北の湖敏満
テンプレート:Infobox 力士 北の湖 敏満(きたのうみ としみつ、1953年5月16日 - )は、北海道有珠郡壮瞥町出身の元大相撲力士。第55代横綱。本名は小畑 敏満(おばた としみつ)。日本相撲協会理事長。息子は、俳優の北斗潤。
目次
来歴
誕生
1953年5月16日、有珠郡の農業協同組合の家で四男として誕生した。奇しくもこの日からNHKによって初めて大相撲中継が行われた[1]。当時は同じ北海道松前郡出身の横綱・千代の山の全盛期だった。
幼い頃から食欲旺盛だったことから堅太りで、中学1年生で既に173cm・100kgに達していた。この恵まれた体格であってもただの巨漢ではなくスポーツ万能、特に柔道には滅法強く、中学1年生で初段となり、町の柔道大会「胆振西部大会」では体格も倍以上あった高校生を破って優勝した。
入門~スピード出世
「北海道南部に怪童あり」との噂を聞きつけた多くの相撲部屋から熱心に勧誘されたが、女将が手編みの靴下を送ってくれたことで三保ヶ関部屋に入門し、北海道から上京して墨田区立両国中学校へ転校した。
1967年1月場所に三保ヶ関の長男であり、後に大関となる増位山とともに初土俵を踏む。四股名の「北の湖」は、故郷にある洞爺湖に因んで三保ヶ関が命名した。湖を「うみ」と読ませたきっかけは水上勉の小説「湖の琴」(うみのこと)からの着想という。改名の多い角界においては、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことのない珍しい力士だった。[2]
中学生の頃から得意だった柔道を始め、野球・水泳・スキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世し、最年少昇進記録(当時)を次々に樹立。三段目で一度だけ7戦全敗したことがあるが[3]、中学卒業間際の1969年3月には15歳9ヶ月で幕下に昇進するなど「北の怪童」の異名を取り、十両以下の優勝(下位優勝)がないまま、1971年5月場所に17歳11ヶ月で十両に昇進。
入幕~横綱へ昇進
1972年1月場所には新入幕(18歳7ヶ月)を果たし、5勝10敗と負け越して十両に陥落したがすぐに再入幕。1973年には19歳7ヶ月で小結に昇進、9月場所は小結で8勝7敗と勝ち越し、11月場所では関脇に昇進するが、9勝2敗で迎えた12日目に足首を骨折する重傷を負った。このまま休場を予想されたが千秋楽まで出場して10勝を挙げたことが自信となり、後年まで心の支えとなった。
1974年1月場所では14勝1敗で初優勝を果たして大関に昇進すると5月場所で13勝2敗で2回目の優勝、さらに7月場所でも13勝2敗の成績で優勝決定戦まで進んで敗れたものの、場所後に21歳2ヶ月の若さで横綱へ昇進した[4]。横綱昇進が決まると、三保ヶ関はかつて自分のために後援会が用意しながら使うことがなかった三ツ揃いの化粧まわしを提供し、北の湖はこれを使い続けた。横綱土俵入りは雲龍型を選び、その稽古は春日野の指導で行われた。自身の弟子ではないにも関わらず理事長自ら指導した理由は、春日野部屋と三保ヶ関部屋は同じ出羽海一門で、春日野は以前から北の湖をかわいがっており、実子がいないために養子に迎えたいと思っていた程であることも影響している。土俵入りは指導を務めた春日野の影響を受けて大抵50秒台で終わるようなテンポの速いものに仕上がった。
横綱時代
1977年3月場所は全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、14日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉に勝利して優勝を決めた瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞う異常な事態となった。強い横綱が敗れて金星を提供した際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというケースは極めて異例だったが、北の湖は動じずに千秋楽も勝利して自身初の全勝優勝を果たしている。これ以降は5場所連続優勝(1978年)を果たすなど「憎らしいほど強い横綱」と言われるようになり、敗れると観衆が湧いた。
北の湖が観衆から「憎らしい」「ふてぶてしい」などと言われるようになった主な理由は、倒した相手が起き上がる際、北の湖が相手に一切手を貸さず、相手に背を向けてさっさと勝ち名乗りを受けてしまう態度が“傲慢”と見なされていたためであるという。しかし、この行動の理由について、北の湖本人は「自分が負けた時に相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」と明確に説明していた。そうした彼の人柄をよく知る角界の関係者たちの間では誠実な力士として高い評価を受けていたものの、一般の観衆からは悪役のような扱いを受けることが多く、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、テンプレート:要出典範囲(ただし「巨人・大鵬・卵焼き」ほど定着することはなかった)。また、北の湖と同時代には、絶大な人気を誇った美男力士(貴ノ花・千代の富士・蔵間など)が多く、そういった人気者を容赦なく倒す北の湖は必然的に「敵役」と見なされる運命にあった。それでも逆に、真摯に土俵を務める北の湖の姿や圧倒的勝負強さに魅了される好角家も少なくなかった。
輪島との対戦~輪湖時代
先輩横綱である輪島は最高の好敵手であり、「輪湖(わうみ・りんこ)時代」を築いた。輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角で、優勝は両者合わせて38回(柏鵬の37回を上回る)。特に1975年9月 - 1978年1月までの15場所間の千秋楽結びの一番は全て「輪島 - 北の湖」という対戦で、千秋楽の結び対戦連続回数15回は史上1位である(2位は白鵬 - 日馬富士の10回、3位は朝青龍 - 白鵬の7回)。この対戦は、右上手十分の北の湖に対して、輪島は左下手投げを得意としたこともあり、立ち会いからガップリ四つの横綱同士の力相撲となることが常だった。ちなみに、輪島 - 北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、曙 - 貴乃花の27回に次いで、史上2位。
