碓氷峠
碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約 960 m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。
古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。
目次
地理
1200 万年ほど前には現在の碓氷峠は海中にあり、クジラやサメなどが生息していた。700 万 〜 200 万年前には碓氷川上流地域で噴火活動があり、110 万 〜 65 万年前の溶岩噴出で碓氷峠付近は平地となった。その後、30 万 〜 20 万年前に霧積川によって東部で侵食があり、急な崖が形成された。以上のような経緯から、地層は下部が第三紀中期の海生堆積岩類、上部が後期中新世から前期更新世の火山岩類で構成されている[1]。下部の堆積岩層は泥岩、砂岩、凝灰岩などで侵食されやすい。また、上部の火山岩層の厚みは数百メートルに達する。
東部が激しく侵食された結果、現在の碓氷峠は直線距離で約 10 km の間に標高差が 500 m 以上に達する急峻な東側のみの片勾配となっていて、群馬県側の麓・横川の標高 387 m に対し、長野県側の軽井沢は標高 939 m と峠 (960 m) との標高差が殆どない。特に、中仙道を例に取ると坂本宿から刎石山までの水平距離 700 m の間に標高差が 300 m もある[2]。そのため、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えた。
気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ 5 m/s で大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。なお夜間には海風が支配的となって南東風が続く[3]。また、山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間 130 日以上も霧が発生している[4]。
自然環境
植生は付近にあって標高の近い浅間山山麓部分と似ており、ブナやコナラなどの落葉樹、およびモミやカラマツといった針葉樹が生えている。下草としてはゼンマイやススキ、リンドウ、ニッコウザサなどがある。浅間山との違いとしては、ムラサキやシモツケソウ、モウセンゴケが多いことが挙げられる[5]。
一帯には古くからニホンザルが生息しているが、1980年代から人里に降りてきて農作物などに被害が出るようになり、1984年には碓氷郡松井田町(当時)など 3 町で計 2,000 万円以上もの被害があった。その原因としては
などが指摘されている[6]。上信越自動車道の開通後は交通量の減った国道18号への出没も増え[7]、1990年代末以降は碓氷峠を拠点に軽井沢の中心部にも出現している[8]。
歴史
古代
古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する[9]。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が信越文化圏・信越方言に分かれている。
碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。7世紀後葉から8世紀前葉(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)にかけて、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場となっていた[10]。
平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。碓氷関は天慶3年(940年)に廃止され、中世に何度か復活した[11]。
古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。
中世
中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる[12]。
応永30年(1423年)の国人一揆や永享12年(1440年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。永禄4年(1561年)に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている[12]。
近世
江戸時代には中山道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。峠の前後には坂本宿・軽井沢宿が置かれている。
ただし、古道はその後も活用されており、たとえば難所の碓氷峠を避けることができる鰐坂峠ルートは「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この道は本庄で中山道本道から分かれて藤岡・富岡・下仁田を経由し、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州に入り、追分宿付近で本道と合流していた。しかし、こちらも難所であることに差はなかったといい、本道と同様に西牧関所が置かれていた。
