グアム
- グアム
- Guam
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グアムの旗 グアムの紋章 (地域の旗) (地域の紋章) - 地域の標語:Where America's Day Begins
(アメリカの一日が始まる場所)- 地域の歌:Fanohge Chamoru(グアムの国)
- グアムの位置
公用語 英語、チャモロ語 一部日本語
主都 ハガニア 最大の都市 タモン <tr> <th>成立<td>不明 </tr>
通貨 USドル(USD) 時間帯 UTC +10(DST:なし) ISO 3166-1 GU / GUM ccTLD .gu 国際電話番号 1-671 グアム(テンプレート:Lang-en, テンプレート:Lang-ch)は、太平洋にあるマリアナ諸島南端の島。1898年の米西戦争からアメリカ合衆国の領土になった。1941年から1944年までは日本軍が占領統治し、「大宮島(だいきゅうとう)」と呼ばれた[1][2]。経済面では、アメリカ、日本、ヨーロッパなどからの観光客が重要な位置を占めている。
目次
歴史
古代
グアム島に人類が住み着いたのはB.C.3000年~2000年頃で、東南アジア系民族チャモロ人がマレーシアやインドネシア、フィリピンから航海カヌーに乗って移住してきたことに始まると考えられる。そのことはラッテストーンと呼ばれる古代チャモロ遺跡が残存していることでわかる。
スペイン植民地下
1521年にポルトガルの探検家マゼランがヨーロッパ人として初めてグアム島に到達。[3]。1565年にレガスピが来島してスペインの領有を宣言し植民地となり、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶ航路が1568年に開かれ、スペインの大型船ガレオン船が太平洋を行き来するようになり、1年に1度6月ごろロタやグアム周辺に現れ、チャモロと物々交換を行った。 1668年にスペインのカトリック教会使節サン・ビトレスを中心としたイエズス会が布教活動のため訪れるようになった。先住民はチャモロであるが、サイパンを含む北マリアナ諸島から移住させられたチャモロが多数いた。
しかし、宣教師が祖霊崇拝を始めとするチャモロ人の伝統的な習慣や文化を厳しく禁止したため、不満を持つチャモロ人も多く、その不満は1669年のスペイン・チャモロ戦争として現れた。キリスト教に反抗的な村は全て焼き払われ、10万人いたとされるチャモロ人が5000人以下に激減した。そして、以降は目立った反抗は無くキリスト教文化が定着するようになったといわれている。
アメリカと日本
1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争にアメリカが勝利し、同年のパリ条約によりグアム島はフィリピン、プエルトリコとともにアメリカ合衆国に割譲され、植民地支配下におかれた。アメリカはスペイン同様に現地の文化や風習を無視してグアムのアメリカ化を進めるなど、植民地支配を推し進めた。
1941年12月8日に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発。日本海軍は真珠湾攻撃の5時間後(日本時間午前8時30分)に、グアムへの航空攻撃を開始し、同月10日に日本軍がアメリカ軍を放逐し、島名を「大宮島」と改名して日本領土とし、その後2年7か月にわたり占領した[4]。1944年8月にアメリカ軍が奪還した。以後アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を拡張し、戦争終結までの間日本本土への爆撃拠点として使用した。
1950年にアメリカ合衆国議会により「グアム自治基本法」(Organic Act of Guam)によって主権に制限を受け、「アメリカ合衆国自治的・未編入領域 (organized unincorporated territory)」という政治的地位となり、スキナーが初の民間人知事となった。第二次世界大戦の終戦後も現在に至るまでアメリカ軍の太平洋戦略上重要な基地のひとつとしてグアム島は活用され、ベトナム戦争の際も北爆に向かう爆撃機の拠点として使用された。1960年代以降は日本からの観光客を中心とした観光地、リゾート地として発展を遂げている。
改名問題
準州知事フェリクス・カマチョは2010年2月15日、演説の最後に、グアムの呼称を以前の「Guahan」に変えるように呼びかけた[5]。同日、カマチョは島名を変更する政令を出した[6][7]。カマチョは同時に自らを「Guahanの知事」と呼び始めた[8]。
