は篤く、成長しても良房に対する尊重は変わることがなかった。貞観8年(866年)閏3月に起きた応天門の変による政情不安に際しては、同年8月に、非常事態を収拾するための大権として、あらためて良房に天下の政を摂行すべき由の勅を発している。形式的には、この時点が史上初の人臣摂政の任命とされている。さらに貞観13年(871年)4月には、良房に三宮に准じて年官を与えている(准三宮の初例)。

良房が貞観14年(872年)9月に死去すると、その立場は良房の猶子右大臣基経に受け継がれた。清和天皇は、貞観18年(876年)11月に皇太子貞明親王(陽成天皇)に譲位するにあたり、基経に良房と同じ摂政の任を与えている。さらに、元慶4年(880年)12月には、その死去に臨み遺詔をもって「右大臣の官職は摂政の任にふさわしくない」という理由で基経を太政大臣に昇進させている。これ以降、摂政の職務と太政大臣の官職は一体のものとして観念されるようになってゆく。

元慶8年(884年)2月に陽成天皇が廃位され、光孝天皇践祚すると、基経は、陽成天皇の退位により摂政の職務は解除されたものと考えた。一方、光孝天皇は従前どおり基経の補佐を受けることを望んだ。しかし、良房・基経の摂政がいずれも老練な重臣が若年の天皇を補佐するものであったのに対して、光孝天皇は基経よりも年長であった。そこで、従前のものとは異なる論理で摂政の職務を合理化する必要が生じた。ここで着目されたのは太政大臣の職務権限である。太政大臣であること自体に事実上の摂政の意味を求めようとしたのである。基経も、令では抽象的な規定にとどまっている太政大臣の職務の具体化・明確化を望んだ。

元慶8年5月、文章博士菅原道真ら8名の有識者に「太政大臣の職掌の有無」が諮問された。8名の答申はさまざまで意見の一致を見なかったが、もっとも明確に結論をくだしたのは道真の答申である。それは、太政大臣は「分掌の職にあらずといえども、なお太政官の職事たり」というものであった。実は『令義解』にも「分掌の職にあらず、その分職なきがため、ゆえに掌を称さず」と明記されている。令に太政大臣の職務権限に関する規定がないのは、地位のみが高くて実権のない官職だからではなく、太政官が管轄するすべての職務について権限を有するために、あえて個別に例示する必要がないからだというのである。

これを踏まえ、光孝天皇は同年6月に基経に対して、太政大臣は「内外の政統べざるなし」とのを発し、太政大臣が実権のある官職であることを保証した。しかし、同じ詔で「まさに奏すべきのこと、まさに下すべきのこと、必ずはじめに諮稟せよ、朕まさに垂拱して成るを仰がむとす」とも述べて、基経には太政大臣とは別の特殊な権限があることも認めている。この後半の部分は、のちに関白を任命する際の詔にも決まり文句として継承されることになる。これは、摂政関白と太政大臣が分離してゆく最初の契機ともなった。

仁和3年(887年)8月に光孝天皇が没し、宇多天皇践祚した際にも、基経の特殊な権限は再確認された。同年11月、宇多天皇は「万機の巨細、百官己に惣べ、みな太政大臣に関わり白し、しかるのちに奏下すること一に旧事のごとくせよ」と詔している(「関白」という言葉の初例)。

太政大臣と摂関の分離

基経が寛平3年(891年)1月に死去したあと、基経の子孫たちのなかから、忠平実頼伊尹兼通頼忠が相次いで太政大臣に就任している。いずれも、まず、基経によって確立された摂政または関白の地位に就いてから、その地位にふさわしい官職として太政大臣に任命されるやり方をとっている。この間約100年、摂関と太政大臣はつねに一体のものとしてあった。