天明3年(1783年)の浅間山噴火では 3 尺 (90 cm) 以上の砂が積り、碓氷峠往還は 8 日間にわたって通行不可能になっている[12]。碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末の文久元年(1861年)に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。なお、約3万人の和宮一行は同年11月9日(1861年12月10日)に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌10日(1861年12月11日)に横川に宿泊している[13]。
明治時代以降
明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は国道18号(の旧道)にあたり、坂本宿からその後碓氷湖が作られたあたりまではおおむね和宮道(正しくは、(明治天皇)御巡幸道路であり、和宮道は、熊野神社北側から子持山の南西あたりまでをいう)を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3キロメートルほどの場所に移動した。この結果、碓氷峠越えの道は3km長くなったものの平均勾配が半分以下に低減された[14]。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになった地区は中山道旧道に沿った場所で、軽井沢駅周辺は明治時代に開発された新道沿いにあたる。なお、1878年には明治天皇が北陸巡幸に出かけ、9月6日に碓氷峠を越えている。
大正以降はトラックなどの往来も盛んになり、失業対策も兼ねた公共事業の一環として1932年から翌年にかけて拡幅および一部舗装工事が行なわれ、これを記念した石碑が県境に残っている[14]。なお、第二次世界大戦中には牛や馬の峠越えによる物資の輸送も行なわれた[15]。国道18号の碓氷峠の区間は、1956年(昭和31年)から拡幅や改良・舗装工事が進められていたが、カーブが 184 個もある事などから限界があり、交通需要の高まりに応えるため1971年に国道18号のバイパスである有料道路の碓氷バイパス(入山峠を通る、かつての古東山道のルート)が開通した。碓氷バイパスは2001年11月11日より無料化され、かつての中山道はハイキングコースとして整備された。1993年には上信越自動車道が開通したことから、1979年には交通量が 2,000 台/日あった明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。なお上信越自動車道の建設に当たっては、同道路内で最長となる全長 1,267 メートルの碓氷橋が、碓氷川などをまたぐように架橋された。
現在の交通量
2005年の上信越自動車道の碓氷峠付近(群馬・長野県境)の交通量は以下の通りである[16]
なお、2005年の国道18号の碓氷峠付近(安中市松井田町原甲)の交通量は平日が 2,016 台/日、休日が 4,129 台/日[17]、2001年の碓氷バイパスの 1 日当たりの平均交通量は 10,235 台/日だった[18]。1993年の予測では上信越自動車道、碓氷バイパスの交通量はそれぞれ 8,000 台/日、7,000 台/日になると見込まれており[19]、実際の値はともにこれを上回っている。特に碓氷バイパスは1993年の交通量およそ 15,000 台/日からの半減が予想されたが、利用台数はそれほど減っていない。
鉄道
鉄道の建設
鉄道においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅-直江津駅間が1888年に開通すると当区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた[14]。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに二時間半もかかっていた[20]。スイッチバックやループ線などを設ける方法では対処できないため、視察したドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)ラックレールを用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で 66.7 ‰(= 1/15。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長のボーナルは和美峠や入山峠を通る 1/40 程度の勾配の案を提示している[21]。
