大関
大関(おおぜき)は、大相撲の階級である。
「大関取」が語源とされ、かつては力士の最高位だったが、現在では「横綱」に次ぐ地位である。本来「三役(力士)」とは「大関・関脇・小結」を指すが、大関は三役の最上位であり、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。そのため三役は「関脇・小結」のみを指すこともある。
目次
[非表示]概要
東西に最低1名ずつ常設され、空位となる場合には横綱力士が「横綱大関」としてその座を兼ねる。それも適わない時(横綱不在で一人大関、のように大関以上がひとり以下になってしまう場合)には、関脇や小結から繰上げで昇進をさせることになるが、そのような例は近年は全くないに等しい[1]。江戸時代には大関に適した者がいない場合など看板大関といってただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。
大関昇進については横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準があるわけではなく、臨時理事会での互選を経て昇進者は慣例的に「満場一致で賛成」された扱いとなる。[2]マスコミの報道によると、「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」というところが近年では大関昇進への基準の目安となっているといわれる。しかし、日本相撲協会自体はその基準目安の存在を否定しており、過去の例では条件を満たさずに昇進した大関、条件を満たしながら昇進を見送られた力士が少なからず存在する。
番付編成会議で大関昇進が決定すると、相撲協会から使者が派遣され、横綱とほぼ同様な「昇進伝達式」が行われる。新大関は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われることになる。
なお、大関昇進後の特典としては、月給が関脇・小結より65万7000円昇給する(2010年現在)。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することも可能となる[3][4]。さらに、海外場所などの移動に使う飛行機の座席クラスは、幕内力士がビジネスクラスであるが、大関以上にもなるとファーストクラスに座ることが可能となる。そして鉄道(新幹線)では、グリーン席に座ることも可能となっている。
日本国籍を持つ大関力士は、日本相撲協会が財団法人時代には、評議員として役員選挙の投票権をもっていた。横綱・大関の日本国籍をもつ力士の中から、地位・年齢を加味して4名まで選出されていた。この権利は、公益法人となったときに廃止された。
基準を満たさずも昇進した例
1999年(平成11年)3月場所新大関・千代大海(現・佐ノ山)の直前3場所の成績は、9勝-10勝-13勝(優勝)の合計32勝13敗であった。当時は1994年(平成6年)3月の貴ノ浪(現・音羽山)・武蔵丸(現・武蔵川)の二人同時昇進以来、5年間新大関が誕生しておらず、また千秋楽で本割・決定戦と横綱若乃花に連勝して優勝した内容が、高く評価されたものと思われる。それから14年前の1985年(昭和60年)9月場所新大関・大乃国(現・芝田山)の直前3場所は、9勝-10勝-12勝の合計31勝14敗で昇進した。大乃国はそれまで関脇の地位を連続6場所維持し、また成績も徐々に上回り、さらに将来性を期待されての理由からでもあった。ほか1981年(昭和56年)9月場所新大関の琴風(現・尾車)や、1980年(昭和55年)3月場所新大関の増位山(太)らも、当時の大関が0人又は貴ノ花1人だけという事情も有って、同じく合計31勝で昇進している。
さらに遡れば、1966年(昭和41年)9月場所新大関・北の冨士の直前3場所は、8勝-10勝-10勝の合計28勝17敗と、現在なら到底有り得ない甘過ぎる成績での昇進だった。だが当時大関は豊山1人しかおらず、早く生きの良い大関誕生を願う、相撲協会の思惑があったからと言われている。ほか1961年(昭和36年)7月場所新大関の北葉山も、直前3場所が8勝-9勝-11勝の合計28勝で昇進した(かつて1950年代頃から1970年代辺りまでの大関昇進は「直前3場所合計30勝前後」が一応の目安とされていた[5])。
なおその内、琴風と北葉山は大関昇進後に各1回、千代大海と大乃国は昇進後各2回、北の富士は合計10回幕内優勝を果たしている。また昇進後の千代大海は貴ノ花が持つ大関在位場所数(50場所)の記録を大幅に更新し(大関在位65場所は魁皇と並び史上1位タイ)、大乃国と北の富士はのち横綱に昇進した。ただし増位山は、大関昇進後一度も優勝争いに絡んだ場所がなく、最高成績も10勝がやっとで、大関在位わずか7場所で現役を引退した。
2012年(平成24年)1月場所新大関・稀勢の里の直前3場所の成績は、10勝-12勝-10勝で合計32勝13敗だった。前年の2011年(平成23年)11月場所に琴奨菊が昇進するまで日本人大関が不在で、又直前6場所を全て勝ち越し10勝以上が5場所という安定した成績や、さらに平成の大横綱・白鵬との幕内対戦が直近6場所で3勝3敗と互角の成績を挙げた事などが評価された[6]。但し稀勢の里の場合、11月場所千秋楽の結果を待たずに相撲協会の理事会で決定したが、稀勢の里の昇進で当時史上最多の5大関(現在史上最多数は2012年5月~9月場所の6大関)となり、また3場所33勝未満での昇進にも疑問の声があった。例として「千秋楽の琴奨菊戦を見て決めるべきだった(結果稀勢の里は琴奨菊に敗北)」「新大関の直前場所で10勝留まりは1972年(昭和47年)11月場所の貴ノ花以来例がなし」「直前場所で横綱・大関戦は過去史上ワーストの4敗」「相撲人気を向上させる為の無理矢理な大関誕生では」「場所前に師匠が急死した同情論から」など挙げられている[7][8][9][10]。
