横綱土俵入り
横綱土俵入り(よこづなどひょういり)は大相撲の最高位である横綱が本場所の幕内取組前や巡業先などで行う土俵入りである。片屋入り(かたやいり)とも呼ばれる[1]。
目次
概説
土俵入りの型は「雲龍型(うんりゅうがた)」と「不知火型(しらぬいがた)」の2種類が存在し、それぞれ雲龍久吉と不知火光右衛門が行っていた土俵入りの型を起源として伝えられたものとされているが、実際には、四股を踏む前の掌を返す時の構えなどの細部で、指導する親方などによって動作が異なっている[2]。例として、過去に大乃国康が横綱昇進を果たした際に12代佐渡ヶ嶽(第53代横綱・琴櫻傑将)が土俵入りを指導しているところ10代二子山(第45代横綱・若乃花幹士)が「好きにやれ。横綱がやれば、それが横綱土俵入りだ」と助言したことがある。[3]また現在の「雲龍型」と「不知火型」は、その呼称が逆であるという指摘もある(後述参照)。
歴代横綱の土俵入りの型は「横綱一覧」を参照。
共通の型・ルール
横綱土俵入りは、幕内力士全員の土俵入りが終わった後で露払い(つゆはらい)・太刀持ち(たちもち)が各1名、合計2力士を従えて行われる。この役は通常、横綱と同じ相撲部屋に所属して、かつ番付が関脇以下の兄弟弟子が務めている[4]。原則的には幕内力士でなければならないが、横綱と同部屋の幕内力士がいない場合(または不足する場合)は一門から借りることがほとんどで、稀に一門外から選出する場合もある[5]。
幕下付出として初土俵を踏んでからスピード出世し、髪が伸びないまま幕内に昇進した場合など、大銀杏が結えない場合は露払い・太刀持ちも務めることが出来ない[6]。
露払いや太刀持ちでも部屋が異なれば、横綱と対戦することがある。その場合は、当日の横綱土俵入りを別の力士に交代してもらう。通常の露払いと太刀持ちの間で対戦がある日も、どちらかが外れることとなる。
土俵入りでは、横綱を中央に向かって左側に太刀持ち、右側に露払いが並ぶ。横綱は柏手を打ち、四股を踏み、せり上がった後に再び四股を踏む。四股を踏むときには観客から「よいしょ!」と掛け声が飛ぶ。右足を上げる四股が2回、左足を上げる四股が1回である。
行司は立行司である木村庄之助・式守伊之助が務めるが、庄之助・伊之助が不在の場合には三役格行司が務める。
- 本場所で横綱が2人出場し立行司が庄之助・伊之助ともいる場合は、奇数日目は東横綱から、偶数日目は西横綱から先に登場し、行司はいずれの場合も庄之助→伊之助の順に登場する。
- 3横綱が在位・出場し立行司も揃っている場合は2人までと異なり順序が複雑となる(六日目で一巡)。場所の終盤では東横綱同士の対戦があるため、それに伴う変更も生じる。
- 初日:横綱は東正横綱→西横綱→東2番目の横綱(以前の張出横綱)、行司は庄之助→伊之助→庄之助、呼出は三日目まで立呼出→副立呼出→立呼出
- 二日日:横綱は西横綱→東2番目の横綱→東正横綱、行司は庄之助→伊之助→伊之助
- 三日日:横綱は東2番目の横綱→東正横綱→西横綱、行司は庄之助→庄之助→伊之助
- 四日目:横綱は初日と同じ順序、行司は伊之助→庄之助→伊之助、呼出は五日目まで副立呼出→立呼出→副立呼出
- 五日目:横綱は二日日と同じ順序、行司は伊之助→庄之助→庄之助
- 六日目:横綱は三日日と同じ順序、行司は伊之助→伊之助→庄之助、呼出は副立呼出→副立呼出→立呼出
- 十二日目:横綱は三日日・六日目と同じ順序、行司は六日目と同じ順序、呼出は立呼出→副立呼出→立呼出
