宇喜多秀家
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣政権下の五大老の一人。通称は「備前宰相」。大名家としての宇喜多氏最後の当主であり、備前岡山57万4,000石の大名。
目次
生涯
家督相続
元亀3年(1572年)、備前国岡山城(岡山県岡山市北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。幼名は八郎。
天正9年(1581年)に父・直家が病死。天正10年(1582年)、当時宇喜多氏が従属していた織田信長の計らいにより幼少ながら本領を安堵され、家督を継いだ。
織田信長時代
直家の死後、宇喜多軍は信長の命令によって中国遠征を進めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍を率いている。また、戸川秀安や長船貞親ら直家以来の重臣が秀家を補佐した。
6月2日、本能寺の変が起こって信長が死去する。このため、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大大名にのし上がり、大国・毛利家の監視役を務めることとなった。
豊臣秀吉時代
後に元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正14年(1586年)には秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。
天正13年(1585年)、3月に紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐へ上陸し後に阿波戦線に加わった。天正14年(1586年)の九州征伐にも日向戦線に参加した。天正15年(1587年)、秀吉から、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられる。[1]天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加して豊臣政権を支えた。
文禄元年(1592年)からの文禄の役には大将として出陣し、李氏朝鮮の都漢城に入って京畿道の平定に当たる。翌文禄2年(1593年)1月、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを打ち破り、6月には晋州城攻略を果たすなどの武功を挙げた。これらの功により、文禄3年(1594年)に参議から従三位中納言に昇叙した。
慶長2年(1597年)からの慶長の役では毛利秀元と共に監軍として渡海し、左軍を率いて南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。慶長3年(1598年)、日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。そして8月、秀吉は死去した。
宇喜多騒動
秀吉没後の慶長4年(1599年)、当時重臣だった戸川達安・岡利勝らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる宇喜多騒動が発生した。 秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と仲が悪く対立していた宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。 宇喜多家の調停は最初、越前敦賀城主の大谷吉継と家康の家臣である榊原康政が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続け、結果国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰ることとなる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引かざるをえなくなり、結果徳川家康が裁断したため内乱は回避された。戸川らは他家にて預かり・蟄居処分となる。 この騒動で戸川・岡ら直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することとなり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。
原因は家臣団の政治的内紛に加え、秀家の素行に問題があったことのほか[2]、宇喜多家の執政であった長船綱直や奉行人中村次郎兵衛らの専横への他の重臣の不満、さらに宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから家臣団に対してキリシタンへ改宗するよう命令するに至ったためともいわれる。しかし坂崎は敬虔なキリシタンであり、宇喜多家内でキリスト教入信を斡旋し、明石全登などを入信させたのは直盛本人である。これにより、キリスト教徒と日蓮宗徒との軋轢というのは考えにくく、また長船綱直は宇喜多家譜代の家臣であり、譜代家臣と前田家からの御付組みとの対立との構図も外れており、背景の詳細は分かっていない。
関ヶ原の戦い
秀吉没後、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老の徳川家康が、豊臣家における影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。
慶長5年(1600年)、家康が上杉景勝討伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ、打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城攻撃では総大将として参加し、関ヶ原の戦いにおいても主力(家康本隊を除けば、第2位の兵力である1万7,000人。西軍の中では最大)として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
小早川隊の裏切りに激怒した秀家は、「松尾山(小早川の陣)に乗り込み金吾(秀秋)を叩き斬ってやる」と叫んだと言われるが家臣の明石全登に制止され、やむなく落ち延びていった。
流人
関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。このとき、秀家が琉球を支配しようとしたという伝説が残っている。しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人は後に本郷伊予と改名し、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。
島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により罪一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される[3]。慶長11年(1606年)、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった[4]。
