ニュースステーション
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『ニュースステーション』(英称:NEWS STATION)は、1985年(昭和60年)10月7日から2004年(平成16年)3月26日まで、テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが共同制作し、テレビ朝日系列(ANN)で平日(祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組である。全4,795回の平均視聴率は、14.4%[1]。通称「Nステ(エヌステ)」、「NS(エヌエス)」、「Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。
目次
概要
テレビ朝日が平日23時台に放送していた『ANNニュースファイナル』『ANNスポーツニュース』に代わり、ドラマやバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日の本社移転(アークヒルズ)と同時に開始された。構想段階から広告代理店である電通が深く関与した。久米宏も構想の段階で起用が決まり会議に参加しており、番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』(日本テレビ系列)以外のレギュラー番組を降板した[2]。
当時としては前例のない番組であり、開始第一週目の週平均の視聴率は8.68%と低視聴率に悩んだ。[3]1986年2月のフィリピン政変以降は、安定して20%前後の高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった[4]。関東地方での視聴率20%超えは、245回[1]。関東地方より先に関西地方(朝日放送(ABC))で視聴率を獲得した。
「中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治や経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップや地図、模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした[5]。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには民間気象情報会社のウェザーニューズの協力で天気予報に3DCGを使い[6]、イラク戦争では地図を「CADシステム」を用い、後のGoogle Earthのように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。2002年あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。
また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。久米のコメントや番組の基本姿勢は、久米がマスコミ人として持っている反権力・反戦争の信条を色濃く反映したものだったため、広く人気を博した反面、自民党筋や保守派などから偏向しているとの根強い批判・反発も呼んだ。
従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作するのは画期的なことであった。
本番組はANNのプライムタイムニュースの位置付けになっているが、ネット局の構成や制作会社が作っているニュースショーという特殊な性格上、タイトルに「ANN」のクレジットが付かなかっただけでなく、エンドロールでは「協力:ANN系列各社」→「制作:ANN系列各社」(番組初期は「ANN加盟→系列(数字)社」。開始から長らく20社だった)と表示され、企画中継等の場合は技術協力として中継先の局名が表示されていた。こういう事情からANNの海外支局等からの中継の際は、各支局にセットにあるANNのロゴの上から『ニュースステーション』のロゴを貼って隠していた時期もあった。
音声は当初モノラル放送であったが、1993年4月19日[7]からステレオ放送になった。
番組の歴史
