町村信孝
テンプレート:Ambox-mini テンプレート:政治家 町村 信孝(まちむら のぶたか、1944年10月17日 - )は、日本の政治家、通産官僚。自由民主党所属の衆議院議員(当選11回[1])、清和政策研究会会長。
衆議院厚生委員長、文部大臣(第124・129代)、内閣総理大臣補佐官(教育改革担当)、科学技術庁長官(第62代)、文部科学大臣(初代)、外務大臣(第135・136・139代)、内閣官房長官(第75代)などを歴任。
目次
- 1 経歴
- 2 発言・活動
- 3 年譜
- 4 主な所属団体・議員連盟
- 5 政治資金
- 6 人物
- 7 家族・親族
- 8 系譜
- 9 著書
- 10 参考文献
- 11 脚注
- 12 関連項目
- 13 外部リンク
経歴
生い立ち
静岡県沼津市に内務官僚・町村金五の次男として生まれた。町村家は、父・金五が静岡県水産課長時代からの縁で、沼津市郊外にあった静岡県原町漁業組合長植松与三郎の別宅に疎開していた[2]。
東京学芸大学附属世田谷中学校、東京都立日比谷高等学校を経て東京大学経済学部卒業。
体格は、小学4年生の時点で身長1m60cm・体重60kgあり、相撲大会で優勝したこともあって、相撲部屋から勧誘されたことがある[3]。高校ではラグビー部に入り、早稲田、慶応から勧誘された[4]。
町村の東大在学中は東大紛争の真っ只中であり、ノンポリ学生のリーダーの一人として、東大紛争終結のための学生運動を率いた[5]。
大学3年のときに、サンケイ新聞社奨学金を受けて米国コネティカット州ウェスリアン大学に留学[6]。
1968年11月、東大経済学部ストライキ実行委員会の一人としておよそ1ヶ月のストライキを打っている[7]。1969年(昭和44年)1月、秩父宮ラグビー場にて東大7学部の学生・教職員9千人が参加した“大衆団交”では議長役を務め、大学自治の議定書である「東大確認書」には経済学部代表として署名している[7]。大学でもラグビー部に所属していた[7]。
1969年(昭和44年)東大を卒業し、 通産省(現・経済産業省)に入省。1969年入省同期組らで高倉健の歌である「唐獅子牡丹」に引っ掛けて「獅子の会」なる集まりを結成し、エネルギー問題などに関して血判状(連判状)を作って大臣、事務次官らを突き上げたこともあった[7]。その後、米国ジェトロ出向経験を経て、1982年(昭和57年)4月に通産省を退官する。
政治家として
政界入りを父・金五に大反対され、夫人には3回落選するまで付き合ってほしいと懇願する中[8]で1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。以降10期連続当選(当選同期に田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・額賀福志郎・衛藤征士郎・田中秀征・尾身幸次・北川正恭・伊吹文明・自見庄三郎・中川昭一・大島理森・野呂昭彦・鈴木宗男・甘利明など)。1991年北海道知事選挙では現職横路孝弘の圧倒的な強さの前に鳩山由紀夫・舛添要一と共に当時の選挙区でのライバルで落選中の中曽根派の佐藤静雄を支援したが惨敗。
4年後の1995年北海道知事選挙では、自民党などが推薦する伊東秀子を支援したが、日本社会党などが推薦する前副知事の堀達也に敗北。小選挙区比例代表並立制導入に伴い、当初は国政復帰を目指す横路が出馬する北海道1区での擁立が検討されたが、選挙区調整により先祖代々営むまちむら農場の在る北海道5区から出馬し、新進党の党首小沢一郎の甥である新人・小野健太郎に圧勝し初の小選挙区を制した。
1997年(平成9年)の第2次橋本改造内閣で文部大臣に就任し、初入閣。小渕内閣では大臣経験者ながら高村正彦外務大臣の下、外務政務次官を務める。2000年第42回衆議院議員総選挙でも民主党の小林千代美と小沢自由党の小野が出馬して野党の票が割れた恩恵もあり小選挙区で勝利、第2次森改造内閣では文部大臣・科学技術庁長官を務め、中央省庁再編により初代文部科学大臣となった。
小泉政権では自民党総務局長、自民党幹事長代理を務め、2003年北海道知事選挙では通産省の後輩である高橋はるみを擁立し、北海道史上初の女性知事誕生に貢献した。同年の札幌市の市長再選挙では北海道放送キャスター経験者の石崎岳を支援したが横路後援会が支援した上田文雄に敗北。
2004年(平成16年)の第2次小泉改造内閣では外務大臣に就任した。町村の外相起用を強く働きかけたのは、同じ派閥の後輩にあたる安倍晋三で、9月22日に安倍が小泉と会談した際に起用が決まったとされる。外相としては対中ODA廃止や尖閣諸島の灯台管理などを行い、第3次小泉内閣まで務めた。政治家の年金未納問題が注目された際には年金の未納が発覚している。