1976年・1977年は12場所のうち、輪島・北の湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月・1976年11月・1977年1月・1977年11月)あり、両者とも優勝圏内による対決が3度(1976年5月・1976年7月・1977年7月・優勝決定戦が1度(1976年5月))実現した。優勝も輪島5回・北の湖5回と実力は全く伯仲して、この時期に真の「輪湖時代」を迎えたといって良い。
輪島・北の湖対戦は、1972年7月場所 - 1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上2位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(相星決戦が4回)、水入りが3回と数多くの名勝負が展開された。以下に、輪島・北の湖の全対戦を記す。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
場所 | 対戦日 | 輪島勝敗 (通算成績) |
北の湖勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1972年7月場所 | 13日目 | ○(1) | ●(0) | 高見山 | 初対戦 |
1972年9月場所 | 12日目 | ○(2) | ●(0) | 北の富士 | |
1972年11月場所 | - | - | - | 琴桜 | 対戦なし。輪島、大関昇進 |
1973年1月場所 | 初日 | ●(2) | ○(1) | 琴桜 | |
1973年3月場所 | 10日目 | ○(3) | ●(1) | 北の富士 | |
1973年5月場所 | 4日目 | ○(4) | ●(1) | 輪島(2) | |
1973年7月場所 | 7日目 | ○(5) | ●(1) | 琴桜 | 輪島、横綱昇進 |
1973年9月場所 | 8日目 | ○(6) | ●(1) | 輪島(3) | |
1973年11月場所 | 5日目 | ○(7) | ●(1) | 輪島(4) | |
1974年1月場所 | 初日 | ●(7) | ○(2) | 北の湖(1) | |
1974年3月場所 | 12日目 | ●(7) | ○(3) | 輪島(5) | 北の湖、大関昇進 |
1974年5月場所 | 千秋楽 | ○(8) | ●(3) | 北の湖(2) | |
1974年7月場所 | 千秋楽 | ○(9) | ●(3) | 輪島(6) | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。輪島が勝利。優勝決定戦も輪島が勝利。 |
1974年9月場所 | 千秋楽 | ○(10) | ●(3) | 輪島(7) | 北の湖、横綱昇進 |
1974年11月場所 | 千秋楽 | ○(11) | ●(3) | 魁傑 | |
1975年1月場所 | 千秋楽 | ○(12) | ●(3) | 北の湖(3) | |
1975年3月場所 | - | - | - | 貴ノ花 | 輪島休場により対戦なし。 |
1975年5月場所 | - | - | - | 北の湖(4) | 輪島休場により対戦なし。 |
1975年7月場所 | - | - | - | 金剛 | 輪島休場により対戦なし。 |
1975年9月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(4) | 貴ノ花 | |
1975年11月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(5) | 三重ノ海 | |
1976年1月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(6) | 北の湖(5) | 千秋楽2敗同士の相星決戦 |
1976年3月場所 | 千秋楽 | ○(13) | ●(6) | 輪島(8) | |
1976年5月場所 | 千秋楽 | ○(14) | ●(6) | 北の湖(6) | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦、優勝決定戦は北の湖が勝利。 |
1976年7月場所 | 千秋楽 | ○(15) | ●(6) | 輪島(9) | 千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦 |
1976年9月場所 | 千秋楽 | ○(16) | ●(6) | 魁傑 | |
1976年11月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(7) | 北の湖(7) | 千秋楽1敗同士の相星決戦 |
1977年1月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(7) | 輪島(10) | 千秋楽2敗同士の相星決戦 |
1977年3月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(8) | 北の湖(8) | 水入りの勝負で北の湖が勝利。 |
1977年5月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(9) | 若三杉 | |
1977年7月場所 | 千秋楽 | ○(18) | ●(9) | 輪島(11) | 千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦 |
1977年9月場所 | 千秋楽 | ●(18) | ○(10) | 北の湖(9) | |