最近では2014年(平成26年)9月場所新大関・豪栄道の直前3場所の成績も、12勝-8勝-12勝で稀勢の里同様に合計32勝13敗で、33勝に1勝足りなかった[11]。2場所前の1桁勝ち星(8勝)により大関獲りは一から出直しと思われたが、それまで史上1位の14場所連続で関脇に在位していた事(但し2回東関脇の地位で7勝と負越すも、翌場所は共に運良く西関脇に留まっている)、また直前の2014年7月場所で10日目に鶴竜、11日目に白鵬と横綱二人を下し、さらに千秋楽では最後まで白鵬と優勝を争った大関・琴奨菊を倒した事などが評価され、満場一致で大関昇進が決まっている。
昇進を見送られた例
琴ヶ濱は1957年(昭和32年)5月場所に西張出小結の地位で12勝(優勝次点)、翌9月場所[12]は西張出関脇で11勝、次の11月場所は東関脇の地位で10勝とし、直前3場所全て三役在位中に合計33勝12敗を挙げていた。当時の大関昇進基準からすれば「直前3場所30勝」の大関昇進基準を大きく超えた成績であったが直前場所が10勝留まりだった事などが祟って見送られた[13]。翌1958年(昭和33年)1月場所に東関脇で11勝するも再度見送られたが、続く3月場所を東関脇で13勝(優勝同点)と好調を持続し(合計34勝11敗)、ようやく同年3月場所後に悲願の大関昇進を達成した。
1972年(昭和47年)3月場所、関脇で優勝した長谷川は、直前3場所は8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝15敗の成績を挙げ、同3月場所後の大関確実と思われていた。しかし同3月場所中に大関同士(前の山対琴櫻)の対戦で、二人の大関に対し無気力相撲の指摘を受けたことなどにより、相撲協会は大関目前の長谷川に対し「もう1場所見てから」と慎重に判断、不運にも昇進は見送られることになった。次の長谷川の5月場所の成績は8勝7敗と勝ち越したが再度見送られ、翌7月場所は5勝10敗と負け越して平幕へ陥落、結局大関の地位を務めることなく引退した。
長谷川の例以降は、大関の資質が問題にされることはしばらくなかった。ところが、1999年(平成11年)9月場所からの1年間で大関に昇進した4力士のうち、出島(現・大鳴戸)と雅山(現・二子山)[2]の2人の大関は昇進後、優勝はおろか千秋楽まで優勝争いに絡むことすら1度もなく、いずれも2年以内に関脇の地位へ陥落したため「大関の大安売り」と皮肉られたことがあった。それを機に、大関昇進は単なる星数だけではなく、相撲内容も問うこととなった。特にその煽りを受けてしまった力士が、1度目の大関昇進の機会を逃した琴光喜、2度目の大関昇進を目指した雅山、さらに把瑠都の3人であった。
琴光喜は、2001年(平成13年)9月場所から2002年(平成14年)1月場所までの3場所間、幕内上位の地位で13勝-9勝-12勝の合計34勝11敗の成績だったが、昇進を見送られた。理由は、3場所前が前頭2枚目(13勝2敗で平幕優勝)だったこと、2場所前が9勝と1桁白星であったこと(平成以降の大関昇進者は曙・豪栄道の2力士を除き全て2場所前は10勝以上)、また当時大関が4人もいたことが引っ掛かった。さらに大関取りの2002年1月場所で、3敗目を喫した内容があまりにも悪かったほか、自分より遥かに地位の低い前頭8枚目の武雄山(現・山分)に敗れた理由もあったといわれる。その次の場所、2002年(平成14年)3月場所の琴光喜は勝ち越したが8勝7敗に終わり、またその場所中に顎を骨折し翌5月場所は全休(公傷適用されず)、7月場所は平幕へ陥落となり大関取りは振り出しとなった。それから5年後の2007年(平成19年)になって、琴光喜は3月場所から7月場所の間、関脇の地位で3場所35勝(10勝-12勝-13勝)を挙げ、年6場所制以降で史上最年長の大関昇進をようやく決めた。
雅山は、大関再昇進を目指した2006年(平成18年)7月場所で、3場所合計34勝11敗(10勝-14勝-10勝)の成績を全て三役(小結・関脇)の地位で挙げていた。しかし、直前の場所が10勝留まりだったこと(平成以降に大関昇進した力士の直前場所は、大関特例復帰者と稀勢の里を除いて全て11勝以上)や、当時大関が既に5人いたことを理由に昇進を見送られている[14]。その後翌9月場所の雅山は勝ち越したが9勝6敗、11月場所は8勝7敗、翌2007年1月場所は5勝10敗と負け越し平幕へ陥落。結局雅山の大関復活はならなかった。
把瑠都は、2010年(平成22年)1月場所で合計33勝12敗(12勝-9勝-12勝)を三役の地位で挙げたものの、2場所前が1桁勝ち星だった事や、上述の琴光喜や雅山のように、合計34勝を挙げながら昇進出来なかった例もあって見送られる。次の3月場所の直前、審判部から「大関昇進を決定づけるには13勝(3場所合計34勝)以上」という高い条件をつけていた。それでも把瑠都は、11日目に横綱・白鵬に敗れたのみで14勝1敗の優勝次点、3場所とも関脇の地位で合計35勝(9勝-12勝-14勝)を挙げ、3月場所後に文句なしの新大関となった。
大関昇進前3場所成績(過去20例)
- 関:関脇、小:小結
- 四股名は、それぞれ大関昇進時に名乗っていた当時のもの。
昇進場所 | 四股名 | 3場所前 | 2場所前 | 直前場所 | 3場所合計 |
---|---|---|---|---|---|
1992年(平成4年)7月場所 | 曙太郎☆ | 小13勝2敗△ | 関8勝7敗 | 関13勝2敗◎ | 34勝11敗 |
1993年(平成5年)3月場所 | 貴ノ花光司☆ | 小14勝1敗◎ | 関10勝5敗 | 関11勝4敗 | 35勝10敗 |
