相撲部屋
テンプレート:出典の明記相撲部屋(すもうべや)は、大相撲の力士を養成する機関であり、力士が所属する各グループ、またその建物である。相撲界では単に部屋とも言う。2014年2月1日現在、44の部屋がある。
目次
概要
力士はいずれかの部屋に所属していなければ本場所に出場することはできない。基本的に親方を中心とする共同生活を営む場であり、結婚するまでは関取(資格者ともいう)であっても部屋に住むことが基本のルールである[1]。また、関取になると個室が与えられるが、幕下以下の力士(養成員)は、大部屋で共同生活をする。
相撲界の年寄(親方)たちが運営し、一門と呼ばれるグループのいずれかに所属する(一門制度)。もともとは個別のグループ単位で各地を巡業していたときのグループが一門の起こりであるが、巡業が協会に一元化された現在は、相撲協会の役員選挙のためのグループという性質が強くなっている。以前は稽古場がなく、一門の中心の部屋に稽古にいく部屋もあったが、現在は自前の稽古場を持たなければ部屋の設立は認められない[2]。創立から施設の完成までに時間がかかる場合は、仮施設をOBから受けることが原則である。また、親方が死去または65歳の定年を迎えた時点で後継者の資格を有する者が部屋にいない場合(旧田子ノ浦部屋などの例があり、その部屋に所属していた力士たちは他の部屋へ移籍することになる)や、所属力士が0人になった場合(二所ノ関部屋などの例がある)[3]には、部屋が消滅する決まりとなっている。部屋それぞれの名称は、基本的には運営する年寄(師匠)の名を付けるが、伝統ある部屋を継承する年寄が先代の年寄名跡を譲り受けてその名跡を名乗る場合も多い。
相撲部屋は不変なものではなく、運営する年寄の就任・退職などにより、絶えず分家独立・統合・消滅を繰り返している。基本的に分家独立があっても一門には所属したままだが、かつての九重部屋のように一門から破門されるなどして別の一門に移籍したり、一時期の貴乃花部屋のように無所属になったりすることもある。特に有力な年寄の場合、自ら一門を立ち上げる者もいる(双葉山が興した時津風一門の例などがある)。なお、大相撲力士の妻は、夫が年寄を取得している場合、女将候補となる。
相撲部屋の数は、昭和時代まではおおむね30前後で安定していたが、平成時代になると新しい部屋が次々に作られ、一時期は部屋の数が50を超えることもあった[4]。しかし、新しい部屋の乱立によって所属力士が数人しかいない小規模な部屋が多くなり、部屋の運営が立ち行かなくなるケースが相次いだことや、親方が定年を迎えても後継者がいないなどといった諸々の事情から、2010年代に入り部屋の統廃合が相次いでいる。その中には、2013年1月場所後閉鎖の二所ノ関部屋のように、“名門”とされた部屋の名前も挙がるようになった。これに加え、新しい部屋の乱立を防ぐために2006年から部屋新設の基準が厳格化されたこともあり(後述)、相撲部屋の数は減少傾向にある。2010年代の相撲界における力士の総数は650人程度であり、相撲部屋を正常に運営させるには1部屋につき少なくとも20人程度の力士を抱える必要がある現実を考慮すると、相撲部屋の総数は昭和時代と同じく30前後が適正ではないかと見る意見が多い[5]。
一門別部屋一覧
テンプレート:地図外部リンク 2014年5月24日現在の相撲部屋(6大一門、計44部屋)。
出羽海一門
二所ノ関一門
時津風一門
高砂一門
伊勢ヶ濱一門
2012年5月、立浪部屋の一門離脱・貴乃花グループへの移籍により、春日山・伊勢ヶ濱組合となる。2012年6月24日の理事会で「春日山・伊勢ヶ濱連合」に改称したが[6]、同年11月19日に一門で会合を開き、「伊勢ヶ濱一門」へ改称した。
貴乃花一門
2014年3月場所までは一門扱いではなかったため、貴乃花グループと称した。
- 貴乃花部屋(2010年1月8日、二所ノ関一門を離脱。ただし、形式上は破門されていない[7])
- 大嶽部屋(2010年1月19日、二所ノ関一門を離脱。事実上の破門[8])
