民社党
テンプレート:Amboxテンプレート:DMC テンプレート:出典の明記 テンプレート:政党 テンプレート:社会民主主義 民社党(みんしゃとう、略称:民社、テンプレート:Lang-en-short)は、かつて存在した日本の政党。
- 1960年1月 - 日本社会党の西尾末広、片山哲、水谷長三郎ら右派の国会議員が活動方針を巡る党内抗争の結果、離党して結成。結成時の党名は民主社会党(みんしゅしゃかいとう)。
- 1969年11月 - 民社党へ改称。
- 1994年12月 - 新進党の結成に伴い解散。
目次
沿革と概要
結党
1959年6月の参院選敗北の総括と60年安保闘争の運動方針をめぐって、同年10月に社会党右派の西尾末広派が日本社会党から脱党。さらに同じ右派の河上丈太郎派の一部も同調し離党。1960年1月に民主社会党(みんしゅしゃかいとう)として結成。西尾末広が中央執行委員長(党首)に、曽祢益が書記長に就任した。結党時は衆議院議員21、参議院議員12人が参加し、その後も断続的に参加者があり、最終的に衆議院40人、参議院17人となった。1969年11月に民社党に改称した。
アメリカ合衆国中央情報局が、自由民主党有力者や、社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に資金提供し、民社党結成を促していたことが2006年7月18日、アメリカ国務省の外交資料集に公開された。結党までに7万5000ドルの資金援助があり、その後も毎年同程度の援助があったが、1964年に打ち切られたという[1][2]。
民主社会主義と反共主義
「左右の全体主義と対決」を主張し、福祉国家建設、中産階級国家を理念としていた。党が掲げる「民主社会主義」とは、革命を否定して代議制民主主義を通じて労働者の権利擁護、福祉増進を行い、合法的・民主的に社会主義の理想を実現していこうとする立場であり、西欧・北欧の社会民主主義政党の理念を手本に、自らを国民政党と規定した。国際面では各国の社会民主主義・民主社会主義政党が参加する社会主義インターナショナルに加盟した。結党時は5年以内の政権獲得を目標としていた。
「左右の全体主義との対決」とは、共産主義とファシズムに反対するという意味だが、特に反共を優先し、日本共産党を厳しく批判した。当時は日本社会党もマルクス・レーニン主義を色濃く残しながら「社会民主主義」[3]を掲げ始めており、その違いを強調するために、「民社党の掲げる民主社会主義」と社会民主主義は違うと主張した。
外交においても同様であり、ソ連を糾弾する一方で韓国・朴正煕政権やスペイン・フランコ政権、チリ・ピノチェト政権、台湾の蒋介石政権など反共で一致すれば、強権的と批判された政権をも支持した。このように反共を最優先にして、強権的な保守政権には態度、評価、姿勢、対応を甘くしていた。チリ・クーデター(CIAの支援を受けた軍部によるクーデターで[4]、選挙を通じて誕生した左派政権が崩壊)の際に、民社党代表としてチリを視察した塚本三郎代議士が、同クーデターを「天の声」と絶賛するなど、民社党の反共姿勢は鮮明だった。なお日本社会党は北朝鮮やベトナムなど共産圏の独裁国家に親和的だったが、社会主義インターナショナルや西欧・北欧の社民主義政党は反共であると同時に、これらの軍事政権や強権政権を「支持しない」姿勢を示していた。
また、容共でマルクス・レーニン主義の総評や統一労組懇に対し、反全体主義、反共の労働組合である全日本労働組合会議(全労会議)を支持母体とし、1964年に全労会議が全日本労働総同盟(同盟)と改組された後も支持・協力関係は続いた。国の重要な安全保障を担う防衛や電力業界との繋がりが密で、そのため民社党も防衛力維持や原発推進に熱心であった。
国防と憲法認識
