雷電爲右エ門

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雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、明和4年(1767年)1月 - 文政8年2月11日1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士

現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされている。

来歴

誕生~松江藩の抱えに

1767年信濃国の豪農関家に生まれた。幼名を太郎吉(または樽吉)という。幼少期から巨体・怪力にまつわる様々な伝説が残り、例えばある時碓氷峠を荷馬を引いて歩いていた時に正面から大名行列がやってきたが、道が狭いために避けたり戻ることが出来なかったため、やむを得ず荷馬を担ぎ上げて大名行列を通したという。やがて、相撲好きだった隣村の上原源吾右衛門が注目し、上原の私塾で相撲のほか読み書き・算盤の指導を受けた。

1784年に地元・信濃国に巡業として来ていた浦風林右エ門に注目され、浦風とともに江戸へ向かう。江戸では当時の第一人者だった谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごす。この間に将来の有望性を見込まれ、松江藩藩主松平治郷の抱え力士となる。初土俵前から士分への抱え上げは異例だった。初期の禄は「切米8石3人扶持」と伝わる。

「雷電」の四股名

「雷電」はもともと雲州ゆかりの名前で、雲州力士の先達としては雷電爲五郎が存在する。講談などでは爲五郎と爲右エ門で混同されることがあるが、爲右エ門が松江藩の抱え力士となる直前に爲五郎が没しており、両者の面識は全く無い。爲右エ門と同時代では雷電灘之助明石藩)が存在し、1790年1791年1793年の3度に渡って「東に雷電、西に雷電」の取組も実現したが、爲右エ門に2敗1預の後、灘之助の抱え藩が姫路藩に変わったこともあり、1794年から「手柄山繁右エ門」と改名している。

それから約100年後の明治時代に、兜山和助が「雷電震右エ門」を名乗った際にも、雲州・松平家へ形式的に伺いを立てる手続きが踏まれた。震右エ門は後に大関を陥落、阿武松和助と改名しており、震右エ門以降に雷電を名乗った力士は存在せず、事実上の「止め名」とされている。

初土俵

雷電が本場所に登場したのは、大坂相撲が1789年7月場所(全休)、江戸相撲では1790年11月場所で、江戸相撲ではいきなり西方関脇付け出しで初土俵を踏んだ。松平家の影響力とされているが、同じ雲州抱え力士の柏戸勘太夫小結)より上位に置かれたことを考えれば、雷電に対する期待度の高さが伺える。

江戸相撲では小野川喜三郎と熱戦を繰り広げて預かりとなる[1]など強者ぶりを発揮し、この場所では8勝2預(優勝相当成績)の好成績を記録した。これ以降、三都で桁外れの強さを見せ、対戦力士を圧倒させた。

江戸相撲では、1793年11月場所から約7年に渡って出場した11場所全てで優勝相当成績を記録するなど、無類の強さを発揮した。その後も引退までに出場した場所で7連続・9連続で優勝相当成績を記録し、通算では28回を数える[2]。年2場所制の当時でこの記録を上回る者はついに現れず、年6場所制となった2014年現在でも大鵬幸喜(32回)と千代の富士貢(31回)、白鵬翔(30回・現役)の3人が上回っただけである。全勝7回は年2場所制で双葉山定次(8回)、年6場所制の2013年現在でも大鵬幸喜(8回)と白鵬翔(9回・現役)が上回っただけで、北の湖敏満と千代の富士貢(ともに7回)も追い付いたものの抜くことは出来なかった。連覇記録は朝青龍明徳と白鵬翔(現役)の7連覇をも上回っている[3][4]

雷電に勝利した力士

雷電が現役時代に喫した黒星は僅かに10、他に上覧相撲での1敗がある。その詳細を以下に記す。

勝利力士 場所 勝利力士の
当時の番付
勝利力士の
最高位
対雷電戦
通算成績
備考
陣幕嶋之助 1791年6月(上覧相撲) 東関脇 大関 (1勝)6敗1預 同年4月場所を中断しての上覧相撲
(当時は本場所以上の「公式戦」だった)
梶ヶ濱力右エ門 1791年4月場所5日目 東前頭4枚目 前頭4枚目 1勝1敗 4月場所は雨天順延と上覧相撲による中断で、7月まで日程がずれた。
雷電の本場所初黒星だが、時期的には陣幕に次ぐものとなった。
市野上浅右エ門 1793年3月場所8日目 東二段目筆頭 大関 2勝3敗1預 四股名は常山五郎吉</br>二段目筆頭は現在なら十両、当時の幕内人数の少なさと完全東西制を思えば、幕内中位に相当する。
1797年3月場所7日目 東前頭2枚目 同上 同上 四股名は花頂山五郎吉、雷電に唯一連勝した力士。
鯱和三郎 1800年10月場所初日 東二段目3枚目 前頭3枚目 1勝3敗 二段目3枚目は現在なら十両、雷電の最多連勝を44で止める。
柏戸宗五郎 1804年10月場所5日目 東小結 大関 1勝5敗1分2預3無
春日山鹿右エ門 1805年10月場所6日目 東前頭筆頭 小結 1勝10敗 前名を大綱、その名で8連敗の後、春日山に改名して破る。
音羽山峰右エ門 1806年2月場所4日目 東前頭4枚目 前頭3枚目 1勝6敗
鏡岩濱之助 1808年10月場所4日目 東前頭3枚目 小結 1勝9敗 雷電最後の皆勤場所で最後の白星を献上。
立神盤右エ門 1809年10月場所3日目 東前頭7枚目 関脇 1勝1敗
江戸ヶ崎源弥 1810年10月場所5日目 東前頭筆頭 関脇 1勝11敗2預

