村山富市
テンプレート:政治家 村山 富市(むらやま とみいち、1924年(大正13年)3月3日 - )は、日本の政治家。社会民主党名誉党首。勲等は桐花大綬章。
大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)などを歴任した。
目次
概要
大分市議会議員、大分県議会議員を経て、衆議院議員として国政に参画した。社会党が左右分裂していた時代には左派社会党に所属。国会議員に当選後、日本社会党の党内では政権構想研究会や水曜会に所属するなど、一貫して社会党右派として活動した。衆議院では社会労働委員会や予算委員会の理事を務め、物価問題等に関する特別委員会では委員長に就任した。日本社会党国会対策委員会委員長などを務めたのち、山花貞夫の辞任にともなう日本社会党委員長選挙に立候補し当選した。
非自民・非共産連立政権では与党第一党の党首として細川内閣や羽田内閣を支えたが、改新結成騒動などを巡り対立が激化し、連立政権から離脱した。自社さ連立政権の発足にともない第81代内閣総理大臣に就任し、1994年6月30日から1996年1月11日まで在任した。その後、日本社会党を解党させるとともに、新たに社会民主党を結成し、同党の党首や特別代表を務めた。現在は学校法人明治大学の顧問や大分県職員連合労働組合の特別顧問を務めるとともに、社会民主党の名誉党首や明治大学校友会の名誉会長などの名誉職を務める。また、明治大学より名誉博士の名誉学位を授与されている。
なお、2012年現在、大正生まれとしては最後の内閣総理大臣経験者である。日本社会党在籍歴を持つ内閣総理大臣としては、片山哲、鈴木善幸以来3人目であり、1955年以後で初の自民党在籍歴を持たない総理大臣であった。
来歴・人物
国会議員当選まで
1924年、大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれた。1936年、大分市立中島尋常小学校卒業、1938年、大分市立大分高等小学校卒業後、東京に出て、昼間は機械工場や印刷工場などで働きながら、夜間は東京市立商業学校に学んだ。
1943年、旧制明治大学専門部政治経済科に入学。哲学研究部に属す。このころ、同じく明治大学に通っていた丸谷金保に誘われ、穂積五一が運営する学生寮「至軒寮」に入った[1]。1944年、学徒動員で石川島造船所に配属された。同年、成人し徴兵検査を受け、学徒出陣で宮崎県都城市の日本陸軍歩兵第23連隊に二等兵として入隊した。1945年8月15日、幹部候補生として陸軍軍曹の階級で終戦を迎えた。
1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業した。1948年、大分県漁村青年同盟の書記長に就任した。漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動した[2]。
1951年、大分市議会議員選挙に立候補したが、次点で落選。1953年、ヨシヱ夫人と結婚。再起を期した1955年、大分市議会議員選挙に日本社会党から立候補し、当選(以後当選2回)。1963年、大分県議会議員選挙に支持者の後援で立候補し、当選(以後連続3回当選)。1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、トップで初当選(同じ自治体議員経験者たる社会党新人代議士に竹村幸雄)。以降、落選1回を挟み、通算当選8回。1973年には横路孝弘や田英夫らと「新しい流れの会」に参画。
国会対策委員長から党委員長へ
1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。1992年のPKO国会では、国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月に自公民3党の賛成多数で成立。国会対策委員長として国会運営に携わったことから、自民党の梶山静六、公明党の神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つに至った。1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が社会党委員長に就任したが、村山は国会対策委員長に留任した。
同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を回復できず、一方の社会党も新党ブームに埋もれ議席をほぼ半減させた。8月、社会党を含む8会派により非自民連立政権である細川連立内閣が発足。山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明した。後任の委員長には委員長代行久保亘と村山が有力視されるが、委員長選挙への立候補を久保が辞退。9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。当選後、書記長には久保亘を起用した。
自社さ連立政権発足
テンプレート:See also 1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明すると、連立与党は次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。
しかし、首班指名直後に新生党、日本新党、民社党などが社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。社会党の与党内での影響を抑えるためのもので、「改新」は連立与党内で社会党を大きく上回る最大勢力となった。しかし社会党には事前の相談がなかったため、村山はこれに強く反発して社会党の連立離脱を表明、羽田内閣は少数与党で発足することとなる。羽田政権下、社会党内では久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。