- 立浪部屋(2012年5月14日、立浪一門を離脱)
過去に存在した部屋
平成以降
デフォルトでは消滅年月の昇順。部屋名は50音順ソート、師匠の列は番付順ソート。
平成以前
ここでは名のみを示す。
- 大山部屋
- 君ヶ濱部屋
- 谷川部屋
- 湊川部屋
- 中川部屋
- 小野川部屋
- 錦島部屋
- 振分部屋
- 佐ノ山部屋
- 立川部屋
- 浦風部屋
- 雷部屋
- 吉葉山道場
- 西岩部屋
- 山分部屋
- 若藤部屋
- 富士ヶ根部屋
- 陣幕部屋
- 枝川部屋
- 双葉山道場
- 音羽山部屋
- 立田山部屋
- 粂川部屋
- 浅香山部屋
- 山科部屋
- 清見潟部屋
- 楯山部屋
- 白玉部屋
- 勝ノ浦部屋
- 稲川部屋
- 秀ノ山部屋
- 関ノ戸部屋
- 根岸部屋
部屋新設の条件
もともとは年寄名跡を所有すること以外には特に条件は設けられていなかったが、近年乱立する相撲部屋の数を規制する目的と、入門から引退までの期間が短い大学相撲出身の年寄が次々と部屋を新設し、それらの年寄が大相撲の伝統をうまく継承できずに力士が問題を起こすケースが出てきていることから、2006年9月28日に年寄が部屋を新設できる条件を定めた規定が設けられた。条件は以下の通りである。
これらのいずれかの条件を満たし、師匠の了承を受けることにより、引退後1年以上経過で部屋を新設できる。
ちなみに、2014年7月場所終了時の現役力士で、この条件を満たしている力士は以下の通りである。年寄名跡を取得できる力士は、日本国籍を持つ者に限られている。
- 琴奨菊和弘:大関 - 秀ノ山
- 稀勢の里寛:大関 - 荒磯
- 豪栄道豪太郎:新大関
- 若の里忍:三役通算26場所 - 西岩
- 旭天鵬勝:幕内通算93場所
- 安美錦竜児:幕内通算82場所 - 安治川
- 豪風旭:幕内通算64場所 - 押尾川
なお、既存の部屋を継承する場合は、以下の条件のうちいずれか1つを満たすことが必要である。
- 幕内通算12場所以上
- 幕内、十両通算20場所以上
伝統など
相撲界では昔から「部屋持ち親方は娘が生まれると赤飯炊いて喜ぶ」と言われていた。これは、完全な実力主義の相撲界にあっては親方の息子が必ずしも部屋の後継者になれるとは限らないため、親方の娘を有力な弟子と結婚させて養子縁組を行い部屋を継承させることが古くから積極的に行われていた伝統によるものである。現在でも、部屋持ちの親方は男の子が生まれるより女の子が生まれることを喜ぶ者が多い。実際、師匠が有力な弟子を婿に迎え入れ部屋を継承させることは、現在でもよく見られることである。ただし、直接の弟子ではなく同門の別の部屋の力士が継承する場合もある。他の一門の力士が継承することは非常に珍しいが、公式に禁止されているわけではなく、一時期宮城野部屋を継承していた金親(宮城野部屋は伊勢ヶ濱(旧立浪)一門、金親は出羽海一門の北の湖部屋出身)といった実例も存在する。また、高望山の高島部屋、太寿山の花籠部屋、武蔵丸の武蔵川部屋など、自分や師匠などが所属していた相撲部屋が消滅していた場合に部屋を再興することも相撲界ではよく見られる。
相撲部屋はまた、師匠を父親とした大家族制の体裁も持つ。近年では核家族化の傾向も手伝って、力士志願の若者の中にもこうした大所帯での生活になじめない者も多く、多数の兄弟子がいる大部屋をむしろ避ける傾向も見られる。出羽海や高砂などといった名門部屋でも、大部屋としてまとまっていくのは難しくなってきている。元横綱の栃ノ海は停年退職後に相撲部屋の小規模化の弊害について「稽古相手が少ないから強くならない。少ない弟子が部屋を去ることを恐れて親方が弟子に甘くなりがちである」とする趣旨の指摘を行ったことがある[9]。前述の通り、相撲部屋を正常に運営させるには1部屋につき少なくとも20人程度の力士を抱える必要があり、そのためには最終的に部屋の総数を30程度まで減少させる必要があるとも言われている。