1891年3月24日に起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があった。ボーナルはその対策として、大きなスパンに従来よく使われていた鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用いている。また、工事中の1891年10月に濃尾地震が起きてレンガ造りの建造物が倒壊したことを受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた[21]。このような技術が評価され、碓氷第三橋梁などの一連の橋梁、隧道などは1993年から翌年にかけて近代化遺産として国の重要文化財に指定されている[22]。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の1894年6月の明治東京地震(マグニチュード=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から1896年にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた[23]。
このような経緯を経て、延長 11.2 km の間に 18 の橋梁と 26 のトンネルが建設され、着工から 1 年 9 か月後の1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また横川と軽井沢から「横軽(よこかる)」とも呼ばれる。なお、当時の通常の蒸気機関車ではこの傾斜の登坂が困難であったが、その後技術の進歩により、京阪京津線は碓氷峠と同じ 66.7 ‰(約 3.8 度)[24]、さらに箱根登山鉄道は 80 ‰(約 4.6 度)の勾配をラックレールなしで登坂している。
アプト式鉄道
トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れ[14]、1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線電化が行われた。
電化により碓氷線の所要時間は 80 分から 40 分に半減して輸送力は若干増強された[20]が、輸送の隘路であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の板谷」、「西の瀬野八」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。
1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第 4 集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。
- 19.これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし
- 20.くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ
さらに『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。
- 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
粘着運転化
太平洋戦争後は輸送隘路の解消のため最急勾配を 22.5 ‰(約 1.3 度)とする迂回ルートも検討されたが、最大 66.7 ‰(約 3.8 度)の急勾配は回避せず一般的な車輪による粘着運転で登降坂することになり、1961年に着工し1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が1線で開通した。同年9月30日にアプト式は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧アプト式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。これによって当区間の所要時間は旅客列車で 40 分から下り列車は 17 分、上り列車は 24 分に短縮された[25]。
しかし電車・気動車・客車・貨物を問わず単独での運転は勾配に対応できず、EF63形を常に 2 両 1 組とした補助機関車として連結することとなった。勾配を登る下り列車(横川→軽井沢)を押し上げ、勾配を下る上り列車(軽井沢→横川)は発電ブレーキによる抑速ブレーキとなるという機能であった。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に連結された。
- 客車・貨物列車の場合(EF62形単機回送も含む)
- 信越本線内の本務機関車としてEF63形と同時期に製造されたEF62形が牽引する列車ではEF63形を連結して当区間を走行する際の輸送定数は客車が 360 t、貨物列車で 400 t に制限されたほか、アプト時代に一部列車で実施されていた客車と貨車を混結した状態で走る混合列車の運転が保安上禁止された。
- 下り列車の場合(軽井沢)EF62 + 客車もしくは貨車 + EF63 + EF63(横川)の編成となり、無線通信によって最前部のEF62が牽引し最後部のEF63形 2 両で推進するプッシュプル方式での運転操作が行われた。上り列車の場合、(軽井沢)客車 + EF62 + EF63 + EF63(横川)と勾配の麓側に 3 両の機関車が連なり、最前部のEF63形から 3 両の総括制御を行う。