1993年(平成5年)9月場所 | 若ノ花勝☆ | 小14勝1敗◎ | 関10勝5敗 | 関13勝2敗◯ | 37勝8敗 |
1994年(平成6年)3月場所 | 貴ノ浪貞博 | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関13勝2敗△ | 35勝10敗 |
武蔵丸光洋☆ | 関8勝7敗 | 関13勝2敗◯ | 関12勝3敗 | 33勝12敗 | |
1999年(平成11年)3月場所 | 千代大海龍二 | 関9勝6敗 | 関10勝5敗 | 関13勝2敗◎ | 32勝13敗 |
1999年(平成11年)9月場所 | 出島武春 | 小9勝6敗 | 関11勝4敗 | 関13勝2敗◎ | 33勝12敗 |
2000年(平成12年)5月場所 | 武双山正士 | 小10勝5敗 | 関13勝2敗◎ | 関12勝3敗△ | 35勝10敗 |
2000年(平成12年)7月場所 | 雅山哲士 | 小12勝3敗△ | 関11勝4敗 | 関11勝4敗 | 34勝11敗 |
2000年(平成12年)9月場所 | 魁皇博之 | 小8勝7敗 | 小14勝1敗◎ | 関11勝4敗 | 33勝12敗 |
2002年(平成14年)1月場所 | 栃東大裕 | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関12勝3敗△ | 34勝11敗 |
2002年(平成14年)9月場所 | 朝青龍明徳☆ | 関11勝4敗 | 関11勝4敗△ | 関12勝3敗△ | 34勝11敗 |
2006年(平成18年)1月場所 | 琴欧州勝紀 | 小12勝3敗△ | 関13勝2敗◯ | 関11勝4敗△ | 36勝9敗 |
2006年(平成18年)5月場所 | 白鵬翔☆ | 小9勝6敗 | 関13勝2敗△ | 関13勝2敗◯ | 35勝10敗 |
2007年(平成19年)9月場所 | 琴光喜啓司 | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関13勝2敗△ | 35勝10敗 |
2009年(平成21年)1月場所 | 日馬富士公平☆ | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関13勝2敗◯ | 35勝10敗 |
2010年(平成22年)5月場所 | 把瑠都凱斗 | 関9勝6敗 | 関12勝3敗△ | 関14勝1敗△ | 35勝10敗 |
2011年(平成23年)11月場所 | 琴奨菊和弘 | 関10勝5敗 | 関11勝4敗 | 関12勝3敗△ | 33勝12敗 |
2012年(平成24年)1月場所 | 稀勢の里寛 | 関10勝5敗 | 関12勝3敗△ | 関10勝5敗 | 32勝13敗 |
2012年(平成24年)5月場所 | 鶴竜力三郎☆ | 関10勝5敗 | 関10勝5敗 | 関13勝2敗◯ | 33勝12敗 |
2014年(平成26年)9月場所 | 豪栄道豪太郎 | 関12勝3敗△ | 関8勝7敗 | 関12勝3敗△ | 32勝13敗 |
陥落・大関特例復帰
江戸時代には大関からいきなり平幕に落ちた例もあるが、当時は現在とは全く違う基準で番付を作成していたため参考にはしにくい。看板大関の制度が存在した時代の番付は必ずしも実力本位のものではなく、また看板大関がそもそも一時的な大関といった扱いのためより大関にふさわしいと思われる者が見つかれば地位を明け渡すことが前提であった。看板大関廃止後は実力本位で番付を作成するようになったが、それ以降にも大関から平幕への降格が存在する。明治時代には大関から平幕への陥落はなくなっていたが、まだ番付編成は現在と大きく異なっており、一ノ矢藤太郎や大碇紋太郎のように勝ち越していながら降格となった者も存在した。その後も大正時代までは1場所で大関から即陥落も制度上存在し、実際に1場所で降格となった力士も存在する。大関陥落については江戸時代以来長らく明確な基準が無く、関脇や小結の成績も大関の降格に影響していたため、こちらが非常に優秀な成績であれば大関の勝ち越し降格も当時の感覚では不自然なことではなかった[15]。2場所連続負け越しでの大関よりの降下は、1927年の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。なお、戦前までは大関からの陥落は必ず関脇になるとは限らず、小結まで落とされた例も存在する。
しかし、1958年(昭和33年)に、年間6場所制度が実施されたときには、2場所では厳しすぎるということで、3場所連続の負け越しで関脇に陥落としていた。ところが、それでは甘すぎるという批判の声もあって、1969年(昭和44年)7月場所より、「2場所連続で負け越した場合、関脇へ降格する。ただし、降格直後の場所で、取り組み日数(現・15日)の三分の二(同・10)勝以上の勝ち星を挙げれば、大関に復帰できる」[16]という、現行の大関特例復帰の制度が施行された。
なお、公傷制度発足当時は大関に限りこれを適用しなかった。後に適用されることとなって以降、同制度適用者の全休はこの場所数にはカウントされなかったが、本場所での負傷に対する公傷制度は2003年(平成15年)11月場所をもって廃止された。
この大関特例復帰の制度で、関脇から大関に再昇進した例は4人(三重ノ海、貴ノ浪、武双山〈現・藤島〉、栃東〈現・玉ノ井〉)で5度(栃東が2度)である。三重ノ海はのちに横綱昇進も果たしている。貴ノ浪は一度大関特例復帰を果たしたが、そのわずか2場所後関脇に再陥落しており、再度の大関特例復帰はならなかった。この特例復帰の場合は、新大関に昇進するのと同様に新番付発表を待たずに、大関復帰が決定した場所の直後から大関として扱われる。また、当然ながら大関への再昇進伝達式は行われない。なお、魁傑は大関を陥落した翌場所に10勝を挙げられず平幕に落ちた後、この制度の恩典にあずからずに大関に復帰しており、その際には再昇進伝達式が行われている。この例は大関特例復帰制度に与らず再昇進を果たしたからというわけではなく真摯に土俵に努める態度が評価され、云わば「魁傑だから」という理由で特例的に2度目の大関昇進伝達式を迎えることができた形である。