- 初期 - 中期(1985年10月 - 1998年3月)
1985年10月7日、民放初の平日プライムタイム帯での1時間超に及ぶワイド編成の報道番組として放送を開始。
”今までにない全く新しい形の報道番組を目指す”というコンセプトのもと、メインキャスターの久米宏、サブキャスターの小宮悦子(当時テレビ朝日アナウンサー、1991年からフリーアナウンサー)、コメンテーターの小林一喜(当時朝日新聞論説委員)を中心に、キャスター陣には小宮以外のテレビ朝日アナウンサー(スポーツキャスターの朝岡聡、リポーターの渡辺宜嗣)に加えて、一般公募による出演者オーディション(応募者5760名)から数名のキャスター・リポーターを起用した。一般公募組の中には、橋谷能理子(元テレビ静岡アナウンサー、スタジオアシスタント)、若林正人(元東京銀行調査役、コメンテーター兼リポーター)、杉本典子(元三菱商事勤務、スポーツ担当)、坪井貴久美(元つくば科学万博コンパニオン、ニュース担当)、内田誠(早稲田大学大学院院生、リポーター、後にジャーナリストへ転身)、松本侑子(筑波大学学生、天気キャスター、後に作家へ転身)などがいた。
第1回の放送で最初に取り上げたのは、石狩鍋に入れる鮭の話題。長谷川宏和(当時北海道テレビアナウンサー)の自宅、九州朝日放送・鹿児島放送のスタジオ、新潟テレビ21のサービスエリアにある新潟市村上市を結んでの生中継を実施した。その直後には、同市出身の稲葉修(当時自民党衆議院議員)が、自宅からの生中継で久米とトークを繰り広げている。
初期は月曜日から木曜日は22:00 - 23:17、金曜日のみ22時台は『必殺シリーズ』[8]などの朝日放送制作枠であったため、1時間遅れの「金曜版」とし、23:00 - 24:00の放送となった(「大相撲ダイジェスト」放送時は23:00 - 23:45)。
開始当初は観客を入れての公開形式番組として放送されており、原則としてメインスタジオであるAスタジオではストレートニュースを放送しない(ストレートニュースは前身の『ANNニュースファイナル』の名残から1コーナー扱いとされ、報道局のNスタジオから小宮・坪井(貴)が伝える形となっていた)構成が採られるなど、報道色にバラエティ要素を加味した内容となっていた。しかし、開始早々から阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝・日本一、フィリピン政変など重大ニュースにより全編Nスタジオからの臨時編成となるケースが多く、その際に一般公募によるキャスター陣が対応に窮する場面が多々見られたこと、また開始早々の視聴率低迷の影響もあり、開始数回でスタジオ公開を廃止したのを皮切りに番組内容・キャスター配置の再整理が急ピッチで進められ、1986年4月からは全編を通じて久米・小宮・小林の3人体制で進行・ニュース読み・解説を担当する報道色中心の構成に変更された(この際、リポーターと並行して不定期でゲストコメンテーターを兼務することになった若林と天気キャスターの松本、リポーターの内田誠を除く公募によるキャスター陣は一旦リポーター専任となった後、開始1年以内で全員番組を降板している)。
但し「金曜版」については上記の番組リニューアル後も引き続き、バラエティ色の強い構成を継続(しばらくNスタジオ・Aスタジオ併用の構成も継続し、小宮はNスタパートのみ出演していたが、末期はAスタジオからニュースを読むこともあった)。この「金曜版」では毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、「金曜チェック」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「ニュース・ことわざ勉強室」「世直しエイド」といったコーナーを放送した。
1986年7月から選挙特別番組として『選挙ステーション』がスタートする。
1988年4月改編で朝日放送が金曜22時台の制作から撤退することになり、「金曜版」はこの改編期をもって終了。3月25日と4月1日の2週にわたって終了スペシャルを放送することとなったが、3月25日放送は臨時ニュース[9]に時間を割き、結局4月1日のみの放送となった。「金曜チェック」はこの影響か、4月1日には2本立てで放送された。なお、「金曜版」最終回の4月1日放送のみ22時放送開始で、これは当初から予定されていた。
