大受久晃

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テンプレート:Infobox 力士 大受 久晃(だいじゅ ひさてる、1950年3月19日 - )は、北海道瀬棚郡瀬棚町(現:久遠郡せたな町)出身の元大相撲力士。本名は堺谷 利秋(さかいや としあき)。現役時代の体格は身長177cm、 体重150kg。最高位は東大関。現在は年寄朝日山利秋。

来歴

中学在学中に元大関・三根山高嶋部屋に勧誘されて入門した。入門の決め手となったのは家族も入門を勧めたことであり、「ちゃんこの作り方でも覚えておけば何かの役に立つ。」と考えていたという。背がなかなか伸びずに2年近く苦労し、最終的にはシリコーンを頭に入れ新弟子検査を受けて合格し、1965年3月場所に初土俵を踏んだ。師匠からマンツーマンの厳しい指導を受け、体格に似合った押し相撲を体得。その後は順調に番付を上げていき、わずか4年半で1969年9月場所に十両に昇進した。

「大受」の四股名は、論語衛霊公の「君子は小知すべからず、大受すべし」(君子は小事にとらわれず、大事を任せられる)という一節からとられたもの。

1970年3月場所に西十両筆頭で14勝1敗の好成績で十両優勝。翌5月場所に新入幕(東前頭6枚目)を果たすと徹底した押し相撲で9勝6敗と勝ち越し、早くも技能賞を受賞し幕内に定着した。1971年3月場所5日目、初日から4連敗だった新関脇の大受は初めて横綱大鵬を一気の押しで破り、この場所を8勝7敗と勝ち越し見事殊勲賞を受賞し、上位キラーとして三賞の常連になった。この年7月場所まで関脇を保守したがその場所で4勝11敗と大敗し一時平幕に甘んじていたが、1973年5月場所に関脇に復帰すると10勝5敗,11勝4敗と2場所連続で二桁勝利を挙げ、7月場所には13勝2敗の成績を挙げて史上初めて三賞を独占した。

1973年9月場所に大関に昇進したが、新大関の場所は腰痛の影響もあり8日目から途中休場。2場所目の翌11月場所でいきなり大関角番となったが9勝6敗と勝ち越し角番脱出。しかしそれ以降も首・右膝の故障にも悩まされ、1974年3月場所で9日目から再び途中休場。2度目の角番で迎えた同年5月場所で6勝9敗と負け越し、大関の地位で2場所連続負け越した為関脇への陥落が決まってしまう。大関在位は5場所に終わり、最高位が大関だった力士では6場所制になってからは歴代1位の短命記録だった(短命大関の2位は増位山の7場所、3位は雅山の8場所)。24歳3ヶ月での陥落は雅山と並んで最年少記録である。[1]

関脇に陥落した翌7月場所は、10勝以上の成績を挙げれば1場所で大関特例復帰を果たせたが、12日目に前頭5枚目長谷川戦で6敗目を喫し、ここで大関再昇進が絶たれる。その後千秋楽まで3連勝したが9勝6敗と惜しくも1勝足りなかった。なお関脇陥落場所で勝ち越しながら大関復活が絶たれた力士は、1969年7月場所に「大関で2場所連続負け越しにより関脇降下、但し転落場所で10勝以上すれば大関特例復帰」の規定に改められて以降、大受が初めてであった[2]

1974年7月場所から同年11月場所まで、関脇の地位で3場所連続で勝ち越したが、翌1975年1月場所は4勝11敗と大敗、4場所続いた関脇から平幕の地位に下がり、以降三役への返り咲きはならなかった。その後は満身創痍の土俵が続いていたが左膝も故障し、同年9月場所で新入幕を果たした前頭12枚目千代の富士(現九重)に幕内初白星を献上するなどして幕内下位でも成績を残すことが出来なくなり、1977年5月場所には大関経験者で初めて十両に陥落した。当時大受は年寄名跡を取得しておらず、かつ「年寄名跡を持っていなくても、引退後3年間は四股名のまま年寄として残れる」という現在の大関の特権もなかったため、やむなく出場することとなったが、初日から3連敗を喫し、4日目から途中休場に追い込まれ、場所後に現役を引退し偶々空き名跡になっていた年寄・楯山を襲名した。もし空き名跡が無くて廃業せざるを得ない状況に追い込まれていたら、清掃員に転身するつもりであったという。