歴史家のToni Ramírez(グアム公園保養局文化財保護所)によると、Guahanとは「我々のもの」("we have")もしくは「所有している場所」("a place that has")[5]を意味し、島の川や天然資源を指して使用した。川や天然資源はミクロネシアの他の諸島では比較的希少なものであったと言う[7]。
Guahan或いはGuajánは、1521年から1898年の間に島名として広く使用されていた[5][9]。しかし、グアム、そしてGuahanという名前は両方とも歴史文書や地図に数百年も遡って見出されると言うのが、Peter Onedera(グアム大学チャモロ語教授、歴史家)[8]による見解である。初代グアム知事を務めたRichard P. Leary提督は1900年、「グアム」を採用したが、それは彼が「グアムの小島」と読んだからである[7][8]。
知事2期目を務めるカマチョ(グアムにて3選は出来ない)は2011年にはグアム政府から引くことになる[8]。彼は演説の最後にて、改名は知事の遺産として基盤とし、歴史上自分が改名路線の固定化を為すべき立場にある旨を説明した[8]。彼はGuahanへの改名が明確な独自性とチャモロ文化の遺産を再認識させることになるだろうと論じた[7]。カマチョの政令は次のように明確に述べている。「チャモロ語の使用を広め、歴史的、文化的な連携を島にもたらすよう邁進しよう」[8]。政令は今回は地方のグアム政府機関、公式のやり取り、商業取引、標識にのみ適用される[8]。しかし、カマチョは地域社会の指導層、財界、議員達にGuahanの名を同じように採用させることに関心を持っている[8]。カマチョは更に、法的にも改名を実施するためグアム立法院で法案331号を提案すると発表した[5]。政令には政府機関が変更する際の猶予期限がないが、これは景気後退が長引いているため、準州政府の時間的、金銭的負担を軽減するためである[8]。改名は新しい便箋を発注する際など都合のよい時になされるべきだと言う[8]。
変更案に対する反応は議員と住民共に複雑なものだった。立法院のJudith Won Pat議長は、改名がグアムにてこれまで認識されてきた独自性の喪失を、回復するのに役立つことに留意した[7]。彼女はメディアに「これは人々が自分達が何者なのかを知ろうとし、彼らの独自性を見つけようと望む世代が世界中に広がっているということです。これはとても重要なことであり、グアムでも同じです」と語った[7]。作家で元立法院議員のKatherine Aguonは政令が出る少し前にチャモロ語-英語辞典を出版したが、改名を支持する一方で、どんな提案でもグアム有権者の信認を得なければならない旨を強調した[8]。
グアムの名が改名されると、経済的な影響が考えられる。Eddie Calvoは2010年の知事選の共和党候補者であるが、政令を支援するためには標識、文書、広告の改名の際の費用を考慮しなければならない点に注意を向けている[7]。グアム政府観光局(Guam Visitors Bureau,GVB)は、何百万ドルもの予算を消費して主要な観光客やビジネス客に対してこの島の現在の名前、グアムを商標として使い、改名問題が惹起した頃に新しいキャンペーンをはじめた。そのキャンペーンでは「私たちはグアムです」("We Are Guam")と銘打った[10]。全ての道路標識と歓迎の看板を変更する費用は文書や観光キャンペーンと同じように見積もる必要性が指摘されている[10]。
地理
マリアナ諸島最大の島で、その南西端に位置する。海底火山によって造られた。北部は珊瑚礁に囲まれた石灰質の平坦な台地で、南部は火山の丘陵地帯である。最高所はラムラム山で標高406m。
気候
海洋性熱帯気候に属しており、年間を通して高温多湿。「常夏」といわれ、ほぼ1年中海水浴が楽しめる。6 - 12月が雨季、1 - 5月が乾季。雨季にはスコールが降る。年間平均気温は約26℃。
主要都市
政治
アメリカ合衆国の準州。大統領選挙の参政権は持っていない。ストローポール(擬似投票)が行われるが、選挙結果には反映されない。
1968年以降は公選によって選ばれた知事が内政執行にあたる。かつてはアメリカ海軍による軍政だった。国家元首はアメリカ合衆国大統領。
グアム議会を形成。議会は立法院のみの一院制。
1972年以降、合衆国議会下院に、本会議での議決権のない代表を1名選出している。
米国が全面的に防衛権を持つ。このために土地を収用することもできる。
自主憲法草案が上程されたが、1979年の住民投票で否決された。その後も米国連邦政府による独立や自治の勧告は無視して、大国との特権的な関係から得られる利益を選んでいるが、次に述べるようにコモンウェルス昇格運動は見られる。
現在でも国際連合非自治地域リストに掲載されている。
コモンウェルスへの昇格運動
