土俵
土俵(どひょう)とは、土を盛って作る相撲の競技場である。俵に土を詰めた袋(土俵)を使っているため特に土俵場(どひょうば)と呼んでいたが、これを縮めた呼称である。
構造
現代の大相撲では、一辺が6.7メートルの正方形に土を盛り、その中央に直径4.55メートル(15尺)の円が勝負俵(計16俵)で作られていて、その円の東西南北4ヶ所に徳俵(計4俵)と呼ばれる、俵1つ分の出っ張りが設けられている。円の外側には正方形の形で角俵(計28俵:各一辺7俵の俵)を配置、その正方形の角には、あげ俵(計4俵:各角にそれぞれ1俵)が配置され、土俵に上がる段のための踏み俵(計10俵:土俵の周りに東・西・南部分に各3俵、北部分に1俵)、南西・南東には力水のための水桶をおく水桶俵(計4俵:各2俵)が配置され、合計して66俵を使用する。
俵は主に稲藁を細い俵状に編んだものが使用され、中には土が入れられている。地方自治体で設置された土俵では頑丈なシートで俵を作成する場合もある。
土俵は呼び出しが毎場所手作業で作る。完成すると土俵祭りが行われる。
俗に「土俵には金が埋まっている」と言われるが、これは「土俵で出世すれば金が入ってくる」と取的を励ますための比喩表現で、実際には縁起を担ぐ意味で勝栗や昆布・米・スルメ・塩・榧の実が神への供物として土俵祭りの際に埋められる。
土俵の土は、若干粘土質が混じった物が使用される。これは土を盛ったとき型くずれしにくく、振動にも強いためでもある。また、勝負俵の内側には若干の砂質の土が撒かれている。力士の足首への負担を減らすなどの安全対策でもある。また、勝負俵の周囲にも円形に砂が撒かれている。これは勝負俵から力士の足が出たかどうか判別するに痕が残るため審判が下しやすいためでもある。これを蛇の目(じゃのめ)と呼ぶ。
土俵中央には幅6センチ・メートル、長さ90センチ・メートルの仕切り線が70センチ・メートル間隔で2本。エナメル・ペイントで描かれている。この仕切り線も呼び出しが描く。仕切り線は力士たちの取組によって踏み荒らされて剥がれてしまうため、2 - 3日に一度描き直しの作業が行われる。仕切り線は1928年1月場所から始まったNHKラジオの実況中継にあわせて設けられた。
屋根・房
土俵の上には、方屋があり明治に東屋作りから切妻で千木と堅魚木を持つ神明造りに変えられた。屋根の四隅(東西南北、正しくは東北、東南、西南、西北)の柱は、本場所においては1952年(昭和27年)の秋場所より廃止されて吊屋根となり、代わって四隅に房が下げられる様になった。これは、正式には房では無く四本柱に巻きつけられていた同色の布の名残で、柱の代わりに太い房を吊るようになったものである。房の色は天空の四方位をそれぞれ司る四神に由来しており、青い房(青房)は東方を守護する青龍、白い房(白房)は西方を守護する白虎、赤い房(赤房)は南方を守護する朱雀、紫または黒の房(黒房)は北方を守護する玄武を表している(地域によって順序が異なっている事がある)。四隅の房は絹糸を寄り合わせて作られ、サイズは2.3メートル、太さが70センチ・メートル、重さ25キロ・グラムである。
なお屋根の水引幕東西南北の中央に小さい房が下げられているが、これが本来の房と言われるものである。
周辺用具
水桶、塩箱共に呼出が補充などを行う。
歴史
相撲において古来相撲節会に土俵なるものはなかった。『相撲伝書』によると鎌倉時代に見物人が直径7 - 9メートル(4 - 5間)輪を作り、これを「人方屋」といったという。これが土俵の起源である。江戸時代に大相撲興行が始まり、「人方屋」では特定の力士のひいきが手を出して勝負を妨害するなど喧嘩が絶えないということで、まず寛文年間(1661 - 1673年)にリングのように4本の柱の下に紐などでかこったものになった。それを俵で囲んだものとなり四角い土俵になった。なお四角い土俵は各地の神社や南部相撲などに現存し使用されている。次に大相撲では延宝年間(1673 - 1681年)に東屋作りの屋根の下に四神をあらわす4色の布を巻いていた柱の方屋の下に五斗俵による3.94メートル(13尺)の丸い土俵が設けられた。享保年間(1716 - 1736年)に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」ともいう)となった。これは内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれた。