これが変化するのは、寛和2年(986年)6月の花山天皇の突然の退位のときのことである。代わって践祚した一条天皇の下で、天皇外戚関係のない関白太政大臣頼忠は、一条天皇の外祖父の右大臣藤原兼家関白を譲ることになった。一条天皇はまだ6歳であったから、兼家は関白を改めて摂政となった。これまでの慣例からすれば、兼家が太政大臣となるのが自然な流れであるが、頼忠が引き続き太政大臣に在任しており、なんら罪があるわけでもない頼忠から太政大臣の官職を奪うことは困難であった(関白は、もともと天皇の交代とともに自動的に退任し、あらためて新天皇から指名されるものであり、頼忠に罪があって解任されたわけではない)。そこで兼家は、同年7月、右大臣を辞任した。太政大臣以下の太政官の既存の官職から超越して、ただ摂政という立場のみに基づいて権力をふるうことを選んだのである。兼家は准三宮となり、さらに、その後摂関の特権のひとつとして定着することになる「一座の宣旨」を与えられて、三公の上に列することとされた。このとき、摂関と太政大臣は決定的に分離した。太政大臣の実権は完全に摂関に吸収され、太政大臣は単なる名誉職へと変化することになる。

兼家は頼忠の死後短期間太政大臣を務めたが、父兼家の跡を継いで摂政となった道隆は自らは太政大臣にはならず、かえって叔父の為光を推薦して太政大臣に据えた。正暦2年(991年)9月、基経以来、摂関を経ずに太政大臣になった最初の例である。道隆はついに太政大臣になることがなかった。次の関白藤原道兼も同様である。ついで、藤原道長の短期間の在任をはさんで、治安元年(1021年)7月に道長の叔父公季がやはり摂関を経ずに太政大臣となった。太政大臣は摂関家庶流の長老を処遇するための名誉職として定着してゆく。

また、摂関の職が道長とその子息頼通の子孫(御堂流)に定着し、ときの天皇との外戚関係に左右されずに世襲されるようになると、摂関家に代わって皇后を輩出した家系から、かつての良房や基経のように、外戚関係を足がかりにして太政大臣に任じられる者も現れる。その最初の例は、保安3年(1122年)12月に太政大臣となった源雅実である。雅実は、白河天皇皇后藤原賢子藤原師実の養女)の弟であった。これ以降、これまでどおり摂関あるいはその経験者が太政大臣となる例と並行して、雅実が属する村上源氏顕房流)のほか、公季の子孫である閑院流、やはり摂関家の庶流である花山院流中御門流大炊御門流へと次第に太政大臣就任者は拡大してゆく。「摂関にはなれないが太政大臣にはなれる家格」としての清華家が成立してくることになる。逆に、清華家出身でない者が太政大臣に任命されることは、その家が清華家の家格へと上昇したことを意味した。平清盛足利義満の例がこのケースである。 太政大臣が名誉職であることを前提に、太政大臣は「その職を務めて権限を行使すること」よりも「その職に任命されること自体に意味があるもの」となってゆく。「太政大臣」と「前太政大臣」とは、その意味においてほとんど同じものとなったのである。このため、太政大臣の在任期間は1年前後の短期間であることが多い。特に、清華家出身者が太政大臣となる場合、それはしばしば引退の花道を意味した。天正14年(1586年)12月から足かけ12年にわたって在任した豊臣秀吉は、中世・近世では稀有の例外である。このケースでは、太政大臣を頂点とする秀吉独自の武家官位制が構想されていたものと考えられるが、その実態は秀吉の死と豊家の滅亡により永遠の謎となった。

国封

太政大臣だけに許された特権として「国封」がある。文字どおり、一国に特定の個人を封じてその国の公(公爵)とする礼遇である。天平宝字4年(760年)12月、すでに養老4年(720年)の死に際して太政大臣を追贈されていた藤原不比等近江国に封じ、淡海公の爵号・諡号を贈ったのがその最初の例である。ついで、藤原良房が貞観14年(872年)9月に美濃国に封じられ、美濃公の爵号と忠仁公の諡号を贈られた。その後、長元2年(1029年)10月の藤原公季の例まで、10件の事例がある。いずれも死後の追贈であること、生前に出家していた者には与えられないこと、いずれも遺族は追贈後ただちに辞退しており、その国の実際の統治権や税収の付与をともなうものではないこと、などの共通点がある。公季のあと、国封の事例は絶えた。