隣接する北マリアナ諸島が信託統治を経て1978年に実質的なコモンウェルス(準州)となったことを受けて、グアムでは1980年代から1990年代前半にかけて、プエルト・リコや北マリアナ諸島と同様の自治のレベルを付与したコモンウェルスに向けた重要な推進運動があり、1982年には住民投票を実施してこの方針を決定した。 しかしながら、連邦政府はグアム準州政府の提案したコモンウェルスへの変更を拒否し、理由として改正案の条項が合衆国憲法の領域条項(Territorial Clause ,Art. IV, Sec. 3, cl. 2)と両立する内容ではないことを挙げた。加えて連邦政府との折衝に6年もの時をかけ、(The Draft Commonwelth Act of 1988)を提出し本格的な交渉を開始したのは1988年だった。これに対して運動は徐々にアメリカ本国からの政治的独立、国家としての独立、唯一の独自領土として北マリアナ諸島との連合、或いは現在合衆国の一州となっているハワイとの連合に軸足を置きつつある。一方で、中島洋のように、コモンウェルスが外交権を持たないことや、独立した場合の財政援助面での不利、連邦政府・議会との交渉を通じて内政での自治権を徐々に拡充しつつある点などを挙げて否定的に見る向きもある[11]。
2003年より2011年1月まで2期に渡りフェリクス・カマチョが知事を務めたが、カマチョは北マリアナとの連合を目指していた。
経済
通貨はアメリカ合衆国ドル(USドル)。ただし現在では日用品や土産等の購入に関し、多くの場合、少額(おおよそ100ドル以内)であれば、日本円でも通用する店舗が増えつつある。
米軍の基地関連産業とアメリカ政府からの補助金、観光業、農業、漁業が主要な経済基盤で、1980年代前半まで米軍への依存度が高かったが、米軍基地の縮小に伴い、近年は観光業が産業の大部分を占め、島民の約60%が観光業に従事している。
年間100万人以上の観光客が訪れるが、観光収入の9割以上が日本からの観光客によるもので、日本への依存度が高い。近年は特に和食料理店など、日本の外食企業の参入も多く見られる傾向にある。
2006年にグアムの携帯電話事業者であるグアムワイヤレス及びグアムセルラーをNTTドコモが買収・統合し、2008年にドコモパシフィックと社名を変更しており、国際ローミング(WORLD WING)を使って、FOMAサービス及びiモードサービスが利用できるようになっている。ただしPulse Mobileなど他の事業者によるローミングと扱いは基本的に一緒となっている(グアムはドコモパシフィックを含め、2010年現在携帯電話事業者が6社存在する)。
マグロ産業
『ミクロネシア』1997年4月号によれば、ミクロネシアの要所であるグアムは1980年代以降はマグロの転載業でも知られている。ただし、グアム周辺水域においてマグロ資源に恵まれている訳ではなく、大消費地である日本、および先進国であるアメリカ本土への航空貨物直行便がありアクセスに恵まれていることや、漁船の修理施設、乗組員の休養施設、金融サービス機関が整っていることが挙げられる。従って他のミクロネシア水域で漁獲されたマグロ類はアプラ港で水揚げされ、主に日本本土に空輸されている。漁獲を実施しているのは1990年代においては台湾籍船が最も多く、次いで日本籍船であった。
問題はグアム周辺の排他的経済水域内の開発である。アメリカ本国は1978年4月にマグナソン漁業保存管理法によりアメリカの200海里水域内での他国漁船の操業を禁止した。そのため、グアムはパラオやマーシャル諸島に比較し、資源開発で遅れをとった。1980年初頭、グアム準州政府はグアム200海里を法制化する中、外国漁船に200海里水域内での操業許可を与えようとしたが、実現しなかった。その後本格化したコモンウェルス昇格運動の背景にも、200海里内における管轄権を本国政府から入手したいという意向があり、1988年に提出したコモンウェルス法案にも経済水域問題が重要事項として謳われている。その後、本国へのロビー活動などの結果、1996年10月11日にマグナソン法の改正案が公布(Public Law 104-297)された。これは、国務省への申請、入漁料の徴収などを通じて他国漁船への漁業参加を認める内容であった。経済水域内の取り締まりは沿岸警備隊と商務省国家海洋漁業局(National Marine Fisheries Service)が実施している。1997年に海軍は艦船修理施設をグアム準州政府に移管したが、この跡地を活用してアプラ港の総合開発計画が立てられ、漁業基地の強化を狙った内容となっていた。このような努力は周辺諸国も行っており、ミクロネシア水域のマグロ産業規模に比較して従来4~5%程度しか得ることの出来なかった見返りを自主的に漁業を拡大することで移行を図る動きがある[12]。2000年代に入っても、中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)をグアムなどで開催し漁業資源の管理と多国間交渉に努力がなされている[13]。
軍事