雷電に勝利した力士はそれだけでも大相撲史に名を残したと言えるが、陣幕・市野上・柏戸の名が高い。上覧相撲での陣幕は立ち合いから一気の喉輪攻めだったと伝わり、記録に残る限りでは雷電をそこまで正攻法で破った力士は他にいない。初土俵から2場所目での上覧相撲で雷電に緊張があったのでは無いかとの意見も強いが、平幕や幕下力士相手への取り零しではなく、三役同士での敗戦は柏戸と陣幕だけである。

柏戸は雷電との対戦が12回、よく渡り合って好敵手の筆頭として挙げられる。この雷電 - 柏戸の取組は江戸庶民にも大変な人気を博し、何を質に入れても見物に行くとまで言われたほどである。雷電最後の土俵では、雷電に二つしかない「分」(もう一つは勢見山兵右エ門)も記録している。雷電と優勝同点も記録、違う時代なら横綱昇進の可能性もあった実力派大関の一人である。

常山・花頂山と名乗っていた時代に勝利した市野上も、幕下時代の初顔合わせだけなら大番狂わせの主役で終わっていたが、のちに入幕して雷電に連勝した唯一の力士となる。見方を変えれば、寛政3年冬場所から同12年春場所まで9年間、雷電は彼にしか負けていない。彼への2敗を挟んで雷電は19連勝、43連勝、44連勝を記録、彼がいなければ106連勝に達していたことになる。ともに雷電不在の場所だったが優勝相当成績も2度記録、のちに大関へ昇進したが病気によって現役死した悲劇の力士である。

生涯最高の大番狂わせと言われているのが鯱和三郎で、その後は幕内と幕下を往復しながら引退する。雷電にとっては痛恨の黒星で、力量の差が歴然だったことから取組前に観客が帰ろうとしていたというこの一番、立会い大きく変化していなしたか、後ろに回りこんで送り出した相撲と伝わる。安井大江丸が「負けてこそ 人にこそあれ 相撲取」と詠んだのがこの相撲である。総帥小野川以下、雷電ひとりに名を成さしめた久留米藩力士にとっては悲願の白星だった。これから約130年後に、双葉山定次の連勝を止めるために出羽海一門が「打倒双葉」を合言葉に一致団結し、対策を練った後に安藝ノ海節男が連勝を69で止めたケースと似ている。

現役引退

1811年2月場所(44歳)で雷電は全休したのちに現役を引退し、松江藩の相撲頭取に任命される。頭取としての最大の働きはのちの第7代横綱稲妻雷五郎を見出したことである。その後、1814年の大火によって焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力するが、この鐘の形状が幕府上役の不興を買って江戸払いに処せられた。1819年には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任された。

晩年は妻・八重の生地だった下総国臼井(現・千葉県佐倉市)で悠々自適と暮らし、1825年4月9日(旧暦2月21日)に死去した。59歳没。死因やその他詳しいことなど、雷電の死を伝える史料は少ない。墓所は赤坂の報土寺に存在するが、生地である長野県東御市の関家の墓地や、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。

人物

現役時代の体格は身長197cm・体重172kgの筋肉質な巨漢だったと伝わる[5]が、異説もある。当時の力士としては高い教養の持ち主で、「諸国相撲控帳」(雷電日記)、「萬相撲控帳」を残した。これは相撲に限らず、江戸の風俗を知る上で貴重な資料にもなっている。

家族・子孫

父・半衛門は身体が小さかったが相撲と酒は強かった。雷電が大関時代に建てた墓石が長野県東御市に現存するが、酒樽と枡と盃をかたどったユニークなものとなっている。母・けんが子宝を祈願したという仁王像も現在に残る。妻・八重は前名を「はん」と言い、現在の千葉県佐倉市の出身である。実家の甘酒屋で働いているところを巡業で訪れた雷電が一目惚れしたという。間に一女をもうけたが幼くして死去している。