結党当初においては安保改定に反対するなど防衛問題では社会党右派に近い立場にあったが、日韓基本条約の批准では自民党に同調。さらに民社党ブレーンだった蝋山政道らがまとめた日米安保肯定論が発表後の1968年以降は、自衛隊合憲・集団的自衛権合憲・日米安保維持(ただし当初は「駐留なき安保」への転換、「事前協議」への拒否権付与を主張)・国会の常任委員会として防衛委員会の設置を主張するなどの方向に動いた。1970年代には自衛隊合憲確認の国会決議の必要性や有事法制の整備を唱えた。また、1986年に政府の国防会議を改組し、安全保障会議を設置する際には、その名称を「国家安全保障会議」とするよう唱えた。欧州社民主義政党と同じく、軍備を否定しない立場は、防衛関係労組との繋がりがあったことも要因となった。
憲法への姿勢は、民社党系護憲団体「新護憲」(憲法擁護新国民会議)を設置するなど護憲の立場を取り、1960年代前半の内閣憲法調査会への参加も見送った。ただ、専守防衛に立つ自衛隊は合憲との立場をとり、社会党との違いを示した。1992年には論憲を前提に党内に「世界平和と憲法問題特別委員会」を設置し、翌年3月の同委員会の中間報告では憲法9条2項を改正し、自衛隊、文民統制の明文化や国際貢献の必要性を提言したが、支持労組の反発もあり、改憲が党の方針となることはなかった。一方、護憲団体だった「新護憲」は民社党解党後、「論憲会議」を経て、現在は改憲団体となり「創憲会議」に衣替えしている。
なお、「創憲会議」は2005年2月に「創憲」を考えるための提言書を発表。国旗・国歌の明文化、再軍備による積極的な国際貢献、徴兵制禁止、首相権限強化、改憲要件の緩和(国会の発議で三分の二以上の賛成を得れば国民投票は不要とするなど)などを提唱した。同年10月、この提言に基づき、「創憲会議 新憲法草案」を発表した(創憲会議 新憲法草案)。
中道提携と自民党・社会党との関係
党勢は、結党直後の1960年11月の衆院選で40から17議席と大きく落ち込んだ。その後、しばらくは20 - 30議席前後で推移。
1970年代以降、公明党・新自由クラブ・社会民主連合の中道政党が伸長すると共に、これら諸政党と協力する姿勢を取った。特に公明党との「公民協力」は広く行われたものの、成果を出すまでには至らなかった。そうした中でも多党化傾向が進展した1970年代後半から1980年代半ばに掛けて党勢回復に結実。1983年12月の第37回衆議院議員総選挙では、追加公認を含めると衆院で結党時の党勢に迫る39議席を獲得した。中道結集こそが、1976年12月、1979年9月、1983年12月の衆院総選挙で、自民党を過半数割れさせる原動力だったとも指摘されている。それに気づいた自民党は、1980年6月、1986年7月に衆参同日選挙に打って出て、いずれも大勝する。これは、同日選にすることで参院で選挙協力が成立しても、衆院の選挙区では議席を争うことになり、勢力結集が極めて困難になるためである。
社会党とは何度も和解の試みがなされ、選挙協力も行ったが、民社党は原発・日米安保容認を要求するのが常であった。社会党は民社党・公明党の要求に沿い共産党と距離を置き、中道左派による野党連携を取ろうとした。これを「社公民路線」と呼ぶ。
しかし、民社党と公明党は1970年代後半から自民党との連携を強めたため、「自公民路線」と呼ばれた。
1987年の連合結成により、社公民3党は再び接近し、1989年7月の参院選、1990年2月の衆院選、1992年7月の参院選では社公民協力のため連合による「連合の会」統一候補が立てられたほか、社会党・民社党・社民連の歴史的和解と再統合も議論された。しかし、各選挙で社会党が伸長、逆に民社党は惨敗し、「連合の会」統一候補も民社党系は軒並み落選した。このため両者の関係悪化は決定的となった。1989年参院選直後の内閣総理大臣指名選挙で、与野党逆転した参議院では社会党の土井たか子委員長が指名された(衆議院の優越により、自民党の海部俊樹が選出)。決選投票では、野党の多くは共産党も含め土井に投票したが、民社党は白票を投じた[5]。
