北勝海信芳

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テンプレート:Infobox 力士 北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし、本名:保志 信芳(ほし のぶよし)、1963年6月22日 - )は大相撲力士で、第61代横綱北海道広尾郡広尾町生まれ。現役時代の体格は身長181cm、体重151kg。得意技は押し、左四つ、寄り。愛称は本名に由来する「ポチ」、海外公演で付けられた「ブルドッグ」。「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一人。血液型はA型。

現在は、年寄八角 信芳(はっかく のぶよし)として八角部屋高砂一門)の師匠日本相撲協会理事(事業部長)。

現役時代

大相撲入門~大関時代

小学生時代には既に1度北の富士から九重部屋への勧誘を受けていた。1977年におじの勤務先の社長が元横綱北の富士(当時は年寄・井筒)と知り合いだったことが縁で勧誘されるが、井筒は以前勧誘したことがあるのを覚えていなかった。ちょうど保志は柔道で名を上げて他の相撲部屋にも勧誘されていたが母が電話で井筒に「最初に来てくれたあの部屋に行きたい」という保志の意向を伝え[1]、翌年1978年九重(井筒から名跡変更)から勧誘され東京に転校、この頃から九重の指導で稽古をしていたという。中学卒業の1979年(昭和54年)3月場所に初土俵。同期生には後の横綱双羽黒がいる他、現プロレスラーの安田忠夫(孝乃富士)も同部屋で同期であった。のちに昭和の大横綱と言われる九重部屋の兄弟子・千代の富士との激しい稽古を重ねて強くなり、順調に出世していった。

1983年(昭和58年)3月場所、19歳で新十両。同じ十勝地方出身であり中学時代には地方に名の知れた柔道選手であった一つ年上の大乃国がこの場所新入幕で、同郷のライバルといわれはじめる。同年9月場所に20歳で新入幕。いずれも同期生のなかでは一番早かった。1985年(昭和60年)から三役での好成績が目立ち始め大関候補と呼ばれる。既に大関は5人もいることで状況は厳しかったが、1986年(昭和61年)3月場所に13勝2敗で幕内初優勝を果たした。その後も5月場所は11勝4敗、7月場所は12勝3敗の好成績を挙げる。7月場所は北尾(双羽黒)の横綱昇進も懸かっており、北尾が横綱昇進を決めて大関が1人減ることもあって、7月場所後に大関昇進となった。ちなみに、この年の部屋の新年会では「関脇維持では格好悪い」ということで言い出して大関を目標としていたが、それが達成された形となった。

初土俵から本名の「保志」で相撲をとり続けていたため[2]、大関昇進が決まると、師匠は四股名を考えたが、出身地の「十勝(とかち)地方」にちなんで、「北十海」「十勝海」「十勝富士」などが候補だった。しかし十勝の「十」の字は、『勝ち星が10勝止まりになりそうで止めた方が良い』と九重が発言、「十勝」から読みは十(と)ではあるが字は「勝」として、「北勝海」と決めた。当時『「勝」の字を「と」と読ませるのは無理がある』という声も聞かれたが、その後の本人の横綱昇進や、八角部屋創設後、所属力士の四股名に多用されたこともあり、現在では違和感なく受け入れられている。[3]

大関昇進後、大関4場所目の1987年(昭和62年)3月場所には、12勝3敗の成績ながらも2回目の優勝となる。翌5月場所は13勝2敗と優勝次点の成績だったが、優勝の大関(当時)大乃国が15戦全勝で2勝の差があり、横綱昇進は微妙とされた。しかし、それまでの北勝海の稽古熱心な所と品格の良さが横綱審議委員会から高評価を得たことで、同場所後に大関5場所目での横綱昇進が決定した(同時に関脇小錦も大関に昇進となる)。