民由合併で北海道5区でも候補者が小林に一本化された事で2003年第43回衆議院議員総選挙や2005年郵政選挙で町村は小選挙区の勝利が厳しいとの予測もされたが、結果的に連立政権を構築する公明党(03年は解党直前の保守新党も)の支援もあり小選挙区で連勝(小林は03年が比例復活、05年は比例北海道ブロック次点)。また、郵政選挙の際は北海道全体では全国の中で比較的自民党が苦戦したが指定都市・札幌では小泉フィーバーが発揮された。
2006年自由民主党総裁選挙では同選挙へ立候補した安倍の選対本部長代理として、安倍の総裁選出馬に奔走、総裁選後に発足した第1次安倍内閣では要職への就任が有力視されたが実現しなかった。その後、元首相森喜朗に代わり、清和政策研究会会長に就任し、町村派を率いる。
2007年(平成19年)8月27日、第1次第1次安倍改造内閣で外務大臣に就任。当初は内閣官房長官への就任が確実視されていたが、安倍と麻生太郎の最終的な話し合いで、土壇場で与謝野馨の名が浮上し、町村は2度目の外相就任となった。外相再登板後は、麻生が提起した「北方領土面積二等分論」を論外だと批判。従来の方針通り「4島一括返還論」を主張する立場に回帰した。
安倍の退陣表明を受けて行われた2007年自由民主党総裁選挙では立候補に意欲を示したが、同派閥の福田康夫の立候補表明を受け福田を支持。自身の立候補は見送った。
2007年(平成19年)9月25日、福田康夫内閣の発足に伴い外相から内閣官房長官に横滑りした。派閥の領袖が官房長官を務めるのは初めてのことである。なお官房長官に就任したため町村は閥務に時間が割けなくなり、町村派は会長職を廃止して町村、中川秀直、谷川秀善の3人を代表世話人とする集団指導体制となった。福田康夫改造内閣でも内閣官房長官に留任。福田改造内閣発足後初の閣僚記者会見において、会見場に掲揚された国旗に登壇・降壇する時共に敬礼したのが町村ただ1人であったため、後に潮匡人が福田首相をはじめ、町村を除く全ての福田改造内閣の閣僚を批判している。
2009年(平成21年)2月5日、町村派内で依然として強い影響力を持っていた前会長の森は、麻生総理に批判的言動をとる中川の派内での影響力を削ぐために、町村を会長に復帰させた。森同様に町村自身も、中川との関係は良くないようで、町村派の会合などで「町村派の中には確か広島県選出の議員はいらっしゃらなかった……ああ、中川先生がいらっしゃいましたか」などと皮肉とも取れる言動が見られた。
同年の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区で民主党元職の小林に3万票余りの差をつけられ敗北。重複立候補した比例北海道ブロックで自民党2枠に対し、名簿順1位内の惜敗率で武部勤(北海道12区)に次ぎ2番目となり、復活当選で9選。10月15日には衆議院予算委員会の筆頭理事に就任。
その後、小林は選対幹部の公職選挙法違反での公訴提起と北海道教職員組合からの不正な政治献金の問題が発覚し2010年(平成22年)6月に議員辞職。これに伴う補選に出馬するため10月に議員辞職する[9]。補選ではJ-NSCの会員の支援も受け自身の長女の札幌南高校の同級生だった民主党の新人中前茂之に勝利し、10選(投票率は過去最低の54.34%で、同選挙区の過去最低だった1996年の60.53%を大きく下回った)。
2012年(平成24年)9月26日、2012年自由民主党総裁選挙に出馬するも、34票獲得で、5名中4位となる[10]。 選挙中に体調不良を訴えていたが、その後入院。11月22日、脳梗塞が見つかる[11]。
発言・活動
表現規制推進
- 映画「バトルロワイヤル」公開直前に映画業界関係者を文部科学省に呼びつけて自主規制の徹底を要請した[12]。
- 漫画・アニメ・ゲーム・映画を規制する青少年健全育成基本法案の立法化を推進[13]。
- 「本当に一日も早くこういうもの(町村曰く“青少年に有害な情報”)が国内から追放される日が来ることを心から期待しているものであります」と国会で発言[14]。
- 内閣府所管の「青少年健全育成推進委員会」から有害指定を受けたイラストやテキストなどを削除しなければ1年以下の懲役刑を科すという「青少年有害情報規制法」の立案を指示した[15]。
道路特定財源問題
「もし道路予算を一般財源化するなら、その一部を(整備新幹線に)つぎ込めないか。いろんな可能性を模索している。財務省などと真剣な話し合いをしている」と述べ、道路特定財源で北海道新幹線を建設すべきとの見解を示した[16]。
公務員制度改革に対する姿勢
内閣府特命担当大臣(行政改革担当)渡辺喜美が進めていた公務員制度改革について、国家公務員制度改革基本法案の内容にある「内閣人事庁」の創設に「閣僚の人事権が弱まるのではないか」として反対し、国会議員と公務員の接触を制限する「政官接触制限」についても反対するなど慎重な姿勢を貫いて渡辺と激しく対立した[17]。
