細川内閣
テンプレート:日本の内閣記事 非自民・非共産連立政権のこの内閣の発足により、1955年(昭和30年)の結党以来38年間政権を維持し続けた自由民主党は初めて野党に転落した。佐川急便より一億円借り入れ事件を追及され総辞職[1]。
目次
在職期間
概要
発足
1993年(平成5年)7月18日に実施された第40回衆議院議員総選挙において、自民党の獲得議席数は選挙前の勢力を維持したものの、単独過半数には達しなかった。自民党を離党した羽田派が結成した新生党、同じく武村正義らのグループが結成した新党さきがけ、前熊本県知事の細川護煕が前年に結成した日本新党の3新党は計100議席余りを獲得。新党ブームのあおりを受けた日本社会党は70議席と、土井ブームで得た議席数を半減させた。
新生党が速やかに社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合の各党派と連立政権を樹立することで合意する一方、日本新党とさきがけは統一会派を結成し、自民・非自民双方と政治改革の実現を条件とする連立交渉に入った。双方とも条件の受け入れを表明したが、「細川首相」を提示した非自民側が結局取り込みに成功し、細川を首班とする新政権の発足が決まった。連立与党内における日本新党の議席数は、社会党、新生党、公明党に次ぐ第四勢力である。しかも、細川は参議院議員を2期、熊本県知事を2期、その後日本新党を結成して再び参議院議員を1年間務めていたものの、衆議院議員は初当選だった。これは、理念や政策、政治手法についての考えがバラバラな8党・会派をまとめて行くためには、細川の政界再編・新党運動の先駆者としての立場、旧熊本藩主・侯爵細川家や元首相・公爵近衛文麿の孫という家系の威光、国民的人気等が有効と考えた新生党代表幹事小沢一郎の判断の結果である[2]。
閣僚には、新党さきがけの武村正義代表(内閣官房長官)、新生党の羽田孜党首(外務大臣兼副総理)、社会党の山花貞夫委員長(政治改革担当大臣)、公明党の石田幸四郎委員長(総務庁長官)、民社党の大内啓伍委員長(厚生大臣)、社民連の江田五月代表(科学技術庁長官)と連立与党各党首が顔を揃えた。[3]。ただし、山花は総選挙敗北の責任を取って9月に社会党委員長を辞任し、替わって委員長に就いた村山富市は入閣しなかったため、政権と社会党執行部との間に距離感が生じることとなった。
また、連立与党側の運営は各党書記長・代表幹事らの「与党代表者会議」によって行われたが、特に新生党代表幹事小沢一郎と公明党書記長市川雄一の「一・一ライン」が中心となった。
9月はじめの朝日新聞の世論調査では、内閣支持率は空前の71%に達した。
ただし小沢最側近の平野貞夫によると「(新党さきがけの)武村は官房長官就任したその日から(党籍離脱、無所属を余儀なくされたとはいえ)最大野党・自民党の最高実力者の竹下登と反小沢で内通し倒閣(自社さ連立政権樹立)を企てていた」との事。
政治改革
当時の世論は、自民党長期政権の下での政官業の癒着構造、カネがかかり政権交代が行われない選挙システム、政治腐敗等に対する不満が高まっていた。自民党もまた数年来、カネがかからず政権交代を容易にする選挙制度改革や政治資金規制強化などのいわゆる政治改革に取り組んでいた。しかし、党内は守旧派と後の新生党・新党さきがけ・自由改革連合などにつながる改革派に分かれて激しく対立し、結局これを実現できなかった宮澤前内閣は内閣不信任決議を突きつけられ、新生党・さきがけの離党、衆議院における過半数割れによって下野することとなった。
本来理念や政策が異なる連立与党各党は、世論の最大の政治的関心事で自民党政権が成し遂げられなかった政治改革の実現という日本新党・さきがけの条件を受け入れ、これを一致点として政権を発足させたため、細川内閣はこれを唯一最大のテーマに掲げて年内の法案成立を目指した。細川は政治改革が年内に実現できなければ政治責任をとると明言した。
選挙制度改革について、連立政権側は、小選挙区・比例代表(全国単一)各250・2票制(小選挙区・比例各1票)の小選挙区比例代表並立制を主張。これに対して自民党は、小選挙区300・比例代表(都道府県単位)177・1票制を主張した。社会党の中には本音では現行制度の存続を望む議員も少なくなく、連立交渉の条件を呑んだはずの自民党もまた同様であり、審議拒否を繰り返した。小選挙区274・比例代表(全国単一)226とする譲歩案を自民党が拒否したため、与党は10月18日に元の案を衆議院で通過させた。参議院での実質審議は11月24日にようやく始まったが、参議院は自民党と社会党の勢力が大きく、年内可決の目処は立たなかった。
連立与党各党は年明けの1994年1月4日にそれぞれ議員総会を開いて政治改革実現の決意を固めた。5日からの参議院政治改革特別委員会は自民党の欠席戦術にもかかわらず連立与党の結束は固く、自民党も成立を前提とした修正論議に傾き始めた。1月21日、社会党からの造反があり参議院で法案が否決されるが、細川は自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、あらためて政治改革関連法案成立の機運を盛り上げた。自民党総裁河野洋平も細川とのトップ会談に応じ、急転直下、小選挙区300・比例代表(全国11ブロック)200・2票制、企業団体献金は1団体50万円までとする妥協が成立。両者は1月29日の午前1時、共同記者会見を行った。この合意に基づく改正公職選挙法や改正政治資金規正法、政党助成法などの政治改革四法は3月4日に成立、5年以上の年月を経てようやく政治改革は実現した。
結果的に見れば、この政治改革の実現が、細川政権のほとんど唯一の実績となったが、ここで導入された小選挙区制や政党助成金制度は、後の政治のあり方を大きく変えていくことになる。
国民福祉税構想
高い支持率を背景に、細川は引き続き行政改革、規制改革、地方分権、景気対策等の懸案に取り組んでいく姿勢を見せた。
細川は就任当初から税制改革にも意欲を示していた。また、9月に始まった日米間の経済問題を協議する日米包括協議でアメリカは内需拡大とそのための所得税減税を日本に求めており、11月の日米首脳会談で細川は所得税減税を翌年実施する考えをクリントン大統領に対して示した。このとき、次期首脳会談を翌年2月11日に開き、それまでに日米包括協議の合意を図ることも決められ、日本側は所得税減税分を埋める財源確保の必要に迫られることになった。
赤字国債を発行しないことが細川政権の公約の柱の一つだったこともあって新生党の小沢代表幹事と大蔵省は財源を赤字国債に頼らず消費税の増税に求めることにしたが、社会党は消費税増税に絶対反対の姿勢だった。同時期、細川内閣が至上命令に掲げる政治改革の実現は難航しており、そのため例年であれば12月に終わる予算編成を年明けまで続けるという異例の方針を取ることになった。政治改革は年が明けた1月29日にようやく細川・河野合意にこぎつけるが、日米首脳会議までの時間はわずかとなっていた。
2月2日晩の政府・与党首脳会議で社会党や武村官房長官は消費税増税に強硬に反対するが、細川は3日午前1時に会見を開いて国民福祉税構想を発表した。3年後に消費税を廃止して福祉目的の7%の国民福祉税を導入するというものだった。しかし、この構想は厚生大臣や官房長官にも知らせていないもので、政権内外の反発を呼んだ。4日の連立与党代表者会議で撤回が合意された。日米首脳会談は決裂し、結局3兆円余の赤字国債発行を盛り込む平成6年度予算案が2月15日に編成された。
退陣
連立の一致点であった政治改革が曲がりなりにも実現したこともあり、政権は国民福祉税構想の頓挫以降急速に求心力を失っていく。早期からあった「一・一ライン」とさきがけ代表の武村官房長官との対立も、政権運営の手法や政治改革の方法などに加え税制改革をめぐって深刻化。武村は悪化が明らかになってきた景気へのてこ入れを優先し政治改革法案は継続審議にすべきと主張する自民党に同調し、幹部とも頻繁に接触していた。また小池百合子は、北朝鮮有事に際し、アメリカ側から北朝鮮に宥和的な社会党や武村の存在を問題視されたのも、武村更迭の一因だと後に述懐している。細川は、小沢の内閣改造断行・武村更迭の進言を受け、政治改革法案の成立を一区切りとして改造内閣を発足させる意向だったが、社会党が政権離脱をちらつかせるため3月2日に断念。
また、自民党は細川の佐川急便グループからの借入金処理問題を前年10月以来徹底的に追及し続けていた。自民党が予算審議拒否を行なったため政権は立ち往生状態に陥り、4月8日に細川が辞意を表明。細川内閣は4月25日の閣議で総辞職(親任式が同月28日午前8時55分となったため、それまで職務執行内閣として存続)し、1年に満たない短命政権で終わった。
与党
日本社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合である。(民主改革連合は当時、参議院院内会派。)
人事
国務大臣
出身政党:
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職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 在職期間 | 備考 | |