- 十四日目[7]:横綱は西横綱→東2番目の横綱が西から登場→東正横綱、行司は庄之助→庄之助→伊之助、呼出は立呼出→副立呼出→立呼出
- 千秋楽:横綱、行司、呼出とも初日と同じ。
なお、雲龍型は攻守兼備、不知火型は激しい攻撃を表すという説が巷間信じられているが、この説に明確な根拠はない[8]。これは10代秀ノ山(元関脇・笠置山勝一)が、昭和初期に北京での皇軍慰問の巡業中、双葉山定次と羽黒山政司の型の違いについて説明を求められたとき、戦時中に相応しい返答をしたものが後にもっともらしく流布したものである[9]。
雲龍型の土俵入り
せり上がるときに左手を胸の近くに当てて右手を伸ばす土俵入りで、大多数の横綱がこちらを選択している。2代梅ヶ谷藤太郎が完成したとされ、以降、栃木山守也・双葉山定次・大鵬幸喜・北の湖敏満・千代の富士貢といった大横綱も多くこの雲龍型である。平成以降では曙太郎・貴乃花光司・武蔵丸光洋・朝青龍明徳らが選択しているが、先述の4人は全て幕内優勝を10回以上果たし、横綱の地位も4年以上に渡って務めていた。
上記のように比較的縁起の良い型と見られることは多いが、横綱在位場所数最短の前田山英五郎(在位6場所)と2位タイの三重ノ海剛司(在位8場所)など、雲龍型を選択しながら短命に終わった横綱も存在する。なお、出羽海一門と高砂一門および時津風一門の横綱は、全員がこの型である[10]。
横綱が不在・空位だった時代を除いては、梅ヶ谷以降この型を選択した横綱が絶えることは無かったものの、2010年2月に朝青龍が引退して以降、4年余りにわたって雲龍型披露の横綱が不在の状況となった。2014年3月場所後に鶴竜力三郎が横綱に推挙され、時津風一門伝統の雲龍型を選択したことにより、この事態は解消された[11]。
綱の締め方は輪を一つで締めて、不知火型用の綱より短く軽量とされている。
不知火型の土俵入り
雲龍型と違って、せり上がるときに両手を伸ばす土俵入りで、太刀山峯右エ門が16代木村庄之助より習った型とされる。戦前から戦後にかけて長期間活躍した羽黒山政司がこの型を継承し、主に旧・立浪一門(現・伊勢ケ浜一門)がこの型を選ぶ傾向にあるほか、二所ノ関一門もこの型を選ぶことがある[10]。堂々とした迫力のあるスタイルで、伝統的に大柄な力士が演じると見栄えの良い型とされている。
一方でこの型を選んだ吉葉山潤之輔が、横綱昇進時33歳と高齢ながら4年務めたにも関わらず、これをある相撲記者が玉の海正洋の昇進時に「不知火型は短命」というジンクスを表現[12]し、その玉の海が在位中に夭折したことで、以後不吉とされることが多くなってしまった。但し、短命ジンクスには諸説ある(例.明治時代初期に活躍した、大坂相撲の横綱・不知火光五郎があまりの強さから妬まれて毒殺され、その怨念があるという説)。
短命ジンクスはその後も続いた。ただ、そんな中で琴櫻傑將(在位8場所[13])と隆の里俊英(在位15場所)は、不知火型自体の後継者が少ないことから[14]、型の保存の意味も込めてこの型を継承している。しかし両者とも横綱昇進当時30歳を過ぎていたこともあって長く在位することは叶わず、さらに旭富士正也(在位9場所)・若乃花勝(在位11場所)も横綱昇進後2年足らずの短命で終わっている。また、一度も優勝せずに廃業した双羽黒光司(在位8場所[15])の印象も、不知火型のマイナス面を強めた感は否めない。