同年4月4日から月曜日から金曜日22:00 - 23:17の放送となり、全曜日統一して報道色中心の構成となったが、以降の金曜日は金曜版からの名残もあり、月曜日から木曜日までとは違う雰囲気作りが図られるようになる。
1995年4月からは新たにスタジオサブキャスターを金曜日のみに新設。この金曜日のみ久米・小宮・コメンテーターを加えた4人体制となる。
1996年10月3日からスポーツキャスターが坪井直樹から角澤照治に変わり、角澤は番組終了まで7年半にわたってスポーツを担当することとなった。翌週10月7日からテーマ曲と作曲者を約7年半ぶりに新しいものに変更した。
1997年4月から金曜日のみに女性スポーツキャスターを設けた。初代はテレビ朝日スポーツ局記者の長島三奈が務めた。
1998年3月27日、番組開始から12年半にわたってサブキャスターを務めてきた小宮が『スーパーJチャンネル』のメインキャスター就任のため降板。ただし、この時点で完全降板にはせず金曜日のみの出演に移行した(『Jチャンネル』も半年間は金曜のみ出演せず)。小宮降板後の2代目サブキャスター就任までの間、同年5月8日までサブキャスター代理として月曜から木曜は堀越むつ子(3月30日 - 4月17日)・渡辺みなみ(4月20日 - 5月1日)・渡辺宜嗣(5月4日 - 8日)の3人で繋いだ。
- 後期前半(1998年4月 - 1999年12月)
1998年5月11日、改編期から約1ヶ月遅れでリニューアル。久米に加え、後任のサブキャスターにTBS退社直後の渡辺真理、スタジオサブキャスターにテレビ朝日スポーツ局記者の白木清か、1997年11月から出演しているコメンテーターの菅沼栄一郎の4人体制となる。これまでは金曜日のみスタジオサブキャスターを設けていたが、このリニューアルによってスタジオサブキャスターは月曜から木曜にも追加新設され、全曜日で設けられるようになった。なお、金曜日のみは引き続き小宮と丸川珠代が担当する。テーマ曲がゴスペラーズの曲に刷新されて、番組ロゴも若干アレンジしてリニューアル。オープニング映像もニュース映像に変わり、最初から日付表示がなされるようになった。
1998年9月25日を以って小宮が正式に降板、翌週の10月2日には丸川も降板した。翌週10月5日より、真理と白木は全曜日出演となる。1999年2月から月曜と火曜のみ上山千穂が担当し、白木は水曜から金曜の担当に縮小となった。
1999年8月、セットをリニューアル。ところがその約2ヶ月後の10月6日放送を以て、契約切れを理由に久米が番組を一時降板するという異例の事態となった。これを受けて翌10月7日放送から約3ヶ月間、年末まで宜嗣が代理を務めた。
- 後期後半(2000年1月 - 2003年9月)
2000年1月4日、久米が3ヶ月ぶりに番組に復帰。それに伴い番組もリニューアルした。スタジオサブキャスターも上山千穂が全曜日担当することになり、久米・真理・上山とコメンテーターの4人体制となる。また、コメンテーターも清水建宇・萩谷順・森永卓郎・船曳建夫の4人(2002年頃に船曳が降板し、以後は3人体制)に一新された(日替わりでいずれか1人が出演)。テーマ曲が福岡ユタカ作曲のものに刷新され、スタジオセットやタイトルロゴ・グラフィックデザインもリニューアルした。オープニング映像はその日の放送するニュース内容の告知を行うスタイルに変わった。
一方で、久米はこの頃からテレビ朝日に「肉体的な疲労」を理由に降板の意向を度々申し出ていた[10]。テレビ朝日も視聴率や営業面で大変頼りになる番組と信じ、久米が降板の意向を示す度に度々懸命の慰留を行っていた。
2000年3月27日、放送開始時間が6分繰り上がり、21:54開始のフライングスタートとなった。これにより終了時間も23:09→23:10と6分繰り上がった。同時に番組構成も若干変更が行われる。2000年4月14日、金曜日の女性スポーツキャスターの出演者のリニューアルが行われ、テレビ朝日を退社(後に嘱託社員[11]として復帰)した長島三奈に代わり、『進ぬ!電波少年』(日本テレビ系列)で注目を集めた女優・タレントの真中瞳(現:東風万智子)を起用。
