二所ノ関部屋
二所ノ関部屋(にしょのせきべや)は、日本相撲協会にかつて存在した相撲部屋。
目次
歴史
1909年(明治40年)1月に二枚鑑札で5代二所ノ関を襲名した関脇・海山は、1911年(明治41年)1月場所限りで引退して友綱部屋に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した。なかなか弟子に恵まれなかったものの、苦労して玉錦を大関に育て上げた。しかし玉錦が1932年(昭和7年)10月に横綱に昇進する直前の1931年(昭和6年)6月に胃癌で死去し、弟子は粂川部屋に預けられた。
1935年(昭和10年)1月に横綱・玉錦の二枚鑑札が許可され、6代二所ノ関を襲名して部屋の師匠に就任した。当時の二所ノ関部屋は稽古場さえ持たないほどの弱小な部屋だったが、猛稽古により一代で部屋を大きくし、先代弟子から関脇・玉ノ海や幕内・海光山などといった関取を育てた。しかし、勧進元も務めてこれからという1938年(昭和13年)12月に虫垂炎を悪化させ、腹膜炎を併発して34歳の若さで死去した。
6代二所ノ関(玉錦)が亡くなった後、関脇・玉ノ海が1939年(昭和14年)1月に26歳の若さで二枚鑑札・7代二所ノ関を襲名して二所ノ関部屋を継承した。戦争中は食糧確保のために部屋単独で勤労奉仕を行ったが、これにより玉ノ海は戦犯容疑で逮捕された。その際の日本相撲協会の冷遇が要因となり、玉ノ海は弟弟子の大関・佐賀ノ花に二所ノ関部屋を譲って1951年(昭和26年)5月に38歳の若さで廃業した。7代二所ノ関は先代弟子から関脇・神風、幕内・大ノ海、幕内・十勝岩、直弟子から関脇・力道山などといった関取を育てた。
1951年(昭和26年)9月に二枚鑑札で8代二所ノ関を襲名した大関・佐賀ノ花は、1952年1月に引退して年寄専務となり二所ノ関部屋の経営に専念した。7代二所ノ関の「分家独立を推奨する」という方針の下で、大ノ海(花籠部屋を創設)、琴錦(佐渡ヶ嶽部屋を創設)、玉乃海(片男波部屋を創設)らは分家独立を目指して二所ノ関部屋に自分たちの内弟子を抱えていたものの、実際の分家独立に際しては混乱が相次いだ。8代二所ノ関は横綱・大鵬や大関・大麒麟などを育て上げ、二所ノ関一門の総帥となるまでに部屋を大きくしたが、1975年3月に急性白血病で死去した。
その後は、8代二所ノ関の通夜の晩に後継の名乗りを上げた大鵬親方が一代年寄を返上して9代二所ノ関として部屋を継承するか、二所ノ関部屋の部屋付き親方である17代押尾川親方(元大関・大麒麟)が後継として9代二所ノ関を襲名すると見られていた。正式に後継者が決まるまで、6代二所ノ関の弟子で二所ノ関一門の最長老であった10代湊川親方(元幕内・十勝岩)が暫定的に9代二所ノ関を引き継いだが、その期間は実に1年4ヶ月にも及んだ。
部屋の相続争いに嫌気が差した大鵬親方は後継争いから降り、対する押尾川親方の後継は大おかみ(8代二所ノ関未亡人)が拒否して、混乱は長期間に及んだ。結局、部屋の所属力士である金剛が8代二所ノ関の次女と婚約して娘婿になることで10代二所ノ関を襲名することに決定し、1976年9月場所限りで27歳で引退して部屋を継承した。10代二所ノ関が師匠に就任して以降は、8代二所ノ関の時代に入門してきた鳳凰が関脇へ、大徹が小結まで昇進したものの、10代二所ノ関の直弟子で関取となったのは小結・大善だけで、平成時代に入ってからは急速に部屋の勢力が衰えた。