1977年11月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(10) | 輪島(12) | 千秋楽1敗同士の相星決戦 |
1978年1月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(11) | 北の湖(10) | |
1978年3月場所 | - | - | - | 北の湖(11) | 輪島休場により対戦なし。 |
1978年5月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(12) | 北の湖(12) | |
1978年7月場所 | 14日目 | ●(19) | ○(13) | 北の湖(13) | 13戦全勝同士で対戦し水入りの勝負で北の湖が勝利。 |
1978年9月場所 | - | - | - | 北の湖(14) | 輪島休場により対戦なし。 |
1978年11月場所 | 14日目 | ○(20) | ●(13) | 若乃花(2代) | |
1979年1月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(14) | 北の湖(15) | |
1979年3月場所 | 14日目 | ●(20) | ○(15) | 北の湖(16) | 水入りの勝負で北の湖が勝利。 |
1979年5月場所 | 14日目 | ○(21) | ●(15) | 若乃花(2代) | |
1979年7月場所 | 13日目 | ○(22) | ●(15) | 輪島(13) | |
1979年9月場所 | 千秋楽 | ●(22) | ○(16) | 北の湖(17) | |
1979年11月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(17) | 三重ノ海 | |
1980年1月場所 | - | - | - | 三重ノ海 | 輪島休場により対戦なし。 |
1980年3月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(18) | 北の湖(18) | |
1980年5月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(19) | 北の湖(19) | |
1980年7月場所 | - | - | - | 北の湖(20) | 輪島休場により対戦なし。 |
1980年9月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(20) | 若乃花(2代) | |
1980年11月場所 | 13日目 | ○(23) | ●(20) | 輪島(14) | |
1981年1月場所 | 14日目 | ●(23) | ○(21) | 千代の富士 |
- 北の湖の横綱昇進前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。
- 1974年9月場所 - 1977年11月場所までは輪島の10勝7敗で、輪島の優勢だった(優勝回数は1977年11月場所までで輪島12回、北の湖9回)。
- 1978年1月場所以降は北の湖の11勝4敗で、北の湖の圧倒的優勢だった(優勝回数は1981年1月場所までで輪島2回、北の湖11回)。1978年1月場所以降は、力関係が完全に逆転し、北の湖の独走時代だった。
1976年 - 1977年の輪島・北の湖の成績は下記の通り。
場所 | 輪島成績 | 北の湖成績 | 優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1976年1月場所 | 12勝3敗 | 13勝2敗 | 北の湖 | 千秋楽2敗同士相星決戦で北の湖が勝利。 |
1976年3月場所 | 13勝2敗 | 10勝5敗 | 輪島 | 千秋楽対戦は輪島勝利。 |
1976年5月場所 | 13勝2敗 | 13勝2敗 | 北の湖 | 千秋楽に輪島2敗、北の湖1敗で対戦し、輪島が勝利。優勝決定戦は北の湖が勝利。 |
1976年7月場所 | 14勝1敗 | 12勝3敗 | 輪島 | 千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦し、輪島が勝利。 |
1976年9月場所 | 12勝3敗 | 10勝5敗 | 魁傑 | 千秋楽対戦は輪島が勝利。 |
1976年11月場所 | 13勝2敗 | 14勝1敗 | 北の湖 | 千秋楽1敗同士相星決戦で北の湖が勝利。 |
1977年1月場所 | 13勝2敗 | 12勝3敗 | 輪島 | 千秋楽2敗同士相星決戦で輪島が勝利。 |
1977年3月場所 | 12勝3敗 | 15勝0敗 | 北の湖 | 千秋楽対戦は北の湖が勝利。 |
1977年5月場所 | 11勝4敗 | 12勝3敗 | 若三杉 | 千秋楽対戦は北の湖が勝利。 |
1977年7月場所 | 15勝0敗 | 13勝2敗 | 輪島 | 千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦。輪島が勝利。 |
1977年9月場所 | 10勝5敗 | 15勝0敗 | 北の湖 | 千秋楽対戦は北の湖が勝利。 |
1977年11月場所 | 14勝1敗 | 13勝2敗 | 輪島 | 千秋楽1敗同士相星決戦で輪島が勝利。 |
- 1976年
輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)
- 1977年
輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)
このように、1976年 - 1977年の2年12場所間で両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち相星決戦は4度)。また、1974年7月場所も千秋楽で輪島2敗・北の湖1敗で対戦が実現(この時は輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制して逆転優勝。北の湖は場所後に横綱昇進)。
ケガとの戦い
