大森房吉
大森 房吉(おおもり ふさきち、1868年10月30日(明治元年9月15日) - 1923年11月8日)は日本の地震学者。
経歴
1868年、越前国足羽郡福井城下(現・福井県福井市手寄)に下級武士大森藤輔の五男として生まれる。小学生の時に上京し、1890年に東京帝国大学(現・東京大学)物理学科を卒業、その後大学院で気象学と地震学を専攻し、イギリスから招かれた地震学者ジョン・ミルンの指導のもとで1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。そして、1894年に本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す(余震の)大森公式も発表している。
1894年から3年間ヨーロッパへ留学し、帰国後(1896年)、帝国大学地震学教授となる[1]。濃尾地震を契機に文部省(現・文部科学省)内に設置された震災予防調査会の幹事を長らく務め、日本の地震学の指導的な立場にあり、「日本地震学の父」とも呼ばれている。1898年に世界初の連続記録可能な地震計、大森式地震計を開発した。1899年に初期微動継続時間から震源までの距離を決定できることを示す(震源距離の)大森公式を発表した。
1905年に同じ講座の助教授であった今村明恒が、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞に煽情的に報じられたため社会問題となった。房吉は震災対策の必要性は理解を示していたが、そのために社会に混乱を起こすことを恐れていた。そのため、その記事を根拠の無い説として退ける立場をとった。
1910年の有珠山の噴火の際には、自ら試作した地震計を壮瞥町に設置して火山性地震の詳細な観測を行った[2]。それら観測の結果、火山性微動を世界で最初の記録するなど従来の火山学に新しい知見をもたらした[2]。1911年には「大噴火の予知は場合によっては酷く困難な問題ではない」と述べ[2]、噴火予知のための恒常的観察を行う火山観測書の設置を提言し[2]、有珠山論文を発表した[2]。
1914年1月12日の朝、前日から桜島周辺で小さな地震が多発している旨の報告を受け、注意を促す電報を打とうとしていた矢先に桜島大正大噴火が発生している[3]。1月16日に海上から桜島を視察し、同日19時に鹿児島市内には危険が及ばないとする見解を発表した。これにより当時混乱状態にあった市内は平静を取り戻した。
1923年に大森は汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアに出発した。その留守の間に関東地震(関東大震災)が発生した。房吉はちょうどシドニーのリバビュー天文台で、この地震が地震計に記録されているのを見たという。この地震が日本で発生した大地震であることを知り、急遽帰国の途についた房吉だったが、途上の船上で脳腫瘍のために倒れ、そのまま帰国後に死去した。
大森式地震計
1890年代から1900年代初頭に各地の測候所に設置されていた地震計は、G.M.E(グレー - ミルン ・ユーイング)普通地震計で感震器が動作することで記録を開始する方式で有ったため、p波が記録出来ない欠陥があった。大森房吉はGME普通地震計を改良し、1898年頃に常時記録可能な大森式(水平)地震計を制作した[4]。この地震計は煤書式で記録紙を円筒形に巻いたドラムをゼンマイでゆっくりと動かし常に記録し続ける方式[5]。従って、P波、S波、L波の違いをはっきりと区別して記録することが可能であった[4][6]。
後に微動計、簡単微動計などの様々な改良型が作られ、日本国内(大学・気象台測候所)だけで無く日本国外でも使用された[7]。
脚注
参考文献
- 『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』上山明博 著、産経新聞出版、2013年
- 「大森房吉」上山明博(『ニッポン天才伝』朝日選書、2007年)
関連項目
外部リンク
- 『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』鼎談書評「文藝春秋」第91巻第13号(2013)P411-413
- 「主要参考文献」上山明博『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』産経新聞出版(2013)P262-263
- 「信州大町地方の地震に就きて」大森房吉 地學雜誌 Vol.31 (1919) No.1 P1-16
- 「阿蘇山噴火概表」大森房吉 地學雜誌 Vol.32 (1920) No.3 P116-124
- 「淺間泥流 (噴火頽れ) の成因に就きて」大森房吉 地學雜誌 Vol.25 (1913) No.1 P67
- 「大森房吉」(田中舘愛橘記念科学館)
- 「大森 房吉」nkysdb(なかよし論文データベース)
- 「鳥島噴火視察報告」『官報』1902年9月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)報告者大森房吉