2012年秋に10代二所ノ関が脳梗塞で倒れて入院し、病気療養が長引いて部屋経営が困難となったことから、2013年1月に同年1月場所限りで二所ノ関部屋を閉鎖する意向が明らかになった。それを受けて、10代二所ノ関と部屋付き親方である北陣親方(元関脇・麒麟児)と13代湊川親方(元小結・大徹)、および行司と床山の5名は同じ二所ノ関一門の松ヶ根部屋へ移籍、部屋付き親方である富士ヶ根親方(元小結・大善)は出羽海一門の春日野部屋へ移籍し、所属力士3名は全て引退することが同年1月28日に開かれた日本相撲協会理事会で承認され、正式に二所ノ関部屋は閉鎖された[1]。
分家独立騒動
片男波部屋の分家独立騒動
1961年(昭和36年)1月場所限りで引退して年寄・12代片男波を襲名した関脇・玉乃海は、内弟子たちを連れての分家独立を8代二所ノ関(佐賀ノ花)に申し入れた。しかし、8代二所ノ関は内弟子たちの移籍に関しては1年待ってほしいと主張し、とりあえず内弟子の移籍を保留したままで同年5月に片男波部屋を創設した。
しかし1年経っても内弟子たちの移籍が実現しなかったため、12代片男波は1962年5月場所前に内弟子の幕内・玉響、十両・玉嵐、幕下・玉乃島(後の横綱・玉の海)たちの移籍届を日本相撲協会へ提出した。これに対抗して8代二所ノ関は、未成年以外の力士全員の廃業届を提出したため、廃業届を出された力士たちは1962年5月場所に出場することができなかった。そこで7代二所ノ関(玉ノ海)の調停により、廃業届の取り下げと幕下以下の力士の翌7月場所からの移籍を認めることで合意した。この時期既に関取だった玉嵐の移籍は1年後になったが、新川(玉響)は移籍することなく廃業した。
押尾川部屋の分家独立騒動(押尾川の乱)
10代二所ノ関の相続争いに敗れた17代押尾川(大麒麟)は、1975年9月3日に自分を慕う小結・青葉城や幕内・天龍など16名の力士を連れて8代二所ノ関の墓所である台東区谷中の瑞輪寺に立てこもり、二所ノ関部屋からの分家独立を申し入れた。これに対し8代二所ノ関未亡人側は、押尾川の要望を一切認めなかった。
そこで二所ノ関一門の実力者である11代花籠親方(大ノ海)の調停により、1975年9月場所後に押尾川部屋の分家独立を認めること、16名中6名(青葉城ほか幕下力士)だけの移籍を認めることで合意した。この際に移籍が認められなかった天龍(天龍源一郎)は、翌年9月場所を最後に26歳で廃業して全日本プロレスに入門し、プロレスラーへと転身した。
師匠
- 5代:二所ノ関軍右衛門(にしょのせき ぐんうえもん、関脇・海山、高知)(二枚鑑札)
- 6代:二所ノ関三右衛門(にしょのせき さんえもん、横綱・玉錦、高知)(二枚鑑札)
- 7代:二所ノ関梅吉(にしょのせき うめきち、関脇・玉ノ海、長崎)(二枚鑑札)
- 8代:二所ノ関勝巳(にしょのせき かつみ、大関・佐賀ノ花、佐賀)(二枚鑑札)
- 9代:二所ノ関豊(にしょのせき ゆたか、前1・十勝岩、北海道)
- 10代:二所ノ関正裕(にしょのせき まさひろ、関脇・金剛、北海道)
力士
横綱・大関
横綱
- 大鵬幸喜(48代・北海道)
- 玉錦三右エ門(32代・高知)
大関
- 佐賀ノ花勝巳(佐賀)
- 大麒麟將能(佐賀)
幕内
関脇
小結
前頭
- 天津灘福一(佐賀)
- 大ノ海久光(秋田)
- 海光山大五郎(徳島)
- 3代海山太郎(佐賀)
- 甲斐錦勝(山梨):プロレスラージャンボ鶴田の叔父
- 神生山清(香川)
- 神若順三(千葉)
- 黒獅子勇蔵(大阪)
- 大文字研二(京都):三段目の時に中村部屋より移籍
- 大龍志郎(北海道)
- 玉櫻八郎(熊本)
- 天龍源一郎(福井):後にプロレスラーへ転向
- 十勝岩豊(北海道)
- 藤錦千代吉(北海道)
- 宮柱義雄(佐賀)
- 宮ノ花秀輝(愛媛)
- 初代若乃花幹士(青森):平幕時代に花籠部屋に移籍して後に横綱へ昇進
幕下以下
関連項目
脚注
テンプレート:相撲部屋- ↑ 二所ノ関部屋が閉鎖 親方移籍 力士は引退 スポーツニッポン 2013年1月28日