式守伊之助
式守 伊之助(しきもり いのすけ)は、大相撲の立行司の名前で、木村庄之助に次いで2番目の地位(番付で言うところの西正位横綱)にあたる。当代は2013年11月場所から務める40代目(2014年6月現在)。
解説
この名跡は代々三役格から立行司に昇格する行司が襲名し、2008年5月場所からは10代式守勘太夫が38代目を襲名した。2011年11月場所より38代伊之助が36代庄之助を襲名し、16代木村玉光が39代伊之助を襲名するはずだったが健康問題を理由に辞退したため、伊之助は暫く空位となっていたが[1]、2012年11月場所より、10代木村庄三郎が39代伊之助を襲名した。2013年11月場所、39代伊之助が37代木村庄之助を襲名したのに伴い、11代式守錦太夫が40代伊之助を襲名した。
軍配には紫白の房、装束には紫白の菊綴じを着用し庄之助同様、差し違えた際に切腹する覚悟を意味する短刀を左腰に差し、右腰には印籠を下げる。本場所では三役格以下と同様に2番を合わせている。
多くが60歳を過ぎてから襲名する傾向にあり、19代目[2]、27代目、30代目、34代目が64歳、24代目が63歳で襲名を果たしている。一方、若年襲名の記録として6代目[3]と8代目(40歳)、23代目(48歳)の例が確認される。当代(40代目)は2013年11月場所襲名時、当年54歳であった。
行司停年制実施前の1958年限りで、庄之助同様、年寄名跡より除かれた。現存する行司2家のうち式守家は初代伊之助が式守姓を名乗ったことに由来するといわれる。
10代目以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。
また立行司が3人制(庄之助、伊之助、玉之助。玉之助はのち副立行司に降格)時代に、木村玉之助から伊之助を襲名したのは17代と18代の2人の伊之助(のち、それぞれ21代、22代庄之助を襲名)のみである。
36代伊之助は、2005年9月場所に三役格に昇格してからわずか4場所で2006年5月場所に伊之助を襲名、これは三役格から立行司に昇格した史上最短の記録である。また35代伊之助は唯一、伊之助在位1場所で木村庄之助(33代)を襲名した。
明治年間、本場所で勧進元を務めた伊之助が開催直前に亡くなるという“位牌勧進元”が続いたことがあった。6代、7代、8代、9代と連続して起こり、その直前である5代も含め5人続けて現役で亡くなった。さらに14代は1926年1月場所からの襲名が決まったものの伊之助として土俵に上がることなく前年暮れに死亡している(死後、1926年1月場所の番付には14代として「式守伊之助」と書かれている)。「伊之助の祟り」として恐れられたが、ことごとく偶然が重なったことによる。
代々受け継がれている軍配(「ゆずり団扇」とも呼ぶ)は1本ある。記されている文字については、どのように読むのかはっきりしていない。1882年の相撲錦絵にすでに登場しているが、伊之助のゆずり団扇となったのは20代(のちの24代庄之助)時代の1960年5月からである。また初代伊之助が明和年間より寛政年間にかけて使用した軍配が現存する。
式守伊之助の代々
代 | 襲名期間 | 備考 |
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初代 | 1767年3月場所 - 1793年3月場所 | 初代伊勢ノ海五太夫の門弟。年寄・鞍馬山。のち式守蝸牛の隠居号で『相撲隠雲解』を著した |
2代 | 1793年10月場所 - 1819年11月場所 | 初代伊之助の弟子 初代式守見藏→(この間、伊之助を襲名するが伊勢ノ海(柏戸)訴訟事件で一時番付から消滅)→初代式守与太夫→伊之助を再勤 |
3代 | 1820年3月場所 - 1830年11月場所 | 初代伊之助の門人 初代式守夘之助 1795年より13年間も姿を消す |
4代 | 1834年10月場所 - 1837年正月場所 | 2代伊之助の実子 3代式守見藏→2代与太夫 |
5代 | 1839年3月場所 - 1850年3月場所(死跡) | 3代伊之助の弟子 初代式守勘太夫 初代伊勢ヶ濱を二枚鑑札。現役没 |
6代 | 1853年11月場所 - 1880年5月場所 | 4代伊之助の弟子 式守宗助→2代式守鬼一郎 年寄・永浜を二枚鑑札。現役没。在位最長年(28年) |
7代 | 1883年1月場所 - 5月場所 | 5代伊之助の弟子 初代式守与之吉→2代勘太夫→3代鬼一郎→勘太夫(再)→鬼一郎(再) 2代式守秀五郎を二枚鑑札、現役没 |
8代 | 1884年5月場所 - 1898年1月場所(死跡) | 6代伊之助の弟子 初代式守錦太夫→3代与太夫 年寄・永浜を二枚鑑札。現役没 |