八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて[5](初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが幕府より許された)50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたという説がある。それでもやはり八丈島での生活は不自由であったらしく、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」[6]や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして妻子への土産にした説もあり[7])などの逸話が伝わっている。
明暦元年(1655年)11月20日、死去。享年83。このとき既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世であった。
家康の死後、恩赦により刑が解かれたが秀家は八丈島に留まったという説もある。こうして大名としての宇喜多家は滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝えた。
明治以後、宇喜多一族は東京(本土)に移住したが、数年後に八丈島に戻った子孫の家系が現在も墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島・大賀郷の南原海岸には、西(=備前国)を臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。
人物
- 関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物である。
- 容姿端麗で身長170cm[8]という美丈夫であった。
- 秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていた。同時に、明の関白は豊臣秀次、九州には豊臣秀勝をと述べている[9]。
- 朝鮮出兵で悪化した財政を再建するために領民に重税をしこうとして重臣の反発を招き、御家騒動に繋がったとされている。
- 板橋区立美術館には、古くから秀家が描いたと伝えられる「鷹図」(画像、法鑑禅師賛)が所蔵されている。しかし、秀家が絵を良くしたという史料は残っていない。鷹は武人画家がしばしば手掛けた画題であり、画中のS字型に屈曲した枝は李朝絵画によく見られる描法であり事から、秀家が朝鮮出兵した史実と重ねられていると考えられる[10]。
- 秀家が関ヶ原西軍決起の発案者であるとの説がある。三成が大谷吉継に協力を求める前の7月1日、秀家が豊国社で出陣式を早くも行っていることをその根拠とする。なお、この出陣式に高台院(ねね)は側近の東殿局(大谷吉継の母)を代理として出席させており、ともに戦勝祈願を行っている。これにより、高台院が東軍支持だったという俗説には疑問が提示されている。
系譜
- 父母
- 兄弟・姉妹
- 三浦桃寿丸(異父兄)
- 宇喜多基家(宇喜多春家の実子で宇喜多直家の養子となる)[11]
- 女子(江原親次室)
- 女子(浦上宗辰室)
- 女子(松田元賢室)
- 容光院(吉川広家室)
- 女子(後藤勝基室)
- 女子(斎村政広室)
- 女子(明石全登室)
- 女子(赤松左兵衛佐広秀室)[11]
- 女子(松田(杉田?)左近将監元堅(元賢?)室)[11]
- 女子(伊賀左衛門久隆室)[11]
- 妻妾
- 子女
脚注
参考文献
- 単行本
- 立石定夫『戦国宇喜多一族』(新人物往来社、1988年、絶版)ISBN 978-4-404-01511-2
- 浮田丈男『封じ込められた宇喜多秀家とその一族』(文芸社、2001年)
- 光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』(NHK出版、2009年)ISBN 978-4140911389
- 大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』(岩田書院、2010年)ISBN 978-4-872-94612-3
- 市川俊介『岡山戦国物語』(吉備人出版、2010年)ISBN 978-4860692643
- 渡邊大門『宇喜多直家・秀家 西国進発の魁とならん』(ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2011年)ISBN 978-4-623-05927-0
- 渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』(岩田書院、2011年)ISBN 978-4-872-94698-7
- 論文
- しらが康義「戦国豊臣期大名宇喜多氏の成立と展開」(『岡山県史研究』第六号、1984年)
- 寺尾克成「宇喜多秀家篇」(『歴史読本 特集 豊臣五大老と関ケ原合戦』通号720、2000年)
- 大西泰正「秀家死後の宇喜多氏」(『日本歴史』第727号、2008年)
- 大西泰正「宇喜多秀家論」(『史敏』2009春号、2009年)
- 森脇崇文「豊臣期大名権力の変革過程―備前宇喜多氏の事例から―」(大阪歴史学会発行『ヒストリア』第225号、2011年)
史料
- 土肥経平『備前軍記』(吉備群書集成刊行会『吉備群書集成』第参輯所収、絶版) ※軍記物
- 『宇喜多戦記』(吉備群書集成刊行会『吉備群書集成』第参輯所収、絶版) ※軍記物
- 柴田一『新釈備前軍記』(山陽新聞社、1996年) ※『備前軍記』の現代語訳
関連作品
- 森本繁『傷ついた備前烏 備前宰相秀家の母』(山陽新聞社、1988年)
- 高山友禅『戦国の宇喜多一族』(山陽新聞社、1992年) ※著者は宇喜多同族会事務局長。
- 野村敏雄『宇喜多秀家 秀吉が夢を託した男』(PHP文庫、1996年)
- 津本陽『宇喜多秀家 備前物語』(文藝春秋、1997年) ※『備前軍記』を元にした小説
その他
- 渡邊大門『宇喜多直家・秀家父子の虚像と実像』DVD(ジャパンライム、2012年)JAN 4562301590315
関連項目
外部リンク
- 歴代岡山城主 岡山市デジタルミュージアム
- 南天満山・宇喜多秀家陣跡 関ケ原観光Web
- 宇喜多秀家の墓(八丈島) 岡山市東京事務所
- 宇喜多秀家墓 八丈島総合ポータルサイト
- 宇喜多秀家公と豪姫の碑 八丈島総合ポータルサイト
- ↑ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『日本近世武家政権論』。
- ↑ 秀吉譲りの豪奢を好み、そのツケを領民への苛斂誅求で補おうとした。鷹狩を好み鷹を100羽飼っており、その世話のための家臣を300名抱えたとされる。また、鷹の餌のために領民に飼い犬を差し出させた。
- ↑ 渡邉大門『宇喜多直家・秀家』p.280では、場所を現在の袋井市久能としている
- ↑ それ以前には、平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている。
- ↑ 「花房文書」「越登賀三洲志」
- ↑ 『明良洪範』
- ↑ 「浮田秀家記」「兵家茶話」
- ↑ 秀家使用の鎧から推測。ちなみに当時の男子の平均身長は156cmであった。
- ↑ 大野信長「宇喜多秀家」『戦国武心伝』歴史群像
- ↑ 板橋区立美術館編集・発行 『板橋区立美術館所蔵 狩野派以外全図録』2013年2月、p.7,158。
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 引用エラー: 無効な
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