あと1場所負け越せば関脇に降格する場合、角番(かどばん)と呼ぶ。その場所で8勝をあげ勝ち越せば、角番脱出となり大関にとどまれる。また、2場所連続で負け越しても翌場所10勝以上をあげれば大関に復帰できるので、一旦大関になると2場所に1回の8勝で大関の地位を保つことができ、3場所に1回の10勝で関脇陥落後もすぐ大関特例復帰により返り咲くことができる。一方、関脇以下は勝ち越さないと番付が維持されず、勝ち越しても確実に昇格の保障がなく、とくに大関陣が不調の時期にはその厚遇ぶりが批判の的となることもあった。2000年代半ばのように大関昇進前の琴光喜、関脇陥落後の雅山、かつて大関候補者の若の里らのように、強い関脇が存在しているとなおさらである。
現行の制度の場合、大関が8勝したあと勝ちを上積みするメリットはほぼ皆無であり(持ち給金が1円増えるのみ。ただし、一桁勝利と二桁勝利では翌場所優勝して綱取りとなる場合に審判部の印象が異なる)、加えて負け越した場合には0〜7勝の番付面の扱いも同じである(翌場所の大関としての順位に影響が有る程度)。ここ最近では、終盤戦で、すでに勝ち越している力士(かつ優勝争いに加わっていない)とまだ勝ち越していない力士(かつ負け越していない、または角番の大関)が対戦すると、大多数は後者が勝利して勝ち越すケースが多く、各場所で立場が入れ替わることもあって、観客視点から見ると星の譲り合いのように見えてしまう(そのため、週刊誌『週刊ポスト』『週刊現代』などは、たびたび八百長疑惑を記事にしていた。その後、2010年に事件化した大相撲野球賭博問題の捜査の過程で、2011年初場所後には少なくとも十両力士の間における八百長の実在が公知のものになった)。それゆえ「大関互助会」[17]とも揶揄され続けており、現に横綱審議委員会の澤村田之助委員も、互助会と呼ばれていることを引き合いに出して大関陣のふがいなさを責めたことがある[18]。
なお元大関で関脇以下へ陥落した力士は、幕内から十両の地位への転落が必至になったことを機に慣例的に引退するケースがほとんどであるが、大受・雅山・把瑠都の合計三人が現役中に十両陥落を経験している。
- 大受は陥落直後の1977年5月場所(西十両筆頭)で幕内復帰を目指したが、初日から3連敗(4敗目は不戦敗)を喫して途中休場、その後同5月場所中年寄名跡を取得したのを理由に現役引退を表明。
- 雅山は大関経験者では史上初となる2度の十両陥落を喫した。雅山の1度目転落時の2010年9月場所(東十両2枚目)は、前7月場所(西前頭5枚目)に「大相撲野球賭博問題」の処分で同場所全休処分を下された結果だったが、12勝3敗の好成績を挙げ一場所で翌9月場所に幕内復帰を果たす。2度目転落時の2013年3月場所(東十両9枚目)は、前1月場所で幕尻(東前頭16枚目)の地位で3勝12敗と大敗したが、これは明らかな体力の衰えからだった。十両に下がった3月場所は又しても3勝12敗の大敗を喫して幕下陥落が濃厚となり、引退を表明した[19]。
- 把瑠都は2013年9月場所(東十両3枚目)の番付発表後、左膝など怪我が完治しないことを理由に、同9月場所初日直前に引退を発表した。
引退後
現役引退後、年寄として協会に残る場合は3年間、平年寄ではあるが委員待遇として扱われ、番付では「年寄」の上位に置かれる(序列は委員待遇の平年寄>持ち名跡で襲名した平年寄>借り名跡で襲名した平年寄)。また1997年5月1日以降は、年寄名跡を取得していなくても引退から3年間四股名のまま年寄として残ることができるようになった(この特典は、2007年5月前場所に引退から3年以内に玉ノ井部屋継承を予定していた栃東が初めて利用し、それから約7年後となる2014年3月場所中に琴欧洲が2例目として利用した)。
委員待遇の3年を経過すると主任になるか(貴ノ浪、栃東など。番付上は昇格となるが、収入は減る。但し短期間で委員に昇格する)、3年以内に審判委員に起用される(魁傑、武双山、出島、千代大海、魁皇など)ことがほとんどである。
記録
大関在位記録
順位 | 四股名 | 在位数 | 在位期間 | 在位期間成績 |
---|---|---|---|---|
1位 | 千代大海龍二 | 65場所 | 1999(平成11)年3月場所-2009(平成21)年11月場所↓ | 515勝345敗115休 優勝2回 |
魁皇博之 | 2000(平成12)年9月場所-2011(平成23)年7月場所 | 524勝328敗119休 優勝4回 | ||
3位 | 貴ノ花利彰 | 50場所 | 1972(昭和47)年11月場所-1981(昭和56)年1月場所 | 422勝285敗49休 優勝2回 |
4位 | 琴欧洲勝紀 | 47場所 | 2006(平成18)年1月場所-2013(平成25)年11月場所↓ | 378勝264敗63休 優勝1回 |
5位 | 北天佑勝彦 | 44場所 | 1983(昭和58)年7月場所-1990(平成2)年9月場所 | 378勝245敗29休 優勝1回 |
6位 | 小錦八十吉 (6代) | 39場所 | 1987(昭和62)年7月場所-1993(平成5)年11月場所↓ | 345勝197敗43休 優勝3回 |
7位 | 貴ノ浪貞博 | 37場所 | 1994(平成6)年3月場所-1999(平成11)年11月場所(35場所)↓ | 340勝177敗8休 優勝2回 |
