大鵬部屋
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大鵬部屋(たいほうべや)とは、かつて日本相撲協会に所属していた相撲部屋である。
歴史
二所ノ関部屋(元大関・佐賀ノ花)所属の横綱・大鵬が1969年(昭和44年)5月場所に史上初となる30回目の優勝を達成。この功績を讃えて同年9月場所初日に日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。大鵬は1971年(昭和46年)5月場所限りで引退し、一代年寄・大鵬を襲名。同年12月に十数名の内弟子を連れて二所ノ関部屋から分家独立して大鵬部屋(たいほうべや)を創設した。創設当時は「大横綱・大鵬」のネームバリューもあり入門希望者が非常に多く、所属力士が40人を超える大部屋となった。1977年(昭和52年)に大鵬が脳梗塞で倒れて以降、一時の勢力はなくなってきたが、関脇・巨砲や前頭2枚目・嗣子鵬らが関取に昇進し、多数の個性派力士を輩出した。
1992年(平成4年)には、12代阿武松(元関脇・益荒雄)が師匠・17代押尾川(元大関・大麒麟)と押尾川部屋からの分家・独立で揉め、事実上破門された。そこで大鵬は阿武松に助け舟を出し、大鵬部屋に迎え入れ独立に協力。1994年に阿武松部屋を創設するまで在籍した[1]。
大鵬の娘婿である二子山部屋所属の貴闘力(1993年に三女と結婚していた)は2002年(平成14年)9月場所限りで引退し、年寄・16代大嶽を襲名した。直後に大鵬部屋に移籍し、部屋付の親方として後進の指導に当たっていたが、2005年(平成17年)5月の大鵬の定年に先立ち、2004年(平成16年)1月1日付けで16代・大嶽が大鵬部屋を継承。大鵬部屋から「大嶽部屋」に改称した。現在も大鵬部屋の名残として、大嶽部屋の正面玄関には縦看板の「大嶽部屋」、横看板の「大鵬道場」の2枚の看板が掲げられている。
師匠
- 一代年寄:大鵬 幸喜(たいほう こうき、横綱・大鵬、北海道)
力士
関脇
前頭
十両
- 榛名富士新司(十2・群馬)
- 大竜忠博(十4・大阪)
- 大鷹雅規(十4・岡山)
- 露鵬幸生 (十9・ロシア、部屋名改称後小結)
- 草竹幸一(十11・宮崎)
- 翔鵬豪一(十11・新潟)
- 頂ノ郷昌登(十12・神奈川)
- 綾の海金太郎(十13・青森)
- 大石田謙治(十13・神奈川)
- 大殿英武(十13・青森)
脚注
テンプレート:相撲部屋- ↑ この為、現在も阿武松部屋は大鵬部屋→大嶽部屋の分家として扱われている。