非自民政権への連立参加、解党
1993年7月の第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を割り、同年8月、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連・民改連の8党派による細川内閣が発足。民社党委員長の大内啓伍が厚生大臣に就任し、入閣した。続く羽田内閣でも大内が厚相に留任したが、発足直後に社会党が連立政権から離脱し、羽田内閣は少数与党政権に転落。わずか2ヶ月で退陣に追い込まれ、自社さ連立政権の村山内閣発足により、民社党は10ヶ月で野党に転落した。
同年12月、新進党結党により解党し、約25年の歴史に幕を下ろした。25年間、遂に結党時の議席数を超えられないままであった。なお、新進党への公明党・創価学会の参加に反発した塚本三郎、大内啓伍ら(それぞれ霊友会、立正佼成会から支援を受けていた)は新進党に参加せず、自民党へ入党した。新進党に合流した旧民社党系勢力は、党に社会主義インターナショナルへの加盟を求めたものの、却下された。
公明党に対する認識の差異
公明党との距離をめぐって党内に対立があった。西村栄一、佐々木良作、永末英一などは公明党との連携を主張し、中道新党構想を提唱したり、社公民路線を目指したのに対し、春日一幸、塚本三郎、大内啓伍などは公明党と距離を置き、自民党と連携しようとした。公明党との連携派は衆議院中選挙区制のもとで、同じ選挙区に公明党候補がなく、公明党(創価学会)の全面支援で議席を得た議員が多いのに対し、公明党と距離を置いたグループは、同じ選挙区で公明党と議席を争った議員が多い。ただ、1970年代以降、民公両党間の一部で選挙協力を行い、中道勢力の連携を図った。
党名改称問題
1985年4月、党委員長となった塚本三郎は、「民社党」の党名から社会主義を連想する「社」の部分を外し、「民主党」などに改称しようとしたが、春日一幸、佐々木良作らに猛反対されて実現されなかった。永末が委員長になると「われわれは、ソーシャリストの集団です」と言明し、原点回帰を目指したが、米沢隆らは「民社の『社』は社会ではなく会社の『社』」と反論した。大内啓伍委員長時代も党名から「社」を外し「民主党」などに変えようとしたが、古参幹部や学者、同盟系労組の反対で頓挫。それに替わって、大内は「民主社会主義」「社会主義」の文言を極力使わない手法を用い、“社会主義離れ”を図った。
社会主義を避けたがる勢力と、あくまで民主社会主義の正統派たらんとする勢力に二分されたことが、この党の性格を曖昧でわかりにくいものにした。このため、ブレーンの学者の中にも、「民主社会党ではなく、民間会社党になってしまう」との嘆きが聞かれたこともある。
その一方でこの曖昧さが共産主義にも新自由主義にも与しない独自路線であるともいえ、後の民主党(1998年結成)や日本維新の会に理念が引き継がれたほか、創価学会という後ろ盾を持つ公明党との差別化がなされていた。
解党後
テンプレート:Main 民社党解党後は、大半の議員が新進党に合流。新進党解党後は、多くが新党友愛を経て民主党に参加した。一部、自民党に移籍した者もいる。旧民社党系の国会議員・地方議員の団体として「民社協会」がある。