天皇元服と太政大臣

天皇が在位中に元服の儀式を執り行ったのは、貞観6年(864年)1月の清和天皇元服が最初である。これ以前には、在位中に元服を行う必要があるほどの幼年での天皇即位はありえなかったので、当然のことではある。このときに創案された一連の儀式は、その後の天皇元服の規範として定着してゆくことになる。

清和天皇の元服に際して加冠の役を務めたのは、ときの太政大臣藤原良房であった。これに続く天皇元服である陽成天皇の元服では、やはり太政大臣の藤原基経が加冠を務めている。3番目の例である朱雀天皇の元服では、太政大臣藤原忠平が加冠を務めた。

これらの例は「一人の師範」という太政大臣の職掌からすれば当然のことと言える。また、摂政という任務からも説明することができる。いずれにしても、天皇元服に際しては、太政大臣が加冠を務めることが先例として定着した。しかも、摂政であってかつ太政大臣である者が務めなければならない、と観念されていた。基経と忠平は実際に摂政太政大臣の立場にあったし、良房も、清和天皇践祚と同時に摂政に任じられたものという認識が後世定着していたからである。

この観念が定着する一方で、太政大臣の名誉職化が進行すると、逆に、摂政の職にある者が、天皇元服の加冠を務めるためにわざわざ太政大臣に就任する、という一見奇妙な現象が常態化した。摂政と太政大臣の分離の先駆けである藤原兼家も、永祚2年(990年)1月の一条天皇の元服に備えて、永祚元年(989年)12月に太政大臣に就任し、翌年5月には早くも辞任している。天皇元服の加冠を摂政太政大臣が務め、加冠の任を終えると短期間で太政大臣を辞任する慣行は、その後、慶応3年(1867年)12月の王政復古により人臣摂政が廃止されるまで続いた。唯一の例外は、寛仁2年(1018年)1月の後一条天皇の元服に加冠を務めた藤原道長である。このとき道長は、すでに子息の頼通摂政を譲っており、前摂政の立場にあったが、寛仁元年(1017年)12月に太政大臣となり、加冠を務めた。このケースでは、現職の摂政であることよりも天皇の外祖父であることが優先された。

武家官位としての太政大臣

江戸幕府元和元年(1616年)7月に公布した「禁中並公家諸法度」では「武家の官位は、公家当官の外たるべきこと」と規定されている。これ以降、将軍をはじめ、武士が叙任される位階・官職は、朝廷の管理・統制を離れて、独自の身分秩序制度として幕府に一元管理されることとなった。この制度の下では、武士で大臣になれるのは将軍ただひとりであり、それもおおむね右大臣までにとどまった。太政大臣まで昇進したのは、徳川家康徳川秀忠徳川家斉の3名のみである。家康と秀忠の場合は、先行する豊臣政権の下ですでに高位高官に昇っていた諸大名とのバランスをとる必要があったためであり、家斉の場合は、将軍として空前絶後の征夷大将軍在職40周年を記念しての特例であった。また、徳川家光は、左大臣まで昇進したあと、朝廷から太政大臣就任を打診されたが拒否している。

明治時代の太政官制における太政大臣

この「太政大臣」は、つねに「だじょうだいじん」と読む。王政復古のあと、新政府は、数次の改組を経たのち、明治4年(1871年)7月、正院左院右院の3院と外務省以下8省からなる太政官が設置されていちおうの制度的確立をみた。正院は、天皇の親臨を前提に、天皇を直接補佐する政府の最高機関であったが、その長官として太政大臣が設置された。任命されたのは、維新の元勲のひとりとして重んじられ、一貫して政府高官の地位を維持していた三条実美であった。奇しくも三条家はかつて清華家の家格であった。太政大臣の下には、左大臣・右大臣・参議が設けられ、右大臣にはやはり公家出身の岩倉具視が就き、参議には、西郷隆盛木戸孝允ら下級武士出身の実力者たちが顔を揃えた。政府の実権はのちに藩閥政治家とも呼ばれることになる参議たちが握り、三条が権力をふるう機会はほとんどなかった。1885年明治18年)12月、太政官制が廃止されて内閣制度が発足すると、太政大臣の官職も消滅し、1,200年以上にわたったその歴史を終えた。三条も14年にわたったその任を離れ内大臣に転じた。