しかし、2007年に史上3番目の若さで横綱昇進を果たした白鵬翔が旧・立浪一門として不知火型を選択し、この型の横綱としては史上初の幕内優勝30回の大台に乗せている。そして2012年には同門の日馬富士公平もまた不知火型を選び、大相撲史上初めて不知火型の横綱が同時期に2人並び立つ[16]など、この型の悪いイメージは次第に払拭されつつある。
なお、不知火型は輪を二つ作るように綱を締めるため、概して不知火型用の綱は雲龍型用のそれより長く重い。
両方の型を経験した横綱
これまでに雲龍型・不知火型両方を行ったことがある横綱力士は2人居る。
雲龍型の土俵入りをしていた北の富士勝昭は1971年8月、A班・B班の2班体制で行われていた巡業においてA班に参加していたが、B班の玉の海正洋が虫垂炎による急病との報を受けて急遽B班の巡業先であった秋田県に合流し、土俵入りをすることになった。しかし、急な話だったために自らの雲龍型の綱が入った明荷が間に合わず、巡業先に置かれたままであった玉の海の不知火型の綱を締めて異例の形で不知火型の土俵入りを行った[17]。北の富士は高砂一門の横綱であり、一門としても唯一の不知火型経験者である。
不知火型の土俵入りをしていた白鵬は、2011年12月に双葉山生誕100周年を記念して宇佐神宮で行われた奉納土俵入りで、双葉山に敬意を表するために、自分の不知火型用の綱を切り[18]、雲龍型用の長さに調節した横綱を締めて双葉山と同じ雲龍型で横綱土俵入りを行った[19][20]。
雲龍型と不知火型の呼称逆転
現在、雲龍型は「せり上がりで左手を胸に当て右手を伸ばす」、不知火型は「せり上がりで両手を伸ばす」、という区別が定着しているが、この呼称があべこべと指摘されることがある。
モチーフである不知火光右衛門の土俵入りには好角家の丸上老人の証言があり、それによると「腰を落として左手をワキに当てて右手を伸ばしてせり上がる」という動作(現在の雲龍型)をしている。ただし、その後に「立ったところで両手を広げた」という形を示しており、終わりの場面だけを見れば現在の「不知火型」ともなるため、全体の流れとしては現在に残る二つの型のどちらにも当てはまるものではなく、むしろこの他の型が存在していたことを裏付けている(後述参照)。
しかし、1869年の撮影と推定される不知火と鬼面山谷五郎が並んで土俵入りのポーズを取っている写真では、不知火が左手を胸に当て右手を伸ばしており(雲龍型)、鬼面山が両手を広げている(不知火型)。鬼面山が実際に、最初から両手を広げてせり上がったかは不明だが、少なくとも不知火の方は前述の証言と、この写真からしても現在の「雲龍型」に近い型であったことがわかる。さらに、太刀山(不知火型)が横綱となった際に、16代木村庄之助から土俵入りを教わり、「常陸山関や梅ヶ谷関と違い、私は横綱雲龍、即ち後の追手風になった人の型です」と発言している[21]。また当時の相撲雑誌で、鳳谷五郎(雲龍型)については「梅ヶ谷同様不知火の型に則って」と報じられている。
ただ、太刀山自身が雲龍型であると言う一方、当時の新聞ではこれを「不知火型」とするものと「雲龍型」とするものが分かれるなど、認識が一定していなかった。ところが相撲評論家の彦山光三が戦前から戦後にかけて、太刀山と同じ型を継承した羽黒山と吉葉山について「不知火型」と断定し、新聞や雑誌に書き広めたのをきっかけとしてこの呼称が定着していった。