1791年(寛政3年6月11日)11代将軍・徳川家斉の上覧相撲の際に吉田司家の吉田追風が前日に1夜で土俵を作り「はじめて「方屋開」を行った。明治に方屋の屋根を神明造りにした。
1928年(昭和3年)1月12日からNHKのラジオ放送による大相撲中継が始まった際、放送時間内に勝負を収めるために、それまでは無制限だった仕切りに制限時間を設定し、また土俵に仕切り線を設けた。1930年(昭和5年)3月場所になると、観客の視界の妨げになること、力士の怪我の原因になることを理由に土俵上にすわっていた勝負検査役を土俵下におろし5人とし、方屋柱に塩桶をくくりつけた。さらに、1931年(昭和6年)4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし径4.55メートル(15尺)の一重土俵に変更された。俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、この時より俵の外側に撒かれる様になったものである。
土俵サイズは、1945年(昭和20年)の秋場所において4.84メートル(16尺)[1]にしたが、力士会の反対で11月の一場所かぎりで径4.55メートル(15尺)の現在の土俵に変更された。また土俵上の柱は1952年(昭和27年)秋場所より撤去され、屋根は天井から吊り下げる形式に変更された。
神事
土俵は、力士が入場の際柏手をうつなど神がいる場所とされてきた。柏手については相撲の宗家吉田司家の許可に基づいている。
東京両国国技館の本場所前々日に野見宿禰神社(東京都墨田区)で日本相撲協会の幹部、審判部の幹部、相撲茶屋等関係者が集まり、出雲大社教神官の神事が執り行われる。
また、各場所の初日前日に日本相撲協会の幹部、審判委員の親方などを集めて土俵祭が行われる。内容は土俵の真ん中に日本酒、米、塩などを封じ、相撲の三神(タケミカヅチほか二神)と弊束を7体祭り、立行司が祭主で介添えの行司が清祓の祝詞を奏上し、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して終わる。これは1791年(寛政3年6月11日)征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が前日に土俵を作った際「方屋開」として始めたものである。これにより、千秋楽にその場所の新序出世力士によって行司を胴上げする「神送りの儀式」によって神を送るまでの間、土俵には神が宿るとされている。
現在は横綱が行う一人土俵入りは四股で邪悪なものを踏み鎮める地鎮祭と同じ意味である。
このように土俵上は神聖な場所で女人禁制とされている。地方においては子ども相撲など女子も参加しており、これは崩れつつあるが、伝統を重んじる場合は論議を呼んでいる。1989年(平成元年)には森山真弓官房長官が総理大臣賜杯授与を行いたいと明言したが相撲協会が拒否しこの際には女性差別問題を含め議論を呼んだ。また2004年(平成16年)には太田房江大阪府知事も知事杯授与を希望する旨表明したがやはり相撲協会が拒否している。
なお、かつては女相撲の興行もあり、実際に土俵上で行われていた。
エピソード
1998年(平成10年)1月場所4日目、幕下取組の大鷹山-谷地戦で、谷地が肩から土俵下に落ちた際、正面黒房寄りの角に近い部分の土がぼこっと崩れて大きな穴が開いてしまった。この日は土俵の土が非常に乾いており、表面がカサカサになってヒビ割れたところに谷地が落ちたため崩れたらしい。取組には支障がないが、相撲が続く間は修復することができず、幕内取組の前に呼出がビール瓶でたたくなどして応急処置を施した。
脚注
- ↑ 桑森真介『大相撲の見かた』(平凡社新書)には筆者本人が所属する研究グループが行った実験について記述があり「私たちの研究グループでは、直径16尺(4m85cm)の拡大土俵と、直径15尺(4m35cm)の両方で学生の相撲選手に相撲を取ってもらい、体重の軽い側が勝つ率、決まり手数、競技時間を比較した。土俵を拡大すると、体重差が10%以上ある取組では、体重の軽い方が、30番行うと2・3番多く勝つことができるようになると分かった。決まり手数と競技時間は、土俵を拡大しても大きな影響は見られなかった。」という内容が確認できる。