横綱時代

横綱土俵入りは兄弟子・千代の富士の指導の下、雲龍型を選択。新横綱の1987年7月場所は11勝4敗と優勝を逃したが、翌9月場所は14勝1敗で横綱初優勝、通算3回目の優勝を果たした。翌11月場所では13勝2敗の優勝次点の成績ながらも、自身初の年間最多勝に輝いた。しかし1988年(昭和63年)3月場所の千秋楽では、横綱大乃国に本割と優勝決定戦で連敗、逆転で優勝を奪われた。同年5月場所も終盤まで優勝を争ったものの、14日目に大関(当時)旭富士との取組前、支度部屋での準備運動で持病の腰痛を悪化させてしまい、翌日の千秋楽は自身初めての不戦敗・休場となる。次の7月場所からは腰痛が回復せず3場所連続全休となった。

再起をかけた翌1989年(平成元年)1月場所は、直前に発熱も重なり出場が危ぶまれたが、昭和天皇崩御で初日が1日遅れたことが幸いし出場。初日から自身初の14連勝を達成、千秋楽に1敗の旭富士に敗れ自身初の全勝優勝は逸したが、14勝1敗同士の優勝決定戦でその旭富士に勝利、見事に4回目の幕内優勝を果たして完全復活に嬉し涙を浮かべた。さらに同7月場所では、12勝3敗の成績で千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦で対戦。惜しくも敗れはしたものの、その後の相撲でも横綱として充分な強さを発揮して優勝回数も多く重ねていった。また1989年11月場所は2場所連続で11勝4敗に留まったが、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞する。

1990年(平成2年)3月場所の千秋楽は、横綱北勝海、大関小錦、関脇霧島(場所後大関昇進)の3人の優勝決定巴戦となった。巴戦の場合は、1力士が2連勝すると優勝が決まるが、2連勝しない場合は延々対戦が続く。最初の北勝海対小錦戦は小錦が勝利。小錦が次の霧島戦に勝てば小錦が優勝だったが、霧島が勝って小錦の優勝ならず。今度は霧島が次の北勝海戦に勝てば霧島の幕内初優勝だったが、北勝海が勝ってまだ対戦は続く。そして次の小錦戦は北勝海が下手投げで下して2連勝、ようやく北勝海の優勝が決まった。なんと三つ巴の対戦が四つも続くという大熱戦だった。しかし、北勝海の持病である腰痛の影響は大きく、次の5月場所以降は優勝した場所以外は10勝前後で終わる事が多く、雲行きが怪しくなった。マイナス190度の冷凍室に入る等さまざまな治療やリハビリを試しつつ、横綱としての懸命の土俵が続いていた。

1991年(平成3年)3月場所は、14日目に大乃国と優勝争いトップの12勝1敗同士の対決で、北勝海が寄り倒してひとり1敗を保持したものの、この一番で左膝を土俵に強かに打って負傷してしまう。翌日千秋楽も北勝海の左膝は激痛で、まともに相撲が取れない状態だったが、隠し通しつつ横綱土俵入り及び三役揃い踏みを難なく務めあげた。この場所千秋楽結びの一番は横綱同士の北勝海対旭富士戦で、その結び前の一番は横綱大乃国対大関霧島戦だった。この場所の霧島は14日目で4勝10敗と負け越し、誰もがこの対戦は前日まで12勝2敗の大乃国が有利と見られ、千秋楽本割で大乃国が勝ち北勝海が負けると両者13勝2敗同士の優勝決定戦となっていた。ところが大乃国は過去幕内での霧島戦が6勝7敗の苦手とし、さらに久々の優勝のプレッシャーもあったのか、不調の霧島にまさかの完敗で12勝3敗となり、この時点で13勝1敗だった北勝海の8回目の幕内優勝が決まったのである。その後北勝海は結びの一番で、痛めた左膝を庇いながら旭富士に呆気なく押し出されて敗戦。大阪府立体育会館の観客や関係者達も大きくどよめいた一番だったが、これが北勝海の最後の優勝となった(北勝海が膝をケガしていることを旭富士は分かっていたが、大乃国と霧島は全く知らなかったという)。