同日よりNHKが本番組に対抗する形で同時間帯で『NHKニュース10』を開始。NHKが平日の22時台に本番組の対抗番組を作るという話は、NHK会長が川口幹夫であった時代から持ち上がっており、久米の番組に対抗する報道番組を作ってほしいという自民党の意向を受けた幹部から声が上がっていたが、自民党に迎合して人員や機材の物量で民放を圧倒するような真似をすることを川口をはじめ複数の幹部が許さなかったため実現には至ってこなかったものの、1997年にNHK会長が川口から海老沢勝二に交代し、2000年春から本番組が始まったという経緯がある[12]。
2002年4月1日から6月28日までは日韓共催の2002 FIFAワールドカップ開催に伴い、オープニングで毎日FIFAワールドカップの歴史を流す特別オープニングに変更。テーマ曲はCharが担当した。
2002年7月1日からテーマ曲がサラ・ブライトマンの曲に変更。また、角澤のスポーツ担当曜日がこれまでは月曜から木曜だったのが、月曜日から水曜日に縮小され、空いた木曜日には河野明子が担当することになった。よって、木・金曜日は河野と真中の女性キャスター2人となった。その後、2002年10月4日を以って真中が降板。これと同時に番組開始から長年(一時期降板していた時期あり)関わってきた宜嗣も降板した。翌週から河野が金曜日も担当するようになり、月曜日から水曜日は角澤、木・金曜日は河野がスポーツを担当する。
2003年初頭、前述の通り、久米は復帰後度々降板を申し出ていたが、テレビ朝日もこれ以上の慰留をさせるのは無理だと判断し、2004年春に降板することで久米とテレビ朝日が正式に合意した[13]。これにより、2003年8月25日、翌年春を以って本番組の放送を終了することが発表された。久米は番組終了発表会見で「加齢により言葉を噛むことが多くなった」ということをその理由に挙げていた。なお、本番組の終了が各メディアで報じられた際、メディアによって終了となる時期についての言及が異なっていた(「9月説」と「来年(2004年)3月説」で分かれていた)。
- 末期(2003年10月 - 2004年3月)
2003年9月29日、テレビ朝日の本社・スタジオがアーク放送センターから六本木ヒルズへの移転に伴い、スタジオセットとテーマ曲をリニューアル。タイトルロゴはそのままで、色がオレンジ/黄色を基調としたものからから青/水色を基調としたものに変更された。テーマ曲はU2が担当した。オープニング映像もこれまではオープニングの後にタイトルロゴが表示されていたが、この代は最初にタイトルロゴ表示→その日のニュースの放送内容告知→日付表示というように変わった。
2004年3月26日、最終回を迎え、18年半の歴史にその幕を下ろした。最終回はその日のニュースに加え、過去18年半のニュースの振り返り、現代の久米(と当時50歳の久米)が番組開始の1985年の本番組へタイムスリップ(という設定の演出)し、スタジオ見学をするなどを放送した。後番組は古舘伊知郎がメインキャスターを務める『報道ステーション』である。なお、角澤と河野・スポーツコーナーのみ関わっている宮嶋泰子と栗山英樹は、引き続き立ち上げ当初の『報ステ』にも出演することになった。
なお、『報ステ』の初回放送は2004年4月5日であり、2004年3月29日 - 4月2日の当該時間帯は『ANN NEWS&SPORTS』をつなぎ番組として放送した。
出演者
キャスター・コメンテーター
- メインキャスター・サブキャスター・スタジオサブキャスター・コメンテーター・スポーツキャスター
期間 | メイン | サブ | スタジオサブ | コメンテーター | スポーツ | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月・火 | 水・木 | 金曜日 | 月 - 水 | 木曜日 | 金曜日 | |||||||
1985.10.7 | 1986.3 | 久米宏 | 小宮悦子 | 橋谷能理子1 坪井貴久美1 |
小林一喜 | 朝岡聡 杉本典子 | ||||||
1986.4 | 1987.9.18 | (不在) | 朝岡聡 | |||||||||
1987.9.21 | 1988.4.1 | 松井康真2 | ||||||||||