- EF62+EF63+EF63の 3 重連による牽引力はD51形蒸気機関車の5重連に相当する[26]。
- 電車・気動車の場合
- EF62形・EF63形量産車による 3 重連以上を用いた試験の結果、EF63形が無動力の電車・気動車を牽引する場合は編成両数が電車が最大 8 両、気動車は最大7両に制限された[27]。この問題については様々な解決策が検討されたが、最終的にEF63形と当区間を通過する電車を協調運転することで、増結が求められていた 4 両分の荷重を電車が負担する案が採用されることになった。こうして1968年以降、EF63形との協調運転により最大 12 両編成での通過を可能とした169系・489系・189系の各形式電車が投入されたが、協調・非協調を問わず当区間の運転はすべてEF63形に乗務する機関士が担当し、峠を登る列車では運転士は後ろ向きに運転を行うため、電車・気動車による列車では先頭に乗務している運転士は信号現示と進路の確認を行ない車内電話を通してEF63形乗務の機関士へ伝達し相互喚呼していた。また協調運転時の総括制御、推進・牽引運転時に電車・気動車側のマスター・コントローラーとブレーキ弁を扱うと制御回路を破損してしまうため、電車・気動車側のマスター・コントローラーはハンドル「切」位置にして鍵を抜き取り、ブレーキ弁ハンドルも抜き取るよう規程されていた。
- 1985年(昭和60年)頃には余剰のサロ183形を改造した自力登坂可能な187系(第 2 案)も計画されたが、諸般の事情から白紙撤回されている。詳細は「国鉄187系特急用直流電車開発計画」も参照のこと。
横軽対策
最大66.7‰の急勾配という条件で峠の下側から本形式による推進・牽引運転を実施するため、非常ブレーキ動作時などに過大な自動連結器作用力(自連力)が発生し、連結器の破損や列車の座屈による車両の車体と台車の分離、浮き上がり脱線の予防、車両の逸走といった事故が発生するのを防止する目的で、当区間を通過する車両には以下の対策(通称:『横軽対策』)が必須とされた。また、指定された形式以外の車両、大物車、鋼木合造客車は通過を禁止されている。
- 台枠・連結器の強化[28]
- 緩衝器容量の増大[27]
- 車掌弁(車掌用非常ブレーキ装置)への絞り追加[29]
- 台車横揺れ制限装置の追加[30]
- 空気バネ台車装着車に対するパンク機能の付加[27][31]
対策施工車両には識別のため車両番号の頭に直径 40 mm の「●(Gマーク)」を付した。
これらの制約は、当区間の粘着運転への切り替え直前に実施された165系電車9両編成とEF63形による下り勾配での試験運転で、非常ブレーキを作動させたところ機関車次位のクハ165形の軽井沢方にあたる車体後部が垂直座屈で浮上し、車体と台車が分離するという現象や上り勾配での客車牽引で縦勾配の変曲点で軽井沢方の台車が脱線する現象が発生した[27][32]ことに由来する。
この結果、機関車と他の車両との間で発生する自連力の過大がもたらす悪影響が認識され当区間での被牽引対象列車に対する最大 8 両(系列によっては 7 両)までの連結両数制限と車種を問わず心皿脱出防止のため空気バネ台車装着車に対するパンクの義務化が決定された[27]。前述の専用車両によるEF63形との協調運転システムの開発は、前者の制限を解消し輸送力不足を補う手段として開発されたものである。後者の対策は空気バネ台車の限界自連力が金属バネ台車に比べて著しく小さいため垂直座屈に弱い一方で空気バネをパンクさせてストッパゴムだけで車体を支持する状態にすると空気バネ有効時と比較して約6倍の限界自連力を得られることから実施されたもの[33]で、同様に貨物列車の車掌車についても推進運転時の坐屈問題から 1 段リンク式足回りをもつヨ3500形が限定使用された[34]。
電車では協調・非協調を問わず座屈による浮き上がり脱線予防策として車両重量のある電動車ユニットを峠の下側に組成することになり、新前橋電車区(現・高崎車両センター)・長野運転所(後の北長野運転所→長野総合車両所→現・長野総合車両センター)配置の165・169系が他車両基地配置車と逆向きの編成に組成されていたほか、後に松本運転所(現・松本車両センター)配置の115系1000番台(後に長野へ移管)・新前橋電車区配置の185系200番台も電動車ユニットの向きが本来と逆向きにされた。
長野新幹線開業に伴う廃止
廃止に先立ち、1993年(平成5年)8月17日に、鉄道施設の一部を「碓氷峠鉄道施設」として国が重要文化財に指定した[35]。
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の長野新幹線開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で県境を越えることもあってローカル旅客の流動が少なく旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。