引退

北勝海はこの膝のケガをきっかけに、休場が多くなっていった。当時は4横綱番付に名を連ねていたが、5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、次の7月場所では大乃国、翌1992年(平成4年)1月場所では旭富士も相次いで土俵を去り、同年3月にはついに北勝海のみの一人横綱となった。3月場所に再起を賭けて出場したものの、北勝海らしい相撲は全く見られず、初日から水戸泉久島海に2連敗してそのまま途中休場した。北勝海は横綱の責任感からぎりぎりまで復活を目指したが、度重なるケガは回復しないため、同年5月場所直前に番付に名を残しながら、28歳10か月の若さで現役引退を表明した(横綱で廃業・死亡者を除けば栃ノ海・大乃国に次ぐ史上3位の早齢だった)。これにより、わずか1年の間に4人の横綱が全ていなくなってしまったのである。なお、北勝海の横綱在位数は29場所(番付上は30場所)だった。

その後、1992年5月場所から5場所(番付上では1992年7月から4場所)の間横綱空位1931年(昭和6年)5月~1932年(昭和7年)10月以来60年ぶり2例目)が続いたが、翌1993年(平成5年)1月場所後にがようやく横綱昇進を果たした。その直後北勝海の引退相撲が行われ、最後の横綱土俵入りには、新横綱の曙が太刀持ちを務めた(露払いは当時大関の小錦)。

また、引退相撲では当時異例とも言える、北勝海最後の取組が行われ、その対戦相手は同じ「花のサンパチ組」の寺尾だった。北勝海が最後の場所となった1992年3月場所、3日目の対戦が寺尾と決まっていたが、北勝海は不戦敗となり5月場所前に引退したため、彼自身寺尾と対戦出来なかったことが心残りだったという。そして彼は、引退相撲で寺尾と最後の対戦をしたいと申し出ると、寺尾は快く承諾。そしてその取組では、寺尾が北勝海を寄り切って勝利したが、勝負が決まった瞬間寺尾は北勝海に「お疲れ様」と労いの言葉を贈った。[4]

素質はそれほどなかったが、非常に稽古熱心であり特に千代の富士との稽古は凄まじいものだった。その稽古熱心さから雑用を免除されており、チャンコ番をさせた兄弟子が千代の富士に叱られたという逸話も聞かれる。本人も千代の富士がいなければ綱などとても取れなかったという。横綱経験者としては自身が最多受賞である三賞11回の記録や甘めの横綱昇進などを引き合いに出して「それだけ特別に評価されてきたという証拠」という趣旨の主張を自伝に記述している。さらに師匠の九重は「千代の富士が大横綱になったことよりも、北勝海が横綱に昇進した事が一番の驚きだった」とも語っている。特に北勝海は幕内昇進後、千代の富士が休場した場所や3月場所には滅法強く、その時期での幕内優勝が多かった。頭から当たって突き押しで相撲を取るため、引退直前には額の生え際の毛は擦り切れかけていた。多くの場所でエメラルドグリーンの廻しを使用していた。

また北勝海は、もともとは十両に昇進することを最大の目標としていた、とも語っている。富士昇(北天佑の実弟)事件を特集した相撲雑誌などに、将来の目標を「横綱」とした富士昇と対比する形で発言が引用掲載されている。当時、大関栃光に外見も取り口も似ているといわれ、師匠の九重も栃光の本を渡し読むように助言したという。現役時代より現在に至るまで後援会長は鈴木宗男が務めている。媒酌人浅田満が務めた。化粧廻しも浅田が経営していたハンナンから贈られたことがある。

なお、1991年7月場所千秋楽の旭富士対北勝海戦を最後に、日本出身横綱同士の本場所での対戦は行われていない(2014年(平成26年)時点)。

親方として

横綱5年特権の一代年寄・北勝海から八角を襲名。八角部屋を立ち上げ北勝力海鵬ら関取9人を出している。また弟子の数が多く、ことに関取予備軍である幕下力士が多く所属しており、スカウト活動と育成の手腕に優れている。2000年(平成12年)から2期4年監事(現在の副理事)を務めた。

2010年に役員待遇に就任したが、2011年大相撲八百長問題で年寄谷川(元・海鵬)と保志光の関与が発覚し、谷川は解雇、保志光も引退し、これに伴う責任として役員待遇を辞任した。