現在、「雷電の子孫」を名乗る関家は長野県東御市と島根県松江市に一軒ある。前者は雷電の18歳下の妹・ときの流れを汲んで雷電顕彰会を主宰している。後者は雷電の没後、松江藩のとりはからいで、雷電夫人の八重が雲州力士・朝風石之助を養子に迎えて松江藩士としての家系存続を許されたもの。両家は現在も交流を続けている。

エピソード

  • 勝率.962は歴代横綱幕内最高勝率の梅ヶ谷藤太郎(.951)をも凌ぐ。連勝記録は44連勝(史上8位)で、単独の連勝記録ではやや譲る代わりに30連勝以上を4回記録している。雷電以降でこれを達成したのは6場所制での大鵬・白鵬のみである。
  • 1場所で2敗することが一度も無く、同じ相手に2度負けたのは上記の市野上浅右エ門だけだった。
  • 真実性については疑問が強いが、雷電のあまりの強さに「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「」「鯖折り」を禁じ手とされたという。これは有名な話で、雷電の閂によって八角政右エ門の腕がへし折られたと伝わる。これらは多くの相撲講談で語られ、相撲について記された多くの本にも記載されている。しかし、池田雅雄1915年生)によると、彼が子供の頃、近所に嘉永1848年1854年)生まれの老人がいて、その老人が 「実見している祖父から聞いているが、突っ張り専門の雷電に、そんなバカなことはない」 と否定していたという[6]。雷電の幕内総成績のうち引き分けが二回だけというのは江戸時代の力士としては非常に少ない数字であり、間接的ながら伝えられた実見談のとおり、突き押し主体の攻撃型の相撲であった可能性が高いと考えられる。
  • 2006年5月場所における把瑠都凱斗の身長・体重がともに雷電と全く同じ数字だった。力士が大型化した21世紀においても把瑠都の体格の大きさは群を抜いているが、平均的な体格が現代に比して著しく小さな当時の日本における雷電の巨漢ぶりは相対的にそれ以上のものであっただろう。現存する雷電の手形は長さ23.3cm、幅13cmである。

横綱にならなかった理由について

雷電が横綱免許を受けなかった理由としては次のような諸説があるが、どれも決め手を欠いている。[7]

  • (1)「土俵上で対戦相手を殺してしまったためとする説(単なる講談ネタであり、事実ではない)」
  • (2)「推薦を辞退したとする説(推薦の根拠資料なし)」
  • (3)「共に免許を受けるべき実力的に釣り合う相手がいなかったためとする説(谷風・小野川より後の横綱は単独で免許を受けるケースが続いた)」
  • (4)「上覧相撲の機会を得なかったためとする説(雷電は上覧相撲に出場している。かつ上覧相撲を免許の条件とする論拠に欠ける)」
  • (5)「雷電の抱え主・雲州松平家と吉田司家の主家・熊本細川家の対抗意識によるものとする説(実証的根拠なし)」
  • (6)テンプレート:要出典(実証的根拠なし)」

能見正比古新田一郎は、こうした諸説について「横綱という制度がありながら、それにふさわしい雷電がなぜ免許されなかったのか」という問題設定に立って展開されていることを指摘している。むしろ、1789年寛政元年)に吉田司家から谷風と小野川が横綱免許を受けた段階では横綱は恒久的制度として成立しておらず、1回限りのものとして構想されたために、雷電が横綱を免許されていないとする説を提唱している。この吉田司家の横綱免許自体、その後40年近くも経て1828年(文政11年)の阿武松緑之助まで行われていない。 1823年(文政6年)に相撲の家元を名乗る京都五条家が、寛政期の横綱免許という先例に目をつけて柏戸利助玉垣額之助に独自で横綱免許を与えていた[8]。これに負けじと、吉田司家は江戸幕府に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、翌1828年(文政11年)正月、江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、2月に吉田司家は阿武松に横綱を免許した。これを機に吉田司家は五条家を牽制し、結果として五条家も吉田司家の免許権を認めた。新田は、こうした経緯で横綱免許は制度化したのであって、雷電は「横綱以前」の強豪力士として位置付けている[9]

免許権を持っていた吉田司家・さらに1950年以降免許権を譲られた日本相撲協会ともに、今日に至るまで雷電を横綱として公認してはいないが、1900年明治33年)に12代横綱・陣幕久五郎富岡八幡宮境内に建立した横綱力士碑には「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。