6月25日、進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診し、自社さ共同政権構想に合意した。しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。また、1955年の自民党誕生以降から2010年6月に菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣であった[3]。
総理大臣在任中
1994年7月、第130回通常国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。
1995年1月、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落した(後述)。
3月には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こった(後述)。その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請した。
5月10日、自由民主党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣官邸での村山との会話を洩らした。この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。
6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された。
6月21日、全日空857便ハイジャック事件が発生した際には、警察の特殊部隊に強行突入を指示し鎮圧した(後述)。
7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させた(後述)。同月、第17回参議院議員通常選挙が行われた。この選挙は、自民党内閣ではあるが非自民首相の大型国政選挙としては、自民党が結党した1955年以来、初めてであった。この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らしたため村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投し、内閣改造を行った。
8月15日、「村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」」(通称村山談話)を閣議決定した(後述)。
1996年1月5日、首相退陣を表明した。自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意した。11日に内閣総辞職し、橋本連立内閣が発足した。
村山内閣の間、首相秘書官は、園田原三(社会党中央本部)、河野道夫(左同)、岩下正(大蔵省)、乾文男(左同)、槙田邦彦(外務省)、金重凱之(警察庁)、小林武仁(左同)、古田肇(通産省)が務めた。主治医として下條ゑみ医師(国立国際医療センター)が従事。首相公邸ではファーストレディー役の二女・中原由利、社会党中央本部の田中稔、八木隆次らが秘書を務めた。
総理大臣退任後
橋本連立内閣では入閣せず、首相退任後は党務に専念した。1996年1月17日、日本社会党委員長選挙にて秋葉忠利を破り再選された。1月19日には党名を社会民主党に改称し、初代党首に就任した。しかし、所属議員のうち30人が新党さきがけ代表幹事鳩山由紀夫が提唱した新党構想に呼応し、同年9月に社民党から離党した。衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社民党党首に迎え、自らは特別代表(選挙闘争本部長兼務)に就任した。第41回衆議院議員総選挙で新設の大分1区から出馬し小選挙区勝利で再選(同区では自民党現職衛藤晟一も比例復活)。
11月、第2次橋本内閣にて社民党は閣外協力に転じた。その後、1997年の沖縄特別措置法案採決には与党ながら反対に回った。1998年6月、社民党が自民党との政権協議を破棄し、自社さ連立政権は崩壊した。
1999年、野中広務らと共に北朝鮮を訪問した(村山訪朝団)。2000年5月30日には衆議院本会議で、首相在任中に脳梗塞で倒れ、内閣総辞職後の5月14日に死去した小渕恵三に対する追悼演説を行った[4]。
政界引退後
2000年6月の衆議院解散とともに政界を引退した。2006年4月、「内閣総理大臣として国政を担当しその重責を果たすとともに、多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たした」[5]功労により、桐花大綬章を受章した。
2000年10月、原文兵衛の後任として、財団法人女性のためのアジア平和国民基金の2代目理事長に就任した。2005年1月24日、村山は基金を2007年3月に解散すると宣言した。2007年3月6日、記者会見の席上、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる河野談話)に対する内閣総理大臣安倍晋三の「私の内閣で変更するものではない発言」について触れ、「(女性のためのアジア平和国民基金は)河野談話の精神を踏まえ活動している。(安倍晋三)総理が『河野談話を継承する』と言う限り(総理を)信頼している」と述べた。同年3月31日、女性のためのアジア平和国民基金は解散した。
2005年7月16日、大分県大分市の市道交差点で、村山自身が運転する乗用車で、自転車に乗った小学4年生男児に接触する事故を起こし、男児の両腕に怪我を負わせた。業務上過失傷害容疑で書類送検されたが、事故は示談となった。同年7月24日、大分地方検察庁は村山を起訴猶予処分とする決定を下した。