取り口は広い肩幅を生かし徹底した押し相撲で、「まわしを取ったら三段目の実力しかない」と言われるほどだったが、当時相撲解説者の玉の海梅吉が「土の匂いのする力士」と評するほど押し一徹を貫き通した。

引退後は現役末期から不仲だった師匠の下を離れ[3]伊勢ヶ濱部屋で後進の指導に当たっていたが、1997年5月場所中に同じ一門の朝日山親方(元小結若二瀬)が急逝。師匠代理の後に年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を急遽継承した(楯山の株は2008年に玉春日(現片男波)に売却するまで引き続き所有)。暫く関取が不在で低迷していた時期もあったが、先代からの弟子である大真鶴が幕内まで昇進した。年寄としては1980年から審判委員に就任し、2009年1月場所まで務めた。その後、2011年4月から再び審判委員となった。元大関でありながら、師匠と同様に出世欲があまりないためか、役員や役員待遇の経験が長らくなかった。また役員ではない親方が組織する年寄会の会長を務めていた。

大受の時代の技術では一旦入れたシリコーンは除去不能であったため、全体的に頭の形状自体が変形し頭頂部が突き出ていた[4]。引退後は審判委員を長く務めており、特に隠しもしなかったため、頭頂部が尖った楯山の姿は平成10年代までは毎場所幕内取組時に土俵下で見ることができた。その後頭痛に悩まされるようになったため、2009年春に除去手術を受けた。杉山邦博によると、頭の中でシリコーンがグチャグチャになっていたらしく全てを綺麗に取り除くことはできなかったようだという(同年5月に出演したTBSラジオの番組にて発言)。

なお、1973年11月場所の12日目、横綱琴櫻との一番で、お互いが頭を鉢合わせするような形でぶちかましたところ、琴櫻は脳震盪を起こして倒れてしまった(決まり手は突き落とし)。取組後、琴櫻は「あんな石頭は初めてだ」とコメントしている。シリコーンが凶器となった可能性があるが、当時はそのことがあまり知られていなかったらしく、特に問題とはされなかった。

2012年1月場所後の役員改選で役員待遇に抜擢され、審判部副部長に就任。2014年3月場所後の改選でも、停年(2015年3月場所限り)まで1年しか残っていないながら引き続き審判部副部長を務める。

主な成績

  • 通算成績:462勝388敗31休 勝率.544
  • 幕内成績:308勝296敗26休 勝率.510
  • 大関成績:30勝32敗13休 勝率.484
  • 現役在位:74場所
  • 幕内在位:42場所
  • 大関在位:5場所
  • 三役在位:10場所 (関脇9場所、小結1場所)
  • 三賞:11回
    • 殊勲賞:4回 (1971年3月場所,1973年3月場所,1973年5月場所,1973年7月場所)
    • 敢闘賞:1回 (1973年7月場所)
    • 技能賞:6回 (1970年5月場所,1971年1月場所,1971年5月場所,1973年1月場所,1973年5月場所,1973年7月場所)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:1回 (1970年3月場所)

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改名歴

  • 堺谷 利秋(さかいや としあき)1965年3月場所-1967年1月場所
  • 大受 久典(だいじゅ ひさのり)1967年3月場所-1969年5月場所
  • 大受 久晃(- ひさてる)1969年7月場所-1977年5月場所

年寄変遷

  • 楯山 利秋(たてやま)1977年5月17日-1997年5月29日
  • 朝日山 利秋(あさひやま)1997年5月29日-

脚注

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関連項目

テンプレート:歴代大関 テンプレート:現役年寄

テンプレート:朝日山部屋
  1. 厳密には大受が24歳3ヶ月1週、雅山は24歳3ヶ月0週となっている。
  2. 同じく関脇陥落場所で勝越すも大関特例復帰を逃した力士は、39年後に2013年1月場所の把瑠都、40年後に2014年1月場所の琴欧洲の二人がいる(共に成績は8勝7敗。なお把瑠都・琴欧洲はその後も大関復活ならず現役引退している)。
  3. 師匠の娘との縁談を断ったためそれまでの良好な師弟関係が崩れたといい、年寄株の手配も望めなくなったという。
  4. 後に舞の海も頭部にシリコーンを入れて新弟子検査を通過したが、大受と異なり、除去可能になっていた。