徳川宗翰
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徳川 宗翰(とくがわ むねもと)は、常陸国水戸藩の第5代藩主。
生涯
享保13年(1728年)7月29日、水戸藩第4代藩主徳川宗堯の次男として生まれる。幼名は鶴千代。母は正室の美代姫。
享保15年(1730年)、父の早世により3歳(満年齢1歳)で跡を継いだ。幼少のため、将軍吉宗により御附家老中山信昌ほか家老が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。
長じては父と同じく行き詰まった藩政を立て直そうと志し、寛延2年(1742年)に支藩藩主の松平頼寛(守山藩)と松平頼済(府中藩)が老中の堀田正亮の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられたこともあり、宝暦改革と呼ばれる藩政改革を実施した。太田資胤に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年(1756年)に資胤が致仕すると頓挫した。その後も改革は進まず、晩年の30代後半になると、度々の挫折に改革の志も萎えたらしく、奥に入り浸って歌舞音曲や酒に耽ったという。明和元年(1764年)に水戸城が全焼するなどの災害もあった。跡を長男の治保が継いだ。
官歴
※日付=旧暦
- 享保13年(1728年)7月29日 - 誕生。鶴千代を称す。
- 享保15年(1730年)5月12日 - 水戸徳川家の家督を相続し、藩主となる。
- 享保21年(1736年)4月13日 - 元服し、将軍徳川吉宗の偏諱を授かり宗翰と名乗る。同日、正四位下に叙し、左近衛権少将に任官、左衛門督を兼任。
- 元文2年(1737年)12月5日 - 従三位に昇叙し、左近衛権中将に転任。
- 元文5年(1740年)12月1日 - 参議に補任。
- 明和3年(1766年)7月14日 - 薨去。
家系
- 正室:郁子(絢君)・瑞懿夫人(一条兼香の娘)
- 側室:美衛(榊原氏・智仙院)
- 長男:治保 - 第6代水戸藩主
- 三男:勝五郎
- 側室:尾上(中澤氏・開示院)
- 二男:直之允
- 四男:直之助
- 側室:瀬川(山本氏)
- 側室:毛利氏
- 側室:岩倉(大西氏)
- 側室:三宅氏
- 側室:深津氏
- 五女:金姫 - 英勝寺住持
偏諱を与えた人物
- 松平翰鄰(実兄、のちの松平頼順)