2005年の中国における反日活動に対して
2005年(平成17年)に中国で発生した反日デモの際は、4月に訪中した際、中国側の対応を批判すると共に、中国側に迎合するかのような言動を繰り広げた加藤紘一や野田毅らに対し、「中国にゴマをする人間がいるから真の意味での日中関係がおかしくなる」と批判している。
竹島問題
米国政府機関が竹島の帰属先を再度「韓国」に戻したことについて、「米政府の1機関がやることに、あまり過度に反応することはない」との見解を示した[18]。福田首相が抗議を行う可能性については「ない。なぜ必要なのか」と述べた[18]。
一方、2010年(平成22年)2月に起きた、民主党の小林千代美の陣営に北教組が選挙資金を違法に提供したとされる事件の際は、北教組について「日教組本部も驚くような団体だ」と指摘し、「研修資料に『竹島は韓国の領土だという、韓国の主張が正しいと教えましょう』と(書いている)。これが日本の北海道の先生だ」と述べ、竹島を韓国領だと教育する北教組の教師を批判している[19]。
司法制度改革
2008年(平成20年)7月18日、政府が掲げる司法制度改革の法曹人口3000人の実現に異議を唱えた、日弁連の法曹増加の見直しを求める提言に対し、身内である弁護士の報酬の低下という業界の利益を優先させていると指摘、「日弁連の見識を疑うものであります」と批判した[20][21]。
たばこ増税
たばこ1箱を1000円にするたばこ増税について、「私個人は大変面白い提案だと思っている」と述べている[22]。
学校制度
日本の学校制度について「十歳の大学生がいてもいいし、二十歳の中学生がいてもいい。年齢で学年が変わることは行き過ぎた平等だ」と、年齢主義を批判した[23]。
大学入学予定者の自衛隊入隊を提案
大学への九月入学を一般化すべきだとしており、高校卒業後の半年は自衛隊へ入隊させて奉仕活動するのもいい、と述べている[24]。
コメ減反見直し発言
米の減反政策の見直しを「食糧不足や価格高騰が起きている。日本だけの問題ではなく、世界の食糧不足という文脈で考えなければならない」として突然表明し、自民党内から「何の根回しもない」と強く批判された。農林水産大臣経験者である谷津義男は「減反をやめれば農家が大赤字になる。差額補償など約8000億円の補助金が必要だが、できるわけがない」と反論した[25]。
企業・団体献金の全面禁止について
2009年(平成21年)3月19日に民主党代表・小沢一郎が提議した「企業・団体からの献金全面禁止」について、同日の派閥総会にて「まさに盗っ人猛々しい話だ」「(小沢氏の)目くらまし発言に乗せられないようにしてほしい」と批判した[26][27](ただし、町村自身は下記項目の政治資金で記されているように、政治資金規正法で禁止された地方公共団体を初め多数の企業団体献金を受け取っている)。
国会議員の世襲制限について
菅義偉が国政選挙における世襲候補の立候補制限を唱えていることについて「こんな取るに足らないことをあたかも大ごとのように取り上げる政治家も政治家だし、マスコミもマスコミだ」「有権者の選択眼を信じない人が『世襲禁止』と言う」と批判した[28]。一方で小泉純一郎が引退にあたり自らの次男を後継者に指名したことについては「率直に言って小泉さんらしからぬ行動だった」とコメントし、自身の2人の娘についても「継がせるつもりはない」としている。また、同時に「候補者を公募するシステムを充実させるべき」という考えも示している[29]。
政治団体による不動産の購入について
民主党の小沢一郎が、政治資金団体で不動産を購入したことについて、テレビ朝日の番組で、「自分のお金で自分の名前で登記すればいいんですよ。何で政治資金団体というものをわざわざ通すのか」と発言した[30]。町村が代表者を務める政治団体「信友会」の政治資金収支報告書(2007年3月19日提出分)[31]によれば、信友会は、2001年(平成13年)7月23日に江別市内の不動産を1,000万円で取得している。(詳しくは#政治資金を参照)
民法改正
2001年時点で選択的夫婦別姓制度導入に賛成[32]していたが、2010年には、民主党の同法案に対して反対を表明している[33]。
物議を醸した発言
米軍墜落ヘリは操縦が上手だった
米軍ヘリ墜落が墜落した沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学を視察中に「操縦技術が上手だったため、最小限の被害でとどまったのかもしれない」と発言し、批判を浴びた[34]。
UFOは絶対いると思っている