2000(平成12)年3月場所-2000(平成12)年5月場所(2場所)↓ | 13勝17敗0休 優勝なし | |||
8位 | 朝潮太郎 (4代) | 36場所 | 1983(昭和58)年5月場所-1989(平成元)年3月場所 | 294勝203敗33休 優勝1回 |
9位 | 豊山勝男 | 34場所 | 1963(昭和38)年3月場所-1968(昭和43)年9月場所 | 301勝201敗8休 優勝なし |
10位 | 琴櫻傑將 | 32場所 | 1967(昭和42)年11月場所-1973(昭和48)年1月場所↑ | 287勝159敗34休 優勝4回 |
武蔵丸光洋 | 1994(平成6)年3月場所-1999(平成11)年5月場所↑ | 353勝127敗0休 優勝5回 |
- 在位期間の↓は関脇に陥落、↑は横綱に昇進。無印は大関の地位で引退。
- 千代大海は関脇陥落直後の2010(平成22)年1月場所中に引退。
- 魁皇と琴欧洲は本場所開催が中止された2011(平成23)年3月場所を数えない。また本場所ではないが公式記録が残される同年5月の技量審査場所は数える。
- 貴ノ花には大関在位中に「貴乃花」等への改名歴がある。
- 琴欧洲は大関在位中に「琴欧州」からの改名歴がある。
- 貴ノ浪は在位35場所目の1999(平成11)年11月場所で1度目の陥落、翌2000(平成12)年1月場所に関脇で10勝を挙げ大関特例復帰を果たす。復帰後在位2場所目の2000年5月場所で2度目の陥落、大関在位合計は37場所。
- 豊山の大関在位中と琴櫻の大関昇進時は当時「3場所連続負け越しで降格」でのもの。1969(昭和44)年7月から現行制度。
短命大関
現行制度上、通算大関在位の最短は2場所である[20]が、年6場所制以降は下記の通りである。
順位 | 四股名 | 在位数 | 在位期間 | 在位期間成績 |
---|---|---|---|---|
1位 | 大受久晃 | 5場所 | 1973(昭和48)年9月場所-1974(昭和49)年5月場所↓ | 30勝32敗13休 |
2位 | 増位山太志郎 | 7場所 | 1980(昭和55)年3月場所-1981(昭和56)年3月場所 | 44勝44敗7休 |
3位 | 雅山哲士 | 8場所 | 2000(平成12)年7月場所-2001(平成13)年9月場所↓ | 57勝58敗5休 |
4位 | 魁傑將晃 | 9場所 | 1975(昭和50)年3月場所-1975(昭和50)年11月場所(5場所)↓ | 43勝32敗0休 |
1977(昭和52)年3月場所-1977(昭和52)年9月場所(4場所)↓ | 27勝33敗0休 | |||
5位 | 前の山太郎 | 10場所 | 1970(昭和45)年9月場所-1972(昭和47)年3月場所↓ | 67勝56敗27休 |
6位 | 出島武春 | 12場所 | 1999(平成11)年9月場所-2001(平成13)年7月場所↓ | 100勝71敗9休 |
7位 | 若羽黒朋明 | 13場所 | 1959(昭和34)年11月場所-1961(昭和36)年11月場所↓ | 102勝78敗15休 優勝1回 |
8位 | 把瑠都凱斗 | 15場所 | 2010(平成22)年5月場所-2012(平成24)年11月場所↓ | 133勝69敗23休 優勝1回 |
9位 | 霧島一博 | 16場所 | 1990(平成2)年5月場所-1992(平成4)年11月場所↓ | 139勝76敗25休 優勝1回 |
10位 | 琴光喜啓司 | 17場所 | 2007(平成19)年9月場所-2010(平成22)年5月場所※ | 141勝104敗10休 |
- 年6場所制の1958(昭和33)年以降の記録(現役大関を除く)。それ以前では、五ツ嶋奈良男の2場所(12勝13敗5休、関脇陥落)が昭和以降での最短記録であった。
- 在位期間の↓は関脇の地位に陥落、無印の増位山は大関の地位で引退。
- 魁傑は在位5場所目の1975(昭和50)年11月場所で1度目の陥落。その後1977(昭和52)年1月場所後に再昇進が決定。復帰後在位4場所目の1977年9月場所で2度目の陥落、大関在位合計は9場所。
- 前の山には大関在位中に「前乃山」からの改名歴がある。
- 若羽黒の昇進・在位中は当時「3場所連続負け越しで降格」でのもの。1969(昭和44)年7月から現行制度。
- 把瑠都は本場所開催が中止された2011(平成23)年3月場所を数えず、又本場所ではないが公式記録が残された同年5月の技量審査場所は数える。
- ※印の琴光喜は2010(平成22)年5月場所後、不祥事により大関の地位で解雇された。なお、番付上では2010年7月場所も含めると、18場所となる。
連続大関在位場所数の見方をすれば、貴ノ浪・武双山・栃東の3人が、2場所で関脇陥落の最短記録を作っている。貴ノ浪は大関復活後に再陥落、武双山は陥落後直ぐに返り咲き、栃東は再大関で陥落するも直ぐ再々昇進を果たし、通算大関在位場所数ではそれぞれ貴ノ浪37場所、武双山27場所、栃東30場所(番付上は31場所)となっている。なお貴ノ浪は、連続大関在位場所数の長期(35場所)でも短期(2場所)でも、歴代ランキングに顔を出す珍記録も持っている。
大関(最高位)力士の通算幕内優勝回数記録
順位 | 四股名 | 優勝回数 | 大関在位中 |
---|---|---|---|
1位 | 魁皇博之 | 5回 | 4回 |
2位 | 清水川元吉* | 3回 | 2回 |
小錦八十吉 | 3回 | ||
千代大海龍二 | 2回 | ||
栃東大裕 | 3回 | ||
6位 | 豊國福馬* | 2回 | 2回 |
増位山大志郎* | 1回 | ||
貴ノ花健士 | 2回 | ||
魁傑将晃 | なし | ||
琴風豪規 | 1回 | ||
若嶋津六夫 | 2回 | ||