この過程では相撲博物館初代館長の酒井忠正があべこべ説を提唱し、論争に発展した。彦山は、不知火光右衛門の師匠である不知火諾右衛門の錦絵に描かれた、両手を広げている姿が「せり上がり」であるから、これが「不知火型」であると主張。これに対し酒井は(前述のように)「せり上がって立った後に両手を広げる」例もあり、ゆえに錦絵の一場面のみでせり上がりの形を断定することはできない[22]と反論したが、彦山は緻密な論証を成さぬままに、不知火諾右衛門が初めから両手でせり上がったとする自説を押し通した。
このように、彦山説が一般に流布された結果、「雲龍型」と「不知火型」は戦前までの証言や報道とは呼称が逆のものとなり、今日に定着している。その後もたびたびこの2つの型が「逆転」していると指摘されることはあるが、マスコミや日本相撲協会にも修正する動きは見られない。
しかし、不知火のように右手を広げてせり上がり、立ってから両手を広げるという動作は現在の横綱土俵入りにはないものであり、また雲龍が太刀山と全く同様、初めから両手を広げてせり上がったという確証も得られていない。さらには太刀山時代にメディアを二分するほど混乱していることや、羽黒山以降の呼称逆転論争が不十分であることなどもあり、現在残っている2つの型を「雲龍型」「不知火型」と呼ぶこと自体がしばしば疑問視されている。ゆえに、現在に伝わる型を確立した2人の横綱から、「梅ヶ谷型」(=「雲龍型」)、「太刀山型」(=「不知火型」)と呼ぶのが正確ではないかという指摘もある。
その他の型
現在では「雲龍型」「不知火型」と呼ばれる2種類しか土俵入りの型が用いられていないが、古くはそれらとは異なる型が存在した。そもそも現在の型が明治後期(2代梅ヶ谷と太刀山)に確立したものとされているため、その前には古い型の土俵入りが存在したのは間違い無い所である。例えば不知火光右衛門や大砲万右衛門は雲龍型に近いせり上がりを行なった後で両腕を広げ、常陸山は拍手の直後に両手を広げていた。
またそれ以前の映像が無い時代の横綱についてはもはや土俵入りを見ることは不可能だが、恐らく現在見られるものとは全く異なる土俵入りをしていたと思われるものも少なくはない。ただし後継者が存在しないため現在に伝わっておらず推定の域を出ない。中でも不知火諾右衛門については綱姿で両腕を広げた錦絵が常陸山型の土俵入り(柏手の直後に両手を広げる型)を認める根拠にされたとも言われ、どのような土俵入りであったのか議論され今で言う不知火型の元祖だと言われたこともあったが、土俵入りのどの部分を描いたのか判明しておらず、錦絵のために特別に用いた構えの可能性もある(現在でも優勝額や銅像において本来綱を締めて行なうことの無い構えを用いることがある)ため結論は出ていない。当時は写真も無かったため確認するのは非常に難しい。
また横綱が番付に記載されない名誉称号とされていた時代には綱の締め方も今とは異なっており、右に輪を作り綱の両端を左に出す、あるいはその左右逆という片輪結びとなっていた。現在に残る錦絵によれば江戸時代の横綱は全員この締め方で、現在のように正面の部分を太くした綱ではなく、正面と結び目でさほど太さの変わらない綱を用いていた時代には標準的な締め方だった。後に現在に見られる締め方が登場すると片輪結びは用いられなくなっていき、大正の末に横綱免許を獲得した3代西ノ海嘉治郎がこの締め方を復活させているが、これを最後にこの型で締めた横綱はいない。
奉納土俵入り
