濃尾地震
テンプレート:地震 濃尾地震(のうびじしん)は、1891年(明治24年)10月28日に濃尾地方で発生した、日本史上最大の内陸地殻内地震。「美濃・尾張地震(みの・おわりじしん)」とも呼ばれている。辛卯の年に発生したことから辛卯震災と呼んでいる報告書もある。
概要
濃尾地震は、1891年10月28日6時38分50秒に発生した。震源は、岐阜県本巣郡西根尾村(現・本巣市)、北緯35度35分、東経136度20分付近。河角廣(1951)は岐阜市付近(北緯35.6°、東経136.6°)に震央を仮定し規模MK = 7.0を与え[1]、マグニチュードは M = 8.4に換算されているが、明治・大正期の地震については0.5程度大きく見積もられているとされる[2]。また、震央距離と震度との関係など当時のデータから後にM8.0[3]とも推定される。アメリカ地質調査所 (USGS)でも8.0としている[4]。「根尾谷断層帯」が活動した典型的な内陸地殻内地震(いわゆる直下型地震)であり、これは日本の陸域で発生した地震としては観測史上最大である。
3日前の10月25日21時14分には揖斐川下流域を震源とする、前震と思われる地震(M 6.0)が発生している[5]。
記録のある過去の歴史地震では、745年6月5日(天平17年4月27日)に美濃を中心として発生した天平地震が濃尾地震と類似した地震とする見方もある[6][7]。また1586年1月18日(天正13年11月29日)に発生した天正地震も、この地域を襲っており、より広大な範囲に被害をもたらしているが、震源域は不明な点が多い[8]。
震源断層
両白山地から濃尾平野北方にかけて位置する濃尾断層帯のうち、根尾谷断層帯、梅原断層帯、温見断層北西部が活動をした。活動域は福井県境(福井県野尻)付近から岐阜県を経て愛知県境にまで及び、北北西―南南東方向に総延長約76kmの断層が出現した。地表の変位は両端ほど垂直成分が多く中央部では水平成分が多くなり、根尾谷断層に沿って水平変位は最大で7.6mを記録している。根尾村水鳥(みどり)地区での根尾谷断層は上下差6m横ずれ量4mにも及び、写真技師 瀬古安太郎撮影の写真は、この地震の象徴として広く利用されている[9]。なお、この断層の写真の撮影者には瀬古安太郎、小藤文次郎、小川一真など複数の名前が挙げられている[10]。
この地震活動により福井県境付近から岐阜県を経て愛知県境の断層に加え、地表に現れていないものの、分岐する岐阜 - 一宮断層など合計5個の断層が動いたと仮定する震源モデルが提唱されており、合計の地震モーメントはM0 = 1.5×1020N・m (Mw 7.4)と推定されている[11][12]。
北北西方向への延長線上には1948年福井地震を引き起こした福井地震断層が存在し、南南東方向への延長線上には1945年三河地震の深溝断層方向と同一である[13]。
被害
地方名 | 人的被害(人) | 家屋被害(棟) | その他(箇所) | ||
死者 | 負傷者 | 全壊 | 半壊 | 山崩れ | |
美 濃 | 4,889 | 12,311 | 70,048 | 30,994 | 9,929 |
尾 張 | 2,331 | 4,550 | 67,771 | 43,570 | 29 |
その他 | 53 | 314 | 4,358 | 5,760 | 266 |
合 計 | 7,273 | 17,175 | 142,177 | 80,324 | 10,224 |
濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県や福井県にも被害は及んだ。明治時代では最大規模の地震であり、宇佐美龍夫“新編日本被害地震総覧”によると、死者は7273名、負傷者17175名、全壊家屋は14万2177戸を数えた。震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、はげ山になったなどと伝えられる。また岐阜市と周辺では火災が発生し被害を大きくした。岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったという。
濃尾地震の震度分布は大森房吉により求められ、名古屋など愛知県から岐阜県、福井県を貫く広い範囲で震度6相当となっている。だが、当時の震度階級は4段階で最大でも震度6相当であり、根尾谷を始め、岐阜県西部から愛知県にかけて家屋倒壊率が90%を上回る地域もあり、震度7と推定される地域も美濃から尾張(一部越前、三河)にかけて分布している[5][15]。