2012年の役員改選で理事に当選し、広報部長、指導普及部長、危機管理部長、博物館運営委員に就任。同年5月場所にて優勝争いの先頭を並走した栃煌山の千秋楽の対戦相手に決まっていた琴欧洲が当日になって休場届を出し不戦勝を与えることがわかった際には「優勝に関わる相撲で大関が休場してこんな形になっては観客に申し訳ない、昨晩のうちにわかっていれば割り返しで対応できたのに、今日になってからでは遅過ぎる。こんなことでは本人も師匠も自覚が足りないと言われても仕方がない。協会の危機管理能力も問われかねない事態だ」と苦言を呈していた[5]。実際栃煌山不戦勝の場内放送から勝ち名乗りまでの間国技館内はブーイングの嵐だった。

NHK大相撲中継では、2010年まで通常横綱経験者は行わない午後1時から2時30分までの幕下以下の取組の解説を1場所に1度担当した。また、サンデースポーツでは「八角親方の金言苦言」というコーナーを持ち、実演を交えた解説を行っている。近年の力士のぶつかり稽古の不足に警鐘を鳴らしており、「(胸を出してもらえるのだから)ありがたくぶつかれ」、「(きつい稽古も)毎日やってると普通になってくる。普通になるまでやらなくちゃいけない」などと発言している。

稽古の重要性を頻繁に訴える一方で力士の自主性を重んじる一面もあり、隠岐の海大岩戸などの現役関取からは「意外と八角部屋はのびのびとやれるところ」と証言されている。

2012年9月26日日馬富士の横綱昇進の伝達式では、協会理事として使者を務めた(日馬富士と同じ一門の玉垣審判委員が同行)[6]。また、2014年3月26日鶴竜の横綱昇進伝達式でも、同様に協会理事として使者を務めた(鶴竜と同じ一門の審判委員が同行)。[7]

2014年の役員改選と同時に行われた新たな職務分掌では、理事の序列2位である事業部長の役職を与えられた。

主な成績

通算成績

  • 通算成績:591勝286敗109休 勝率.674
  • 幕内成績:465勝206敗109休 勝率.693
  • 大関成績:56勝19敗 勝率.747
  • 横綱成績:250勝76敗109休 勝率.767
  • 幕内在位:52場所(番付上では53場所)
  • 横綱在位:29場所(番付上では30場所)
  • 大関在位:5場所
  • 三役在位:13場所(関脇9場所、小結4場所)
  • 連勝記録:20(1990年9月場所2日目~1990年11月場所6日目)
  • 年間最多勝:1987年(74勝16敗)、1989年(72勝18敗)
  • 連続6場所勝利:75(1987年5月場所~1988年3月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:18場所(1985年7月場所~1988年5月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:11場所(1989年1月場所~1990年9月場所)

各段優勝

  • 幕内最高優勝:8回(1986年3月場所、1987年3月場所、1987年9月場所、1989年1月場所、1989年3月場所、1990年3月場所、1990年9月場所、1991年3月場所)
優勝同点:2回
  • 十両優勝:1回(1983年7月場所)
  • 幕下優勝:1回(1983年1月場所)
  • 序二段優勝:1回(1979年7月場所)

三賞・金星

  • 三賞: 11回
    • 殊勲賞:3回(1985年11月場所、1986年3月場所、1986年7月場所)
    • 敢闘賞:3回(1983年11月場所、1984年1月場所、1986年5月場所)
    • 技能賞:5回(1984年11月場所、1985年7月場所、1985年11月場所、1986年1月場所、1986年3月場所)
  • 金星: 1個(北の湖1個)

場所別成績

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四股名変遷

  • 保志 信芳(1979年3月場所 - 1980年1月場所、1980年5月場所 - 1985年9月場所)
  • 富士若 信芳(1980年3月場所)
  • 保志 延芳(1985年11月場所 - 1986年7月場所)
  • 北勝海 信芳(1986年9月場所 - 1992年5月場所)

エピソード

3月場所にめっぽう強く、自身の幕内優勝8回のうち半数の4回は3月場所で記録したものである(その他優勝同点も1回)。ちなみに兄弟子の横綱千代の富士は、幕内優勝31回もしながら、3月場所の優勝はわずか3回に留まり、3月場所に限れば北勝海の方が優勝回数が多かった。さらに千代の富士が休場した場所で、弟弟子の北勝海が優勝するというケースも過去に5回もあった(1986年3月、1987年9月、1989年5月、1990年9月、1991年3月)。