80歳代後半になった2013年現在も社民党名誉党首、NPO法人日本ベトナム平和友好連絡会議会長など多数の要職の座にあり、自宅のある大分と東京を往復し政治活動を行っている。2013年1月、日中友好協会名誉顧問として同協会訪中団に名誉団長として参加。団長の元自由民主党幹事長加藤紘一・同協会会長、元防衛庁長官中谷元・自由民主党衆議院議員らとともに中国を訪問。唐家セン(唐家テンプレート:JIS2004フォント)中日友好協会会長(元国務委員)と会談した[6]。同2月、加藤らとともに首相官邸にて安倍晋三総理大臣に面会し、唐との会談の内容等について報告した。その際記者団に対し、日中首脳会談実現への期待を表明した。また安倍総理が進める「村山談話」の路線変更については反対する考えを示した[7]。また同年2月、社民党本部移転のため取り壊しが決まった旧社民党本部(社会文化会館)の「お別れ会」に伊藤茂らとともに出席。あいさつの中で「党勢低迷し歯がゆい」「議員少なく寂しい限り」と嘆いた[8]。同年5月には安倍首相が「村山談話」についての発言をある程度軌道修正する姿勢を見せたものの[9]、基本方針はその後も変えないままであるため、同年7月に参加した憲法改正に反対する集会での講演においても「村山談話」の見直しについて、「日本が国際的に孤立する」と述べてなお強く反対した[10]。同月の第23回参議院議員通常選挙において社民党が得票数を大幅に減らし惨敗したことを受け、同年8月BS-TBSの番組内で「もう社民党なんてものにこだわらないで、憲法改悪などの共通課題で党派を超えて協力を呼びかけていく体制ができれば一番いい。次の衆院選までにはそういう体制をつくっていくことが大事」と発言、また記者団に対しても「社民党はこのままいっても先がない。党にこだわらず勢力を結集しなければならない。新しい党をつくることがあっていい」と述べ、社民党が野党再編の火付け役となって憲法改正反対や脱原発などを基軸とする新党の結成を目指し、社民党は発展的に解消すべきだとの考えを示した[11]。
村山内閣の施政
村山内閣は、55年体制下で続いてきた保革対立に終止符を打った自社さ連立政権であり、政権発足時から、戦後の政治的懸案事項に取り組んだ。
村山本人は「『当時としては』全てにおいて最良の選択だった」と振り返っている。
渡邉恒雄は「よい意味で進歩的内閣で、社会党の反安保・反米、国歌・国旗反対を潰して、国論統一の幅をぐんと広げてくれたことが最大の功績」[12]と保守的立場から評価した。
施政方針
国会演説の中で村山内閣の施政方針として「人にやさしい政治」を掲げた。
政策綱領
社会党と新党さきがけが結んだ政策合意に対し自由民主党が参画し、1994年6月に「自社さ共同政権構想」として合意され、村山内閣、第1次橋本内閣の政策綱領となった。
- 日本国憲法の尊重
- 小選挙区比例代表並立制の実施
- 税制改革の前提として行政改革の断行
- 条件つきながら消費税の引き上げの方向を認める
- 自衛隊と日米安全保障条約を維持
- 国際連合平和維持活動に積極的に参加
- 国際連合安全保障理事会常任理事国参加問題には慎重に対処
戦後の総括
村山談話
テンプレート:Main 1995年8月15日の戦後50周年記念式典において村山は、日本が戦前、戦中に行ったとされる「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した。
これ以後も保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である」との批判がある一方、逆に「この談話は結局のところ『戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある。
被爆者援護法の制定
「女性のためのアジア平和国民基金」設立
1994年8月、「慰安婦問題」に関して民間基金による見舞金支給の構想を発表し、1995年7月、総理府と外務省の管轄下で「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」を発足させた。この基金により、1997年1月、韓国人元慰安婦への見舞金支給が開始された。
村山内閣成立以前、国費による損害賠償と政府の謝罪を求めた元慰安婦による訴訟が各地で起こされていた。しかし、日本政府は、他国との条約締結時にこれら諸問題は解決済みとの立場であり、国費投入による元慰安婦への損害賠償はありえないとされていた。村山が示した構想では、政府が基金を設立し資金は民間からの寄附とすることで、直接の国費投入を避けるとともに募金に応じた国民の真摯な思いが伝わるとアピールすることで、両者の主張を織り込みつつ問題解決を図る狙いがある。村山自身は、発足の経緯について「『あくまで政府補償をすべきだ』という意見があれば、他方では『戦時賠償は法的にはすべて解決済みだ。いまさら蒸し返す必要はない』、果ては『慰安所ではちゃんとカネを払っていた』といった声まで、国内外の意見の隔たりは大き」[13]く、「与党3党の間でも厳しい意見の対立があった」[13] が、「それを乗り越え一致点を見いだし、基金の発足にこぎつけた。」[13]「元慰安婦の方々の高齢化が進むなか、何とか存命中に日本国民からのおわびの気持ちを伝え、悲痛な体験をされた方々の名誉回復を図る」[13]には「いろいろ批判はあろうが、当時の差し迫った状況では、これしか方法はなかった」[13]と記している。
女性のためのアジア平和国民基金の初代理事長には原文兵衛、第2代理事長に内閣総理大臣退任後の村山が就き、約6億円の募金を集め、元慰安婦の生活支援のみならず女性の名誉尊厳一般に関する事業を展開してきた。フィリピン、韓国、台湾で支援事業を展開し、インドネシア事業終了を予定する2007年3月に解散することが、理事長である村山により発表された。
2000年9月1日、第2次森内閣で内閣官房長官の中川秀直が、女性のためのアジア平和国民基金に関する記者会見を開き、同基金に対する日本政府の認識を改めて表明した。
2007年3月6日、村山は記者会見を開き、慰安婦問題で日本の謝罪を求める決議案がアメリカ合衆国下院にて審議されていることについて、「(女性のためのアジア平和国民基金を通じ)歴代総理が慰安婦の方へお詫びの手紙を出したことが理解されていないのが極めて残念」と発言している。
災害・事件への対処
阪神・淡路大震災
テンプレート:See also 1995年1月17日、兵庫県南部地震により阪神・淡路大震災が発生した際、政府の対応が遅れたことについて批判された。
- 危機管理体制
- 村山は自衛隊派遣が遅れた理由に対して「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁し、国民から強い非難を浴び、内閣支持率の急落に繋がった。やがて対応の遅れの全貌が明らかになるにつれ、法制度をはじめとする当時の日本政府の危機管理体制そのものの杜撰さが露呈した。