建築物では、伝統的な土蔵の被害は比較的軽かったが名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被害は言うまでもなく、欧米の技術で作られた近代建築でさえ、長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなかった橋梁や煉瓦の建築物などが破壊されたため、この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が進展する契機となった。また、この地震後に震災予防調査会が設置された。イギリス人お雇い外国人で、写真家でもあるウィリアム・K・バートンが、自らのカメラで被害状況を記録している[16]。
なお震災の9年後に発表された『鉄道唱歌第一集東海道編』でも、岐阜の紹介では鵜飼と並んで濃尾地震が歌われている。
また唱歌『一月一日』(千家尊福作詞)を以下の様に捩った替え歌が震災直後の児童の間で流行した。
各地の震度
地震の観測は中央気象台(現・気象庁)、測候所の他、灯台や郡役所などの委託観測所でも行われ、中央気象台に報告されていた。当時の震度階級は「烈」(震度6相当)、「強」(4-5)、「弱」(2-3)、「微」(1)の4段階であったが、特に強い場合は「激烈」、基準より弱めの場合は「稍(やや)烈」などの表現が用いられていた[14]。
前兆現象
数日前から「動物の異常行動」や本震の数時間前から、「鳴動音」「地鳴り」が有ったことが報告されている[17]。また、宇佐美の報告によれば、前々日や前日に前震活動[18]があったことが報告されている。
報道
電信線が寸断されたこともあって、濃尾地震の全容はすぐには把握されなかった。28日、大阪朝日新聞は号外を出し、彦根、四日市以東への電信が不通であること、難波紡績工場が倒壊したことを報じる。東京ではさらに把握が遅れ、東京日々新聞では、29日に金沢や横浜で大地震があったことを報道。30日になってようやく「安政の地震の再来」という認識で地震が報道され、以後情報が正確になっていった。
また、濃尾地震の情報は海外にも打電され、ロンドンの29日付のタイムズ紙でも報道された。同紙は30日には横浜からのロイター電として、大阪、神戸の被害が大きいという推測記事を掲載。日本を旅行中に大阪で濃尾地震に遭遇したメアリー・ジェーン・ビカーステスに、この報道を見た留守家族が、31日に日本へ安否確認の電報を打ち、彼女は11月1日に神戸でこの電報を受け取った。ビカーステスはその後12月28日、英国帰国直前、フランスのカレー駅で待ち受けていた記者から、地震体験の取材を受けている[19]。
学術的な意義
この地震によって、地質学者の小藤文次郎は断層の地震との関係を確信し、断層地震説を主張した。
地震学者大森房吉は、この地震の余震を研究し、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す大森公式を発表している。地震から100年以上経てもなお、余震が続いている[20]。
この地震は、内陸型地震としては特別に大きな規模の地震ではなく、同程度(長さ50km程度)の規模の断層は日本各地に見られる[21]。
地震防災
- 地震を予知することは出来なくても予防は可能であるとの観点から、翌年の1892年に発足した震災予防調査会により、地震や防災に関する幅広い研究が進められ「地震予知」「建物の耐震性向上」「過去の地震史の編纂」などが行われた。この震災予防調査会の活動は、1923年の関東大震災を経て東京大学地震研究所に引き継がれた。
- 岐阜県は濃尾地震が発生した10月28日を「岐阜県地震防災の日」として指定し、地震防災の啓発などを行っている。また、毎月28日を「岐阜県防災点検の日」として、県民に災害への備えを呼びかけている[22]。
脚注
- ↑ Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482
- ↑ 河角の規模と気象庁の規模との関係 河角マグニチュード 宇佐美龍夫、茅野一郎 東京大学地震研究所彙報、第48冊第5号、1970年
- ↑ 村松郁栄:「濃尾地震のマグニチュード」 『地震 第2輯』 15, 4, 1962, pp.341-342,テンプレート:JOI
- ↑ USGS Global Earthquake Search
- ↑ 5.0 5.1 「濃尾地震の震害と震度分布」 名古屋大学大学院環境学研究科附属 地震火山・防災研究センター
- ↑ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店
- ↑ 大森房吉(1913), CiNii 大森房吉(1913): 本邦大地震概説, 震災豫防調査會報告, 68(乙), 93-109.