過去にはまれに2つの土俵を備えた部屋もあったが、どれだけ所属力士が多くても、ほとんどの部屋では稽古土俵は1つである。「他人の相撲を見るのも稽古のうち」という意味合いと、「他人を押しのけて土俵に上がるようでなくてはならない(それくらいの稽古に対する積極性と気概が必要だ)」という考え方による。
平成の時代からはウェイトトレーニング設備を備えた部屋も多い。昭和時代までは器具で作った筋肉は相撲では役に立たないと敬遠される傾向があった(隆の里や霧島など昭和世代の力士にもウェイトトレーニングを取り入れた例はあった)が、平成に入って貴乃花や武双山[10]らの成功もあって、力士が他のトレーニングジムへ通う煩を避けるためもあり、こうした傾向が進んでいる。入門時の基準にこうした設備の充実を挙げる新弟子も少なくない。2010年代に入った現在では九重部屋が筋力トレーニングを行う部屋の代表となっている。
多くの部屋は、一般人の希望があれば稽古の見学を受け入れている。ただし、稽古の最中には私語を慎むなど、見学者は力士たちの稽古を妨げることのないように必要最低限のルールは守らなくてはならない。
各種部屋別記録
- 最多横綱昇進
- 出羽海部屋 8人(大錦卯一郎、栃木山守也、常ノ花寛市、武藏山武、安藝ノ海節男、千代の山雅信、佐田の山晋松、三重ノ海剛司)
- 最多幕内優勝
- 九重部屋 52回(北の富士勝昭10回、千代の富士貢31回、北勝海信芳8回、千代大海龍二3回)
- 元千代の山の旧九重部屋は師匠の死で消滅、独立して井筒部屋を興していた元北の富士がこれを吸収して、新九重部屋となったもので、ふたつの九重部屋は厳密には別の部屋という見方もある。同様に、千代の富士引退とともに、元北の富士は部屋を譲り、独立した八角部屋(元北勝海)に所属したので、これも別の部屋という考え方も可能になる。北の富士の10回の優勝を数えないとすれば、出羽海部屋の49回が最多となる。
- 最多連続幕内優勝
- 出羽海部屋 10場所連続(大正6年1月~大正10年5月、栃木山守也5回、大錦卯一郎4回、常ノ花寛市1回)
- 九重部屋 10場所連続(昭和60年9月~昭和62年3月、千代の富士貢8回、北勝海信芳2回)
- 同一部屋力士による三賞独占(受賞者3人以上)
- 出羽海部屋(昭和24年5月、殊勲賞:千代の山雅信、敢闘賞:羽島山昌乃武、技能賞:五ツ海義男)
- 優勝も同部屋の増位山大志郎。
- 藤島部屋(平成3年5月、殊勲賞:貴花田光司、敢闘賞:安芸ノ島勝己:貴闘力忠茂、技能賞:該当者なし)
- 二子山部屋(平成5年5月、殊勲賞:若ノ花勝、敢闘賞:貴ノ浪貞博、技能賞:貴闘力忠茂)
- 優勝も同部屋の貴ノ花光司。
脚注
関連項目
外部リンク
- 相撲部屋のご紹介 - 日本相撲協会
- ↑ ただし、春日野部屋や近年の九重部屋など、関取を多く擁している部屋は個室が足らず関取にマンション暮らしをやむなく許す場合がある。
- ↑ 元魁皇の浅香山親方 2月1日付で独立、人間教育も重視 Sponichi Annex 2014年1月31日 05:30
- ↑ 正確には、師匠の健康上の理由で閉鎖が事前に決定していたため閉鎖とほぼ同時に所属力士3人が引退した。
- ↑ 2004年には史上最多の55部屋が存在していた。
- ↑ 部屋数の減少で考えた、相撲界のあるべき姿。~角界にとって淘汰は是か非か?~
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 「貴乃花親方が一門離脱を正式表明」スポーツ報知 2010年1月8日の記事を参照。
- ↑ 8.0 8.1 「貴乃花親方支持派6人が二所ノ関一門離脱」日刊スポーツ 2010年1月19日の記事を参照。
- ↑ 大相撲:第49代横綱・栃ノ海の花田茂広さんに聞く 毎日新聞 毎日新聞 2013年03月30日 11時02分
- ↑ 『相撲』2012年5月号に掲載された先代武蔵川と先代大島の対談では、先代武蔵川が「リハビリ用であってこれを主体として稽古を行うつもりはなかった。」と積極的な利用の意図が無かったことを話していた。