2007年(平成19年)12月18日に「地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体(UFO)の存在を確認していない」とする答弁書が閣議決定された[35]。官房長官記者会見でこのことについて質問され、公式答弁は紋切り型にしかできないとしつつも、「私は個人的にはこういうものは絶対いると思っている」「そうじゃないと、ナスカのああいうの(ナスカの地上絵)、説明できないでしょ」と答えた[36]。
労組の人たちが仕事をさぼっている
2009年(平成21年)7月2日、民主党との政策討論会で、郵政民営化がサービスの低下を招いたとの指摘があることについて、「一部の悪質な労働組合の人たちが国営に戻したい一心でわざと(仕事を)さぼっていると聞いたことがある」と述べた。これに対し、民主党参議院議員の増子輝彦は、「労働組合の方々に極めて失礼な表現があった。町村氏らしからぬ発言でやめてもらいたい」と批判した[37]。
誹謗中傷はいい加減にしろよ
2009年(平成21年)9月21日、札幌市内で行われた自民党総裁選の演説会終了直後、握手を求めた河野太郎に対して、握手を拒絶。河野に向って「ご苦労さま。しかし、誹謗中傷はいい加減にしろよ。ものには限度があるぞ」と語った。この一部始終は同日の札幌テレビ放送『どさんこワイド180』で映像・音声全てが放映された。
閣僚は黙っとけ
2009年(平成21年)11月2日の衆議院予算委員会において、傍聴席に大挙して押しかけた民主党の新人議員たちの退席を求め、これに反発した亀井静香(金融担当大臣)らに対し「閣僚は黙っとけ! おい亀井、閣僚が何だ閣僚が!」「閣僚! 黙れ! (衆院予算)委員長の指示にあなたは従わないつもりか」などと発言し、論戦の前の「場外乱闘」と報じられた。
年譜
- 1944年10月17日 - 静岡県沼津市に出生(北海道江別市出身)。
- 1969年
- 1974年6月 - 国土庁へ出向。
- 1979年5月 - 日本貿易振興会(ニューヨークトレードセンター)に出向。
- 1982年4月 - 通商産業省資源エネルギー庁石油部石油企画官を最後に同省を退職。
- 1983年 - 第37回衆議院議員総選挙に立候補、初当選(当時の旧北海道1区には、現在の小選挙区での北海道4区に該当する後の義家弘介の勤務先小樽練成会在る小樽市や北星余市の在る余市町含む。4区には中選挙区時代のライバル佐藤静雄や自身の東大や通産省の後輩宮本融が自民党候補として出馬)。
- 1989年6月 - 宇野内閣で文部政務次官に就任
- 1990年3月 - 自由民主党文化局長に就任。
- 1997年9月 - 第2次橋本改造内閣で文部大臣に就任。
- 1998年7月 - 小渕内閣で閣僚経験者では異例ながら高村正彦外務大臣の下、外務政務次官に就任。
- 2000年
- 2001年1月 - 中央省庁再編に伴い、初代文部科学大臣に就任。
- 2002年10月 - 自由民主党総務局長に就任
- 2004年9月 - 第2次小泉改造内閣で外務大臣に就任。
- 2005年9月 - 第3次小泉内閣で外務大臣に再任。
- 2006年10月 - 森派を森喜朗から禅譲され、町村派会長に就任。
- 2007年
- 2008年
- 2009年
- 2010年
- 6月 - 小林の議員辞職に伴う補欠選挙に出馬する意向を表明。
- 10月 - 衆議院議員を一旦辞職し補選出馬し勝利。
- 2012年
- 9月 - 2012年自由民主党総裁選挙に出馬
主な所属団体・議員連盟
- 日本教職員組合問題究明議員連盟(顧問)
- 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(常任幹事)
- 中国の抗日記念館から不当な写真の撤去を求める国会議員の会(顧問)
- 神道政治連盟国会議員懇談会(副会長)
- 日中友好議員連盟(副会長)
- 親学推進議員連盟(副会長)
- 日韓議員連盟(常任幹事)
- 北京オリンピックを支援する議員の会(副幹事長)
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
- 北海道連合遺族会(理事長)
政治資金
- 日本共産党の機関紙しんぶん赤旗に、日本歯科医師連盟から多額の献金を受け取っていたと報じられた[38]。
- しんぶん赤旗に、札幌市からの出資を受けている北海道ガスから献金を受けていたと報じられた。地方公共団体から補助金を受けている企業から政治家への献金は、政治資金規正法で制限されている[39]。
- しんぶん赤旗に、鋼鉄製橋梁工事をめぐる談合事件に関与した談合組織に所属する企業から献金を受けていたと報じられた[40]。
- 町村が代表者を務める政治団体「信友会」の政治資金収支報告書(2007年3月19日提出分)[31]によると、2001年7月23日に江別市内の不動産を1,000万円で取得したが、同じく「信友会」が2008年3月19日に提出した政治資金収支報告書で、その年度中に608万円で当該不動産を売却したことが記載されている[41]。『週刊ポスト』は、町村が2001年に当該不動産を信友会名義で購入し、6年後に買い取って自宅にしたとして、政治資金を私的に流用した疑いがあると報じた[42]。