史跡・遺品

雷電生家
  • 長野県東御市
  • 生家とは呼ばれるが、実際には雷電が大関時代に建てた家で、屋内に稽古土俵、さらに稽古の様子を見学できるように二階座敷などがある。建物自体は昭和に入ってから復元されたもので、1984年から一般公開が開始された。ここには雷電直筆とされる「諸国相撲控帳(雷電日記)」「萬御用覚帳」の原本の写しなども保存されている。
雷電顕彰碑
  • 長野県東御市
  • 佐久間象山の撰文、揮毫によって1861年に建立された。碑文に「雷電没後二十七年」とあるのは「三十七年」が正しいが、当時幕府に蟄居謹慎の処分を受けていた象山が、それ以前の仕事と見せるためにあえて誤って書いたものである。雷電のあまりの怪力ぶりに、突っ張り・張り手・閂を禁じ手とされた逸話もここで述べられている。その石片は勝負事に利益があるとしてたびたび削り取られ、明治期には碑文が判読不可能にまでなっていたため、勝海舟山岡鉄舟の発起で新碑が建立された。現在は、新旧の両碑がT字型に並び立っている。
  • 千葉県佐倉市臼井台
  • 妙覚寺の前に存在し、勝川春亭の雷電の立ち姿を等身大(197cm)に描き、佐久間象山の筆による「天下第一流力士雷電之碑」の文字が刻まれている。雷電命日の毎年2月11日には雷電際として雷電太鼓の奉納などが行われる。
雷電袂鐘
  • 長野県小諸市
  • 養蓮寺の所蔵されている。雷電が自ら寄贈したもので、「江戸から袂(たもと)に隠して持ってきた」と語った逸話から「袂鐘」の名がある。報土寺の釣鐘を巡る騒動とも関わりを持つが、損傷が酷いために現在は一般公開を行っていない。
妻子の墓
  • 千葉県佐倉市臼井台
  • 妻八重の菩提寺だった浄行寺跡地には、雷電自身と妻子の墓がある。雷電の墓と称するものは全国に4つあるが、娘がともに供養されているのはここだけとなる。
報土寺の鐘・鐘楼
  • 東京都港区赤坂
  • 文化年間に江戸の大火で一度消失したために雷電の支援を得て復元されたが、「天下無双雷電」と刻まれていたことと、前例のない異形(鐘を吊るす龍頭には二人の力士が四ツに取り組み、雷電の臍に向かって撞木を付くなど)のため、幕府から不届きであるとして取り壊された。二代目の鐘は明治末期に作られ、雷電寄進当時の鐘銘が写されたといわれる。太平洋戦争で軍部に供出されて行方不明となっていたが、平成になって戻ったものである。それぞれの一番鐘をついたのは、文化の復元時には雷電、明治に再現された時は大砲万右エ門、平成に帰還した時には千代の富士貢だった。なお、鐘樓の台座だけは雷電寄進当時のもので、鐘樓は平成になって再建されたものである。
手形
  • 現在の力士もそうであるように、雷電も多くの手形を残した。その大半が左手だったことから左利きだったのではないかと見られている。蜀山人が「百里をもおどろかすべき雷電の手形をもって通る関と里(関取)」と添えたものが有名で、生家のほかに十数枚が現存し、江戸払いを受ける直前となる「文化十一年四月四日」の日付のついたものを、相撲博物館が所蔵している。

主な成績

  • 通算成績:254勝10敗2分14預5無41休 勝率.962
  • 幕内成績:254勝10敗2分14預5無41休 勝率.962
  • 幕内在位:35場所
  • 大関在位:27場所
  • 関脇在位:7場所
  • 小結在位:1場所

表現された作品

新東宝で映画化され、宇津井健が雷電を演じた。この小説を記念して、1950年代から60年代初頭に読売新聞社は「雷電賞」を制定し、関脇以下の最多勝ち星をあげた力士を毎場所表彰した。1955年3月場所 - 1966年11月場所まで実施された。

脚注

  1. 「雷電日記」に「小の川(小野川)も投げ候」とあり、雷電が有利だった取組に強引な物言いがついて預りとされたもの、と解釈されている。
  2. 柏戸宗五郎との優勝同点の都合上、25回ともいわれる。
  3. 貴乃花と白鵬には9場所連続幕内最高成績(9場所連続で優勝同点以上)があり、雷電の時代に当てはめれば9場所連続優勝相当成績になる。
  4. ただし、当時は千秋楽に大関5人がかりのようなアトラクション的な取組が行われ、「優勝相当成績」の判定の基礎となる場所成績にはそれらの勝ち星を含んでいることもあることに注意を要する(大日本相撲史より)。
  5. クイズプレゼンバラエティー Qさま!!(2009年1月26日、テレビ朝日テンプレート:出典無効
  6. ベースボール・マガジン社『大相撲ものしり帖』 1990年6月
  7. 読売新聞社大相撲 (雑誌)1998年7月号
  8. 柏戸が吉田司家に遠慮して横綱土俵入りと共に辞退し、玉垣もこれに倣って辞退して、作られた綱も木戸脇に飾られたままであった。
  9. 新田一郎『相撲の歴史』(山川出版社1994年など

関連項目

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