寺田寅彦

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寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年明治11年)11月28日 - 1935年昭和10年)12月31日)は、戦前日本物理学者随筆家俳人であり吉村冬彦(大正11年から使用)、寅日子、牛頓(“ニュートン”)、藪柑子(“やぶこうじ”)の筆名もある。高知県出身(出生地は東京市)。

略歴

業績

研究上の業績としては、地球物理学関連のもの(潮汐の副振動の観測など)があるいっぽうで、1913年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)についての発表(結晶解析分野としては非常に初期の研究のひとつ)を行い、その業績により1917年に帝国学士院恩賜賞を受賞している。また、”金平糖の角の研究”や”ひび割れの研究”など、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究も行っていて、これら身辺の物理現象の研究は「寺田物理学」の名を得ている。

寅彦は自然科学者でありながら文学など自然科学以外の事柄にも造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。その中には大陸移動説を先取りするような作品もある。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉といわれるが、著書中にはその文言はなく、発言録に残っている[1]

今日では、寅彦は自らの随筆を通じて学問領域の融合を試みているという観点からの再評価も高まっている。

漱石の元に集う弟子たちの中でも最古参に位置し、科学や西洋音楽など寅彦が得意とする分野では漱石が教えを請うこともあって、弟子ではなく対等の友人として扱われていたと思われるフシもあり、それは門弟との面会日だった木曜日以外にも夏目邸を訪問していたことなどから推察できる。そうしたこともあって、内田百間らの随筆で敬意を持って扱われている。五高時代には、漱石を主宰に厨川千江蒲生紫川らと俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)をおこした[2]

また『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれる。このことは漱石が寒月の扱いについて伺いをたてる手紙を書いていることや、帝大理学部の描写やそこで行われている実験が寅彦の案内で見学した体験に基づいていることからも裏付けられる。

関連人物

後に友人の大河内正敏に請われて入所した理化学研究所や他の研究所などでは、寅彦を慕って「門下生」となった人物が多く、その中には中谷宇吉郎(物理学者、随筆家)や坪井忠二(地球物理学者、随筆家)、平田森三(物理学者)などがいる。

なお作家・安岡章太郎は寅彦の長姉・駒の義弟の孫で[3][4]、劇作家・別役実は駒の曾孫にあたる[3][4]。また古代史研究者の伊野部重一郎は寅彦の次姉・幸の孫で[4]、評論家・青地晨は寅彦の娘婿にあたる[4]

父親である寺田利正は土佐の郷士宇賀喜久馬の実兄で[4]井口村刃傷事件で弟の切腹の際、介錯を務めたとされている[4]

著書

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単著

共著・編著・共編著

翻訳

随筆集

選集・全集

脚注

  1. 小品『天災と国防』(初出は1934年11月、『経済往来』)にあるのは、次の言葉である。テンプレート:Quotation経緯は中谷宇吉郎の随筆「天災は忘れた頃来る」に詳しい。
  2. 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、418頁
  3. 3.0 3.1 『寺田寅彦覚書』、33頁。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 『日本の有名一族』、108-112頁。

関連項目

参考文献

外部リンク

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