代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶジェイアールバス関東小諸支店による碓氷線1日7往復の運行に移行した[36]。長野新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。この区間は 30 ‰(約 1.7 度)の勾配が連続しているため、E2系などの勾配対策を施工した車両のみが入線可能である[20]。新幹線開業後の1997年10月の高崎-軽井沢間の 1 日平均の乗車人員は上下方向で合計およそ 30,000 人・乗車率 68 % と前年同期に同区間を運行していた信越線特急・あさまと比べて約 12,000 人増加した[37]。廃止の方針について、群馬県安中市の新島学園高等学校に長野県から通学する生徒の保護者を中心に廃止許可の取消を求める行政訴訟(取消訴訟)が前橋地方裁判所に起こされたが、裁判所は「(廃止の手続きを定めた)鉄道事業法は利用者個々の利益を直接保護するものではない」として原告適格を認めず、訴えを却下した[38]。東京高等裁判所の控訴審、最高裁判所の上告審も前橋地方裁判所の決定を支持し、廃止の是非が司法の場で本格的に問われることはなかった。
旧碓氷線の廃線部分 11.2 km のうち、群馬県側の約 10 km は碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約 840 m についても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった[39]。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からアプトの旧線を辿りの旧熊の平駅までとなっている)。碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている[40]。
車両
アプト式時代
- 国鉄3900形蒸気機関車
- 国鉄3920形蒸気機関車
- 国鉄3950形蒸気機関車
- 国鉄3980形蒸気機関車
- 国鉄EC40形電気機関車
- 国鉄ED40形電気機関車
- 国鉄ED41形電気機関車
- 国鉄ED42形電気機関車
- 国鉄キハ57系気動車
- 国鉄キハ80系気動車
粘着式(非アプト)時代
- 国鉄EF62形電気機関車
- 国鉄EF63形電気機関車
- EF63形との協調運転可能車
- 横軽通過対策車(被牽引)
- 国鉄80系電車(一部)
- 国鉄115系電車(0番台の一部・300番台・1000番台)
- 国鉄157系電車
- 国鉄165系電車(一部)
- 国鉄181系電車(一部)
- 国鉄183系電車(一部)
- 国鉄185系電車(200番台)
- JR東日本107系電車(100番台)
- 国鉄キハ57系気動車
- 国鉄キハ80系気動車(一部)
- 国鉄12系客車
- 国鉄14系客車(一部)
近代以降の事故
碓氷峠では明治以降だけでも多くの事故が起きている。1891年から1893年の線路の建設に当たっては、完成を急いだ事などから500名以上もの殉職者が生じている[14]。また、1950年には熊ノ平駅で数回にわたる土砂崩れが起きて50名が亡くなった。勾配が極めて急なことから列車脱線事故もしばしばあり、例えば1963年10月16日にトンネル内で貨車が[41]、1975年10月28日には電気機関車が脱線している(信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故)[42]。特に1975年の事故では機関車4両が10m下の県道斜面まで転落し、乗員3名が重傷を負った。また、被災した機関車4両も復旧不能で全機廃車となった。
夏季は豪雨で国道18号が崩落することも多く、1979年8月12日には雷雨のため長さ 15 m, 幅 2.5 m にわたって崩落して通行止めとなり[43]、1992年8月29日には長さ 150 m, 幅 6 m にわたって道路北側の土砂が崩れた上に地盤が緩み、復旧に二ヶ月を要している[44]。この他、1969年には山火事で国道18号の 3 km の区間が通行止めとなった事もある[45]。
伝承・歌など
碓氷峠には、他の峠などと同様に豪傑の伝承などがある。古代では頼光四天王の一人、碓井貞光が有名であり、先祖が勅勘によって配流され碓氷峠に隠棲していたといわれる[46]。中世から近世にかけては「灘田の左太夫」(なだたのさだゆう)の話が伝わっている。実在した土豪の佐藤氏が左太夫のモデルになったとされ、具体的な内容としては
- 足が非常に速く、茶飲み話をしている間に信濃国まで行ってソバを刈ってきた[47]。
- 怪力の持ち主で、加賀藩主の駕籠を一人でかつぎ、反対側には巨石をぶら下げたまま休まずに峠を登りきった[48]。
- 力を利用して悪事を働いたため峠を追われ、裏妙義に隠れ住んで亡くなった[48]。
などがある。
近代に入ると多くの文学者が訪れ、正岡子規は1891年の『かけはしの記』[49]の中で、碓氷峠を馬車鉄道で越えた時の様子を描いている。