1988.4.4 | 1990.3.30 | 松井康真3 | 朝岡聡3 | |||||||||
1990.4.2 | 1991.1 | 松井康真 | ||||||||||
1991.2 | 1991.3.29 | (不在) | ||||||||||
1991.4.1 | 1991.5.17 | 飯村真一 | ||||||||||
1991.5.20 | 1992.10.9 | 田所竹彦 | ||||||||||
1992.10.12 | 1993.9.30 | 和田俊 | ||||||||||
1993.10.1 | 1995.3.31 | 坪井直樹 | ||||||||||
1995.4.3 | 1996.3.29 | (不在) | 岡田洋子4 | |||||||||
1996.4.1 | 1996.10.2 | 岡田洋子4 小谷真生子 |
高成田亨 | |||||||||
1996.10.3 | 1997.3.28 | 角澤照治 | ||||||||||
1997.3.31 | 1997.10.31 | 小谷真生子 丸川珠代 |
角澤照治 | 長島三奈 | ||||||||
1997.11.3 | 1998.3.27 | 菅沼栄一郎 | ||||||||||
1998.3.30 | 1998.5.8 | (週替わり)5 | 小宮悦子 丸川珠代 | |||||||||
1998.5.11 | 1998.10.2 | 渡辺真理6 | 白木清か | |||||||||
1998.10.5 | 1999.1.29 | 白木清か | ||||||||||
1999.2.1 | 1999.4.20 | 上山千穂 | 白木清か | |||||||||
1999.4.23 | 1999.10.6 | 轡田隆史7 | ||||||||||
1999.10.7 | 1999.12.23 | 渡辺宜嗣8 | ||||||||||
2000.1.4 | 2000.4.7 | 久米宏 | 上山千穂 | 清水建宇 萩谷順 森永卓郎 船曳建夫9 | ||||||||
2000.4.10 | 2002.6.28 | 真中瞳 | ||||||||||
2002.7.1 | 2002.10.4 | 角澤照治10 | 河野明子 | |||||||||
2002.10.7 | 2004.3.26 | 河野明子10 | ||||||||||
|
- お天気キャスター
- 松本裕子(1985.10.7-1988.3)
- 大谷千亜紀
- 勝恵子
- 大石恵(1994.4-1996.3)
- 内藤聡子(1995)
- 乾貴美子(1996.4-1999.10)
- 河合薫
- 増田雅昭 - 現在はTBSニュースバードに出演。
- 斎藤義雄 - 金曜日のみ
- 宮部二朗 - 金曜日のみ
- 飯島真一 - 金曜日のみ・台風接近の際は随時
- 坪井直樹
- 上山千穂(2001.1.4-2004.3.26)
- おなじみのゲストコメンテーター
- 黒柳徹子 - 「ユニセフカード」告知のため。
- 福岡政行 - 国政選挙時に出演し、選挙予想をことごとく当て有名になった。
- 青木功 - 特に全米・全英オープンゴルフ大会(彼が解説者として出演)のPRと現地中継リポートで出演することが多かった。
- 笑福亭松之助 - 金曜日にレギュラー格として出演していた(1996年)。
- テリー伊藤 - 主に金曜日に準レギュラー格として出演していた(1997 - 1998年頃)。
- 糸井重里 - 主に初期の金曜版に出演。
- 栗山英樹 - 本人による取材リポートが中心、後番組『報道ステーション』も引き続き出演。
- 大橋巨泉 - 本人曰く「出てやる」。
- 黒鉄ヒロシ - 巨人ファン代表としてたびたび出演し、どんな状況でも巨人が優勝するとこじつける「安心理論」を展開した。
- などなど
代役について
久米が夏休みや取材等で不在の時は、初期から1990年は宜嗣、1991年から1994年までは朝岡が代理を務めていた。1995年から再び宜嗣が代理を務めたが、メインキャスターというよりはサブキャスター的ポジションであり、実質上の代理はいずれも小宮が務めた。真理がサブキャスターとして登場して以降は宜嗣が担当。2000年からは宜嗣は出演せず、真理が実質上の代理を務めていた。