民社党全国青年部は国際社会主義青年同盟 (IUSY) に加盟していたが、民社党の解党後は民社ゆーす2001(後に「民社ユース」)と改称した。2003年に解散し、IUSY加盟権のみを継承し民社ユースとは無関係という形で社会主義青年フォーラムが結成された。なお、社会主義青年フォーラムは、2005年7月から9月にかけて旧民社系の役員が辞任や脱退し他の役員に交代。その後、2006年1月のチリ大統領選に関する声明で、チリ社会党候補ミシェル・バチェレの当選を歓迎し、1973年9月11日のチリ社会党サルバドール・アジェンデ政権に対するアウグスト・ピノチェトのクーデタを民社党が擁護したことにつき誤りであった旨を公式に示したが、その後2008年3月の臨時総会をもって解散した。民社ユース末期から解散にかけて、構成員の大多数は民社人権会議に結集、以前から取り組んでいた北朝鮮による日本人拉致問題をバックアップする運動に参加した。
北朝鮮拉致問題での役割
最初に北朝鮮の拉致疑惑を国会で取り上げたのは、1988年1月の衆議院本会議における当時の民社党委員長塚本三郎の代表質問である(1980年の公明党参議院議員の和泉照雄が拉致問題に連なるアベック失踪事件に関して参議院決算委員会で質問をしたことがあるが、質疑応答において北朝鮮という国名は出なかった)。その後も、西村眞悟や荒木和博など旧民社党関係者が積極的に拉致被害者救出のための活動に取り組んでいる。また、民主党政権発足後は拉致問題担当大臣に中井洽、柳田稔、中野寛成、田中慶秋と旧民社党の出身者が就任した。
役職
歴代執行部役員表
期間 | 中央執行委員長 | 書記長 | 政策審議会長 | 国会対策委員長 | 参議院議員会長 |
---|---|---|---|---|---|
テンプレート:N/A | 西尾末広 | 曾禰益 | 今澄勇 | 春日一幸 | 天田勝正 |
テンプレート:N/A | 西尾末広 | 西村栄一 | 竹本孫一 | 佐々木良作 | 天田勝正 |
テンプレート:N/A | 西村栄一 | 春日一幸 | 竹本孫一 | 佐々木良作 | 天田勝正 |
テンプレート:N/A | 西村栄一 | 佐々木良作 | 竹本孫一 | 池田禎治 | 向井長年 |
テンプレート:N/A | 春日一幸 | 佐々木良作 | 竹本孫一 | 池田禎治 | 向井長年 |
テンプレート:N/A | 春日一幸 | 塚本三郎 | 竹本孫一 | 池田禎治 | 向井長年 |
テンプレート:N/A | 春日一幸 | 塚本三郎 | 河村勝 | 佐々木良作 | 向井長年 |
テンプレート:N/A | 佐々木良作 | 塚本三郎 | 大内啓伍 | 玉置一徳 | 向井長年 |
テンプレート:N/A | 佐々木良作 | 塚本三郎 | 大内啓伍 | 永末英一 | 向井長年 |
テンプレート:N/A | 佐々木良作 | 塚本三郎 | 大内啓伍 | 永末英一 | 三治重信 |
テンプレート:N/A | 塚本三郎 | 大内啓伍 | 米沢隆 | 小沢貞孝 | 藤井恒男 |
テンプレート:N/A | 永末英一 | 米沢隆 | 中野寛成 | 吉田之久 | 藤井恒男 |
テンプレート:N/A | 永末英一 | 米沢隆 | 中野寛成 | 神田厚 | 藤井恒男 |
テンプレート:N/A | 大内啓伍 | 米沢隆 | 中野寛成 | 神田厚 | 吉田之久 |
テンプレート:N/A | 大内啓伍 | 米沢隆 | 中野寛成 | 青山丘 | 吉田之久 |
テンプレート:N/A | 米沢隆 | 中野寛成 | 伊藤英成 | 青山丘 | 吉田之久 |
歴代中央執行委員長一覧
代 | 委員長 | 在任期間 | |
---|---|---|---|
1 | 60px | 西尾末広 | 1960年(昭和35年)1月 - 1967年(昭和42年)6月 |
2 | 60px | 西村栄一 | 1967年(昭和42年)6月 - 1971年(昭和46年)4月 |
3 | 60px | 春日一幸 | 1971年(昭和46年)8月 - 1977年(昭和52年)11月 |
4 | 60px | 佐々木良作 | 1977年(昭和52年)11月 - 1985年(昭和60年)4月 |