初優勝した1986年3月場所、北勝海(当時は保志)は関脇以下の力士としては初めて「1場所5大関撃破」を達成している[8]。翌年の3月場所は益荒雄小結で同じ記録を賭けて当時大関の北勝海と対戦。北勝海は益荒雄を下し同じ記録達成は阻止した。この場所北勝海は2度目の優勝を果たした。

初の大関獲りが懸かった1986年5月場所は11勝4敗で昇進は見送りになったが、11勝で大関になれると思っていた保志は相当落ち込み、場所後の稽古にも身が入らなかったという。しかし横綱千代の富士はそれを見逃さず、保志に対し「まだまだ稽古が足りないからだ」と助言。その後保志は千代の富士との猛稽古で徐々に自信を取り戻し、翌場所も12勝3敗で文句なしの大関獲りを実現した。

綱獲り前3場所の成績は36勝9敗、さらに直前の成績では15戦全勝した大乃国との差は星2つ。現在の横綱昇進条件である「大関で2場所連続優勝、又はそれに準ずる成績」に充分該当するとは言えなかったが「北勝海だから昇進出来た」と言う声も多かった。それだけ品格や稽古熱心さが評価されていたということである(幕内優勝は8回達成したが、横綱昇進後も連続優勝は一度も果たせなかった)。なお師匠の九重親方(当時、元横綱・北の富士)は、かつて千代の富士の横綱昇進時には「ウルフ、引退する時はスパッと潔く辞めような」と語ったが、性格が生真面目な北勝海に対しては「横綱は本当に大変な地位だぞ。勝てなくなったら引退するしかないんだから」と自ら経験した横綱の重みと厳しさを伝えたという。

千代の富士の優勝、または優勝争いで何度も援護射撃をしている。新横綱の1987年7月場所は優勝と綱獲りがかかっていた大乃国を千秋楽に下し、千代の富士に21回目の優勝をプレゼントした(大乃国は場所後の横綱昇進も失う)他、1987年11月場所14日目には、千代の富士と共に全勝だった横綱双羽黒を下している(翌千秋楽、千代の富士は双羽黒を下し22回目の優勝を決めた)。1988年1月場所14日目には全勝の大関旭富士を下し援護射撃したが、千代の富士は同日の結びの一番で大関小錦に、千秋楽に旭富士に敗れ優勝を逃した。1989年11月場所12日目にも全勝の大関小錦を下しまたも援護射撃。しかし千代の富士は翌13日目小錦に敗れ優勝を逃している。

1988年3月場所、横綱大乃国に逆転で幕内優勝をさらわれた際は「あの悔しさは一生忘れない」と語っていた。屈辱を胸に秘め臨んだ翌5月場所だったが、千秋楽の大乃国戦で初めての不戦敗・休場となり、さらに7月場所から3場所も続いて全休。北勝海のプライドはズタズタに切り裂かれていた。復活優勝した1989年1月場所では、14日目に大乃国を生涯最高の相撲で一直線で押し出した。さらに同年9月場所の千秋楽の結びの一番では、7勝7敗と勝ち越しをかけた大乃国と対戦するも容赦なくあっさり下し、これで大乃国は7勝8敗とついに負け越してしまった。1988年3月場所で「これ以上にない屈辱を受けた」という北勝海が、大乃国に対して「15日制が定着してからは初めての横綱皆勤負け越し」という、それ以上の屈辱を与えた一件は何とも皮肉な話である。

