梅ヶ谷藤太郎 (2代)

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梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、富山県上新川郡水橋町(現・富山県富山市)出身の元大相撲力士。本名は押田 音次郎(おしだ おとじろう)で、後に小江 音松(おえ おとまつ)となる。

経歴

1878年に、現在でいう「富山の薬売り」である売薬商の四男として生まれる(誕生日には異説もある)。1891年西ノ海嘉治郎 (初代)・劔山谷右エ門の一行が富山県へ巡業に来た際、恵まれた体格の少年を見つけた劔山から熱心な勧誘を受け、雷部屋へ入門、早くも同年1月に初土俵を踏んだ。「ワシ(元横綱初代梅ヶ谷)の弟子ということで四股名は“梅ノ谷”だ」という師匠・雷の発言で、四股名はあっさりと決まった。番付には「梅ノ谷 音松」と書かれた。

当時はまだ満12歳という子供ながら周囲の英才教育によってめきめき育ち、とりわけ鬼ヶ谷才治からの指導は特に熱心だった。その甲斐があって三段目では単独土俵入りが許されたほか、梅ノ谷の錦絵も発売され、さらに幕下時代には早くも横綱免許授与に備えて横綱土俵入りの稽古までしていたという、現在では全く考えられない英才教育を受けた。

1898年1月で新入幕を果たすと、この場所で小錦八十吉 (初代)から金星を獲得した。同年5月場所も小錦八十吉から金星を獲得するなど、「小錦キラー」ぶりを発揮した。次の1899年1月には早くも小結、5月で関脇に昇進し、勝ち越したもののなぜか1度小結に降格するが、次の1900年5月には大関に昇進した。大関昇進が決定すると雷の現役名「梅ヶ谷 藤太郎」の継承を申し出たが、雷は「いま(梅ヶ谷を)襲名したら横綱になった時に何を名乗るつもりだ?」と時期尚早を唱えた。

しかし、1902年1月から「梅ヶ谷藤太郎(2代)」を襲名し、梅ヶ谷の名に恥じぬ好成績を挙げる。1903年5月場所9日目(当時は1場所10日、ただし幕内力士は千秋楽に出場しない)に同じく常陸山谷右エ門と全勝同士で対決し、敗れはしたものの横綱免許授与が決まった常陸山の「できれば梅ヶ谷関と一緒にお願いします」という申し出によって、梅ヶ谷も吉田司家から横綱免許を授与された[1]。横綱土俵入りは雲龍型を選択し、現在まで受け継がれている「雲龍型の土俵入りの開祖」とされ、梅ヶ谷の土俵入りの様子を撮影した映像も現存している[2]

現在でも短躯肥満はあまり長持ちする体格ではないと言われているが、横綱を実に12年間(同時に昇進した常陸山より1年長かった)も務め、常陸山と共に「梅常陸時代」と呼ばれる明治時代後期の相撲黄金時代を築き上げた。旧・両国国技館の開館後に優勝した経験はないが、長年の功績を称えられたことで、1915年の引退時には優勝額に相当するものが贈呈された。

引退後は雷の廃業に伴い、年寄・並びに雷部屋を継承したが、先代・雷より早い1927年9月2日に死去。テンプレート:没年齢。弟子は弟弟子だった玉椿憲太郎が引き取ったものの、江戸時代から続く名門だった雷部屋は梅ヶ谷を最後に消滅した。

人物・エピソード

腹が出ているのを活かした理詰めの相撲で、体格ゆえか、横にやや脆い点を努力で克服していた。ただし、晩年には守り重視の相撲となった。常に自分の相撲を事細かに分析していたと伝わる。

太刀山峯右エ門より1歳若いため、常陸山の引退後は太刀山の相手役を期待され、番付はそれまでと逆の出羽海一門側に回されたが、その状態で出場することはなかった。

若い頃に指導を受けた人物が鬼ヶ谷才治だったため、節分では絶対に「鬼は外」と言えず、常に「福は内」とだけ言って豆を撒いていた。

主な成績

  • 幕内在位:36場所
  • 幕内通算成績:168勝27敗47分2預116休 勝率.862
  • 優勝相当成績:3回
  • 金星:2個(小錦八十吉

脚注

  1. 24歳6ヶ月での昇進は当時の最年少記録だったが、この29年後(1942年)に照國萬藏が23歳4ヶ月で記録を更新した。2013年現在の記録は北の湖敏満の21歳2ヶ月。
  2. 明治の大相撲 梅常陸時代(You tube動画)

関連項目

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