2013年5月場所で白鵬に破られるまで最長記録であった「37場所連続2桁勝利」を続けていた1975年9月場所から1981年9月場所までの6年間は、ほぼ全ての場所で終盤まで優勝争いの中心に存在していた。また、初土俵から1度も休場しない抜群の安定感を誇ったが、1981年の夏巡業中に膝を痛めたことが響き、同年11月場所9日目でついに不戦敗・途中休場した。ここで通算(幕内)連続勝ち越し50場所・幕内連続2桁勝利37場所とそれぞれストップするが、昇進後7年間も休場しない横綱は他に例がなかった。
1982年1月場所は13勝2敗で優勝したものの、次の3月場所は11勝4敗にとどまる。これ以降は足や腰の故障[5]との戦いが続き、5月場所は途中休場、7月場所は初の全休となる。休場明けの9月場所は初日に大寿山に吊り出されるなど、全盛期には考えられない負け方で敗れた。その後は勝ち進んで立ち直ったかに見えたが、終盤に崩れて10勝5敗に終わった。11月場所と1983年1月場所は途中休場、さらに3月から7月場所にかけては3場所連続で全休。このように、休場の連続で並の横綱なら完全に引退に追い込まれているような状況にも関わらず、北の湖にはそれが許された。その理由として、長年に渡って相撲界を支えてきた功績を評されてのものだった。
しかし、進退を賭して臨むこととなった1983年9月場所は初日から4連勝したが、その相撲で大ノ国を破った際に脚を故障、再び途中休場した。事情はどうであれ「休場=即引退」という状況の11月場所は11勝4敗、終盤まで優勝争いに加わって引退危機を脱したが、1984年1月場所では8勝7敗に終わり、場所後の横綱審議委員会でも「気の毒で見ていられない」「引退したほうが良い」などの声が相次いだ。3月場所は10勝5敗と、かつてなら批判に晒されたこの成績も「良くやった」と見る向きが多かったことからも、北の湖に対する評価の程が理解できる。ついに第一人者の座を千代の富士・隆の里に明け渡し、完全に世代交代かと思われていた5月場所、久々の優勝を15戦全勝で達成した。この場所13日目に弟弟子の北天佑が隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したが、控えに座る北の湖に対して北天佑が土俵上で微笑むと、北の湖が笑みを返したシーンは特に有名。結果的にこれが自身最後の優勝となった。
現役引退
全盛期を過ぎて体力が衰えたことへの同情から、この時期になるとかつての悪役イメージは薄れ、勝って拍手が贈られることもあった。5月場所の全勝優勝を期に、さらなる復活を期待された北の湖だったが長くは続かず、7月場所は序盤こそ前場所の勢いを継続するかのように快勝の連続だったが11勝4敗に留まり、これが最後の皆勤場所となった。場所前には好調が伝えられた9月場所は横綱昇進後で初となる初日からの連敗で途中休場、11月場所は7日目から2場所連続で途中休場した。この時には引き際を疑問視する声が相次いだ。
1985年1月場所、こけら落としとなった両国国技館の土俵に現役で臨んだが、ケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかった。それでも、国技館建設に携わって開館を心待ちにしていた春日野から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場。国技館での北の湖は、初日の旭富士、2日目の多賀竜と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗。所有していた年寄名跡・清見潟を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった)。
引退表明後、協会より現役時代の功績に対して一代年寄・北の湖が授与された。奇しくも、土俵上で最後の黒星を喫した多賀竜からは、前場所に現役最後の白星を挙げてもいる。
引退後
現役時代に所属していた三保ヶ関部屋には、既に三保ヶ関の長男である増位山太志郎が部屋の後継者となることが暗黙の了解となっており、北の湖も自身の抜群の実績と人柄が評価され、現役引退後の独立と新部屋創設は規定路線とされていた。当人やその周囲は、大坂相撲ゆかりで三保ヶ関とも縁のある小野川の襲名と小野川部屋再興の意向を持っていたが、前述したとおり現役時の実績から一代年寄「北の湖」を贈られ、これを受け入れて北の湖部屋を創設。北の湖部屋は同じく一代年寄である大鵬の「大鵬部屋」(現・大嶽部屋)と同じ江東区清澄に50mほどの距離で開かれ、地元住民からはこの両部屋が面する通りを「横綱通り」と呼び習わされた。
引退相撲の直後に三保ヶ関と北の湖の父が1日違いで亡くなり、葬儀が同じ日に行われることになった。この時は部屋関係者が帰郷を勧める中、「(師匠は)自分にとっては親以上の恩人」として、親戚中に手紙を出して父の葬儀を欠席し、師匠の葬儀へ出席した。
師匠として、6人の関取を輩出している(内弟子・他部屋からの移籍を含むと部屋自体からの関取は14人)。2012年3月場所で臥牙丸勝が小結となり、部屋念願の三役力士が誕生した。[6]
日本相撲協会では引退の2年後に審判委員に抜擢されたことを皮切りに1988年には監事(現・副理事)として審判部副部長などを務め、1996年には理事に昇格。1998年には事業部長に就任し[7]、2002年に第9代理事長へ就任した(2005年5月30日に二子山が死去した後は、翌年初場所まで事業部長兼務)。
日本相撲協会理事長として
理事長としては、
- 境川が実施した「年寄株貸借の禁止」という改革を廃止して復活
- 「協会自主興行巡業」も復活
- 総合企画部の設置
- 広報部の強化によるファンサービスの充実
- 土俵の充実を目指し、幕内・十両の定員をそれぞれ東西1枚(2人)増員させた代わりに公傷制度を廃止
- 大韓民国・中華人民共和国巡業などの海外公演を実行
するなどした。
2006年2月より理事長3期目を迎え、協会の事業部長に二所ノ関一門の先輩理事を2期据えてきたが、3期目は同じ出羽海一門の武蔵川を事業部長にすることで「攻め」の姿勢も見せている。また、勧進元制に復しながらも実績不振に陥っている巡業を強化するため、2期目まで監事2名だった巡業部副部長を契約推進担当(高田川)を含めた3名にして巡業部スタッフを強化した。