復活優勝の1989年1月場所、北勝海自身初の全勝優勝がかかった千秋楽本割・結びの一番では、旭富士に完敗し14勝1敗同士の優勝決定戦へ。「あの時(1988年3月場所)のことが頭を過ぎった」というが、「土俵に上がれるだけで幸せなんだから」と気持ちを切り替えて決定戦で旭富士を下した。8場所振り4回目の幕内優勝に目に北勝海は涙を浮かべながら、「まさか優勝するとは夢にも思わなかった。治療先では会う人全てがとても良くしてくれたから、自分も苦しい治療やリハビリを乗り切れたのだと思う。とにかく復活することが出来て本当に嬉しい。今までに会った人に感謝したい」と喜びを語る前に治療時にお世話になった人たちへのお礼の言葉を述べた。また、この場所前リハビリから帰ってきた北勝海を見た師匠の九重親方は「以前より胸板が厚くなった。本気でリハビリに取り組んでいたんだ」と喜んだという。北勝海の人柄や真面目さを感じさせるエピソードである。

1989年7月場所での千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦。本人曰く「廻しを切ろうとしても切れなかった。稽古場でも強かったが本番では全く違う(ほど強かった)」と脱帽。しかし取組後北勝海・千代の富士は二人共「もう二度と対戦したくない」。九重親方もかつて「一度は(千代の富士対北勝海の)決定戦を見てみたい」と語っていたが、二人の決定戦の終了後は「師匠としてもまともに見ていられなかった。もう(決定戦は)やらなくていい」とコメントしている。これが両者にとって最初で最後の優勝決定戦だった。

1990年3月場所での優勝決定巴戦。最初の小錦戦で負けたものの、その後霧島戦と小錦戦で連勝してようやく優勝を決めた。「今迄の相撲人生の中で一番苦しい優勝だった。もしあと一戦あったら腰が持たなかったかもしれない」。それだけ壮絶な大相撲だったことがうかがえる。

1991年1月場所前での稽古総見ではが初参加。旭富士や霧島などの上位陣に稽古を頼むも相手にされない[9]。しかし北勝海は曙と積極的に稽古し、羽目板にぶつけられることもしばしばだった。その1月場所では曙の突っ張りをかわし、腰についた北勝海が切り返しで圧勝。「稽古場ではあんなのなかったのに」と落胆する曙。北勝海は「曙と稽古しておいて良かった。(稽古を)してなければ強さもわからなかったし、やり辛かった。だてに羽目板にぶつけられていたわけじゃないよ」とご満悦。

1991年3月場所千秋楽の北勝海は、前日の大乃国戦で左膝を負傷するも医者に行かず一晩中氷水等で冷やし続けていた。それでも、千秋楽当日の横綱土俵入りと自身取組前に三役揃い踏みをする際は、膝の痛みはそれほど気にならなかったらしい。また北勝海が結びの一番の対戦前、土俵下で大乃国対霧島戦を見ていたが、自身も不振の霧島なら大乃国に負けるだろうと思っていたという。しかしこの対戦は予想を翻し霧島が大乃国を寄り切って勝利。この瞬間北勝海の8回目の幕内優勝が決まったが、同時に左膝の激痛が酷くなったのである。その後結びの一番での旭富士戦は全く相撲に成らずに敗北。左足を引き摺りながら花道を歩いた後、記者陣とのインタビューでは「大阪のお客さんに失礼しました。最後は良い相撲を取りたかったのに」としきりに苦笑い。正に幸運がもたらした優勝であった。

1991年7月場所は休場明けで且つ稽古不足で大不振。12日目にようやく勝ち越しを決めたが、引退したばかりの千代の富士に「勝ち越しおめでとう」と冷やかされる。また9日目には、同郷のライバルの大乃国が28歳9か月の若さで引退を表明、自身にとっても大きなショックだったという。さらに千秋楽は北勝海と同じく8勝6敗同士の成績不振ながら旭富士との横綱対決。「泡の抜けたビール」「史上最低の千秋楽相星決戦」と叩かれる始末。熱戦の末北勝海は旭富士を寄り切りで下し、何とか9勝目を挙げた。それでも北勝海にとっては現役最後の千秋楽まで皆勤した場所[10]となり、翌9月場所以降は度重なる怪我に苦しみ、全休と途中休場とを繰り返す羽目となる。

