片山内閣
概要
日本国憲法下で国会の指名を受け組閣を行った最初の内閣である。第23回衆議院議員総選挙の結果、比較第1党となった日本社会党を中心に、民主党・国民協同党からも閣僚を得て連立内閣とした。無産政党の議員が首相を務める内閣としては初のものである。
しかし、片山は本来、吉田茂率いる自由党を含めた(日本共産党を除く)「挙国一致内閣」を目指していたが、自由党が入閣に難色を示したため組閣は難航する。徹底した反共主義で鳴らす吉田や自由党幹事長の大野伴睦は党首会談の席上で「今日の閣議の機密を明日にはモスクワに漏らす分子(容共の社会党左派)がいる社会党政権には参加できない」「どうしても入閣して欲しいなら(社会党)左派を切って欲しい」と要求した。やむを得ず1947年5月24日に片山単独で親任式を受け、片山が閣僚ポストのほとんど[1]の臨時代理となる一人内閣としての発足となった。
吉田は表向き「容共」の社会党左派のいる社会党政権には入らないと主張していたが、実際は4党連立による不安定な政権運営を見越し、共倒れを恐れ連立に加わらなかったとされる。吉田の予見は翌年になって現実化する。結局自由党からは閣僚を得られず、3党を中心に1947年6月1日に閣僚人事が決まり、片山内閣が本格的に発足した。閣僚の割り振りは、社会党7名、民主党7名、国民協同党2名、緑風会1名といった各党のバランスを重視した「党派均衡内閣」ではあったが、外相、蔵相といった主要閣僚に社会党議員を充てることができず人材不足を露呈した上に、社会党左派からの入閣はなく、不安定な政局を予感させた。
神奈川税務署員殉職事件を受けて三国人による密造酒醸造・脱税事件は政府の経済緊急対策の成否にかかる重大問題であるとして省庁間の連携を強めさせた[2]。
片山内閣時には、公務員の「公僕」化を目指す国家公務員法の制定、内務省の解体、「自治体警察」を創設する警察制度の改革、労働省の設置、失業保険の創設、封建的家族制度を廃止を目標とした改正民法の制定、刑法改正、臨時石炭鉱業管理法(通称「炭坑国家管理法」)等が実現した。中でも炭坑国家管理法は、社会主義政策を具現化した社会党の重要法案であり、片山首相と水谷商相がもっともその成立に意欲的であった。しかし、産業界から猛反発を受け、野党自由党ばかりか与党民主党からも難色を示されたため、法案は成立したものの、内容は「国家管理」とは程遠い骨抜きとなり政権の脆弱さを露呈した(詳細は臨時石炭鉱業管理法の項を参照)。
更には、炭坑国家管理法案採決の際の民主党幣原喜重郎派の造反と離党、社会党右派内での勢力争い(西尾末広官房長官と平野力三農相との対立)、社会党左派の造反による補正予算の否決など内部対立が表面化し、遂に政権運営に行き詰まり片山は1948年2月10日退陣を表明した。
国務大臣等
閣僚
職名 | 代 | 氏名 | 議席・出身党派 | 在任期間 | |
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内閣総理大臣 | 46 | 50px | 片山哲 | 衆議院議員 日本社会党委員長 |
1947年5月24日 - 1948年3月10日 |
副総理 | 50px | 芦田均 | 衆議院議員 民主党総裁 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
外務大臣 | |||||
内務大臣 | 50px | 木村小左衛門 | 衆議院議員 民主党 |
1947年6月1日 - 同年12月31日[3] | |
大蔵大臣 | 50px | 矢野庄太郎 | 衆議院議員 民主党 |
1947年6月1日 - 同年6月25日 | |
50px | 栗栖赳夫 | 参議院議員 緑風会 |
1947年6月25日 - 1948年3月10日 | ||
司法大臣 | 50px | 鈴木義男 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年6月1日 - 1948年2月15日[4] | |
法務総裁 | 1 | 1948年2月15日 - 同年3月10日 | |||
文部大臣 | 50px | 森戸辰男 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
厚生大臣 | 50px | 一松定吉 | 衆議院議員 民主党 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
農林大臣 | 50px | 平野力三 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年6月1日 - 同年11月4日 | |
臨時代理 | 50px | 片山哲 | 衆議院議員 日本社会党委員長 |
1947年11月4日 - 同年12月13日 | |
50px | 波多野鼎 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年12月13日 - 1948年3月10日 | ||
商工大臣 | 50px | 水谷長三郎 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
運輸大臣 | 50px | 苫米地義三 | 衆議院議員 民主党 |
