小野川喜三郎
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小野川 喜三郎(おのがわ きさぶろう、1758年(宝暦8年)[1] - 1806年4月30日(文化3年3月12日))は、近江国京町(現:滋賀県大津市)出身の元大相撲力士。本名は川村 喜三郎(かわむら きさぶろう)。
来歴
初代・小野川の養子となって、1776年(安永5年)に大坂相撲で初土俵を踏み、1779年(安永8年)に江戸相撲に合流、久留米藩の抱えとなった。1782年(天明2年)3月場所7日目には、当時大関だった谷風梶之助の63連勝を止める殊勲の星を上げた。これ以降、谷風梶之助と小野川喜三郎の取組は、相撲史上に残る名勝負として現在まで語り継がれている。その功績が認められた形で、1789年(寛政元年)に吉田司家から谷風梶之助とともに横綱免許を授与された(事実上、現在に至る横綱制度の始まり)。1791年(寛政3年)6月11日には徳川家斉の上覧相撲が行われ、徳川家斉のリクエストによって谷風梶之助との対戦が組まれた。両者は変わらない熱戦を繰り広げて徳川家斉を喜ばせるなど、寛政の相撲繁栄期を築いた。1797年(寛政9年)に引退。
小野川が1806年(文化3年)に亡くなってから、1828年(文政11年)に阿武松が横綱免許を授与されるまでの約22年間、横綱経験者が全て存命していない状態になっていた(2013年現在まで唯一)。
2013年1月現在、「小野川」という名前は日本相撲協会が所有する年寄名跡の一つに数えられ、武州山隆士が襲名している。所有者は日本相撲協会理事長である北の湖敏満。
人物
体躯・筋力に優れる谷風梶之助に対して、慎重な取り口と技巧で対抗した。そのために作戦的な立ち合いも多く、江戸庶民の人気は薄かった。しかし、谷風梶之助・雷電爲右衞門の両強豪に挟撃されながらも歴代でも一級の戦績を残したことで、現在では「大相撲史上最強のナンバー2」と評される。雷電とは小野川喜三郎が全盛期を過ぎた頃に対戦して、江戸では一度も勝てなかった。
横綱免許授与後最も多く使用した四股名は「小野川喜三郎」だが、大関の時(当時は横綱免許と番付は無関係)は小野川才助と書かれていた。
主な成績
- 幕内通算成績:144勝13敗4分10預3無40休 勝率.917(23場所)
- 優勝相当成績:7回