人物
- 趣味はスポーツ、音楽、バレエ、演劇鑑賞など。座右の銘は「ベストを尽くす」「誠実」。
- 1993年、崇教真光の43周年秋季大祭に出席し、来賓として祝辞を述べた記事が会誌に載ったことから崇教真光の信徒であると誤解を受けたことがある[43]。
- 町村信孝の「信」の字には第3画目が縦棒で、第4画目に接触する手書き風の字形を用いている(ファイル:信 異体字01.png)。
- 血液型はA型。
家族・親族
系譜
- 町村家の過去帳にある最古の戒名は、「無門院大道善翁居士」で、没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に「町村次郎兵衛」の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習を務めていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた(『町村金五伝』 424-438頁)。
- 町村信孝著 『保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる』 139頁によれば、「私の家は、江戸時代、越前府中(現在の福井県武生市)の奉行職を務めておりました。府中は福井藩の領地でしたが独立性が高かった。…(中略)その越前府中の奉行職第九代目が、私の曾祖父町村織之丞(まちむらおりのじょう)という人なのですが、この人までが武士で、その息子(私の祖父)の町村金弥になると、もう武士ではなくなります。明治維新です。幕末にまさか武士というものがなくなると予想していた人たちがいたでしょうか。武士は遠く平安時代の末期に発生したと言われていますが、永らく日本の歴史の推進役でありました。その主役がいきなり消滅したことの衝撃は大きかった。ましてや武士として生まれ育ち、武士であることを誇りに思っていた曾祖父の失望は、いかばかりであったか、想像に難くありません。それが国家単位で起きたのですから、とんでもない構造改革です。まさに革命的な事態でありました。」という。
著書
- 町村信孝 『保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる』 PHP研究所 2005年
参考文献
- 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 410-412、477頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 10-21頁
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:S-par
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
和田貞夫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院厚生委員長
1996年 - 1997年
|style="width:30%"|次代:
金子一義
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
森喜朗
|style="width:40%; text-align:center"|清和政策研究会会長
第4代:2006年 -
|style="width:30%"|次代:
現職
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
与謝野馨
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房長官
第75代:2007年 - 2008年
|style="width:30%"|次代:
河村建夫
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
麻生太郎
川口順子
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第138代:2007年
第134・135代:2004年 - 2005年
|style="width:30%"|次代:
高村正彦
麻生太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
新設
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部科学大臣
初代:2001年
|style="width:30%"|次代:
遠山敦子
