後一条天皇
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後一条天皇(ごいちじょうてんのう、正字体:後一條天皇、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。
系図
略歴
一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。
長和5年2月7日(1016年3月24日)、8歳で即位したため、道長が摂政となり権勢を振るった。道長の娘で叔母にあたる威子を中宮とし、この時代には珍しく他の妃を持たなかったが、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子にはついに恵まれぬまま、29歳の若さで崩御した。『栄花物語』によると飲水と痩身の症状の記載があり、糖尿病によるものと考えられている。突然の崩御であったため、譲位の儀式が間に合わなかった(『左経記』)。『日本紀略』や『今鏡』では遺詔により、喪を秘して敦良親王への譲位の儀を行ったとされている[1]。この件により、在位中に天皇が崩御した場合でも、喪を秘して譲位の儀を行い、その後に上皇としての葬儀が行われるようになった[2]。
后妃・皇子女
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町にある菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。