農林水産大臣
テンプレート:Infobox Political post 農林水産大臣(のうりんすいさんだいじん、テンプレート:Llang)は、日本の農林水産省を所管する国務大臣である。略称は農水相(のうすいしょう)。
1925年以前及び1943年から1945年までの農商務大臣・農商大臣の一覧表は農商務省の項目を参照。
概要
広く農林水産行政を統括するポスト。農村を重要な支持基盤としていた戦後の自民党政権において、重要な閣僚の一つであり、有力政治家の歴任も数多い。
第一次産業従事者が人口の最も多くを占めた戦前日本において、農相は現在よりさらに枢要なポストであり、敗戦直後は現下の国難である食糧危機を乗り越えるため最重要のポストとも目された。近年はWTOの通商交渉や「食の安全」などを巡って注目されることが多く、とりわけ通商交渉にあたっては国際交渉力に加え、国内の農業団体・農林族議員を押さえ込める政治力が求められる。このため、農水省OBや農林族の有力政治家が任命されることが多いとされる。
歴代大臣
農林大臣
- 辞令のある再任は記載し、辞令のない留任は記載しない。
- 臨時代理は、大臣を欠いた場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
- 兼任は、他の大臣が同時に務めることをいい、臨時代理とは異なる。
戦前
農林大臣(農林省) | ||||
---|---|---|---|---|
代 | 氏名 | 内閣 | 就任日 | 出身党派 |
1 | 高橋是清 | 加藤高明内閣 | 1925年4月1日 商工大臣兼任 |
立憲政友会 |
2 | 岡崎邦輔 | 1925年4月17日 | 立憲政友会 | |
3 | 早速整爾 | 1925年8月2日 | 憲政党 | |
4 | 第1次若槻内閣 | 1926年1月30日 | ||
5 | 町田忠治 | 1926年6月3日 | 憲政党 | |
6 | 山本悌二郎 | 田中義一内閣 | 1927年4月20日 | 立憲政友会 |
7 | 町田忠治 | 濱口内閣 | 1929年7月2日 | 立憲民政党 |
8 | 第2次若槻内閣 | 1931年4月14日 | ||
9 | 山本悌二郎 | 犬養内閣 | 1931年12月13日 | 立憲政友会 |
10 | 後藤文夫 | 齋藤内閣 | 1932年5月26日 | 貴族院議員 |
11 | 山崎達之輔 | 岡田内閣 | 1934年7月8日 | 立憲政友会→昭和会 |
12 | 島田俊雄 | 廣田内閣 | 1936年3月9日 | 立憲政友会 |
13 | 山崎達之輔 | 林内閣 | 1937年2月2日 | 昭和会 |
14 | 有馬頼寧 | 第1次近衛内閣 | 1937年6月4日 | 貴族院議員 |
15 | 櫻内幸雄 | 平沼内閣 | 1939年1月5日 | 立憲民政党 |
16 | 伍堂卓雄 | 阿部内閣 | 1939年8月30日 | 貴族院議員 |
17 | 酒井忠正 | 1939年10月16日 | 貴族院議員 | |
18 | 島田俊雄 | 米内内閣 | 1940年1月16日 | 立憲政友会 |
‐ | 近衛文麿 | 第2次近衛内閣 | 1940年7月22日 臨時代理 |
貴族院議員 |
19 | 石黒忠篤 | 1940年7月24日 | 農林官僚 | |
20 | 井野碩哉 | 1941年6月11日 | 農林官僚 | |
21 | 山崎達之輔 | 第3次近衛内閣 | 1943年4月20日 | 翼賛政治会 |
※1943年11月1日付で農林省と商工省(商工省から軍需省へ移転しなかった残りの部門)とが統合されて農商省となるが、この農商省は1945年8月26日付で農林省と商工省とに戻る。
戦後
農林水産大臣
- 辞令のある再任は記載し、辞令のない留任は記載しない。
- 臨時代理は、大臣を欠いた場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
- 兼任は、他の大臣が同時に務めることをいい、臨時代理とは異なる。
その他