自身3場所連続休場となった1992年1月場所中に旭富士も引退、これで横綱は北勝海たった一人となる。同場所3日目、旭富士の現役最後の取組となった若花田(のち3代若乃花)戦での北勝海は「その相撲(TV生中継)は見ていなかった。もしかしたら…という思いがあったのかも知れない」と顔を強ばらせながらコメント。翌3月場所、「ゲンの良い」大阪で奇跡の復活を目指したものの、1勝も出来ずに4場所連続休場へ。「相撲勘が戻っていない。もう少し時間が欲しい」と沈痛な表情ながら「場所後の巡業で猛稽古して次の5月場所で進退を掛ける」と公言していた。

しかしその1992年5月場所直前になっても、体調は依然回復せず思うように稽古は出来なかった。自身がろくに相撲を取れる状態ではないにも拘らず、一人横綱という責任感からか、敢えて北勝海は一旦5月場所の強行出場を表明する。師匠になったばかりの千代の富士は渋々認めたものの、旧師匠の北の富士は納得せず、当時の出羽海理事長(元横綱佐田の山)にも北勝海の去就について相談していたという。その後北の富士・千代の富士の二人の師匠らと3者の話し合いの結果、北勝海の現役引退が決定。その引退会見での北勝海は「自分は稽古で、横綱まで上がった相撲取りですから、その稽古する気力がなくなったらもう、終わりかなと…」ハンカチで涙を拭いながら語っていた。北の富士は「再起を期待したが想像以上に体力が衰え、大事な気力も落ちていた。横綱がいなくなるのは心苦しいが、このまま本場所を出場しても横綱の名を汚すだけだと思った」と、自ら引き際の潔さを貫きつつ北勝海を延々説得し、引退を決意させたという。

なお北の富士は北勝海のことを「素質ではその辺の力士と変わらないが、稽古熱心さでは100人に1人の素材」と評した。彼の稽古熱心さがわかるコメントである。なお素質不足を気力で補う相撲の性質だったためか、気が緩む面のある優勝決定後の取組は4戦4敗であった。

現役引退後、解説者として出演した「大相撲ダイジェスト」で、霧島の取り組みを解説する際には「大関・霧島関」と敬称付きで呼んでいた。番付がものをいう相撲界では、横綱になり更には親方になっている北勝海は、霧島を立場上呼び捨てにしても構わないものであるが、あくまでも年長者を立てる北勝海の律儀な性格が表れたコメントである。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 北海道新聞夕刊 「私の中の歴史-力のサムライ伝」 2005/07/28
  2. 1980年3月場所時に「富士若」の四股名に改名したこともあったが、負け越したため1場所で本名に戻している。
  3. 人名漢字では「勝」を『とう』、「海」を『み』と読むことは可能であり、これを適用すると、「北・勝・海」の正確な読みは「ほく・とう・み」である。弟子の北勝力にも「北勝」は『ほくとう』と説明したことがあるという。
  4. なお寺尾はその後も、「花のサンパチ組」だった琴ヶ梅と小錦の引退相撲でも、最後の取組相手として二人共に指名され、土俵に上がり勝負した。
  5. これについては北勝海の師匠でこの日正面解説を務めた北の富士勝昭も「あってはいけないこと、這ってでも出場して欲しい、勝ち名乗りの前なら間に合うから休場届を取り消して土俵に来てくれないか」、向正面の舞の海秀平も「もし逆の立場で、琴欧洲が優勝争いの先頭だったら土俵に上がっていたと思うんですよ」と全く同意見であった。
  6. 日馬富士の所属一門である春日山・伊勢ヶ濱連合(現・伊勢ヶ濱一門)の理事であった(元幕内・春日富士)が9月場所中に退職したため、代役の理事として八角が選ばれた。この大役を務め上げて「光栄です。なかなかこういうタイミングはない。昨夜は緊張して眠れなかった。出来は50点」と語った。
  7. 鶴竜の所属一門である時津風一門の理事が審判部長の鏡山(元関脇・多賀竜)一人しかいないため。
  8. 2009年9月場所に小結・把瑠都2012年11月場所に関脇・豪栄道が北勝海に次ぐ「5大関撃破」を果たした。
  9. 稽古でも手を抜かない曙を上位陣が嫌ったとされている。
  10. 対戦相手の横綱旭富士も北勝海と同様に、1991年7月場所が現役最後の皆勤場所になった。