大正時代には、北原白秋が『碓氷の春』という一連の和歌を詠んでおり、その一首を刻んだ歌碑が横川駅下のドライブインに存在する[10]。また、頂上の熊野神社の境内には山口誓子や杉浦翠子が碓氷峠を詠んだ俳句の句碑がある[50]。西條八十の詩・『ぼくの帽子』の冒頭には碓氷峠が登場し、森村誠一の『人間の証明』はそれを引用している。
見所
- 旧中山道 坂本宿
- 旧碓氷線 碓氷第三橋梁(めがね橋)
- 碓氷湖
- 碓氷峠鉄道文化むら:付近の観光施設
- アプトの道:遊歩道
- 信越本線の横川を基点として、旧上り本線を経由し、丸山変電所、峠の湯、碓氷第三橋梁(通称めがね橋)を経て、現在は熊ノ平(旧本線の信号所)までが通行可能となっている。なお、熊ノ平から軽井沢の間は、アプト式時代の物も残ってはいるものの、一部はトンネルがふさがれたりしており、現時点での整備計画はない。なお、横川から峠の湯までは旧上り本線をアスファルトで舗装しているが、急勾配のレールの重さによるずれにより、所々にアスファルトにひびが入っている(現在も年間に数ミリのレールのずれが起きている)。2005年(平成17年)に開通したトロッコを運転している旧下り本線は柵で分離し、立入できないようになっている。なお、トロッコは碓氷峠鉄道文化むらの遊具という扱いとなっているため、同施設の入場券が必要であり、さらに11月から3月中旬までは運休となる。運転は土曜・休日及び特定日の日中となっており、横川の鉄道文化むらから峠の湯までの 2.6 キロを走る。
- 丸山変電所
- 熊ノ平信号場
- アプト式時代には駅として開業したもので、1968年(昭和38年)の粘着式運転の開始により、その後駅は廃止され信号場となる。駅としての機能があるときには玉屋(現在は坂本にある玉屋ドライブイン)が、峠の力餅を販売していた。1950年(昭和25年)に発生した土砂災害によって多くの犠牲者が発生し、殉難の碑が建立され、現在も毎年慰霊祭が行われている。慰霊碑に隣接して、熊ノ平神社もある。熊ノ平は現在、遊歩道以外は立入禁止となっている。
- アプト式時代のトンネルが 3 本、旧本線のトンネルが 4 本あるが、アプト式時代に作られた引き上げ線となるトンネルの 1 本が国道18号(旧道)に続いており、業務用の出入り口として使用されていた。現在も工事車両の出入り口となっており、入口の門は施錠されている。場内には変電所も放置されたまま残っており、そこに新たに気象観測の機器も設置されている。この他アプトの碑やホーム跡も残っており、廃線当時と状態は変わっていない。
- アプト式時代のトンネル・橋梁
- 国道18号(旧道)沿いで、至る所に見ることができる。トンネル・カルバート・橋梁に関して、熊ノ平から横川の方には案内看板が設置されているが、軽井沢に近い中尾橋やその近くのトンネルは特に案内板などは設置されていない。旧本線に関しても案内板などの設置はない。
- ゴルフ場付近
- 廃線区間の注意事項:遊歩道など開放された箇所以外の立入は禁止されており、許可がない立入は建造物侵入罪となる。特にアプト式時代のトンネルなどは経年から危険である。
脚注
参考文献
- 北河大次郎「文化を彩る近代の橋(9)わが国最大の煉瓦造橋梁 碓氷峠鉄道施設 第三橋梁」『橋梁と基礎』、41巻3号、建設図書、P.54-56、2007年
- 佐藤喜久一郎「歴史叙述のなかの正当と異端 碓氷峠における佐太夫伝説とその由緒」『日本民俗学 』240号、日本民俗学会、P.29-58、2004年
- 田島二郎「鉄路4代 - 碓氷峠を越えて」『土木学会誌』、83巻3号、P.10-11、1998年
- 野村哲「群馬県、碓氷川源流域にみる自然環境の形成要因 : 碓氷峠越えを困難にしている自然史的要因を探る」平成7年度版、『群馬県の地域情報に関する総合的研究:特定研究報告書』、群馬大学社会情報学部、P.3-10、1996年
- 本田正次「植物学のおもしろさ」朝日新聞社、P.262-267、1988年
- 鶴田治雄「光化学スモッグの碓氷峠越え 内陸域における大気汚染の動態」『科学』、55巻4号、岩波書店、P.239-243、1985年
- 市川潔「文学碑のある旅 -20-磯部温泉・碓氷峠(群馬県)」『俳句』、32巻3号、角川書店、P.188-191、1983年
- 倉田正「峠物語 碓氷峠」『道路』、464号、日本道路協会、P.65-70、1979年
- 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年〜2002年 を基にしたデータベース)
- テンプレート:Cite book
- 中橋順一「列車の挫屈現象」『Railway Research Review』Vol.65 No.8、財団法人鉄道技術研究所、2008年8月、pp.26 - 29 [1]
関連項目
- 日本の峠一覧
- 坂東:碓氷峠と箱根峠より東の呼称。白河関と勿来関より南。
- 入山峠:付近の峠
- 碓氷峠を通っていた古道、および現在通っている道路
- 東山道と境界
- 鉄道関連
- 美しい日本の歩きたくなるみち500選
- 峠の釜めし
- 頭文字D:漫画・アニメ。架空の設定で、公道レースを行う女性走り屋チーム「インパクトブルー」の拠点として国道18号が劇中に登場する。