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内閣総理大臣 | 79 | 細川護煕 | 100px | 衆議院 日本新党代表 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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副総理 | 羽田孜[A 1] | 100px | 衆議院 新生党党首 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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法務大臣 | 三ヶ月章 | 100px | 非議員 | 1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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外務大臣 | 羽田孜[A 1] | 100px | 衆議院 新生党党首 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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大蔵大臣 | 藤井裕久 | 100px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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文部大臣 | 赤松良子 | 100px | 非国会議員 | 1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
国立国会図書館連絡調整委員会委員 | |
厚生大臣 | 大内啓伍 | 100px | 衆議院 民社党委員長 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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農林水産大臣 | 畑英次郎 | 100px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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運輸大臣 (新東京国際空港担当) |
伊藤茂 | 100px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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郵政大臣 | 神崎武法 | 衆議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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労働大臣 | 坂口力 | 100px | 衆議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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建設大臣 | 五十嵐広三 | 100px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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自治大臣 | 佐藤観樹 | 100px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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内閣官房長官 | 武村正義 | 100px | 衆議院 新党さきがけ代表 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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総務庁長官 | 石田幸四郎 | 100px | 衆議院 公明党委員長 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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北海道開発庁長官 | 上原康助[A 2] | 100px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
||
沖縄開発庁長官 | 上原康助[A 2] | 100px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
||
国土庁長官 | 上原康助[A 2] | 100px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
||
防衛庁長官 | 中西啓介 | 100px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1993年(平成6年)12月2日[A 3] |
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愛知和男 | 100px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)12月2日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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経済企画庁長官 | 久保田真苗 | 100px | 参議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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科学技術庁長官 | 江田五月 | 100px | 衆議院 社会民主連合代表 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
原子力委員会委員長 | |
環境庁長官 | 広中和歌子 | 100px | 参議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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国務大臣 (政治改革担当) |
- | 山花貞夫 | 100px | 衆議院 日本社会党委員長 |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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政務次官
出身政党:
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職名 | 氏名 | 出身等 | 在職期間 | 備考 | ||
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法務政務次官 | 佐々木秀典 | 80px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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外務政務次官 | 東祥三 | 80px | 衆議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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大蔵政務次官 | 北側一雄 | 80px | 衆議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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中村正男 | 80px | 参議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)2月1日 |
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早川勝 | 80px | 衆議院 日本社会党 |