2006年5月25日放送のフジテレビ「クイズ$ミリオネア」に、息子の北斗潤と一緒に出演した(輪島も応援として出演)。
2006年12月31日に小野川の年寄名跡を再取得した(現役時に一度取得していたが厳雄に譲っていた)。
2007年、時津風部屋で序ノ口力士が時津風や兄弟子から集団リンチを受けて死亡した時津風部屋力士暴行死事件が起きたことを受けて、文部科学省は日本相撲協会と北の湖に対し、事件の経緯や隠蔽工作の有無などについての説明を求めた。北の湖は9月29日に文部科学省を訪れて経緯を説明するとともに、協会の管理に不備があったことを認め、協会を代表して渡海紀三朗文部科学大臣に謝罪した。10月5日には時津風を解雇した。協会各部に対しては事件の真相究明と再発防止、そして過去に類似した事件がなかったかどうかについての調査を指示、さらに「再発防止検討委員会」を設置した。
2007年7月30日、朝青龍のバッシング騒動について、朝青龍と師匠の高砂から説明と謝罪を受ける。同年8月1日、朝青龍に対して2場所の出場停止と4ヶ月間の自宅・部屋・病院以外で特別な事情がない限り外出を認めない謹慎、4ヶ月30%減俸の処分を下す。
2007年9月10日、東京相撲記者クラブ会友である杉山邦博の相撲取材証を、北の湖敏満名義で没収した。2007年7月から続いていた朝青龍の問題に関し、テレビ番組を通じて朝青龍の謝罪を求め、間接的に日本相撲協会を批判を展開したことが理由とされる。この件に関しては記者クラブが抗議し、他の報道機関からも「言論統制」と非難された。会友ではなく「相撲評論家」の肩書きだったのが問題だったとして、12日になって措置は撤回して取材証は杉山へ返還されたが、今後は「記者クラブに一任した上で」としたが、これからも同じような没収をする可能性にも触れたため、記者クラブとは溝が深まった。
2008年2月、定例の役員選挙で出羽海一門代表として理事に再選、役員の互選により理事長に4選された。広報部長に九重、審判部副部長に貴乃花を抜擢した。しかし、2月7日に前・時津風が愛知県警察に傷害致死容疑で逮捕されたことを受け、就任したばかりの九重と伊勢ノ海を報告のために文部科学省に行かせたことは、「なぜ理事長自らが文部科学省に行って報告しないのか」と批判を呼んだ。
理事長辞任から史上初の再登板・在任中還暦土俵入り
2008年9月8日、弟子の白露山の関与も明らかとなった大相撲力士大麻問題が世間の耳目を集める中で開催された日本相撲協会の臨時理事会において、理事長を辞任して理事(大阪場所担当部長)に降格することを発表、後任理事長には武蔵川が選出された。2010年8月に後任の武蔵川が辞任した際の理事長選挙に再び立候補したものの、4票しか獲得できず、8票獲得した放駒に敗れた。2011年4月6日、大相撲八百長問題で弟子が関与したことを受けて、理事から役員待遇委員(大阪場所担当部長代理)に降格。
2012年1月30日に行われた日本相撲協会理事選挙に再び立候補し、理事長に当選。過去に辞任した理事長が復帰を果たしたケースは、日本相撲協会史上初となる。
2013年5月16日には満60歳の還暦を迎え、同年5月場所後の6月9日に両国国技館で、記念パーティー開催と赤い綱を締めての還暦土俵入りを披露した。なお、土俵入りでの太刀持ちは千代の富士(現九重親方・第58代横綱)、露払いは貴乃花(現一代年寄・第65代横綱)と、北の湖同様幕内20回以上優勝した元大横綱がそれぞれ務めている[8]。また、日本相撲協会の理事長在任中に還暦土俵入りを行ったのは、1988年4月の二子山親方(第45代横綱・初代若乃花)以来25年ぶり4人目[9]。
還暦土俵入りに際して、直腸癌を患っていたことが明らかになった。大相撲八百長問題を受けて2011年3月場所が中止に追い込まれた時期に医師の診断を受けており、2012年8月には内視鏡手術を受けたと報道されている。[10]療養に専念すべきところだったが、大相撲の人気回復を目標として理事長職に再登板するなど職務に徹してきた。[11]だが2013年5月場所以降は検査入院するなど体調を崩すことがあり、広報部の玉ノ井副部長(元大関・栃東)は「数値が正常値まで戻っていない」と説明する苦しい状況であった。13年末にも大腸ポリープを切除する手術を受け当初は翌2014年明けから公務に復帰する予定だったが2013年末に腸閉塞を併発し入院を余儀なくされ、2014年1月9日の理事会、評議員会も欠席していた。結局2014年1月場所は初日から7日目までを休場することとなり、復帰までの理事長代行は九重事業部長(元横綱・千代の富士)に任された。[12]その後も回復が遅れ、実際に復帰したのは予定よりも2日遅い場所10日目からであった。[13]2014年1月場所中には「2012年2月にも手術を受けており人工肛門を使用していた時期もある。」とする説も報道された。[14]復帰後も依然として体調が思わしくなく、「寝ていた分、筋肉が落ちた。(土俵上で)ふらついたらいけないからね」という理由で千秋楽恒例の協会あいさつと表彰式での賜杯授与も九重の代行となった。[15]
公益法人移行後初の理事長就任
2014年1月31日、公益法人移行後初となる理事改選で互選により[16]引き続き理事長職を務めることが決定し、これによって評議員の決議を経て発足する新法人の初代理事長に就任する運びとなった。[17]新法人体制の骨子は北の湖体制下で形成されたといい、認定は「当初の予定より1年遅れた」というより「旧制度をなるべく変えない体制で出発するためにあえて遅らせた」という。[18]
新体制には
- 理事会の定数は10人以上15人以下と、旧制度とさほどかわらず
- 退職する予定の親方は5年以内に年寄襲名資格審査委員会へ後継者を推薦
- 先代親方が後継者から顧問料を受け取ることを容認(顧問料の支払いは個人間の裁量による)
- 協会は部屋に対して人材育成業務の委託という新たな契約を策定し、これにより弟子育成を親方に依頼した協会にも一定の責任が生じることになる