太政大臣の一覧

就任 辞任
印は死没と同日)
在職時の天皇 備考
大宝令以前の太政大臣
大友皇子 天智天皇10年1月5日
671年2月19日
天智天皇10年12月3日
672年1月7日
天智 天智天皇の死去にともなう皇位継承のため自動的に離任する
高市皇子 持統天皇4年7月5日
690年8月15日
持統天皇10年7月10日
696年8月13日
持統
大宝令養老令に基づく太政大臣
恵美押勝
藤原仲麻呂
天平宝字4年1月4日
760年1月26日
天平宝字8年9月11日
764年10月10日
淳仁 太師
叛乱を起こしたため解官される
道鏡 天平神護元年閏10月2日
765年11月19日
天平神護2年10月20日
766年11月26日
称徳 太政大臣禅師
法王となったため自動的に離任する
藤原良房 斉衡4年2月19日
857年3月18日
貞観14年9月2日
872年10月7日
文徳清和 清和天皇元服加冠
封国美濃国諡号忠仁公
藤原基経 元慶4年12月4日
881年1月7日
寛平3年1月13日
891年2月24日
陽成光孝宇多 陽成天皇元服加冠
封国越前国、諡号昭宣公
藤原忠平 承平6年8月19日
936年9月7日
天暦3年8月14日
949年9月9日
朱雀村上 朱雀天皇元服加冠
封国信濃国、諡号貞信公
藤原実頼 康保4年12月13日
968年1月15日
天禄元年5月18日
970年6月24日
冷泉円融 封国尾張国、諡号清慎公
藤原伊尹 天禄2年11月2日
971年11月22日
天禄3年11月1日
972年12月9日
円融 円融天皇元服加冠
封国三河国、諡号謙徳公
藤原兼通 天延2年2月28日
974年3月24日
貞元2年11月8日
977年12月20日
円融 封国遠江国、諡号忠義公
藤原頼忠 貞元3年10月2日
978年11月5日
永延3年6月26日
989年7月31日
円融、花山一条 封国駿河国、諡号廉義公
藤原兼家 永祚元年12月20日
990年1月19日
永祚2年5月5日
(990年5月31日
一条 一条天皇元服加冠
藤原為光 正暦2年9月7日
991年10月17日
正暦3年6月16日
992年7月18日
一条 封国相模国、諡号恒徳公
藤原道長 寛仁元年12月4日
1017年12月24日
寛仁2年2月9日
1018年2月27日
後一条 後一条天皇元服加冠
藤原公季 治安元年7月25日
1021年9月4日
長元2年10月17日
1029年11月25日
後一条 封国甲斐国、諡号仁義公
藤原頼通 康平4年12月13日
1062年1月26日
康平5年9月2日
(1062年10月7日
後冷泉
藤原教通 延久2年3月23日
1070年4月6日
延久3年8月10日
1071年9月6日
後三条
藤原信長 承暦4年8月14日
1080年8月31日
寛治2年11月23日
1089年1月7日
白河堀河
藤原師実 寛治2年12月14日
(1089年1月28日
寛治3年4月25日
(1089年6月6日
堀河 堀河天皇元服加冠
藤原忠実 天永3年12月14日
1113年1月3日
天永4年4月14日
(1113年5月30日
鳥羽 鳥羽天皇元服加冠
源雅実 保安3年12月17日
1123年1月16日
天治元年7月7日
1124年8月18日
鳥羽、崇徳
藤原忠通 大治3年12月17日
1129年1月9日
大治4年4月10日
(1129年4月30日
崇徳 崇徳天皇元服加冠
藤原忠通
(還任)
久安5年10月25日
1149年11月26日
久安6年3月13日
1150年4月12日
近衛 近衛天皇元服加冠
三条実行 久安6年8月21日
(1150年9月13日
保元2年8月9日
1157年9月14日
近衛、後白河
藤原宗輔 保元2年8月19日
(1157年9月24日
永暦元年7月20日
1160年8月23日
後白河、二条
藤原伊通 永暦元年8月11日
(1160年9月12日
長寛3年2月3日
1165年3月16日
二条
平清盛 仁安2年2月11日
1167年3月4日
仁安2年5月17日
(1167年6月13日
六条 朝廷権力を掌握した武士としては初
藤原忠雅 仁安3年8月10日
1168年9月13日
嘉応2年6月6日
1170年7月21日
高倉
松殿基房 嘉応2年12月14日
1171年1月21日
嘉応3年4月20日
(1171年5月26日
高倉 高倉天皇元服加冠
藤原師長 安元3年3月5日
1177年4月5日
治承3年11月17日
1179年12月17日
高倉 平清盛のクーデタにより解官配流