- 当日朝、村山は山花貞夫ら24人の社会党離党届の方を重視しておりテンプレート:要出典、京都機動隊が兵庫入りした当日11時過ぎにも「山花氏は話し合いを見て欲しい」と記者にコメントしていた。震災発生は午前5時46分ごろであったが、当時の官邸には、危機管理用の当直は存在しなかった。また、災害対策所管の国土庁にも担当の当直が存在しなかった。
- 当時、歴代在任日数最長の内閣官房副長官として官邸に重きをなしていた石原信雄は、「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外のだれが内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」[14]と述懐、擁護している。連立内閣に対する内閣官房や官僚の忠誠心の低さも問題点として指摘された。震災後、後藤田正晴に指示された佐々淳行が、総理官邸メンバーの前で危機管理のレクチャーを行ったが、熱心に話を聴いていたのは村山ただ一人であり、それ以外の政務・事務スタッフは皆我関せずの態度を取ったため、佐々が厳しく戒めたという。また、村山が震災直後に国民に向けて記者会見を開こうとしていたが、内閣官房スタッフから止められていた、との逸話も佐々の著書[15]で紹介されている。
- 法制度上の問題
- 自衛隊出動命令の遅れは、法制度上、地元・兵庫県知事貝原俊民(当時)の要請がなければ出動できなかった点が挙げられる。当日午前8時10分には、防衛庁・陸上自衛隊姫路駐屯地から兵庫県庁に対し出動要請を出すよう打診されている。また午前10時前には自衛隊のヘリコプターを飛ばし被災地の情報収集を行っている。しかし、貝原が登庁したのはその後で、さらに現況の把握に時間が費やされた。最終的に、貝原の命令を待たず兵庫県参事(防災担当)が出動要請を午前10時10分に行い、その4分後の午前10時14分には自衛隊が出動している。
- 2007年、東京都知事の石原慎太郎は「神戸の地震の時なんかは、(自衛隊の派遣を要請する)首長の判断が遅かったから、2000人余計に亡くなったわけですよね」[16]と発言し、地方公共団体の対応の遅れを指摘した。だが、貝原俊民は「石原さんの誤解。たしかに危機管理面で反省はあるが、要請が遅れたから死者が増えたのではない。犠牲者の8割以上が、発生直後に圧死していた」[17]と反論しており、派遣要請の遅れと犠牲者数の増加には直接の関係ないとしている。また、兵庫県防災監に震災後就任した斎藤富雄によれば、石原の指摘は「全く根拠のない発言で、誠に遺憾」[17]と批判している。
- 復興対応
- 震災直後、村山は国土庁長官小澤潔に代えて小里貞利を震災対策担当相に任命し復興対策の総指揮に当たらせる。また下河辺淳を委員長とする震災復興委員会を組織し、復興案の策定を進めた。被災者への支援として、16本の法律を改正、および、制定し、被災者に対する税負担の軽減等を図った。
- 問題点と反省点
- 震災など危機管理対応への各制度が未整備であった。村山は「初動対応については、今のような危機管理体制があれば、もっと迅速にできていたと思う。あれだけの死者を出してしまったことは、慚愧(ざんき)に堪えない。一月十七日の朝は毎年、自宅で黙とうする」[18]と語っている。また、「危機管理の対応の機能というのは全然なかったんです。初動の発動がね、遅れたということについてはね、これはもう弁明の仕様がないですね。ええ。本当に申し訳ない」[19][20]と述べ、言い訳や反論の仕様がなく、反省しているとの考えを語っている。
オウム真理教に対する破壊活動防止法適用申請
1995年(平成7年)3月20日、地下鉄サリン事件が発生した。村山は法務大臣前田勲男、国家公安委員会委員長野中広務、警察庁長官國松孝次、内閣官房長官五十嵐広三ら関係幹部に徹底捜査を指示、陣頭指揮を執る姿勢を見せ、事件捜査について「別件逮捕等あらゆる手段を用いて」と発言したがこれは刑事捜査の是非について政治サイドの言葉としては著しく問題化した。(後述)
地下鉄サリン事件など一連の事件を起こしたオウム真理教に対し、破壊活動防止法適用が検討され、公安調査庁が処分請求を行った。公安審査委員会は破壊活動防止法適用要件を満たさないと判断し、適用は見送られた。
1952年に公布された破壊活動防止法は、暴力主義的破壊活動を行った団体に対し、規制措置を定めた法律である。当初は日本共産党や日本赤軍などの暴力革命による自由民主主義体制の転覆を志向する極左勢力の拡大を防止する目的もあったことから、社会党[21]はじめ55年体制下の野党各党は、従来法の適用に極めて慎重な立場をとっていた。オウム真理教への破壊活動防止法適用には警察官僚出身で自民党の後藤田正晴らからも異論が出るなど賛否両論が噴出したが、法務大臣の宮澤弘、国家公安委員長の野中と協議した村山は、公安調査庁の調査を尊重すると決断し、公安審査委員会への処分請求に道を拓いた。地下鉄サリン事件の捜査に関して前述の「別件逮捕」の扱いについての発言が本来なら革新リベラルとして同志向の面が強い筈の人権派弁護士たちからも大きな反発を受けるなど賛否両論となった。
2007年3月17日、「地下鉄サリン事件被害者の会」が編んだ『私にとっての地下鉄サリン事件』に手記を寄せた。同書には國松や『アンダーグラウンド』を書いた村上春樹らも寄稿している。
ハイジャックへの警察特殊部隊投入
テンプレート:See also 1995年6月、羽田発函館行の全日空857便(乗員乗客365人)がハイジャックされ、「サリンを所持している」という犯人がオウム真理教教祖で前月に逮捕・勾留されていた麻原彰晃の釈放を政府に要求した。
村山は国家公安委員長の野中や運輸大臣の亀井静香と協議し、ハイジャック犯との交渉には一切応じない方針を固め、SAP(Special Armed Police、特殊武装警察)の実戦投入を指示した。
SAPに対し突入を指示した後、村山は「もしも死者が出たら白装束で遺族の下にお詫びに行く覚悟だ」と発言し、野中は「その際は私も同行する」と発言した。
しかし、機内の様子について収集した情報からオウム信者ではないと判断。警視庁警備部第六機動隊特科中隊(SAP)は突入に加わらず、後方支援に回り、北海道警察本部機動隊対銃器部隊と函館中央署員の突入を支援。犯人を逮捕した。軽傷者が1名であった。