- 小宮が不在の場合は渡辺みなみが代理を務め(後期は小谷が代理を務めることもあった)、真理が不在の場合は不定期出演のスタジオサブキャスター(後述)が代理を務めていた。
- 上山が不在の場合は久米と真理の2人体制で行うか、同局の若手女性アナウンサーが代理を務めていた。
- スポーツニュースの代役は、朝岡時代は宮嶋泰子、それ以降は不明。2000年代は上山・河野(2002年より)が担当した(上山もいない場合は女性アナウンサーが担当)。
コメンテーターについて
初代のコメンテーター小林は、1991年2月19日に逝去。小林は、久米不在時に一度だけメインの代役を試みたことがある。小林を含めニュース解説者としてのコメンテーターは船曳・森永を除いて歴代、朝日新聞記者またはその経験者。開始にあたり人選を朝日新聞社に依頼し、小林が選ばれた。
その他のキャスター
- スポーツキャスター(メイン以外)
- スタジオサブキャスター(不定期出演、代役時)
リポーター
- 渡辺宜嗣 - 久米不在時にはメインキャスター代理も
- 若林正人 - 夜桜中継が有名、不定期でゲストコメンテーターとしても出演
- 渡辺みなみ - 小宮不在時にはサブキャスター代理も
- 橋谷能理子 - 初期のスタジオアシスタント・天気コーナーも
- 内田忠男 - 主にニューヨーク支局から
- 宮嶋泰子 - スポーツ特集担当兼ディレクター
- 三反園訓 - 主に国会記者会館から
- 立松和平 - 心と感動の旅
- 羽田健太郎 - ピアノ演奏中継(天気コーナー)
- 安藤優子 - CNNコーナー担当
- 神田秀一 - 皇室関係担当、一時期天気予報も担当
- 西脇亨輔(1998.9-2002.7) - ほぼ毎日リポートを担当
- 平石直之
- 長島三奈
- 小林一枝
- 下平さやか
- 雪野智世
- 松苗慎一郎
- 岡田洋子
- 小谷真生子
- 佐藤紀子
- 木下智佳子
- 田中真理子
- 田丸美寿々
- 木佐彩子
- 山口容子
- 内田誠
- 補足
- 渡辺宜嗣は、休暇中の久米の代役の定番であり、当番組長寿化の功労者の一人。また、リポーター・スタジオサブキャスターを務めた小谷真生子を始め、初期のCNNコーナーを担当した安藤優子や、リポートから天気コーナーまでマルチにこなした橋谷能理子など、後に他局で活躍する女性キャスターたちがこの番組を足掛りとしている場合も多い。
放送時間
すべて日本時間(JST)で記す。
期間 | 月 - 木曜日 | 金曜日 | |
---|---|---|---|
1985.10.07 | 1988.03.31 | 22:00 - 23:17(77分) | 23:00 - 24:00(60分) |
1988.04.01 | 1994.09.30 | 22:00 - 23:17(77分) | |
1994.10.03 | 2000.03.24 | 22:00 - 23:20(80分) | |
2000.03.27 | 2001.09.28 | 21:54 - 23:09(75分) | |
2001.10.01 | 2004.03.26 | 21:54 - 23:10(76分) |
- 備考
- プロ野球中継による繰り下げ、ドラマ・バラエティ番組の拡大・特番により、放送時間が変更される場合もあった。
- 年末年始は年末・正月特番編成の関係上、放送休止。代わりに『ANNニュース』を10 - 15分間放送している。
- 2000年3月27日から開始時刻を6分前倒し、フライングスタートを実施。この間、平日20時以降の時間帯の番組は一斉に正時の6分前からのフライングスタートとしたが、視聴者の反応が鈍く、20時台の番組は2000年9月に、21時台の番組は2001年9月に廃止された。
- 後期 - 末期の放送時間は後番組の『報道ステーション』で現在も引き継がれている。
特別編成
大災害などの緊急ニュースの発生時には放送を午後9時からに前倒しあるいは放送終了時間の延長をすることがあった。
初めて放送終了時間の延長を行ったのは、1986年2月25日である。この日フィリピン政変が起こり、それに関連して、30分の時間延長がなされた(詳細は後述)。
初めて前倒し編成を行ったのは、1986年11月21日である。この日に発生した伊豆大島三原山の大噴火に関連して、午後10時から約2時間の拡大版として放送した(詳細は後述)。