北天佑勝彦 | 1回 | ||
貴ノ浪貞博 | 2回 |
- 2014年(平成26年)現在
- *は年6場所制定着以前の力士。また清水川には2回、豊國には1回、番付下位による優勝同点がある。
魁皇の幕内優勝5回は、最高位が大関以下の力士の中では史上1位である。なお一昔前であれば優勝を5回も経験すれば、皆全員横綱に昇進していた(中には照國や北尾(のち双羽黒)など、優勝無しで横綱昇進した力士もいる)。しかし、当時の横綱昇進基準では「大関の地位で2場所連続優勝」が絶対条件だったため、魁皇は大関時代に連続優勝を果たせず、横綱にはなれなかった。
また若嶋津の優勝2回の内、1回は全勝優勝である。最高位大関以下の力士で全勝優勝を達成は、15日制のもとでは、他に時津山と玉乃海(共に最高位は関脇)。
横綱に昇進した力士で大関以下での優勝が多かった力士は貴乃花で7回、うち5回が大関での優勝。他に武蔵丸が大関で5回優勝の最多タイ。彼ら以前では、玉錦が大関以下で5回、大関で4回の優勝、現在と番付編成の制度が違ったことなどにもよるが、大関で3連覇でも横綱を見送られるなど、約60年に渡って「大関以下」「大関」ともに最多記録保持者だった(大関での優勝については琴櫻に並ばれ、のちに3代若乃花と魁皇がこれに続く)。
同時最多在籍大関
6大関
2012年(平成24年)5月場所において、大相撲史上初めての6大関が在籍となる。四股名は開始場所時点のものである[21]。
回数 | 開始場所 | 大関(太字は新規昇進者) | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 2012年(平成24年)5月場所 | 鶴竜力三郎 稀勢の里寛 琴奨菊和弘 把瑠都凱斗 日馬富士公平 琴欧洲勝紀 |
2012年(平成24年)9月場所 | 3 | 日馬富士が横綱昇進 |
5大関
6大関に次ぐ5大関は、現在まで17例がある。四股名は開始場所時点のもの。
回数 | 開始場所 | 大関(太字は新規・斜字は再昇進者) | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1947年(昭和22年)6月場所 | 汐ノ海忠夫 東富士謹一 佐賀ノ花勝巳 名寄岩静男 前田山英五郎 |
1947年(昭和22年)6月場所 | 1 | 前田山が横綱昇進 |
2 | 1961年(昭和36年)7月場所 | 北葉山英俊 大鵬幸喜 柏戸剛 若羽黒朋明 琴ヶ濱貞雄 |
1961年(昭和36年)9月場所 | 2 | 柏戸と大鵬が横綱同時昇進 |
3 | 1962年(昭和37年)7月場所 | 栃光正之 栃ノ海晃嘉 佐田の山晋松 北葉山英俊 琴ヶ濱貞雄 |
1962年(昭和37年)11月場所 | 3 | 琴ヶ濱が引退 |
4 | 1963年(昭和38年)3月場所 | 豊山勝男 栃光正之 栃ノ海晃嘉 佐田の山晋松 北葉山英俊 |
1964年(昭和39年)1月場所 | 6 | 栃ノ海が横綱昇進 |
5 | 1972年(昭和47年)11月場所 | 貴ノ花満 輪島大士 大麒麟將能 清國勝雄 琴櫻傑將 |
1973年(昭和48年)1月場所 | 2 | 琴櫻が横綱昇進 |
6 | 1977年(昭和52年)3月場所 | 若三杉壽人 魁傑將晃 旭國斗雄 三重ノ海剛司 貴ノ花健士 |
1977年(昭和52年)9月場所 | 4 | 魁傑が関脇再陥落 |
7 | 1983年(昭和58年)7月場所 | 北天佑勝彦 朝潮太郎 若島津六男 隆の里俊英 琴風豪規 |
1983年(昭和58年)7月場所 | 1 | 隆の里が横綱昇進 |
8 | 1986年(昭和61年)1月場所 | 北尾光司 大乃国康 北天佑勝彦 朝潮太郎 若嶋津六夫 |
1986年(昭和61年)7月場所 | 4 | 北尾が横綱昇進 |
9 | 1986年(昭和61年)9月場所 | 北勝海信芳 大乃国康 北天佑勝彦 朝潮太郎 若嶋津六夫 |
1987年(昭和62年)5月場所 | 5 | 北勝海が横綱昇進 |
10 | 1987年(昭和62年)7月場所 | 小錦八十吉 大乃国康 北天佑勝彦 朝潮太郎 若嶋津六夫 |
1987年(昭和62年)7月場所 | 1 | 若嶋津が引退 |
11 | 2000年(平成12年)11月場所 | 武双山正士 魁皇博之 雅山哲士 出島武春 千代大海龍二 |
2001年(平成13年)7月場所 | 5 | 出島が関脇陥落 |
12 | 2002年(平成14年)9月場所 | 朝青龍明徳 栃東大裕 武双山正士 魁皇博之 千代大海龍二 |
2003年(平成15年)1月場所 | 3 | 朝青龍が横綱昇進 |
13 | 2006年(平成18年)5月場所 | 白鵬翔 琴欧州勝紀 栃東大裕 魁皇博之 千代大海龍二 |
2007年(平成19年)5月場所 (相撲番付上) |
6(7) | 栃東が場所前に引退 白鵬が横綱昇進 |
14 | 2009年(平成21年)1月場所 | 日馬富士公平 琴光喜啓司 琴欧洲勝紀 魁皇博之 千代大海龍二 |
2009年(平成21年)11月場所 | 6 | 千代大海が関脇陥落 |
15 | 2010年(平成22年)5月場所 | 把瑠都凱斗 日馬富士公平 琴光喜啓司 琴欧洲勝紀 魁皇博之 |
2010年(平成22年)7月場所 (相撲番付上) |
1(2) | 琴光喜が場所前に解雇 |
16 | 2012年(平成24年)1月場所 | 稀勢の里寛 琴奨菊和弘 把瑠都凱斗 日馬富士公平 琴欧洲勝紀 |
2012年(平成24年)3月場所 | 2 | 鶴竜が大関昇進 |
17 | 2012年(平成24年)11月場所 | 鶴竜力三郎 稀勢の里寛 琴奨菊和弘 把瑠都凱斗 琴欧洲勝紀 |
2012年(平成24年)11月場所 | 1 | 把瑠都が関脇陥落 |