サリンとされた物質はただの水であり、ハイジャック犯はオウム真理教とは全く無関係の精神疾患で休職中の東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)の行員であった。
当時の警察庁は特殊部隊であるSAPの存在自体を極秘としており、実戦投入後もその存在が公にされることはなかった。1996年、警察庁は北海道警察本部、千葉県警察本部、神奈川県警察本部、愛知県警察本部、福岡県警察本部に部隊を増設し、警視庁、大阪府警察本部のSAPとともに、正式に「特殊急襲部隊」(Special Assault Team、通称SAT)の呼称を与え、正規部隊として公表した。
外交
羽田内閣から村山内閣への移行は政権交代となるわけだが、外交方針は従来の日本政府のものを基本的に継承し、行政の継続性を保っている。
対米国
村山内閣成立時、「日本に共産主義[21]政権が誕生した」[22]と日本以外のメディアに報じられたため、懐疑論が根強くあった。
アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは当初、社会党出身の総理大臣に警戒心を持っていた。しかし1994年の第20回先進国首脳会議(ナポリ・サミット)前の会談にて、村山が貧しい漁村に生まれ育った自らの生い立ちから、政治家を志すに至る過程などを訥々と語ったところ、これを聞いたクリントンはいたく感動し、その後のサミットでも不慣れな村山をとかくサポートしたという[23]。
日米安保の維持
1994年7月20日、第130回国会での所信表明演説にて「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、それまでの日本社会党の政策を転換し、日米安全保障条約体制を継続することを確認した。
この際、演説用原稿では「日米安全保障体制を維持」となっていたのを、所信表明演説では村山が「日米安全保障体制を堅持」[24][25][26]と読んだことが注目された。
これは村山の出身政党である社会党にとっては“コペルニクス的転回”であった。トップダウンで決定した背景から独断専行と批判も受けたが、党は追認している。
内政
原子力発電の容認
これまで原発反対運動を率いていた党方針から転換し、国会答弁で「電力需要を考慮すると、ある程度の原子力発電の造成もこれはやむを得ない」との指針を示した。
リサイクル法の制定
水俣病患者救済
成田空港問題への対応
1991年11月から15回にわたって開催された「成田空港問題シンポジウム」と、引き続き1993年9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」での結論を受け、村山は1995年、これまでの空港問題の経緯について地元に謝罪した。これにより第二期工事への用地買収に応じる地主も現れた。その後、1996年に未買収地を避ける形で暫定滑走路を建設する案が計画された。村山ら政府の謝罪に加え、中立委員らの度重なる働きかけにより、成田空港反対派住民の強硬姿勢も次第に和らぎつつある。 テンプレート:See also
選択的夫婦別姓制度
選択的夫婦別姓制度導入に賛同していた[27]。
宗教法人法の改正と創価学会との対立
オウム真理教の地下鉄サリン事件を受けて、村山は文部大臣島村宜伸に指示し宗教法人法の改正案を第134回国会に提出した。審議に際し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの与党3党が、創価学会名誉会長池田大作や創価学会会長秋谷栄之助の証人喚問を要求したため、野党の新進党、公明が反発した。公明所属議員や旧公明党に参加していた新進党所属議員らが、参議院宗教法人特別委員長佐々木満を監禁したり国会議事堂でピケッティングを行ったりして採決阻止を図ったことから、国会が空転する事態に発展した。最終的に秋谷を国会に参考人召致したうえで改正宗教法人法を成立させた。
なお、村山は創価学会の政治活動に極めて批判的な政治家として知られているテンプレート:要出典。俵孝太郎らが創価学会の政治活動に批判的な「四月会」を発足させた際、村山は日本社会党委員長の肩書きで同会の設立総会に出席している。1996年1月の総理退任の際には、総理大臣官邸にて与党3党の幹部らに「三党の連立は守ってほしい。それが自分の希望だ。この国を創価学会の支配下にあるような政党に任せることはできないからだ」[28]と語っている。また、村山内閣、および、村山改造内閣には、前述の島村をはじめ、亀井静香、与謝野馨、桜井新、高村正彦、平沼赳夫、野中広務、大島理森ら、創価学会の政治活動に批判的な「憲法20条を考える会」の主要メンバーが多数入閣している。 テンプレート:See also テンプレート:See also
官邸機能の強化と政治主導
官邸入りした村山は、内閣総理大臣、内閣官房長官、内閣官房副長官を除くと総理大臣官邸のスタッフは全て官僚であることに危機感を抱いた。「官邸っていうのは単に行政をやる庁ではなくて政治的な判断をやる庁でもある」[29]と考えた村山は、官邸内に「もう少し政治家の発言、意見というものがあっていい」[29]との理由から「内閣総理大臣補佐」のポストを設置した。内閣総理大臣補佐は与党3党に所属する国会議員の中から選ぶこととし、中川秀直、早川勝、錦織淳、戸井田三郎らを任命した。選任された内閣総理大臣補佐は、首相の演説や答弁などへの意見具申や政治課題に関する情報収集を担当した。この内閣総理大臣補佐のポストは首相の私的な相談役との位置づけだったが、後に内閣法が改正され「内閣総理大臣補佐官」のポストが法制化された(内閣法第19条)。
軍事
在沖縄米軍基地問題
政治思想
村山は、社会党党内では自治労右派、政権構想研究会、水曜会に所属しており、一貫して社会党右派として活動してきた。ただし村山内閣成立後、小沢一郎らと連携を目指し自社さ連立政権に批判的な勢力を「社会党右派」、自社さ連立政権を支持する勢力を「社会党左派」とマスコミが便宜的に呼称したため、村山が社会党左派であるかのような誤解が生じた。なお、村山内閣で入閣した浜本万三、大出俊、山口鶴男らはいずれも社会党右派に属している。