横綱に推挙された後その土俵入りを初めて披露するのが横綱推挙式と共に明治神宮で行われる奉納土俵入りである。奉納土俵入りは毎年の正月に同じく明治神宮で行われる他、例年春巡業で組まれている伊勢神宮の神宮奉納大相撲、出雲大社や靖国神社[23]など神社施設、或いは国家関連の行事・イベントなどでも執り行われる[24]。
新横綱誕生の際には、横綱力士碑のある富岡八幡宮や野見宿禰神社への奉納土俵入りと、横綱碑への刻名式も行われる。
土俵開き
相撲部屋が新設される、あるいは既存の部屋でも移転などにより新築されると、稽古土俵完成に合わせて現役の横綱が呼ばれて土俵入りを披露して土俵開きを祝う慣習がある。一門内に横綱がいればもちろんそちらが呼ばれるが、いない場合は門外の横綱でも構わない。例えば立浪部屋(当時立浪一門本家)が移転完成した際には当時現役だった朝青龍(高砂一門)が呼ばれ土俵入りを披露している。幕内力士のいない部屋であれば露払いと太刀持ちも当然呼ばれるが、いる部屋であれば自分の部屋の力士(1人しか幕内がいない部屋では片方)を使うので、普段とは違う顔ぶれの土俵入りとなる。
ただし、土俵開きした部屋の師匠が喪に服している期間と重なった場合は土俵入りをしないこととなっているので横綱が呼ばれることも無い。
引退相撲における横綱土俵入り
元横綱が引退相撲を行う際に、断髪式の前に最後の横綱土俵入りを行う。かつては、この時に従える露払いと太刀持ちに現役の横綱を充てることが原則であった。また横綱が露払いと太刀持ちを務める場合は、自身も綱を締めて登場する。但し引退相撲時に現役横綱が不在または一人だったり、又は直前の本場所での休場などの事情があると、大関・関脇以下の現役幕内力士が、それぞれ露払いと太刀持ちを務める場合もあった。
大関が務めた例としては北勝海信芳の露払い小錦八十吉のように、当時の一人横綱・曙太郎に次ぐ大関として採用されたもの、また北の湖敏満の露払い・北天佑勝彦、武蔵丸光洋の太刀持ち武双山正士のように、同部屋の現役大関が務めるというものもある。さらにこの両パターンを合わせ持つ例として、隆の里俊英の露払い若嶋津六夫(同じ二子山部屋、太刀持ちは当時一人横綱の千代の富士貢)がある。なお、現役横綱が2人以上存在しても、休場が出た場合には三重ノ海剛司(2代若乃花幹士が休場のため、露払い大関千代の富士)、曙太郎(貴乃花光司が休場のため、露払い大関武双山)のように、大関が務める場合がある(なお、前出・北の湖の露払い北天佑も、横綱・隆の里が休場しているという事情がある)。
こうした現役横綱の休場や不在が顕著になることにより、同部屋又は同一門で関脇以下の現役幕内力士が露払い・太刀持ちを務める例も現れる。1968年の佐田の山晋松(露払い福の花孝一・太刀持ち海乃山勇)の場合は大鵬幸喜・柏戸剛の両横綱が休場したことにも起因する。また1992年には大乃国康(露払い隆三杉太一・太刀持ち三杉里公似)・旭富士正也(露払い旭里憲治・太刀持ち旭道山和泰)と、同年のうちに2例続く事態が生じたが、これは同年5月に一人横綱だった北勝海が引退し、60年ぶりの横綱不在の時期を迎えたことによるものだった。
ところが、2003年の貴乃花光司の際には武蔵丸光洋(実際は前場所を休場)・朝青龍明徳と現役横綱が2人いたにも拘らず、露払い・太刀持ちのいずれも同部屋から貴ノ浪貞博と安芸乃島勝巳(直前に引退したため年寄・藤島)が選ばれた。その後に引退した横綱もこうした方法を半ば踏襲しており、近年、引退相撲における横綱土俵入りの露払いと太刀持ちは、従来の現役横綱を優先した原則が薄れる傾向にある。2014年現在で3横綱が揃った土俵入りは、2000年の若乃花勝(露払い貴乃花・太刀持ち曙)が最後である。