などのように財団法人時代の色を残した制度が多数存在する。[18]
- 特に2014年3月~2018年6月(予定)開催の評議員会までを任期とする第1期の評議員7人のうち3人を協会員から選出したことは「主体となる協会側にどちらかと言えば主導権を残す形態を保持」と評されており、公益法人移行における北の湖の最大の功績とされている。[18]
人物
立合いでは手を付ける仕草を見せるだけで全く手を付けない。中腰で低い重心から立合いかちあげるか、右上手を引いて、相手を吹き飛ばすかのように土俵外へ出すのが代表的な取り口。左四つに組み止めての右上手投げには威力があった。
両廻しを充分に引きつけ、腰をよく落としての怒涛の寄り、巨腹に乗せた吊りも得意とし、地力の強さは際立った。一方で巻き替えが上手く、取り組みで常に多用したため、評論家からは「横綱の相撲としてはいかがなものか」と批判された。しかし、安芸ノ海には「あの巻き替えがあるから勝てるのだ」と絶賛されていた。右四つになっても右腕を返して腰を下ろせば盤石で、こうなったときの識者からの評価は高かった。
突っ張りもあり、関脇までは突き押し相撲が主体だったが、足首を怪我してからは四つ相撲に改めた。巨体ながら非常にスピードがあり、器用さも兼ね備え、その相撲には独特の躍動感があった。
がっぷりに弱い上に指が短く上手が切られやすいため胸が合うと上手も取れずもがいてそのまま土俵を割る相撲が多く、太寿山や隆の里などがっぷりの得意な力士は特にこの弱点に付け込むことで北の湖戦で活躍した。廻しが固い力士を相手にする時に指の短さの不利が現れたが、一枚廻しになると廻しを握り付けてそのまま吊り上げるなど逆に怪力ぶりを十二分に活かすことができた。
1984年8月28日、当時の春日野理事長(元横綱・栃錦)が手つき立ち合い徹底を行った9月場所から2場所連続途中休場の挙句、1月場所に引退の憂き目にあった。中腰立ち合いが許されなくなったことで、復調した成績が一気に悪化し出したと見る向きもある。
引退直前に数回対戦したものを除くと、現役時代に北の湖に勝ち越した力士は少ない。ほとんどの力士には大きく勝ち越し、完封もいる。典型的なものは金城(栃光)で、29戦全勝を達成している。金城は取り口にムラがあったと評されるが、関脇まで昇進して横綱と29回も当たる番付を保持しており、決して弱い力士ではない。もう一人、蔵間に対しても17戦全勝と圧倒している。三重ノ海が全盛期の北の湖に何とか勝とうと猫騙しをしたことも話題になったが、奇策は通じず三重ノ海は敗れている。
北の湖は、負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では金剛・黒姫山・麒麟児が挙げられる。後半になると栃赤城・若嶋津・太寿山などがいる。若嶋津とは左がっぷり四つから投げの打ち合い、あるいは巻き替え合い。太寿山には引き技をよく食らい、一度は吊り出しに敗れた。また、現役後半の好敵手千代の富士とは、横綱に昇進してからは分が悪かった。
強烈に強い反面、一度負けた相手に翌場所も連敗するという脆さを見せることがあった。また初顔合わせの相手に取りこぼすことも多かった。4代朝潮とは相性が悪く、7勝13敗(1不戦敗含む)という不本意な成績に終わっている。朝潮との取り組みでは自分の相撲を忘れてしまっていたとコメントしているとともに、遠まわしに「朝潮の顔がおかしくて、力が抜けた」とも言っている。いずれも全盛期を含めてのことである。北の湖はせっかちな点があり、立ち合いまでの所作が速く、相手の所作が遅いといらだちの表情を見せ、制裁の意味からか勝負を急ぐところがあった。朝潮を苦手としたのもこのためとの見方がある。朝潮は立会いまでの動作が遅く、相手が横綱でも合わせようとしないので、北の湖がますます苛立ったのではないかと思われる。
優勝決定戦に弱く、負けて優勝を逃すことが続いた。大関だった1974年7月場所では、横綱昇進を決定的とし2場所連続優勝という花を添えるべく臨んだ千秋楽で、横綱の輪島に本割り・決定戦と連敗。まず負けないだろうと思われた相手でも勝てず、優勝決定戦では初回から4連敗している。1976年5月場所に輪島に勝って決定戦初勝利を挙げると、1978年3月場所・5月場所と2場所続けて若三杉に勝つまで「決定戦に弱い横綱」と評された。通算成績は3勝5敗である(輪島戦1勝1敗、魁傑戦1敗、貴ノ花戦2敗、若三杉戦2勝、千代の富士戦1敗)。千代の富士と決定戦を戦った1981年1月場所のように「自力逆転優勝(直接対決で並び、決定戦で勝つケース)なるか」というところまで、逆転優勝を達成することはなかった。
通算24回の優勝のうち東京場所で16回優勝した(大鵬と並ぶ最多タイ記録)が地方場所では優勝できず、特に横綱昇進直後には「地方場所に弱い」と評されることもあった。結局地方場所の初優勝は横綱昇進から2年以上経った1976年11月場所だった(11月場所での生涯唯一の優勝)。その後は「荒れる春場所」と言われる3月場所で5連覇(1977年 - 1981年)を果たすなどして評価を覆したが、1981年3月場所の優勝を最後に引退までの約4年間地方場所での優勝はなかった。地方場所での優勝は結局8回で、大鵬(東京場所、地方場所共に16回ずつ優勝)、千代の富士(東京場所で13回、地方場所で18回優勝)に比べると、東京場所での強さが目立っていた。
負ける際は、土俵際でしぶとく粘ったりせず、案外あっさりと土俵を割ることも多かった。比較的怪我が少なく、10年以上横綱を務められた理由は、無理な体勢で頑張ることが少なかったからという意見がある。
エピソード
- 小学6年生で既に三保ヶ関が目を付け、「もう少し身長が伸びれば連れに来る。よく寝れば身長は伸びるよ」とアドバイスした。このことを忠実に守って暇さえあれば寝ていたために学業が完全に疎かになったことで両親が悲鳴を上げ、予定を早めて入門したという。
- 入門時にちゃんこで丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べて寝た翌朝、「空腹で眠れなかった」と語ったほどの並外れた大食漢であった。高見山の著書によると両国中時代の北の湖は1限目に部屋から渡された弁当を間食し、2限目以降は同級生から強引な形で次々と弁当を貰い受けて食べていたという。[19]