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大島理森
小杉隆
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部大臣
第129代:2000年 - 2001年
第124代:1997年 - 1998年
|style="width:30%"|次代:
廃止
有馬朗人
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大島理森
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 科学技術庁長官
第62代:2000年 - 2001年
|style="width:30%"|次代:
廃止
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大島理森
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 総理府原子力委員会委員長
第62代:2000年 - 2001年
|style="width:30%"|次代:
廃止
- 転送 Template:End
テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:総理府原子力委員会委員長 テンプレート:外務大臣 テンプレート:内閣官房長官 テンプレート:衆議院厚生委員長
テンプレート:清和政策研究会会長- ↑ ただし2010年、小林千代美の議員辞職に伴い自身も辞職し、補欠選挙に出馬して当選しているため、実質的な任期は10期。
- ↑ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 193-194頁
- ↑ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 120頁
- ↑ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 120頁
- ↑ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 113頁
- ↑ 町村信孝ウェブサイト
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 田原総一朗著 『新・日本の官僚』 文春文庫,1988年 135頁
- ↑ 2008年6月17日付 日本経済新聞朝刊最終面「交友抄」に町村が寄せた手記より。
- ↑ 北海道11区で石川知裕に敗北した比例次点の中川昭一は既に死去していたため、北海道6区で敗北した今津寛が繰上当選した。
- ↑ [http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012092600189 石破氏1位、党員票で圧倒=安倍氏と決選投票-自民総裁選 時事通信 2012年9月26日]
- ↑ [http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2012/news1/20121122-OYT1T00321.htm?from=main5 入院中の町村氏、脳梗塞患う…本人不在で選挙戦 読売新聞 2012年11月22日]
- ↑ [1]
- ↑ [2]
- ↑ [3]
- ↑ [4]
- ↑ 2008年5月11日23時04分 読売新聞
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ 18.0 18.1 テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 【官房長官会見】「個人的には面白い たばこ税増税」(2日午後) MSN産経ニュース 2008年6月2日テンプレート:リンク切れ
- ↑ 21世紀教育新生プラン 教育改革関連法案中心に 飛び入学など討議 分科会分属も決まる 全私学新聞 2001年2月13日
- ↑ 2001年2月5日 朝日新聞
- ↑ http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/150126/テンプレート:リンク切れ
- ↑ 政府・与党「あの人にだけは言われたくない」 企業・団体献金禁止 MSN産経ニュース 2009年3月19日
- ↑ 企業・団体献金争点に 政治資金規制で与野党応酬 日経ネット 2009年3月20日テンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite video
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