以下に今までの引退相撲における横綱土俵入りを示す。
- 常陸山谷右エ門(1914年(大正3年)5月場所後) 露払:梅ヶ谷藤太郎 (2代) 太刀持:太刀山峯右エ門
- 2代梅ヶ谷藤太郎(1915年(大正4年)6月場所後) 露払:鳳谷五郎 太刀持:太刀山峯右エ門
- 太刀山峯右エ門(1918年(大正7年)1月場所後) 露払:鳳谷五郎 太刀持:大錦卯一郎
- 栃木山守也(1926年(大正15年)1月場所前) 露払:3代西ノ海嘉治郎 太刀持:常ノ花寛市
- 男女ノ川登三(1942年(昭和17年)1月場所後) 露払:羽黒山政司 太刀持:双葉山定次
- 双葉山定次(1946年(昭和21年)11月場所後) 露払:照國万藏 太刀持:羽黒山政司
- 安藝ノ海節男(1947年(昭和22年)6月場所後) 露払:照國万藏 太刀持:羽黒山政司
- 前田山英五郎(1950年(昭和25年)5月場所後) 露払:東富士欽壹 太刀持:羽黒山政司
- 照國万藏(1953年(昭和28年)5月場所後) 露払:鏡里喜代治 太刀持:東富士欽壱
- 羽黒山政司(1954年(昭和29年)1月場所後) 露払:鏡里喜代治 太刀持:千代の山雅信
- 鏡里喜代治(1958年(昭和33年)5月場所後) 露払:栃錦清隆 太刀持:千代の山雅信
- 吉葉山潤之輔(1958年(昭和33年)5月場所後) 露払:栃錦清隆 太刀持:千代の山雅信
- 千代の山雅信(1959年(昭和34年)5月場所後) 露払:若乃花幹士 太刀持:栃錦清隆
- 栃錦清隆(1960年(昭和35年9月)場所後) 露払:朝潮太郎 太刀持:若乃花幹士
- 朝潮太郎(1962年(昭和37年)5月場所後) 露払:柏戸剛 太刀持:大鵬幸喜
- 初代若乃花幹士(1962年(昭和37年)9月場所後) 露払:柏戸剛 太刀持:大鵬幸喜
- 栃ノ海晃嘉(1967年(昭和42年)5月場所後) 露払:柏戸剛 太刀持:大鵬幸喜
- 佐田の山晋松(1968年(昭和43年)5月場所後) 露払:福の花孝一△ 太刀持:海乃山勇△
- 柏戸剛(1970年(昭和45年)1月場所後) 露払:玉の海正洋 太刀持:北の富士勝昭
- 大鵬幸喜(1971年(昭和46年)9月場所後) 露払:北の富士勝昭 太刀持:玉の海正洋
- 琴櫻傑将(1975年(昭和50年)1月場所後) 露払:輪島大士 太刀持:北の湖敏満
- 北の富士勝昭(1975年(昭和50年)1月場所後) 露払:輪島大士 太刀持:北の湖敏満
- 三重ノ海剛司(1981年(昭和56年)5月場所後) 露払:千代の富士貢○ 太刀持:北の湖敏満
- 輪島大士(1981年(昭和56年)9月場所後) 露払:若乃花幹士(2代) 太刀持:北の湖敏満
- 2代若乃花幹士(1983年(昭和58年)5月場所後) 露払:北の湖敏満 太刀持:千代の富士貢
- 北の湖敏満(1985年(昭和60年)9月場所後) 露払:北天佑勝彦○ 太刀持:千代の富士貢
- 隆の里俊英(1986年(昭和61年)5月場所後) 露払:若嶋津六夫○ 太刀持:千代の富士貢
- 千代の富士貢(1992年(平成4年)1月場所後) 露払:旭富士正也※ 太刀持:北勝海信芳
- 大乃国康(1992年(平成4年)5月場所後) 露払:隆三杉太一△ 太刀持:三杉里公似△
- 旭富士正也(1992年(平成4年)9月場所後) 露払:旭里憲治△ 太刀持:旭道山和泰△