- 大坂相撲では1896年(明治29年)9月場所で5大関のいる番付がつくられている。運営をめぐる対立から大坂相撲協会を離れて独自興行していた一派がこの場所から復帰、その顔を立てるための措置で一場所限りで解消された。
- 1947年(昭和22年)6月場所、汐ノ海の昇進で、前田山、名寄岩、佐賀ノ花、東富士とともに、現在の大相撲で初めての5大関が実現した。小結で8勝2敗、関脇で11勝2敗と続けての昇進だったので、甘い昇進だったとは言えないが、過去の例に倣えば関脇に据え置かれたと思われる。優勝決定戦や三賞制度等が導入された場所でもあり、戦後の荒廃期にどうにか客を呼ぼうとした興行政策であった一面は否めない。
- 3例目の栃ノ海と栃光、5例目の輪島と貴ノ花、6例目の若三杉と魁傑(再)は同時昇進。
- 4例目は大関が同じ顔ぶれで5人番付に載った期間が昭和時代で最も長い6場所。
- 6例目の魁傑と11例目の武双山は関脇陥落後の再昇進。
- 8、9、10例目は連続しており、1986年(昭和61年)1月場所から1987年(昭和62年)7月場所まで若嶋津、朝潮、北天佑、大乃国、北尾、北勝海、小錦という7人によって、10場所にわたって5大関時代が続いた。この間、「6大関」が誕生する可能性もあったが、北勝海(昇進前は保志)が大関になると同時に北尾が横綱へ(横綱昇進後は双羽黒)、小錦が大関になると同時に北勝海が横綱へ、というように、結果的にところてん式の同時昇進が続いたこともあって「6大関」は実現しなかった。ここに名を連ねた7人のうち3人が横綱に昇進、残る4人も大関在位中に優勝を経験し、横綱寸前まで行った力士である(ただし、5大関時代には引退間近で、成績が芳しくなかった力士もいる)。「大関の大安売り」と揶揄されることも多い5大関時代ではあるが、この7人はいずれも大関の名にふさわしい成績を残している。
- 13例目は番付上は大関が同じ顔ぶれで5人番付に載った期間が最も長い7場所であるが栃東が番付発表後、本場所開催前に引退したため、実質的には6場所。
- 15例目は琴光喜が番付発表後、本場所開催前に野球賭博問題によって解雇されたため、実質的には1場所。
- 16例目は史上初の6人目の大関昇進者により5大関状態が解消された。
- 17例目は日馬富士の横綱昇進により、史上初の6大関状態から1人減り5大関状態となった。
一人大関
昭和以降で大関が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに11例ある。
例 | 開始場所 | 開始場所前の動向 | 一人大関 | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1936年(昭和11年)5月場所 | 男女ノ川が横綱昇進 | 清水川元吉 | 1936年(昭和11年)5月場所 | 1 | 双葉山と鏡岩が同時昇進 |
2 | 1938年(昭和13年)1月場所 | 双葉山が横綱昇進 清水川が引退 |
鏡岩善四郎 | 1938年(昭和13年)5月場所 | 1 | 前田山が昇進 |
3 | 1944年(昭和19年)5月場所 | 名寄岩が関脇陥落 | 前田山英五郎 | 1944年(昭和19年)10月場所 | 1 | 佐賀ノ花が昇進 |
4 | 1955年(昭和30年)1月場所 | 栃錦が横綱昇進 | 三根山隆司 | 1955年(昭和30年)5月場所 | 2 | 大内山が昇進 |
5 | 1955年(昭和30年)9月場所 | 三根山が関脇陥落 | 大内山平吉 | 1955年(昭和31年)9月場所 | 1 | 松登と若ノ花が同時昇進 |
6 | 1959年(昭和34年)3月場所 | 朝汐が横綱昇進 | 琴ヶ濱貞雄 | 1959年(昭和34年)9月場所 | 4 | 若羽黒が昇進 |
7 | 1966年(昭和41年)7月場所 | 北葉山が引退 | 豊山勝男 | 1966年(昭和42年)7月場所 | 1 | 北の冨士が昇進 |
8 | 1975年(昭和50年)1月場所 | 大麒麟が引退 | 貴ノ花健士 | 1975年(昭和50年)1月場所 | 1 | 魁傑が昇進 |
9 | 1979年(昭和54年)11月場所 | 旭國が引退 | 貴ノ花利彰 | 1980年(昭和55年)1月場所 | 2 | 増位山が昇進 |
10 | 1981年(昭和56年)5月場所 | 増位山が引退 | 千代の富士貢 | 1981年(昭和56年)7月場所 | 2 | 千代の富士が横綱昇進 (大関空位) |
11 | 1981年(昭和56年)11月場所 | (大関空位) 琴風が昇進 |
琴風豪規 | 1982年(昭和57年)1月場所 | 2 | 隆の里が昇進 |
このうち4例目と5例目においては横綱力士が大関の地位を兼ねる「横綱大関」も置かれず、厳密な意味での「一人大関」となった。
- 若ノ花は横綱昇進に合わせて若乃花に改名。
- 朝汐は横綱昇進後に朝潮に改名。
- 北の冨士は大関在位中北の富士に改名。
- 貴ノ花は大関在位中貴乃花への改名がある。
大関空位(不在)
番付面で「横綱」の地位が現れて以降で、「大関空位(不在)」となったことが2例ある。
例 | 開始場所 | 開始場所前の動向 | 最終場所 | 場所数 | 終了理由 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1904年(明治37年)1月場所 | 常陸山と2代目梅ヶ谷が横綱同時昇進 | 1905年(明治38年)1月場所 | 3 | 国見山と荒岩が同時昇進 |
2 | 1981年(昭和56年)9月場所 | 千代の富士が横綱昇進 | 1981年(昭和56年)9月場所 | 1 | 琴風が昇進 |
- ただし、上記2例のどちらも横綱力士が大関の地位も兼ねる「横綱大関」が置かれたため、厳密な意味で「大関」の地位が番付から消えたことはこれまで皆無。
新大関の優勝