5 | 60px | 塚本三郎 | 1985年(昭和60年)4月 - 1989年(平成元年)2月 |
6 | 60px | 永末英一 | 1989年(平成元年)2月 - 1990年(平成2年)4月 |
7 | 60px | 大内啓伍 | 1990年(平成2年)4月 - 1994年(平成6年)6月 |
8 | 60px | 米沢隆 | 1994年(平成6年)6月 - 1994年(平成6年)12月 |
政権ポスト
()内は入閣直前の党役職
- 細川内閣 1993年8月9日 - 1994年4月28日
- 国務大臣
- 厚生大臣 - 大内啓伍(党中央執行委員長)
- 政務次官
- 文部政務次官 - 安倍基雄
- 建設政務次官 - 伊藤英成
- 国務大臣
- 羽田内閣 1994年4月28日 - 1994年6月30日
- 国務大臣
- 法務大臣 - 中井洽(党中央執行副委員長) 1994年5月8日 -
- 厚生大臣 - 大内啓伍(党中央執行委員長)
- 防衛庁長官 - 神田厚(党中央執行副委員長)
- 政務次官
- 大蔵政務次官 - 北橋健治
- 文部政務次官 - 勝木健司
- 国務大臣
党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 21/- | 467 | 第29回総選挙前には40 |
第29回総選挙 | ●17/105 | 467 | |
第30回総選挙 | ○23/59 | 467 | |
第31回総選挙 | ○30/60 | 486 | |
第32回総選挙 | ○31/68 | 486 | 追加公認+1 |
第33回総選挙 | ●19/65 | 491 | 沖縄社会大衆党より移籍+1 |
第34回総選挙 | ○29/51 | 511 | |
第35回総選挙 | ○35/53 | 511 | 追加公認+1 |
第36回総選挙 | ●32/50 | 511 | 追加公認+1 |
第37回総選挙 | ○38/54 | 511 | 追加公認+1 |
第38回総選挙 | ●26/56 | 512 | |
第39回総選挙 | ●14/44 | 512 | |
第40回総選挙 | ○15/28 | 511 | 追加公認+4 |
参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | 12/- | - | 250 | その後17まで増加 |
第6回通常選挙 | ○5/24 | 7 | 250 | |
第7回通常選挙 | ●3/21 | 4 | 250 | |
第8回通常選挙 | ○7/16 | 3 | 250 | |
第9回通常選挙 | ○6/11 | 7 | 252 | |
第10回通常選挙 | ●5/14 | 5 | 252 | |
第11回通常選挙 | ○6/11 | 5 | 252 | |
第12回通常選挙 | ○6/11 | 6 | 252 | 死去-1、追加公認+1 |
第13回通常選挙 | ○6/32 | 6 | 252 | 追加公認+1 |
第14回通常選挙 | ○5/27 | 7 | 252 | |
第15回通常選挙 | ●3/25 | 5 | 252 | 追加公認+1 |
第16回通常選挙 | ○4/20 | 5 | 252 | 追加公認+1 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
機関紙誌
- 週刊民社
- 「革新」(月刊誌。後に「KAKUSHIN」に改称)
評価
1980年代後半から1990年代になると党勢が行き詰まり、看板の政策理念だった「福祉国家」路線も、日常生活に密着した個別具体的な福祉施策としては公明党の福祉社会トータルプランに先を越され、かつて福祉国家を完全否定していた共産党・社会党左派や、別の角度から否定していた自民党と中央・地方官庁も、生活要求型の福祉スローガンを掲げたため次第に独自性を失っていった。