1994年(平成6年)2月1日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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文部政務次官 | 安倍基雄 | 80px | 衆議院 民社党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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厚生政務次官 | 岡島正之 | 80px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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農林水産政務次官 | 木村守男 | 80px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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村沢牧 | 80px | 参議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1993年(平成5年)12月17日[B 1] |
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吉田達男 | 80px | 参議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)12月17日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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通商産業政務次官 | 遠藤乙彦 | 80px | 衆議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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和田貞夫 | 80px | 参議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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運輸政務次官 | 二階俊博 | 80px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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郵政政務次官 | 松前仰 | 80px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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労働政務次官 | 永井孝信 | 80px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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建設政務次官 | 伊藤英成 | 80px | 衆議院 民社党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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自治政務次官 | 冬柴鉄三 | 80px | 衆議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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総務政務次官 | 小池百合子 | 80px | 衆議院 日本新党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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北海道開発政務次官 | 菅野久光 | 80px | 参議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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防衛政務次官 | 山口那津男 | 80px | 衆議院 公明党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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経済企画政務次官 | 古賀一成 | 80px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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科学技術政務次官 | 乾晴美 | 80px | 参議院 民主改革連合 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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環境政務次官 | 山元勉 | 80px | 衆議院 日本社会党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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沖縄開発政務次官 | 田村秀昭 | 80px | 参議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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国土政務次官 | 増田敏男 | 80px | 衆議院 新生党 |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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その他の人事
出身政党:
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職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 在職期間 | 備考 | |
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内閣総理大臣特別補佐 | - | 田中秀征 | 80px | 衆議院 新党さきがけ |
1993年(平成5年)8月9日 - 1994年(平成6年)1月31日[C 1] |
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内閣官房副長官 (政務) |
- | 鳩山由紀夫 | 80px | 衆議院 新党さきがけ |
1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
|
内閣官房副長官 (事務) |
- | 石原信雄 | 80px | 1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
||
内閣法制局長官 | 57 | 大出峻郎 | 80px | 1993年(平成5年)8月12日 - 1994年(平成6年)4月28日 |
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関連項目
- 第40回衆議院議員総選挙
- 嘘つき解散
- 55年体制
- 政権交代
- 非自民・非共産連立政権
- 成田憲彦 - 政務担当秘書官(首席秘書官)
- 椿事件
参考文献
脚注
外部リンク
- ↑ 細川元首相の動向注目、小泉氏と連携で「勝機」
- ↑ 元首相の孫が首相となったのは、内閣制度創設後、細川が最初である。2006年(平成18年)に第90代首相に就任した安倍晋三は、岸信介元首相(56・57代)の孫であり、これが祖父と孫の首相就任の2例目となる。更に2008年(平成20年)に第92代首相に就任した麻生太郎は吉田茂元首相(45代・48代-51代)の孫で(3例目)、翌2009年(平成21年)の第93代、鳩山由紀夫も鳩山一郎元首相の孫であった(4例目)。なお、2007年(平成19年)に第91代首相に就任した福田康夫は、福田赳夫元首相(67代)の息子であり、2011年現在、親子での首相就任はこの1例のみ。
- ↑ 組閣後の閣僚記念撮影は、歴代内閣恒例の官邸1階西階段の赤絨毯では行わず、中庭の芝生の上でワイングラスを片手に懇談の後、新閣僚が生け垣の前に並ぶ目新しいスタイルで行われた。
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