四股名 | 新大関場所 | 成 績 | 備 考 |
---|---|---|---|
鳳谷五郎☆ | 1913年(大正2年)1月場所 | 7勝1分1預1休 | 1休は相手力士休場 |
栃木山守也☆ | 1917年(大正6年)5月場所 | 9勝1預(大潮) | ()は優勝同点者(決定戦制度なし) |
双葉山定次☆ | 1937年(昭和12年)1月場所 | 11戦全勝 | 当時は1場所11日制 |
千代の山雅信☆ | 1949年(昭和24年)10月場所 | 13勝2敗 | |
若羽黒朋明 | 1959年(昭和34年)11月場所 | 13勝2敗 | |
清國勝雄 | 1969年(昭和44年)7月場所 | 12勝3敗(○藤ノ川) | ()は優勝決定戦 |
栃東大裕 | 2002年(平成14年)1月場所 | 13勝2敗(○千代大海) | ()は優勝決定戦 |
白鵬翔☆ | 2006年(平成18年)5月場所 | 14勝1敗(○雅山) | ()は優勝決定戦 |
- ☆はのちに横綱。
代数
横綱のそれほど知られてはいないが、記録をたどれる最初の大関である雪見山を初代として、昇進順に代数がふられる場合もある(同時昇進の場合は先に引退または横綱に昇進または関脇以下に陥落した方が先代になる)。例えば寛政の無類力士雷電は76代大関、2012年1月場所で大関に昇進した稀勢の里は243代大関となる。しかしこの中には、横綱に昇進した者(例として白鵬は238代大関・日馬富士は240代大関・鶴竜は244代大関)や、実際に相撲を取らなかった看板大関も含まれていて、一般にはあまり用いられない。また、番付等が現存しないので確かめようがないものの、初代 谷風梶之助など、雪見山以前にも大関がいたことは確実であるため、こういったカウントに疑問を持つ者もいる。
一人の大関に対して無敗かつ連勝だった力士
- 金城興福(再大関時代の魁傑に1977年春場所より魁傑の二度目の大関陥落が決定した同年秋場所まで4戦4勝かつ4連勝)
- 千代の富士貢(二代目増位山に1980年春場所より自身が幕内初優勝によって場所後に大関昇進を果たした1981年初場所まで6戦6勝かつ6連勝)
- 益荒雄広生(若嶋津に1987年初場所より若嶋津が場所中に引退をした同年名古屋場所まで4戦4勝かつ4連勝)
関連
脚注
テンプレート:大相撲関取en:Makuuchi#Ōzeki- 元の位置に戻る ↑ 過去の例では、大関が一人や二人のみの場合や、横綱・大関陣の数が少ない時は昇進基準が甘くなるという傾向がある。
- ↑ 以下の位置に戻る: 2.0 2.1 雅山の場合、所属する武蔵川部屋は当時横綱・武蔵丸、大関・出島と武双山がいた。この三力士と対戦しないことから、大関昇進を決める番付編成会議の段階では相当慎重な意見が出ていた。これまで唯一話し合いでは結論が出ず、多数決(賛成7名・反対3名)により大関昇進が決定した。
- 元の位置に戻る ↑ ただし、現役力士の自動車運転は内規で禁止されており、誰かに運転してもらうことになる。
- 元の位置に戻る ↑ 幕内・十両力士はタクシーのみ利用可能。
- 元の位置に戻る ↑ 「相撲」2012年1月号
- 元の位置に戻る ↑ 稀勢の里が大関へ!基準満たさずとも大関昇進の裏事情(リアルライブ)
- 元の位置に戻る ↑ 稀勢の里の大関昇進に疑問。(スポーツ・遊び・からだ・人間)
- 元の位置に戻る ↑ 満場一致 千秋楽に決まっていた稀勢の里大関昇進“裏”(リアルライブ)
- 元の位置に戻る ↑ 稀勢と雅山が史上初!番付アラカルトnikkansports.com 2011年12月22日9時15分 紙面から
- 元の位置に戻る ↑ "孤高の新大関"稀勢の里、活躍の鍵は無き師匠の言葉。~大相撲、波乱の1年に幕~Number Web 2011/12/11 08:00
- 元の位置に戻る ↑ 関脇・豪栄道が“大甘”で大関昇進へ(リアルライブ)
- 元の位置に戻る ↑ 1957年は7月場所がなかった。1958年以降は年6場所制(大相撲八百長問題で3月場所中止の2011年を除く)。
- 元の位置に戻る ↑ 年15日制下において直前場所が10勝どまりで大関に昇進できた例は若ノ花、北の富士、貴ノ花、稀勢の里の4例のみである。このうち若乃花は直前場所に1分が含まれていた。
- 元の位置に戻る ↑ この7月場所は、大関(当時)白鵬も「ところてん式」に横綱へ同時昇進してもおかしくない成績(直前2場所が14勝で優勝と13勝で優勝次点)だったが見送られ、さらに当時は「6大関」にも難色を示しており、雅山は巻き添えを喰う形となった。
- 元の位置に戻る ↑ 初代國技館完成後の東西制やそれ以前の東西対戦の時代には勝ち越せば番付が上がるというものではなく、同じ側にいる他の力士との比較、あるいは東西を配置換えになる者がいる場合はその者の成績も加味して総合的に決めるものであった。
- 元の位置に戻る ↑ 国家的な行事、突発的な災害、などにより日数に増減があった場合でも、その三分の二で計算する(一例として、13日に短縮された場合は9勝で条件を満たす)。
- 元の位置に戻る ↑ この表現は1970年代からしばしば用いられているが、最近では『週刊現代』がこの表現を用いている。2011年2月19日号「I これが角界の「八百長」ネットワークだ 八百長力士はまだいくらでもいる」p35
- 元の位置に戻る ↑ 2009年5月29日朝日新聞
- 元の位置に戻る ↑ 生き残りかける名2力士 幕内最下位・雅山と十両尻・高見盛
- 元の位置に戻る ↑ 引退・死亡・懲罰規定の適用(除名・解雇・番付降下)による場合は1場所もありうる。
- 元の位置に戻る ↑ 『相撲』2012年5月号37頁には「さすがに協会も『7大関』は作らないだろう」と記述されており、現在の感覚では番付編成上「大関は最多でも6人が限界」という見解が示されていると言える。