エピソード
- 戦後政界では内閣総理大臣の座を争って幾度も政争が繰り広げられており、自らの意思ではなく周囲の推挙によって総理に就いた数少ない1人であり、村山自身「自分が総理大臣になろうと思ったことも、なれると思ったこともなかった」と述懐している。総理に就任したときも、家族は喜ぶというより高齢の身で総理の激務に当らなければならない村山を心配した。
- 首相在任中、妻が持病(腰痛)のため公務に同伴できない状態だったため、秘書をしていた娘が同行した。
- 首相就任直後、イタリアのナポリで開かれた先進国首脳会議に参加した。国際会議への出席は当然ながら初めてであったため、出発前に宮澤喜一元首相が「通訳がいるので、言葉のことは心配いりませんよ」[30]等のアドバイスをした。
- 首相在任中は、首相経験者で同い年の竹下登元首相が村山のよき相談相手になっていた(竹下は1924年2月26日生まれ、村山は同年3月3日生まれで殆ど同時期に誕生している)テンプレート:要出典。
- 首相在任中にベトナムの要人と会談した際に「ベトナムが成長したのは日本のお陰です」と社交辞令を言われた際に「それは違いますぞ。まずはあんたたちが頑張ったから今のベトナムがあるんじゃ。日本はそのお手伝いをしただけじゃ」と言葉を返した。それ以降、ベトナムの要人は村山に尊敬の念を浮かべて社交辞令を超えた会談となった。
- サミット開会前のレセプションで腹痛と下痢を起こして中座、翌日も一部の会議を欠席するなどし、関係者を心配させた。海外訪問の経験が少ない村山は、滞在中は現地の飲食物に非常に注意しており、滞在先の総領事公邸で出された食事にしか手をつけなかった。しかし会談前に首脳が屋外で歓談した際、ウェイターが差し出した桃ジュースにうっかり手を出してしまい、それにあたってしまったと後に述懐している。同日夕刻のレセプションの頃にはすでに体調が悪く一切料理に手をつけていない[31]。八幡和郎などは、外務省などが村山の健康管理を充分におこなっていなかったと批判している。
- 自身の政権運営に対し大きな反省があるとする一方で、民主党政権はどの内閣も上回るほどの史上稀に見る酷い政権であると野田佳彦内閣の消費税増税方針に対して批判している。
人物像
- 現在のところ大正生まれ最後の総理大臣経験者であるが、2013年現在、大正生まれの国会議員は存在せず、総理大臣になる可能性は非常に低いため、村山が大正生まれ最後の総理大臣になる可能性が極めて高い。また、旧日本軍への従軍経験を持つ総理大臣という点に関しても同じことがいえる。
- 村山の後、親が政治家ではない総理大臣は2010年の菅直人までいなかった(森喜朗の父は国会議員ではなかったが地元の町長を務めていた)。
- 身長:173cm、血液型:O型。
- 現在の閣僚資産公開制度が始まった1987年以降、村山の資産は歴代総理中の最下位で、明治時代に建造された自宅の時価が「数十万円台」と発表されたため、清貧というイメージを持たれた[32][33][34]。
- 政権発足後の8月、総理周辺が夏休みの計画を立てようとすると、「わしは年中無休の漁師の出身。いらん」と断り、周囲がそんなことをすれば世界の行政府の物笑いの種になると説得した。その後「では民宿に泊まりたい」と希望したので、関係者がいくつかの民宿を探したが、「総理が泊まりたい? 冗談はやめてくれ」とどこもまじめに取り合わず、結局、箱根の高級旅館で過ごすことになった。
- 長い眉毛がトレードマークとして知られている。日本テレビの『進め!電波少年』では松村邦洋が自慢の眉毛を切るという企画に了承した。
- 村山をモデルとしたマスコット「とんちゃん人形」を社会党が発売した。
- 2007年、第21回参議院議員通常選挙にて「村山が比例区に立候補するのか」との問い合わせがあり、関係者を困惑させた。原因は、大分県選挙区無所属候補の松本文六が、村山とのツーショットの選挙ポスター5000枚を張り出したためと見られている[35]。
他者への評価
- 一萬田尚登
- 大分県議会議員時代の村山は、他の大分県議や市町村長らとともに、大分出身である時の大蔵大臣・一萬田尚登に大分県への新産業都市指定を陳情した。ところが一萬田からは「国家全体を考慮して可否を判断すべき問題であり陳情には左右されない」とたしなめられてしまった。村山はそんな一萬田に失望するどころか、逆に感銘を受けたという[36]。
- 細川護煕
- 細川内閣当時、細川護煕の記者会見が深夜に行われることが度々あった。特に重大な発表[37]ほど深夜に行われることが多く、そうした折には一夜明けるとマスコミや野党ばかりか、与党にも大きな驚きを与えることがあった。当時連立与党の社会党委員長だった村山は、細川のことを「深夜に騒ぐ男じゃのう」と評していた。
- 梶山静六
- 村山が日本社会党国会対策委員会の委員長を務めていた際、自由民主党では梶山静六が国会対策委員会の委員長を務めており、国会運営を巡り両者は度々対立した。その後、梶山は2000年の第42回衆議院議員総選挙目前で死去し、村山は第42回衆議院議員総選挙に出馬せず衆議院議員を引退した。その際、村山は梶山について「決めたことはきちっと守る、そして実行する」[29]と評しており「お互いの信頼関係はあった」[29]と回顧している。なお、村山と梶山は、両者とも陸軍軍曹を経験し地方政界を経て国政に進出したという共通点がある。
- 広瀬勝貞
- 2007年3月、広瀬勝貞の大分県知事選挙出陣式にて、この選挙は「当落を問う選挙ではない」[38]とスピーチし、広瀬の「圧倒的な勝利」[38]の実現を聴衆に訴えた。
スポーツ
- テンプレート:要出典範囲。
- ラグビー - 早稲田大学出身の河野と森に東京大学出身の武村を加えて、ラグビーの早明戦を観戦したこともある(早明戦も参照)。
- 相撲 - 少年時代に、後の関脇 玉乃海と相撲を取ったことがある[39]。
- バスケットボール - 2010年よりbjリーグ・大分ヒートデビルズをサポートする「名誉ブースター」に就任している。
略歴
- 1924年 - 誕生。
- 1936年 - 中島尋常小学校卒業。
- 1938年 - 大分高等小学校卒業後、上京し昼間は機械工場、印刷所で働きながら夜学に通う。