9代 | 1898年5月場所 - 1911年2月場所(死跡) | 6代伊之助の弟子 式守竹二郎→初代式守錦之助→2代錦太夫→4代与太夫 年寄・式守伊之助を二枚鑑札。現役没 |
10代 | 1911年5月場所 - 1912年1月場所 | 後に17代木村庄之助(伊之助~最初の庄之助襲名となる) |
11代 | 1912年5月場所 - 1914年1月場所 | 京都行司・吉岡一學の養子 吉岡?→木村進 年寄・式守伊之助を二枚鑑札。現役没。現在の行司装束(それまでの裃姿から烏帽子、直垂を着用)の改正発案者 |
12代 | 1915年5月場所 - 1921年5月場所 | 初代高砂が「改正組」を組織したときに行司として参加 木村官司→小市→2代木村誠道 年寄・式守伊之助を二枚鑑札 |
13代 | 1922年1月場所 - 1925年5月場所 | 後に19代木村庄之助 |
14代 | 1926年1月場所(死跡) | 7代伊之助の弟子 2代式守与之吉→3代勘太夫 14代伊之助襲名も1925年12月26日に急死、翌1926年1月場所の番付には死跡ながら「式守伊之助」として記載された |
15代 | 1926年5月場所 - 1932年5月場所 | 後に松翁20代木村庄之助 |
16代 | 1932年10月場所 - 1938年5月場所 | 9代伊之助の弟子(のちに養子) 式守亀司(亀吉、亀二、亀治、亀助)→4代錦之助→4代錦太夫→7代与太夫 11代立田川を襲名 |
17代 | 1939年1月場所 - 1940年3月場所 | 初めて立行司・11代木村玉之助より継承。後に21代木村庄之助 |
18代 | 1940年5月場所 - 1951年5月場所 | 後に22代木村庄之助 |
19代 | 1951年9月場所 - 1959年11月場所 | 17代庄之助の弟子 木村金吾→2代木村玉治郎→8代木村庄三郎 年寄・式守伊之助を二枚鑑札。式守伊之助として行司停年制初の停年退職。「ひげの伊之助」 |
20代 | 1960年1月場所 - 1962年11月場所 | 後に24代木村庄之助 |
21代 | 1963年1月場所 - 1966年7月場所 | 後に25代木村庄之助 |
22代 | 1966年9月場所 - 1973年11月場所 | 後に26代木村庄之助 |
23代 | 1974年1月場所 - 1977年9月場所 | 史上最年少の48歳で襲名。後に27代木村庄之助 |
24代 | 1977年11月場所 - 1984年3月場所 | 23代庄之助の弟子 木村正義→正信→3代木村正直 |
25代 | 1984年5月場所 - 1990年11月場所 | 後に28代木村庄之助 |
26代 | 1991年1月場所 - 1992年9月場所 | 木村宗市→6代木村庄次郎(庄二郎)→宗市→庄二郎(再) |
27代 | 1992年11月場所 - 1993年7月場所 | 元三役格13代木村庄太郎の弟子 木村英三→2代木村善之輔→14代庄太郎 |
28代 | 1994年5月場所 - 11月場所 | 後に29代木村庄之助 |
29代 | 1995年1月場所 - 2000年7月場所 | 木村貢→3代善之輔 |
30代 | 2000年9月場所 - 11月場所 | 26代庄之助の弟子 式守文夫→正一郎→7代与之吉(與之吉)→8代勘太夫 |
31代 | 2001年1月場所 - 9月場所 | 後に30代木村庄之助 |
32代 | 2001年11月場所 - 2003年3月場所 | 後に31代木村庄之助 |
33代 | 2003年5月場所 - 2005年11月場所 | 後に32代木村庄之助 |
34代 | 2006年1月場所 | 木村光彦→2代木村光之助 |
35代 | 2006年3月場所 | 後に33代木村庄之助 伊之助在位1場所で庄之助襲名 |
36代 | 2006年5月場所 - 2007年3月場所 | 後に34代木村庄之助 2005年9月場所に三役格昇格から僅か4場所(史上最短)で立行司昇格 |
37代 | 2007年5月場所 - 2008年3月場所 | 後に35代木村庄之助 |
38代 | 2008年5月場所 - 2011年9月場所 | 後に36代木村庄之助 |
39代 | 2012年11月場所 - 2013年9月場所 | 後に37代木村庄之助 |
40代 | 2013年11月場所 - | 27代庄之助の弟子 式守吉之輔→木村吉之輔→11代式守錦太夫 |
脚注
参考文献
- 33代木村庄之助・根間弘海『大相撲と歩んだ行司人生51年 -行司に関する用語、規定、番付等の資料付き-』、英宝社、2006年。
- ベースボール・マガジン社『相撲』2014年2月号100頁から101頁