そこで民社党は「労働福祉」をメインとする観点から転換を模索した。「消費者」に的を絞り、宮澤内閣が打ち出した資産倍増論のベースだった「生活大国づくり」より数年前に、「生活先進国づくり」という概念を打ち出した。組織労働者もしくは未組織を含めた労働者を軸としながらも、そこには収まりきらない幅広い層の国民にアピールすることを狙った民主社会主義の新解釈とも言えた。経済力は世界第二位ながら、庶民の暮らしぶりはその水準に達しないのは、消費財を含む内外価格差のためであることに目をつけた。しかし自民党との連立志向が強い春日・塚本・大内派と、社公民連による政権交代を目指し、社会党の現実路線転換の遅れに目をつぶる佐々木・永末・米沢派の抗争が激化し、十分に議論を深められなかった。
1987年の連合結成による労働運動の理念的統一で、それ以降、社会党、民社党、社民連、連合参議院(のちの民主改革連合)などと、社会民主主義=民主社会主義勢力結集の社会的基盤が整い、ようやく西欧的福祉国家路線の国づくりをする土台ができあがろうとした時期はあった。しかし社会党が、結果として与党・自民党の議席ではなく他の野党の議席を奪ったために、「社公民」の社会民主主義勢力を主体とした政権交代の可能性をさらに遠ざけてしまった。さらに近親憎悪もあり、民社党は「社公民」による政権交代と政策転換を捨て、金丸信・小沢一郎の自民党竹下派・金丸系の国対族との「自公民」プラスアルファの「政策転換なき政権交代(自民党勢力内の権力闘争)」に巻き込まれていった。1990年代前半の「政治改革」と称する流れの中で、社会党も委員長が、金丸と親しい田邊誠、山花貞夫と変わり、連合会長の山岸章も加わって、小沢グループとの連携を選択して、小選挙区制導入に邁進した。
ただし、社会民主主義=民主社会主義は、ヨーロッパ各国で1990年代以降も続々と社会民主主義=民主社会主義政党による中道左派政権が誕生するなど、新自由主義的経済政策による格差拡大などの市場の失敗が批判される中で、対立軸として価値が見直された。また敵対していた共産主義は、1980年代以降の冷戦の終結および東欧・ソ連共産圏の崩壊により衰退し、日本でも大きく力を失った。一方で、民社党に代表される中道勢力自体は衰退したものの、新進党解党後に発足した新党友愛が母体の一つとなった民主党は自民党に対抗する2大政党としての立場を確立。また、民主党が掲げる理念には民主中道など民社党の理念に近い部分もあり、さらに労働運動においても連合の方針はほぼ同盟のものを踏襲しており、結果として民主党・連合の中に民社党・同盟のスタンスが承継されたと捉えることもできる。
脚注
- ↑ 左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に 共同通信
- ↑ 左派弱体化狙い、秘密資金提供 - CIAが50年前、日本の保革両勢力にU.S. FrontLine
- ↑ もともと「社会民主主義」は共産主義の実践面を指し、修正を加えながらもマルクス主義の影響を色濃く残していた。しかし1951年社会主義インターナショナルが民主的社会主義を採択してマルクス主義の階級闘争的な考え方と絶縁した。こうして、西欧の社会民主主義政党は民主社会主義の路線を採り、社会民主主義と民主社会主義はほとんど同義となっていた。しかし、日本では社会民主主義にはいまだ共産主義的な考えを含意していたため違いを強調する必要があったのである。
- ↑ 「チリ経済を逼迫させろ」: 極秘文書が明らかにする1973年のチリ・クーデターを支援したニクソンとキッシンジャーの役割 デモクラシー・ナウ!
- ↑ 他に白票を投じたのは、民社党と統一会派を組んだスポーツ平和党(猪木寛至)、山田勇。それ以外では税金党(野末陳平、秋山肇、横溝克己)であった。