閣僚としての重要性が増す一方で、就任した政治家は就任尚早不祥事に直面し、職をまっとう出来ず辞任したり、退任後に不幸に見舞われたりしている。このため、マスコミなどでは「鬼門」「呪われたポスト」と呼ばれている。
古くは片山内閣の平野力三農林大臣が西尾末広内閣官房長官と対立し、GHQの意向も手伝って片山哲首相から罷免された後、公職追放の憂き目に遭った。廣川弘禅農林大臣は吉田内閣における吉田首相懲罰動議に欠席して本会議で可決されたため罷免され、バカヤロー解散による解散総選挙で落選した。最後の農林大臣であり、初代の農林水産大臣である福田赳夫改造内閣の中川一郎は退任の5年後、57歳の若さで自殺(不審死)している。よど号ハイジャック事件の人質身代わりとしても知られる山村新治郎は離任の8年後に次女に刺殺され、その次女も後に自殺を遂げた。
省庁再編後、2001年に就任した武部勤はBSE問題を巡る失言などで批判を浴び、翌年の内閣改造で事実上の更迭、後任の大島理森は様々な疑惑から事実上更迭された。続く亀井善之は離任後まもなく病に倒れて死去している。2004年に就任した島村宜伸は翌年の郵政解散直前、閣議で衆議院の解散に反対して閣議決定への署名を拒否し、辞表を提出したが、小泉純一郎首相により罷免された。島村の罷免を受け、副大臣から昇格した岩永峯一も離任後に献金問題を指摘された。2005年に2度目の就任を果たした中川昭一(初代農林水産大臣・中川一郎の子息)は無難に職務をこなし退任したが、4年後には財務大臣辞任、落選の憂き目を見て、2009年10月に父・一郎より1歳若い56歳で急逝した。
特に2006年9月26日に発足した安倍内閣では農相の交代が頻繁に起こっており、最初就任した松岡利勝は光熱水費問題を国会で追及され、戦後の閣僚としては初めて在任中に自殺。若林正俊の臨時代理を経て後任の赤城徳彦も自身の数々の疑惑により、これが一因で7月の参院選における自民党敗北を招いたとされ、2007年8月1日に事実上の更迭、2009年の第45回衆議院総選挙は落選した。
そして、若林正俊環境大臣の兼任を経て8月27日に発足した安倍改造内閣では遠藤武彦が就任するも、置賜農業共済組合掛金不正受給問題などを追及され、9月3日に辞任。在任期間8日間という近年では稀に見る異例の事態となった。後任はまたも若林。同一政権下で臨時兼任も含めると3か月余りの間で3度目の農相就任となった。退任後の2010年4月2日、参議院本会議での不正投票問題によって議員辞職に追い込まれた。
2008年8月、太田誠一による事務所費問題も浮上し、在任中に事故米不正転売事件に関する発言が問題視された。9月19日、事故米の不正転売の責任を明確にするということで、福田康夫首相に辞表を提出。太田も赤城同様、同選挙で落選した。太田の辞任後は内閣官房長官の町村信孝(町村は同総選挙で小選挙区落選。比例で復活)が臨時代理を務めていたが、麻生内閣で農林水産大臣に就任した石破茂は、この事態に「誰から事務引き継ぎするの?」と就任時のインタビューで皮肉を漏らした。2009年に誕生した鳩山内閣の赤松広隆は翌年の口蹄疫問題への対応の遅れで強い批判を浴び、閣僚の大半が残留した6月の菅内閣の誕生に当たって、事実上責任を取る形で退任した。後任として副大臣から昇格した山田正彦は、職務そのものは無難につとめたものの、2010年9月民主党代表選挙で首相と対立する小沢一郎候補を支援したこともあり、わずか3か月で退任となった。菅第1次改造内閣からは鹿野道彦が職務を無難にこなしたが、中国書記官のスパイ疑惑に直面してしまい、2012年6月の野田第2次改造内閣発足に伴い退任し、郡司彰が農林水産大臣に就任した。第46回衆議院議員総選挙では両者とも比例復活もできずに落選、その後の第23回参議院議員通常選挙で比例区で出馬し落選したものの短期間ながら職務そのものを無難にこなした山田やスパイ疑惑に直面する前の鹿野が1年以上職務を無難にこなしたように、民主党政権に入ってからは不祥事による辞任及び農林水産相辞任後の不幸は減った。
なお、日本国憲法下において罷免された閣僚は5名であるが、3名が農相である。
関連項目
外部リンク
- 農林水産省:農林水産大臣(公式サイト)