- 1942年 - 東京市立商業学校卒業。
- 1943年 - 旧制明治大学専門部政治経済科入学。
- 1944年 - 石川島造船所配属。
- 1944年 - 学徒出陣で宮崎県都城市にある陸軍歩兵第23連隊に二等兵で入隊(最終階級:陸軍軍曹)。
- 1946年 - 旧制明治大学専門部政治経済科卒業。
- 1948年 - 大分県漁村青年同盟書記長。
- 1951年 - 大分市議会議員選挙落選。
- 1953年 - ヨシヱ夫人と結婚。
- 1955年 - 大分市議会議員選挙当選(当選2回)。
- 1963年 - 大分県議会議員選挙当選(当選3回)。
- 1972年 - 第33回衆議院議員総選挙に旧大分1区より立候補し、当選(以後通算当選8回)。社会労働委員会に所属。右派の「水曜会」入会。
- 1973年 - 横路孝弘北海道知事、田英夫元社民連代表と「新しい流れの会」に参画。
- 1976年 - 第34回衆議院議員総選挙当選(2期目)。
- 1976年 - 大分県佐伯市の「じん肺振動病問題」で患者救済の道を作る。
- 1979年 - 第35回衆議院議員総選挙当選(3期目)。
- 1980年 - 第36回衆議院議員総選挙、次点で落選。
- 1983年 - 第37回衆議院議員総選挙、トップ当選で衆議院議員に返り咲く(4期目・以後4回の選挙ではいずれもトップ当選)。
- 1986年 - 第38回衆議院議員総選挙当選(5期目)。
- 1990年 - 第39回衆議院議員総選挙当選(6期目)。
- 1991年 - 衆議院物価問題等に関する特別委員長。
- 1991年 - 日本社会党国会対策委員長。
- 1993年 - 第40回衆議院議員総選挙当選(7期目)
- 1993年 - 日本社会党委員長。
- 1994年 - 内閣総理大臣。
- 1996年 - 初の小選挙区制度での総選挙となった第41回衆議院議員総選挙で大分1区から立候補し、当選(8期目)。
- 1996年 - 社会民主党党首。
- 1996年 - 社会民主党特別代表。
- 2000年 - 総選挙前に政界引退を発表。
- 2000年 - 財団法人女性のためのアジア平和国民基金理事長。
- 2002年 - 「八月のかりゆし」リウボウ役で映画出演。
- 2006年 - 桐花大綬章受章。
著作
単著
- 村山富市著『村山富市が語る「天命」の五六一日』ベストセラーズ、1996年。ISBN 4584182485
- 村山富市述『村山内閣総理大臣演説集』日本広報協会、1998年。
- 村山富市著、王雅丹訳『我的奮闘歴程』2005年。
共著
- 村山富市談、辻元清美インタビュー『そうじゃのう…――村山富市「首相体験」のすべてを語る』第三書館、1998年。 ISBN 480749810X
- 後藤田正晴・村山富市・岡野加穂留述、明治大学政治経済学部編『若者と語る』明治大学生時経済学部、2002年。
- 大沼保昭・岸俊光編、和田春樹ほか講演『慰安婦問題という問い――東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』勁草書房、2007年。ISBN 9784326248391
- 中曽根康弘ほか著、『私の後藤田正晴』編纂委員会編『私の後藤田正晴』講談社、2007年。ISBN 9784062139342
- 村山富市・佐高信著『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年。ISBN 9784047102002
- 村山富市著、梶本幸治・園田原三・浜谷惇編『村山富市の証言録――自社さ連立政権の実相』新生舎出版、2011年。ISBN 9784990604004
寄稿
- 村山富市稿「私の履歴書」『日本経済新聞』日本経済新聞社、1996年。
- 村山富市稿「慰安婦問題『河野談話を継承』こそ重要」『朝日新聞』朝日新聞東京本社、2007年4月5日、15面。
- 村山富市稿「めぐり合わせの人生」『文藝春秋』89巻13号、文藝春秋、2011年11月1日、79-81頁。
出演
- 『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(山田洋次 監督、松竹、1995年): 本人役
- 『八月のかりゆし』(高橋巖 監督、ギャガ・コミュニケーションズ、2002年): リウボウ役
関連文献
- 『官かくあるべし ― 7人の首相に仕えて』(石原信雄 著、小学館、1997年) ISBN 9784094020311
- 『後藤田正晴と十二人の総理たち』(佐々淳行 著、文藝春秋、2006年) ISBN 4163681205
- 『村山富市 ― その軌跡と使命』(清原芳治著、大分合同新聞文化センター、2006年)
脚注
外部リンク
テンプレート:Sister テンプレート:Sister テンプレート:Sister テンプレート:Sister テンプレート:Sister
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
羽田孜
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第81代:1994年 - 1996年
|style="width:30%"|次代:
橋本龍太郎
テンプレート:S-par
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
野坂浩賢
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院物価問題等に関する特別委員長
1991年
|style="width:30%"|次代:
岩垂寿喜男
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結成
|style="width:40%; text-align:center"|社会民主党党首
初代:1996年
|style="width:30%"|次代:
土井たか子
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山花貞夫
|style="width:40%; text-align:center"|日本社会党委員長