- 北勝海信芳(1993年(平成5年)1月場所後) 露払:小錦八十吉○ 太刀持:曙太郎
- 若乃花勝(2000年(平成12年)9月場所後) 露払:貴乃花光司 太刀持:曙太郎
- 曙太郎(2001年(平成13年)9月場所後) 露払:武双山正士○ 太刀持:武蔵丸光洋
- 貴乃花光司(2003年(平成15年)5月場所後) 露払:貴ノ浪貞博△ 太刀持:安芸乃島勝巳△※
- 武蔵丸光洋(2004年(平成16年)9月場所後) 露払:雅山哲士△ 太刀持:武双山正士○
- 朝青龍明徳(2010年(平成22年)9月場所後) 露払:朝赤龍太郎△ 太刀持:日馬富士公平○
○当時大関 △当時幕内(関脇以下) ※ なお、横綱・旭富士と幕内・安芸乃島の二人は当時引退直後
還暦土俵入り
テンプレート:Main 横綱経験者が還暦(60歳)を迎えた際に、長寿祝いとして行われる土俵入りを還暦土俵入りという。通常の横綱土俵入りでの白い綱に対して、還暦土俵入りでは特別に赤い綱を締めて土俵入りを披露する。露払い・太刀持ちを横綱経験者が務める場合も多く、その際には自らも白い綱を締めて土俵に上がる。
1937年の太刀山峯右エ門が第1号であり、2014年までに9人の横綱が還暦土俵入りを披露している。また、体調不良などの事情で還暦土俵入りを行わなかった場合には、赤い綱のみを作成している横綱もいる。
脚註
関連項目
テンプレート:Sumo-stub- ↑ 彦山光三は横綱土俵入りを「手数入り」(でずいり)と称しており、読売新聞社の相撲雑誌『大相撲』では「手数入り」の表記で統一されていた。
- ↑ 2013年9月場所後の白鵬の横綱土俵入りについて、3回目の四股を踏む前の左脚を上げる際に、右腕を上げる動作を省略していたと、相撲ファンからクレームが付いたことがある。これについて白鵬は「(自らが尊敬する大横綱である)双葉山の土俵入りに倣い、5年前から所作を変えた」と発言、最終的には黙認する形となった白鵬の土俵入りに異論、「所作省略」との指摘 読売新聞 2013年10月5日
- ↑ 朝日新聞2013年11月25日付13面記事
- ↑ 本来は大関でも良いが、本場所で大関が務めた事例は大鵬の太刀持ちを大麒麟將能が務めたくらいで、あまり見られない。ただし、新横綱として明治神宮で土俵入りを奉納する際、同部屋の大関が務めることがある(例:1978年5月の2代若乃花で太刀持ち貴乃花健士、1983年7月の隆の里で太刀持ち若島津六男、1994年11月の貴乃花で露払い貴ノ浪・太刀持ち若乃花勝)。
- ↑ 男女ノ川(佐渡ヶ嶽部屋)が旭川幸之丞(立浪部屋)を、双葉山(立浪部屋→双葉山道場)が露払い東富士と太刀持ち前田山(両者とも高砂部屋)を、北の富士(九重部屋)が高鐵山孝之進(朝日山部屋)を、千代の富士(九重部屋)が高望山大造(熊ヶ谷部屋)を、北勝海(九重部屋)が旭道山和泰(大島部屋)を、曙(東関部屋)が魁皇博之(友綱部屋)を、朝青龍(高砂部屋)が安馬公平(安治川部屋)を、白鵬(宮城野部屋)が翔天狼大士(藤島部屋)、豊ノ島大樹(時津風部屋)、臥牙丸勝(木瀬部屋)、里山浩作(尾上部屋)、時天空慶晃(時津風部屋)を、日馬富士(伊勢ヶ濱部屋)が時天空慶晃(時津風部屋)をそれぞれ起用したケースがある。
- ↑ この件について第61代横綱・北勝海信芳(取材当時、八角広報部長)は「大銀杏でなければ駄目というルールはないが、見栄えの問題」と語っている(日刊スポーツ 2014年1月25日付紙面より。まだ髷が結えなかった遠藤聖大の活躍の受け、同じ一門である白鵬の土俵入りで露払い・太刀持ちを務めないのかという問いに対して)。