1947年6月1日 - 同年12月4日 | |
50px | 北村徳太郎 | 衆議院議員 民主党 |
1947年12月4日 - 1948年3月10日 | ||
逓信大臣 | 50px | 三木武夫 | 衆議院議員 国民協同党 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
労働大臣 | 1 | 50px | 米窪満亮 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年9月1日 - 1948年3月10日[5] |
経済安定本部総務長官 | 50px | 和田博雄 | 参議院議員 緑風会 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
物価庁長官 | 事務取扱 | 50px | 片山哲 | 衆議院議員 日本社会党委員長 |
1947年5月27日 - 1947年6月1日 |
兼任 | 50px | 和田博雄 | 参議院議員 緑風会 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
復員庁総裁 | 2 | 50px | 笹森順造 | 衆議院議員 国民協同党 |
1947年6月1日 - 1947年10月15日[6] |
賠償庁長官 | 1 | 50px | 笹森順造 | 衆議院議員 国民協同党 |
1948年2月1日 - 1948年3月10日[7] |
行政調査部総裁 | 50px | 斎藤隆夫 | 衆議院議員 民主党 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
建設院総裁 | 1 | 50px | 木村小左衛門 | 衆議院議員 民主党 |
1948年1月1日 - 1948年3月10日[8] |
地方財政委員会委員長 | 1 | 50px | 竹田儀一 | 衆議院議員 民主党 |
1948年1月7日 - 1948年3月10日[9] |
国務大臣兼内閣官房長官 | 50px | 西尾末廣 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年6月1日 - 1948年3月10日 | |
国務大臣(無任所) | 50px | 林平馬 | 衆議院議員 民主党 |
1947年6月1日 - 1947年11月25日 | |
国務大臣(無任所) | 50px | 米窪満亮 | 衆議院議員 日本社会党 |
1947年6月1日 - 1947年9月1日 | |
国務大臣(無任所) | 50px | 笹森順造 | 衆議院議員 国民協同党 |
1947年10月15日 - 1948年2月1日 | |
国務大臣(無任所) | 50px | 竹田儀一 | 衆議院議員 民主党 |
1947年6月1日 - 1948年1月7日 |
- 内閣官房次長(政務)
- 内閣官房次長(事務)
政務次官
- 外務政務次官
- 松本瀧藏:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 内務政務次官
- 長野長広:1947年6月24日 - 同年12月31日(内務省廃止)
- 大藏政務次官
- 小坂善太郎:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 司法政務次官
- 法務政務次官
- 榊原千代:1948年2月15日 - 同年3月10日
- 文部政務次官
- 永江一夫:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 厚生政務次官
- 金光義邦:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 農林政務次官
- 井上良二:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 商工政務次官
- 冨吉榮二:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 運輸政務次官
- 田中源三郎:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 逓信政務次官
- 椎熊三郎:1947年6月18日 - 1948年3月10日
- 労働政務次官
- 土井直作:1947年9月1日 - 1948年3月10日
脚注
- ↑ 経済安定本部総務長官、復員庁総裁、行政調査部総裁については片山自身への兼務の発令なく6月1日まで空席。物価庁長官のみ3日遅れて5月27日に自らに事務取扱の発令をしている。閣僚ポストではないが、内閣官房長官、法制局長官、内閣官房次長、全ての政務次官も同様に空席。
- ↑ 税務職員の殉難小史
- ↑ 1947年12月31日、内務省廃止。
- ↑ 1948年2月15日、司法省廃止。
- ↑ 1947年9月1日、新設。国務大臣(無任所)より補職。
- ↑ 1947年10月15日、復員庁廃止。これにより笹森は国務大臣(無任所)に。
- ↑ 1948年2月1日、新設。国務大臣(無任所)より補職。
- ↑ 1948年1月1日、新設。内務相より転任。
- ↑ 1948年1月7日、新設。国務大臣(無任所)より補職。