九条兼実 文治5年12月14日
1190年1月21日
建久元年4月19日
(1190年5月24日
後鳥羽 後鳥羽天皇元服加冠
藤原兼房 建久2年3月28日
1191年4月23日
建久7年12月9日
1196年12月30日
後鳥羽
藤原頼実 正治元年6月22日
1199年7月16日
元久元年12月7日
1204年12月29日
土御門
九条良経 元久元年12月14日
1205年1月5日
元久2年4月27日
(1205年5月17日
土御門 土御門天皇元服加冠
藤原頼実
(還任)
承元2年12月17日
1209年1月24日
承元3年1月21日
(1209年2月26日
土御門 皇太子順徳天皇)元服加冠
三条公房 建保6年10月9日
1218年10月29日
承久3年12月20日
1222年2月2日
順徳仲恭後堀河
近衛家実 承久3年12月20日
(1222年2月2日)
承久4年4月10日
(1222年5月22日
後堀河 後堀河天皇元服加冠
西園寺公経 貞応元年8月13日
(1222年9月19日
貞応2年4月2日
1223年5月3日
後堀河
九条良平 嘉禎4年7月20日
1238年8月31日
暦仁2年1月19日
1239年2月24日
四条
近衛兼経 仁治元年12月14日
1241年1月27日
仁治2年12月20日
1242年1月22日
四条 四条天皇元服加冠
西園寺実氏 寛元4年3月4日
1246年3月29日
寛元4年12月9日
1247年1月17日
後深草
久我通光 寛元4年12月24日
(1247年2月1日
宝治2年1月17日
1248年2月13日
後深草
鷹司兼平 建長4年11月3日
1252年12月5日
建長5年11月8日
1253年11月30日
後深草 後深草天皇元服加冠
徳大寺実基 建長5年11月24日
(1253年12月16日
建長6年2月11日
1254年3月1日
後深草
西園寺公相 弘長元年12月15日
1262年1月7日
弘長2年7月2日
(1262年7月19日
亀山
花山院通雅 建治元年8月27日
1275年9月18日
建治2年3月29日
1276年4月14日
後宇多
鷹司兼平
(還任)
建治2年12月14日
1277年1月19日
建治3年4月26日
(1277年5月30日
後宇多 後宇多天皇元服加冠
鷹司基忠 弘安8年4月25日
1285年5月30日
弘安10年8月13日
1287年9月21日
後宇多
堀川基具 正応2年8月29日
1289年9月15日
正応3年3月15日
1290年4月25日
伏見
西園寺実兼 正応4年12月25日
1292年1月6日
正応5年12月28日
1293年2月5日
伏見
洞院公守 正安元年6月2日
1299年6月30日
正安元年10月13日
(1299年11月7日
後伏見
二条兼基 正安元年11月21日
(1299年12月14日
正安2年4月19日
1300年5月8日
後伏見 後伏見天皇元服加冠
土御門定実 正安3年6月2日
1301年7月8日
正安4年7月[2]
1302年7月)
後二条
徳大寺公孝 乾元元年11月22日
(1302年12月11日
嘉元2年3月13日
1304年4月18日
後二条
一条実家 嘉元4年12月6日
1307年1月10日
延慶2年10月15日
1309年11月21日
後二条、花園
大炊御門信嗣 延慶2年10月15日
(1309年11月21日)
延慶3年12月15日
1311年1月5日
花園
鷹司冬平 延慶3年12月15日
(1311年1月5日)
延慶4年4月24日
(1311年5月13日
花園 花園天皇元服加冠
三条実重 文保2年8月24日
1318年9月19日
元応元年10月18日
1319年11月30日
後醍醐
久我通雄 元応元年10月18日
(1319年11月30日)
元亨3年5月2日
1323年6月6日
後醍醐
鷹司冬平
(還任)
元亨3年11月9日
(1323年12月7日
嘉暦2年1月19日
1327年2月11日
後醍醐
今出川兼季 正慶元年11月8日
1332年11月26日
正慶2年5月17日
1333年6月29日
光厳 光厳天皇の廃位により、任官を取り消される
久我長通 暦応3年12月27日
1341年1月15日
暦応5年2月29日
1342年4月5日
光明
洞院公賢 貞和4年10月22日
1348年11月13日
観応元年3月18日
1350年4月25日
光明、崇光
久我通相 貞治5年8月29日
1366年10月4日
応安元年3月21日
1368年4月8日
後光厳
二条良基 永徳元年7月23日