第13代:1993年 - 1996年
|style="width:30%"|次代:
社会民主党へ
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大出俊
|style="width:40%; text-align:center"|日本社会党国会対策委員長
第16代:1991年 - 1993年
|style="width:30%"|次代:
野坂浩賢
- 転送 Template:End
- ↑ 村山富市「私の政治人生」村山富市・佐高信『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年、98頁。
- ↑ 村山富市「私の政治人生」村山富市・佐高信『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年、113頁。
- ↑ 非自民首相であった羽田孜と鳩山由紀夫は1993年まで自民党衆議院議員であり、細川護熙も参議院議員時代は自民党員で田中派の旗揚げに参加している。
- ↑ 衆議院での与党第一党党首経験者への弔辞は野党第一党党首が行うのが慣例であり、本来なら民主党代表の鳩山由紀夫が行うはずだが、小渕の遺族側が拒んだため、野党の党首経験者で首相経験もある村山が例外的にこれを行った。
- ↑ 「日本の勲章・褒章(賞勲局)」内閣府、2006年。
- ↑ 尖閣問題で意見交換。菅官房長官「大いに話を」日中友好協会が訪中2013年1月28日 MSN産経ニュース
- ↑ 村山元首相、安倍首相に1月末の訪中会談内容を報告2013年2月1日 MSN産経ニュース
- ↑ 社民が旧党本部でお別れ会=村山元首相「低迷歯がゆい」2013年2月27日 時事ドットコム
- ↑ 村山談話「継承」安倍首相が軌道修正2013年5月16日 MSN産経ニュース
- ↑ 村山元首相が訴え「談話を見直せば日本は孤立する」2013年7月2日 MSN産経ニュース
- ↑ 村山元首相、「社民党にこだわらず。次期衆院選は新党」で2013年8月19日 MSN産経ニュース
- ↑ 「平成の九宰相」渡邉恒雄述、伊藤隆・御厨貴・飯尾潤インタビュー・構成『渡邉恒雄回顧録』中央公論新社、2000年。
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 村山富市「慰安婦問題『河野談話を継承』こそ重要」『朝日新聞』朝日新聞社東京本社、2007年4月5日、15面。
- ↑ 石原信雄『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』小学館、1997年。ISBN 9784094020311
- ↑ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』文藝春秋、2006年。
- ↑ 「『震災で判断遅く犠牲者』発言兵庫県知事『失礼だ』」『朝日新聞』43460号、朝日新聞社東京本社、2007年4月10日、38面。
- ↑ 17.0 17.1 「石原氏『神戸の震災は首長の判断遅く2千人余計に死亡』」『朝日新聞』朝日新聞東京本社、2007年4月9日。
- ↑ 磯辺康子「神戸新聞Web News 震災10年を語る」神戸新聞社、2004年7月14日。
- ↑ 『時事放談』TBS、2004年11月14日。
- ↑ 「イラクと新潟〜危機管理を考える〜」『時事放談』TBS。
- ↑ 21.0 21.1 当時の日本社会党は社会民主主義政党を標榜しており、共産主義政党や社会主義政党ではない。その英文表記も「Social Democratic Party of Japan(日本社会民主党)」で、現在の社会民主党の英文党名と全く同一であった。
- ↑ 村山が国会で内閣総理大臣に指名された際、日本国外のマスメディアは村山の詳細な情報を持ち合せておらず、各社で情報が錯綜したとされている。
- ↑ 『石原信雄回顧録 首相官邸の決断』(中公文庫)
- ↑ 「第130回国会――本会議――第1号」『衆議院会議録情報 第130回国会 本会議 第1号』国立国会図書館、1994年7月18日。
- ↑ 「第130回国会――本会議――第1号」『参議院会議録情報 第130回国会 本会議 第1号』国立国会図書館、1994年7月18日。
- ↑ 「第百三十回国会における村山内閣総理大臣所信表明演説」『Speech of Prime Minister Murayama in 130th session of the Diet』内閣官房内閣広報室、1994年7月18日。
- ↑ 第140回国会 - 衆議院 - 法務委員会 - 12号 平成09年06月17日
- ↑ 加藤紘一「創価学会問題、総選挙、再編のゆくへ――これが激突の焦点だ――『一龍対決』で何が起こるか」『【加藤紘一】 「創価学会問題、総選挙、再編のゆくへ」』加藤紘一事務所、1996年。
- ↑ 29.0 29.1 29.2 29.3 TBS, STREAMING VIDEO NEWS, JNN, 2000.
- ↑ 「政財界、宮沢氏悼む声 ― 首相経験者ら相次ぎ弔問」『朝日新聞』43538号、朝日新聞社東京本社、2007年6月29日、4面。
- ↑ マスコミ報道では「側にいた大食漢の武村蔵相につられて食べ過ぎたため」「食べ慣れないオリーブ油を多量に使ったイタリア料理を食べたため」など諸説が飛びかっていた。
- ↑ ただし大分県には時価総額で9300万円の山林を所有していたテンプレート:要出典。
- ↑ 村山内閣成立に伴い、自宅は観光名所となり、観光バスに乗った団体客が訪れた
- ↑ また、『ニュースステーション』で村山の弟が記者会見する際の会場にされた。
- ↑ 「『身内』で奪い合い」『朝日新聞』朝日新聞東京本社、2007年7月18日。
- ↑ 「私の履歴書」『日本経済新聞社』日本経済新聞社。
- ↑ コメ市場の部分開放、河野洋平との政治改革関連法案の修正合意、国民福祉税構想など。
- ↑ 38.0 38.1 「大分でも知事選告示 ― 新たな争点も浮上」『選挙・大分でも知事選告示 新たな争点も浮上』日本インターネット新聞、2007年3月24日。
- ↑ 「私の履歴書」『日本経済新聞社』日本経済新聞社。