島の面積の1/3をアメリカ軍用地が占めている。グアム島は、朝鮮半島、台湾、南沙諸島、フィリピン、インドネシア、オーストラリアとあらゆる場所に緊急展開できる戦略上の要地であり、米準州でもあるので、西太平洋の礎石としてその価値を見出されている。しかし、冷戦終結に伴って在グアム米海軍基地整理縮小計画が立てられ、1990年頃には海軍航空隊の基地がグアム国際空港からアンダーセン空軍基地に移設され[11]、1997年9月には艦船修理施設(Ship Repair Facility)が海軍からグアム準州政府に移管されるなど1990年代は基地は縮小傾向にあった。
2000年、ジョージ・W・ブッシュ政権に変わって以降は、地球規模の米軍再編の影響で、世界戦略を見据えた軍事拠点化を進めることになり、兵力の増強が順次実施されてきた。2004年には、グアム島周辺を調査した中国人民解放軍海軍の漢級原子力潜水艦が行き帰りに日本の領海侵犯を行った漢級原子力潜水艦領海侵犯事件が発生した。
島の北部には3,000m級滑走路が2本あるアンダーセン空軍基地が存在する。ここには現在常駐する戦闘機部隊は存在していないが、しばしば飛来する。現在、B-52戦略爆撃機やB-2が配備されている。極東有事の際には、アメリカ本土やハワイなどから前線派遣された航空部隊の重要な出撃拠点になる。
島の西部には、アメリカ海軍も使用しているアプラ港があり、ロサンゼルス級原子力潜水艦が事実上の母港としており、将来的にはオハイオ級原子力潜水艦も配備される予定である。これらは第7艦隊隷下にある。
在日米軍再編の影響により、沖縄本島に駐屯しているアメリカ海兵隊7,000人がグアムに移駐する予定であり、キャンプ瑞慶覧から司令部も移転する予定である。この部隊の受け入れのための費用を日本政府が59%負担することで日米両政府が合意した。上記の基地移転には先住民の一部から反発がおきているが、大半の住民はかつて米軍基地が縮小された事で経済的に大きな打撃を受けたため基地・観光による経済的観点から賛同している。
交通
島外
訪島手段として飛行機と船舶がある。飛行場はグアム国際空港、港はアプラ港を利用することが多い。アプラ港はミクロネシア最大の港である。
グアム国際空港には日本航空とデルタ航空、ユナイテッド航空が日本の複数都市から乗り入れているほか、ホノルルやソウル、コロール、サイパンなどへの直行便がある。なお、航空便で到着する乗客の7割が日本国籍である(2010年現在)。
島内
島内の交通機関はバスやタクシーのみで鉄道はない。バスは、観光地をまわるトロリーバスなどを運行しているグレイラインバスや「ショッピングセンター」はDFSギャラリア、マイクロネシアモール、グアム・プレミア・アウトレットや小規模なものではタモンサンズプラザなどがありホテル、旅行会社が運行するザ・ショッピングバス、シャトルバスを運行するアイバスなどがある。 日本人観光客向けに、日本のレンタカー会社の店舗が複数存在する。 サイパン島と同様に、島内では九州産業交通の現地法人であるグアム産交が貸切バス事業を行なっていたが、九州産業交通の産業再生機構活用による事業再編の一環として売却されている。
観光
観光産業は、現在グアムの最大の産業の一つである。直行便が設定されていないアメリカ本土からの観光客よりも、東京、名古屋や大阪などの主要都市から直行便で約3-4時間で訪れることのできる日本からの観光客が多くを占めていたが、そのピークは1990年代で2000年代に入ってからは減少しつつある。近年では同様に直行便のある韓国や台湾からの観光客が増加している。なお、ホテル・ニッコー・グアムやレオパレスリゾート・グアムなどの日系のホテルも多い。
1970年代から始まった観光ブームで、土地価格が急騰し、今では(2000年代)購入するのが難しくなっている。
主なホテル
- ホテル・ニッコー・グアム
- シェラトン・ラグーナ・グアムリゾート
- アウトリガー・グアム・リゾート・オン・タモン・ベイ
- ウェスティン リゾート グアム
- ヒルトングアム リゾート アンドスパ
- オンワード ビーチ リゾート
住民
民族・人種・出自構成
言語
公用語は英語、チャモロ語であるが、日本からの観光客による収入が島の大部分の収入を占めていることから日本語も使われており、日本語を理解できる住民がかなり多い。島では、あちこちの店に日本語が使われている。また、フィリピン系も多く、タガログ語も使用される。
芸術・文化
- グアムの創生にかかわる物語「プンタンとフウナの物語」があり、幼稚園では歌遊びで、小・中学校ではチャモロ語学習やチャモロダンスで学習する[14]。
- 伝統的な文化としてチャモロ文化がある。踊りではミクロネシアダンスが有名。
- グアムの芸術や文化に関する機関として「グアム芸術文化省」(Kaha)がある。