1381年8月13日
至徳4年1月8日
1387年1月28日
後円融後小松 後小松天皇元服加冠
徳大寺実時 明徳5年6月5日
1394年7月3日
応永元年12月25日
1395年1月16日
後小松
足利義満 応永元年12月25日
(1395年1月16日)
応永2年6月3日
(1395年6月20日
後小松
久我具通 応永2年6月3日
(1395年6月20日)
応永3年2月3日
1396年3月12日
後小松
三条実冬 応永9年8月22日
1402年9月19日
応永14年2月6日
1407年3月15日
後小松
徳大寺公俊 応永27年閏1月13日
1420年2月26日
応永27年3月16日
(1420年4月28日
称光
二条持基 永享4年7月25日
1432年8月21日
永享5年2月26日
1433年3月17日
後花園 後花園天皇元服加冠
一条兼良 文安3年1月29日
1446年2月24日
宝徳2年4月28日
1450年6月8日
後花園
久我清通 享徳元年10月8日
1452年11月19日
享徳2年2月2日
1453年3月12日
後花園
西園寺公名 享徳4年6月6日
1455年7月20日
康正3年8月28日
1457年9月16日
後花園
二条持通 長禄2年7月25日
1458年9月2日
長禄4年6月27日
1460年7月15日
後花園
近衛房嗣 寛正2年12月25日
1462年1月25日
寛正3年
(1462年)
後花園
久我通博 文明13年7月26日
1481年8月21日
文明14年10月7日
1482年11月17日
後土御門
鷹司政平 文明17年3月20日
1485年4月5日
文明17年4月19日
(1485年6月1日
後土御門
近衛政家 長享2年9月17日
1488年10月21日
延徳2年3月2日
1490年3月22日
後土御門
一条冬良 明応2年1月6日
1493年1月23日
明応6年7月12日
1497年8月10日
後土御門
徳大寺実淳 永正6年12月19日
1510年1月28日
永正8年2月19日
1511年3月11日
後柏原
近衛尚通 永正11年8月12日
1514年8月31日
永正13年12月27日
1517年1月19日
後柏原
花山院政長 永正15年5月28日
1518年7月5日
永正18年3月27日
1521年5月3日
後柏原
三条実香 天文4年8月28日
1535年9月25日
天文5年6月25日
1536年7月13日
後奈良
近衛稙家 天文6年12月21日
1538年1月21日
天文10年4月29日
1541年5月24日
後奈良
近衛前久 天正10年2月2日
1582年2月24日
天正10年5月
(1582年5月)
正親町
豊臣秀吉 天正13年12月25日
1586年2月2日
慶長3年8月18日
1598年9月18日
後陽成
近衛基熙 宝永6年10月25日
1709年11月15日
宝永6年12月9日
1710年1月8日
中御門
近衛家熙 宝永7年12月25日
1711年2月12日
正徳元年7月28日
(1711年9月10日
中御門 中御門天皇元服加冠
近衛家久 享保18年1月25日
1733年3月10日
享保18年12月27日
1734年1月31日
中御門
一条兼香 延享3年2月28日
1746年4月18日
寛延4年7月29日
1751年9月18日
桜町桃園 儲君(桃園天皇)元服加冠
近衛内前 明和5年5月25日
1768年7月9日
明和7年10月15日
1770年12月1日
後桜町 皇太子(後桃園天皇)元服加冠
近衛内前
(還任)
明和8年11月15日
1771年12月20日
安永7年2月8日
1778年3月6日
後桃園
九条尚実 安永9年12月25日
1781年1月23日
天明元年5月20日
(1781年6月11日
光格 光格天皇元服加冠
鷹司政通 天保13年8月22日
1842年9月26日
嘉永元年9月22日
1848年10月18日
仁孝孝明
武家官位としての太政大臣
徳川家康 元和2年3月17日[3]
1616年5月2日
元和2年4月17日
(1616年6月1日
後水尾
徳川秀忠 寛永3年8月18日[4]
1626年10月8日
寛永9年1月24日
1632年3月14日
後水尾、明正
徳川家斉 文政10年2月16日
1827年3月13日
天保12年閏1月30日
1841年3月22日
仁孝
明治時代の太政官制における太政大臣
三条実美 明治4年7月29日
1871年9月13日
明治18年(1885年12月22日 明治 新設の内大臣に転ず