- ↑ 2014年5月場所の例。この日は東正横綱・白鵬と東2番目の横綱・鶴竜の対戦が結び前に組まれた。
- ↑ 実際、不知火型の横綱が誕生するたびに、雲龍型との差異を解説する意味でこうした報道がされる傾向にある。「せり上がりの違いで、雲龍型は左ワキ腹に手を当てて守りを、右手を広げることで攻めを表し、不知火型は両手を広げることで激しい攻撃を表す」といった紋切り型の説明がなされることが多い。
- ↑ 相撲評論家の池田雅雄は、現役時代の吉葉山に「ワシの不知火型は、攻撃ばかりで邪道だと彦山(光三)氏が言うが、本当か?」と心配げに質問されたことがあり、そのいわれはまったくタワイのないことから出たのだと、秀ノ山の話を伝えて「邪道でない」と説明し、安心させたことがあったという。「不知火=攻撃型」という虚説を鵜飲みにしてメディアに書くのはナンセンスだと指摘している。
- ↑ 10.0 10.1 なお、2014年に成立した貴乃花一門はまだ横綱昇進者がまだいないので土俵入りの型についてはっきり決まっていない。
- ↑ 現役の雲龍型横綱が不在の中でも、公の場での雲龍型土俵入り披露が3回存在した。2010年10月3日に国技館で行われた朝青龍引退相撲での最後の土俵入り、2011年12月4日に白鵬が1回限定で披露した宇佐神宮で双葉山生誕100周年式典、2013年6月9日に北の湖理事長が国技館で披露した還暦土俵入りである。
- ↑ 平成19年五月場所 支度部屋より その2テンプレート:リンク切れ 大相撲コラム集 - 大相撲ホームページ:下家義久筆
- ↑ 但し番付上では1974年7月場所も合わせて、横綱在位は9場所となる。
- ↑ 横綱の地位が明文化された1909年から2014年1月現在まで不知火型の横綱は11人のみ
- ↑ 但し番付上では1988年1月場所も合わせて、横綱在位は9場所となる。
- ↑ 史上初めて並び立つ不知火横綱 師匠から弟子へ型を伝授
- ↑ その後玉の海は1971年9月場所に強行出場して12勝を挙げ、同場所後に入院し虫垂炎の緊急手術を受けたが、同年10月11日に急性冠症候群・右肺動脈幹血栓症により急逝。享年27。
- ↑ 横綱は東京場所毎に新調するので以降の不知火型土俵入りに支障は生じない。
- ↑ 白鵬 双葉山生誕地で雲竜型初披露「これが最後」- スポーツニッポン・2011年12月5日閲覧
- ↑ 公の場での雲龍型土俵入りは、2010年10月3日に朝青龍が引退相撲で披露して以来、1年2か月ぶりのことだった。
- ↑ 一方で伝記『太刀山』(1917年、p52)には、引退相撲における横綱土俵入りについて、「太刀山は鬼面山の式に拠れる土俵入を為し」と記述されている。
- ↑ 不知火諾右衛門のみならず、雲龍にも両手を広げての土俵入り姿が描かれた錦絵が現存する。この両者とも、「立ってから両手を広げる」型と記録される不知火光右衛門と違って、せり上がりの詳細を示す証言などがないので、錦絵の場面がせり上がりとは必ずしも断定できない。
- ↑ 毎年4月に開催されている『靖国神社奉納大相撲』にて行われている。
- ↑ 過去には1998年の長野オリンピック開会式に於いて、曙太郎が横綱土俵入りを行った例や、1995年の硫黄島戦没者追悼式に於ける貴乃花光司と曙太郎の日米出身両横綱による土俵入りが行われた例が存在する。