- ミクロネシア連邦のチューク州のプルワット環礁との結びつきが強く、プルワット出身の航法師が伝統的な航海カヌーによる航海術を教えている。
- グァムの高校や大学で教育を受けるために、ミクロネシア各地から学生・生徒が集まってくる。
スポーツ
野球やサッカーなどの分野でグアム代表が存在するが、これまで国際大会での目立った活躍はない(詳しくは野球グアム代表、サッカーグアム代表等を参照)。スポーツ施設自体は比較的整っており、特にグアム中部にあるレオパレスリゾートグアムは、日本のプロ野球選手の自主トレーニングや、Jリーグチームの春季キャンプでよく利用される。
グアム北部のアンダーセン空軍基地そばにあるグアムインターナショナルレースウェイは、ドラッグレースやオフロード用のコースなどを持つサーキットで、日本ATV協会の主催する全日本スーパーオフロードATV選手権などの大会も開かれている。同サーキットでは、2013年を目処に国際自動車連盟(FIA)の規格に従った本格的なオンロードサーキットをオープンさせたい意向で、現在建設工事が進められている。
姉妹・友好都市
日本の千葉県柏市はグアムの友好都市である。グアムとの交流は、柏まつりを通じて始まり、ミス柏に副賞としてグアム旅行が贈られ、1985年(昭和60年)からは、ミス・グアム及びグアム政府観光局代表が柏まつりに参加するようになった。その後、柏グリーン・ライオンズクラブとグアムマリアナス・ライオンズクラブが1990年(平成2年)2月姉妹クラブを結び、青少年交流派遣を実施するなど、交流が深まった。こうした経過を経て、1991年(平成3年)5月、柏市とグアム政府の親善提携を求める陳情書が提出され、1991年(平成3年)6月定例市議会で採択。柏市長が同年7月、グアム知事に書簡で親善提携を申し入れたところ、同知事も快諾、友好都市提携が決定。1991年(平成3年)11月30日、グアムにて友好都市提携の調印を行った。
脚注
関連項目
外部リンク
- ↑ 「だいきゅうとう」が正式呼称であったが、一般には「おおみやじま」と呼ばれていたようである。
- ↑ 「日本海軍は、島名を「大宮島」(おおみやじま)とし」とある。(中山京子「グアムが「大宮島」だった時代」/ 中山京子編著『グアム・サイパン・マリアナ諸島を知るための54章』明石書店 2012年 93ページ)
- ↑ グアムのウマタック湾には、1930年代に建てられたマゼラン上陸記念碑がある。(中山京子「マリアナ諸島は「発見」されたのか?」/ 中山京子編著『グアム・サイパン・マリアナ諸島を知るための54章』明石書店 2012年 86ページ)
- ↑ この占領期間に日本人はチャモロの人々を飛行場建設や稲作の労働などに強制し、日常生活でも束縛したとされる(中山京子「グアムが「大宮島」だった時代」/ 中山京子編著『グアム・サイパン・マリアナ諸島を知るための54章』明石書店 2012年 91ページ)
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 Camacho wants Guam renamed "Guahan"KUAM. 2010-02-16.
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 テンプレート:Cite news
- ↑ 8.00 8.01 8.02 8.03 8.04 8.05 8.06 8.07 8.08 8.09 8.10 テンプレート:Cite news
- ↑ José Antonio Saco. Colección de papeles científicos, históricos, políticos y de otros ramos sobre la isla de Cuba. 1859.
- ↑ 10.0 10.1 テンプレート:Cite news
- ↑ 11.0 11.1 中島洋(太平洋学会専務理事)コモンウェルスを目指すグアムは? 『ミクロネシア講座』やしの実大学HP内
(サイパン・ロタ・テニアン月刊情報誌『ハファダイ』1992年2月号からの転載HP)
中島は執筆に当たり矢崎幸生『ミクロネシアの憲法集』曉印書館 1984年
矢崎幸生「北マリアナは連邦制国家か」『太平洋学会誌第12号』 1981年 を参照している。 - ↑ 泉正南「知っておきたいグアムのマグロ産業-米国マグナソン漁業保存管理法の改正-」『ミクロネシア』1997年4月No.105
- ↑ 中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)第4回年次会合の結果について 日本国水産庁 2007年12月7日
- ↑ 中山京子「プンタンとフウナの物語」/ 中山京子編著『グアム・サイパン・マリアナ諸島を知るための54章』明石書店 2012年 81ページ
- 地域の標語:Where America's Day Begins