贈太政大臣の一覧

没後に太政大臣を追贈された人物の一覧。 テンプレート:節stub

追贈 生前の官位 典拠・備考
藤原不比等 養老4年10月23日720年11月27日 右大臣正二位 続日本紀』 諡号文忠公
舎人親王 天平7年11月14日735年12月2日 知太政官事一品 『続日本紀』
藤原武智麻呂 天平宝字4年8月7日760年9月20日 左大臣正一位
藤原房前 参議正三位
藤原永手 宝亀2年2月22日771年3月12日 左大臣・正一位
紀諸人 延暦4年5月3日785年6月14日 従五位上
藤原良継 大同元年6月9日806年6月28日 内大臣従二位 日本後紀
藤原種継 大同4年4月12日809年5月29日 中納言正三位 公卿補任
藤原内麻呂 弘仁3年10月9日812年11月16日 右大臣・従二位
藤原百川 弘仁14年5月6日823年6月17日 参議従三位 日本紀略
橘清友 承和6年6月5日839年7月18日 内舎人正五位上 続日本後紀
橘奈良麻呂 承和14年10月5日847年11月16日 参議・正四位下
藤原冬嗣 嘉祥3年7月17日850年8月27日 左大臣正二位 日本文徳天皇実録
藤原長良 元慶3年2月29日879年3月25日 権中納言従二位 日本三代実録
藤原総継 仁和元年9月15日885年10月26日 紀伊守従五位下
仲野親王 仁和3年閏11月15日888年1月2日 大宰帥二品 日本紀略
藤原高藤 昌泰3年3月14日900年4月15日 内大臣正三位
藤原時平 延喜9年4月5日909年4月27日 左大臣・正二位
菅原道真 正暦4年閏10月20日993年12月6日 右大臣従二位
藤原道兼 長徳元年5月26日995年6月26日 関白・右大臣・正二位
藤原能信 延久5年5月6日1073年6月14日 権大納言・正二位 扶桑略記
藤原実季 嘉承2年12月13日1108年1月27日 大納言・正二位 中右記
藤原経実 保元3年12月29日1159年1月20日 大納言・正二位 兵範記
近衛基実 永万2年8月12日1166年9月8日 摂政左大臣・正二位 百練抄
藤原頼長 安元3年7月29日1177年8月24日 左大臣従一位 玉葉
花山院師賢 元弘3年6月23日1333年8月4日[5] 大納言正二位 新葉和歌集』 諡号文貞公
足利義持 応永35年1月22日1428年2月7日 内大臣従一位 薩戒記目録』 室町幕府4代将軍
足利義教 嘉吉元年6月29日1441年7月17日 左大臣・従一位 看聞日記』 室町幕府6代将軍
足利尊氏 康正3年4月28日1457年5月21日 権大納言・正二位 足利家官位記』 室町幕府初代将軍
花山院持忠 文正2年3月8日1467年4月12日[5] 内大臣・正二位 公卿補任
大炊御門信宗 文明12年1月26日1480年3月7日 内大臣・従一位 宣胤卿記