- 大の酒好きであり、アイスペールにウイスキーやブランデーを注いで仲間たちと回し飲みすることが好きであった。当時の角界の風潮があったにせよ未成年飲酒をしていたとも伝わっており、成人の日に感想を聞かれて「俺、今日から酒を辞める」と話したという逸話は有名である。横綱昇進時にも酒を控えるように横審から注文を付けられたという話が残っている。現在では体調に気を遣っているため若い頃より酒量が遥かに減少している。[20]
- 北の湖は引退後、「(観客から)負けろと言われていた頃はこっちも燃えて来る性格だから良かったのだが、引退間際になって頑張れと言われた時は自分でも情けなかった。そのために勝ちたいという意欲も薄れてきてしまっていた」と述懐している。[21]
- 年間最多勝を1981年まで通算7回も受賞(ただし1976年は77勝13敗の輪島が受賞)したが、これは2013年終了時点においても白鵬と並んで史上最多記録である。
- 関脇・大関昇進・初優勝記録は大鵬に及ばなかったが、十両・幕内・三役の昇進記録はいずれも当時の史上最年少記録。そのいずれもが後に貴乃花に更新されたが、横綱昇進時の最年少記録は現在も保持している。
- 入門当時、北の湖の他にも中学校在学中に入門し、学校に通いながら土俵に上がる力士は多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため特に話題になったとも言われる。1971年11月場所中に日本相撲協会へ正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、入門条件に「中学卒業(義務教育終了)後でなければ入門できない」という条項を加えた。場所後には中学生力士の採用禁止を正式決定している。
- 現役時代の自身の取組の内容は全て完全に記憶しており、親方になってからもメモや対戦表などを一切見ることなく、現役時代の取組について「昭和〇〇年〇〇場所の〇日目は〇〇と対戦して、〇〇の決まり手で勝った(負けた)」などと詳細に説明してみせ、周囲を驚かせている。
- 苦手な物は犬と注射。ちなみに彼が犬を怖がっている理由は、子供の頃に犬に咬まれたためであるという。
主な成績
- 通算成績:951勝350敗107休 勝率.731(通算勝星951は歴代4位)
- 幕内成績:804勝247敗107休 勝率.765(幕内勝星804は歴代3位)
- 横綱成績:670勝156敗107休 勝率.811(横綱勝星670、横綱出場818(不戦敗を除く)とも歴代1位)
- 現役在位:109場所
- 幕内在位:78場所
- 横綱在位:63場所(歴代1位)
- 大関在位:3場所
- 三役在位:4場所(関脇2場所、小結2場所)
- 対横綱戦勝利:42勝(歴代3位)
- 年間最多勝:7回(歴代最多受賞回数、1977年 - 1981年の5年連続最多勝も当時歴代最多タイ記録・現在は白鵬の7年連続に次いで歴代2位)
- 1974年(73勝17敗)、1975年(71勝19敗)、1977年(80勝10敗)、1978年(82勝8敗)、1979年・1980年(共に77勝13敗)、1981年(69勝15敗6休)
- 1978年は当時新記録
- 連続6場所勝利:85勝(1977年9月場所 - 1978年7月場所)
- 幕内連続勝ち越し記録:50場所(歴代1位・通算では武蔵丸の55場所に次いで歴代2位、1973年7月場所 - 1981年9月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:37場所(当時1位・現在は白鵬の41場所(継続中)に次いで歴代2位、1975年9月場所 - 1981年9月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:12場所(当時1位・現在は1位・白鵬の22場所、2位タイ・貴乃花と白鵬の13場所に次いで歴代4位、1976年11月場所 - 1978年9月場所)
- 金星配給:53個(歴代1位)
幕内最高優勝回数24回、連勝記録32勝、幕内での50場所連続勝ち越し、37場所幕内連続2桁勝利の堂々たる記録を持つ。
1978年に記録した年間通算82勝8敗は、2005年の1月 - 11月の年6場所で朝青龍(年間通算84勝)に超えられるまで、27年間も保持された最高記録だった。また、1977年9月 - 1978年7月場所までと数え方を変えた場合ではあるが、かつて1年6場所で85勝5敗という最高記録も保有していた。これも白鵬が2008年7月 - 2009年5月場所にかけて記録に並んだ後、さらに2009年1月 - 11月場所の年6場所で86勝4敗の年間最多勝ち星でこの記録を更新した。[23]
連勝記録
北の湖の最多連勝記録は32連勝(1979年1月場所8日目 - 1979年5月場所9日目)。下記に、北の湖の連勝記録を記す(20連勝以上が対象)。
回数 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 21 | 1976年11月場所6日目 - 1977年1月場所11日目 | 若三杉 | |
2 | 22 | 1977年3月場所初日 - 1977年5月場所7日目 | 黒姫山 | 1977年3月場所全勝優勝 |
3 | 24 | 1978年5月場所千秋楽 - 1978年9月場所8日目 | 高見山 | 1978年7月場所全勝優勝 |
4 | 32 | 1979年1月場所8日目 - 1979年5月場所9日目 | 三重ノ海 | 1979年3月場所全勝優勝 |
5 | 24 | 1980年5月場所10日目 - 1980年9月場所3日目 | 千代の富士 | 1980年7月場所全勝優勝 |
6 | 20 | 1981年5月場所9日目 - 1981年7月場所13日目 | 朝汐 | |
7 | 20 | 1984年5月場所初日 - 1984年7月場所5日目 | 旭富士 | 1984年5月場所全勝優勝 |
- 上記の通り、20連勝以上が7回、30連勝以上が1回記録している。
各段優勝
- 幕内最高優勝:24回