- ↑ 中村一明、守屋以智雄、松田時彦 『地震と火山の国』 岩波書店、1987年
- ↑ 濃尾地震と根尾谷断層 岐阜大学教育学部地学科
- ↑ テンプレート:PDFlink
- ↑ Mikumo, T. and M. Ando (1976) A search into the faulting mechanism of the 1891 great Nobi earthquake, J. Phys. Earth, 24, 63-87.
- ↑ テンプレート:PDFlink
- ↑ 中部日本内陸に起きた被害地震(M≧6.4)の時空分布に認められる規則性 -活動周期と発生場所-活断層研究 Vol. 1991 (1991) No. 9 p. 26-40
- ↑ 14.0 14.1 14.2 中央気象台 明治廿四年十月廿八日大震報告
- ↑ テンプレート:PDFlink 宮腰淳一, 佐藤俊明1, 福和伸夫(2003):「住家被害を利用した1891年濃尾地震の地震動強さ分布の分析」 地域安全学会論文集 No.5
- ↑ テンプレート:PDFlink 榎本祐嗣(2006): 小藤論文の濃尾地震根尾谷断層写真について 『歴史地震』 第21号, 219-222頁
- ↑ 力武 常次:濃尾地震の前兆現象 地震 第2輯 Vol.42 (1989) No.4 P451-466, テンプレート:JOI
- ↑ 今村 明恒:濃尾大地震の前徴に就いて 地震 第1輯 Vol.15 (1943) No.12 P336-341
- ↑ 『世界一周の誕生 グローバリズムの起源』 園田英弘 文藝春秋
- ↑ 日本地震学会広報誌『なゐふる』第13号、1999年など。同誌によれば、地震発生から1994年末までの岐阜における有感地震発生率は、改良大森公式においてK=535,c=0.830,p=1.0とした場合に、最もよく適合する。
- ↑ 最大地震規模による日本列島の地震分帯図 東京大学地震研究所彙報 第65冊第1号、1990年6月30日、pp.289-319
- ↑ 岐阜県 毎月28日は「岐阜県防災点検の日」
関連項目
- ジョン・ミルン
- 大森房吉
- 田中舘愛橘
- 小藤文次郎
- 根尾谷断層
- 新潟-神戸歪集中帯
- 地震断層観察館・体験館
- 松若大五郎 後の大坂相撲横綱若嶌權四朗。地震発生中に兄弟子の楯甲久四郎に救出されるが楯甲自身は死亡し、これをきっかけに楯甲の四股名を継承。
- 赤坂病院 - 救援隊を派遣して現地に救療所を作った。
外部リンク
- 国立科学博物館地震資料室 濃尾地震
- 1891年濃尾地震の地震断層 東京大学地震研究所 地震研究所研究速報 第13号、1974年3月、pp.85-126
- 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月/1891 濃尾地震 中央防災会議
- 濃尾地震
- 濃尾断層帯 地震調査研究推進本部
- 濃尾地震の震害と震度分布 名古屋大学大学院環境学研究科附属 地震火山・防災研究センター
- デジタル教材 『濃尾地震と根尾谷断層』 ═地震とともに生じた土地の変化═ 岐阜大学教育学部地学科