足利義熙 長享3年4月27日1489年5月27日 内大臣・従一位 実隆公記』 室町幕府9代将軍
足利義政 延徳2年2月17日1490年3月8日 左大臣・従一位 『実隆公記』 室町幕府8代将軍
足利義視 延徳3年2月24日1491年4月3日 准后・権大納言・正二位 『実隆公記』
足利義澄 天文2年9月12日1533年9月30日 参議従三位 言継卿記』 室町幕府11代将軍
足利義稙 天文4年4月8日1535年5月9日 権大納言・従二位 後奈良天皇宸記』 室町幕府10代将軍
織田信長 天正10年10月9日1582年11月4日 右大臣正二位 晴豊公記
徳川家光 慶安4年5月3日1651年6月20日 左大臣従一位 江戸幕府3代将軍
徳川家綱 延宝8年5月21日1680年6月17日 右大臣・正二位 江戸幕府4代将軍
徳川綱吉 宝永6年1月23日1709年3月4日 右大臣・正二位 江戸幕府5代将軍
徳川綱重 宝永7年8月27日1710年9月20日 参議正三位
徳川家宣 正徳2年10月26日1712年11月24日 内大臣・正二位 江戸幕府6代将軍
徳川家継 正徳6年5月12日1716年7月1日 内大臣・正二位 江戸幕府7代将軍
徳川吉宗 寛延4年閏6月10日1751年8月1日 右大臣・正二位 江戸幕府8代将軍
徳川家重 宝暦11年6月27日1761年7月28日 内大臣・正二位 江戸幕府9代将軍
徳川家治 天明6年9月22日1786年10月13日 右大臣・正二位 江戸幕府10代将軍
徳川治済 文政12年1月28日1829年3月3日 准大臣従一位
徳川家基 嘉永元年10月19日1848年11月14日 権大納言従二位
松平広忠 (贈大納言・従二位)
徳川家慶 嘉永6年8月4日1853年9月6日 左大臣・従一位 江戸幕府12代将軍
徳川家定 安政5年8月21日1858年9月27日 内大臣・正二位 江戸幕府13代将軍
徳川家茂 慶応3年7月12日1867年8月11日 右大臣・従一位 江戸幕府14代将軍
岩倉具視 明治16年(1883年7月23日 右大臣・従一位
存疑
藤原真楯 大納言正三位 尊卑分脈
藤原師輔 右大臣・正二位
藤原能長 内大臣・正二位

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

テンプレート:参照方法

  • 井上光貞 「古代の皇太子」 205-207頁。
  • 一代要記』は同年4月6日(1302年5月4日)とする。
  • これは宣旨に記載された日付で、実際は同年3月21日1616年5月6日)に任大臣宣下の陣儀が行われた。
  • これは宣旨に記載された日付で、実際は同年9月12日1626年10月31日)に任大臣宣下の陣儀が行われた。
  • 5.0 5.1 年月日は『花山院家譜』による。