(1974年 1月場所、5月場所
1975年 1月場所、3月場所
1976年 1月場所、3月場所、11月場所
1977年 3月場所、9月場所
1978年 1月場所、3月場所、5月場所、7月場所、9月場所
1979年 1月場所、3月場所、9月場所
1980年 3月場所、5月場所、7月場所
1981年 3月場所、5月場所
1982年 1月場所
1984年 5月場所)
- 全勝:7回(歴代3位タイ)
- 連覇:5連覇(1978年1月場所 - 1978年9月場所)
- 同点5回、次点12回
三賞・金星
場所別成績
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主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
青葉城幸雄 | 15 | 1 | 青葉山弘年 | 12 | 0 | 朝潮太郎 | 7 | 13 |
旭國斗雄 | 27 | 7 | 旭富士正也 | 3 | 3 | 天ノ山静雄 | 9 | 0 |
荒勢永英 | 31 | 2 | 板井圭介 | 1 | 1 | 大潮憲司 | 8 | 4 |
巨砲丈士 | 20 | 2 | 大錦一徹 | 6 | 0 | 大乃国康 | 3 | 3 |
魁輝薫秀 | 12 | 2 | 魁傑將晃 | 26 | 9 | 北尾光司 | 0 | 1 |
北瀬海弘光 | 10 | 0 | 北の富士勝昭 | 2 | 4 | 清國勝雄 | 2 | 4 |
麒麟児和春 | 28 | 4 | 蔵間竜也 | 17 | 0 | 黒瀬川国由 | 9 | 0 |
黒姫山秀男 | 26 | 8 | 高望山大造 | 3 | 0 | 琴風豪規 | 20 | 3 |
琴櫻傑將 | 2 | 6 | 小錦八十吉 | 0 | 1 | 金剛正裕 | 9 | 5 |
蔵玉錦敏正 | 5 | 1 | 逆鉾伸重 | 3 | 1 | 佐田の海鴻嗣 | 10 | 0 |
陣岳隆 | 0 | 1 | 大麒麟将能 | 4 | 6 | 大受久晃 | 20 | 3 |
太寿山忠明 | 6 | 5 | 隆の里俊英 | 15 | 7 | 貴ノ花利彰 | 36 | 10 |
高見山大五郎 | 35 | 8 | 多賀竜昇司 | 2 | 1 | 玉輝山正則 | 6 | 0 |
玉ノ富士茂 | 23 | 2 | 千代の富士貢 | 12 | 6 | 出羽の花義貴 | 14 | 3 |
栃赤城雅男 | 13 | 2 | 栃東知頼 | 3 | 2 | 金城興福 | 29 | 0 |
長谷川勝敏 | 13 | 4 | 富士櫻栄守 | 27 | 7 | 二子岳武 | 4 | 0 |
双津竜順一 | 7 | 0 | 鳳凰倶往 | 10 | 0 | 保志信芳 | 2 | 3 |
舛田山靖仁 | 11 | 0 | 前の山太郎 | 2 | 2 | 三重ノ海剛司 | 25 | 13 |
三杉磯拓也 | 4 | 1 | 陸奥嵐幸雄 | 3 | 2 | 豊山広光 | 21 | 0 |
龍虎勢朋 | 7 | 1 | 若獅子茂憲 | 5 | 0 | 若嶋津六夫 | 6 | 8 |
輪島大士 | 21 | 23 | 若乃花幹士 | 25 | 18 | 鷲羽山佳和 | 17 | 2 |
脚注
関連項目
外部リンク
- 第五十五代横綱 北の湖 敏満 - goo 大相撲
テンプレート:日本相撲協会理事長 テンプレート:現役年寄 テンプレート:北の湖部屋 テンプレート:年間最優秀力士賞 テンプレート:歴代横綱
テンプレート:歴代大関- ↑ 「朝日新聞」2008年9月7日付「天声人語」. 朝日新聞社. 2008年09月08日
- ↑ 1967年9月場所の番付で「北乃湖」と誤記されたことがあった。
- ↑ 歴代横綱で、幕下以下に全敗を経験した力士は、2013年現在まで北の湖ただ一人である。
- ↑ 下位優勝経験がない横綱は、玉錦・双葉山・栃錦に次いで4人目で、北の湖が史上5人目。のちに曙が下位優勝の経験がないまま横綱へ昇進するが、すべてが一時代を築いた大横綱。栃錦までの3人は下位時代においてむしろ小兵であったが、北の湖と曙は共に入門当初から巨漢である。
- ↑ 1981年11月場所を休場した後に受けた朝日新聞のインタビューでは1年ほど前から膝、首、腰の具合が良くなかったことが明かされた。
- ↑ ただし臥牙丸は2010年5月に閉鎖された木瀬部屋からの預かり弟子で、2012年4月に同部屋が再興されると同時に北の湖部屋を離れている。
- ↑ この1998年改選では、初めての理事選挙が行われた後の理事長互選で、時津風とともに候補として擁立され5対5の同票だったが、北の湖が辞退する形で決着した。
- ↑ 北の湖理事長が還暦土俵入り 28年ぶり雲竜型で決意新た スポニチアネックス 2013年6月9日閲覧
- ↑ 北の湖が還暦土俵入り 理事長在任中では25年ぶり 日本経済新聞 2013年6月10日閲覧
- ↑ 『週刊朝日』2012年9月7日号
- ↑ 還暦土俵入り|バース・デイ|TVでた蔵
- ↑ 【発馬SHよ】北の湖理事長、腸閉塞で休場 8日目復帰予定
- ↑ 北の湖理事長が職務復帰 msn産経ニュース 2014.1.21 21:04
- ↑ 北の湖理事長、復帰できないワケ 大腸ポリープ手術 ZAKZAK 2014.01.18
- ↑ 【初場所】九重部長、賜杯授与で代役務める 2014年1月26日21時22分 スポーツ報知
- ↑ 北の湖理事長再任を決定 相撲協会 日本経済新聞 2014/3/25付
- ↑ 北の湖理事長が新法人初代理事長へ nikkansports.com 2014年1月31日20時40分
- ↑ 18.0 18.1 18.2 『大相撲ジャーナル』2014年4月号20頁から21頁
- ↑ 高見山大五郎著、虫明亜呂無翻訳『わしの相撲人生』朝日イブニングニュース社
- ↑ 大相撲酒豪番付2014年東銀座場所 時事ドットコム
- ↑ 例として『相撲』2013年12月号56頁
- ↑ 「大相撲 記録の玉手箱」内「今日は何の日?-12月4日」を参照。
- ↑ 白鵬はその後、2010年3月 - 2011年1月場所の6場所にかけて88勝まで更新した。