この件をはじめとして、それ以後も湾岸戦争開戦、皇太子徳仁親王ご成婚、阪神・淡路大震災、アメリカ同時多発テロ事件などではほぼ同様の措置がとられ、特に三原山噴火の際には、当時クロスネット局で、テレ朝枠を持っていた山形放送が編成の都合上差し替えもできなかったことから、臨時ネットとして60分のみ放送したことがある。
スポーツ番組による特例編成
- 高校野球開催期間中
全国高等学校野球選手権大会が行われる毎年8月中旬の2週間は、ハイライト『熱闘甲子園』(ABC制作)を放送するための特例編成となっていた。
- 1989年までは平日の同番組の放送が22:00 - 22:30[15]であったので、1986年と1987年は番組の開始から終了まで全編30分ずらし(通常日は22:30 - 23:47、金曜版のみ23:30 - 土曜未明0:30)としていた。1988年と1989年は1時間に短縮し22:30 - 23:30とした。
- 1990年から1999年は終戦記念日(8月15日)前後を基点とし、大会前半は通常と同じ22:00 - 23:17→22:00 - 23:20、大会後半は1時間短縮版で22:00 - 23:00とした。同番組の放送は大会前半は23:20 - 23:50、大会後半は23:00 - 23:30であった。
- 2000年のフライングスタート開始以後は全日程を通して通常と同様の時間帯(21:54 - 23:09→21:54 - 23:10)となった。同番組の放送も全日程を通して23:10 - 23:40となった。
- 大相撲開催期間中
大相撲期間中は『大相撲ダイジェスト(以下:ダイジェスト)』を放送するため、『Nステ』は3分短縮となっていたが、1995年4月改編を期に解消された。2000年4月のフライングスタート開始以後はネオバラエティ・金曜ナイトドラマの後に『ダイジェスト』を放送した。2003年9月の六本木ヒルズ新本社移転直前をもって『ダイジェスト』は終了する。
番組での出来事など
1980年代
- ニュースステーションスペシャル
- 初期には年末に『ニュースステーションスペシャル』と題して、大掛かりな特集を中心とした長時間番組を放送した。1985年は日本航空123便墜落事故を特集し、1988年は後述の10.19ロッテ-近鉄戦であった。その後も何度か、長時間特番を組むことがあった。
- 1986年2月25日
- フィリピン政変(エドゥサ革命)が起こり、政権が交代した。この日は早河洋プロデューサー(当時)が30分の時間延長を決断。放送終了の1分30秒前にCNNテレビで中継された米国・シュルツ国務長官の記者会見を流し、マルコス前大統領の亡命および政権崩壊の一報を伝えた。当時大学生だった安藤優子がマニラから電話で中継を行った。安藤は、隣にいたNBCニュースの情報を聞き取っていたという。この日のニュースは、後に「ニュース番組を変えたニュース」として伝えられている。また、2009年2月1日にテレビ朝日開局50周年記念特番の一環として放送された「“ニュースの記憶”〜あの頃あの時あなたは…報道50年映像全史〜」では、冒頭10数分にわたりこの日の放送の一部が放送された。なお、この日は関東地区で19.3%の視聴率を記録した。
- 1986年11月21日
- 伊豆大島の三原山が数日前から活発な火山活動を始め、この日の夕刻、新たな噴火口から大規模な噴火が始まった。これに伴い島民に避難命令が出され、さらには島外への退避命令が出されるに至る。その動きに合わせ夕方から番組の休止や内容変更が続く中、朝日放送の責任枠であった当時の金曜21時枠および22時枠を内容変更し、この番組が急遽放送開始を前倒しし、21時台のANN報道特別番組に引き続き、22時から23時57分まで時間枠を拡大し放送された。
- 1988年10月19日
- プロ野球・パ・リーグの優勝決定試合であるロッテ対近鉄戦(いわゆる10.19)を朝日放送が放送しており、テレビ朝日は中継制作協力を行っていた。21時からテレビ朝日が『さすらい刑事旅情編』を休止し、CMを一切入れずに全国放送。さらにニュースステーションも放送予定の大半をやめてそのまま試合終了まで中継を続けた。なお、視聴率は30.6%(関東地区。関西地区は46.4%)で、初の30%台以上の記録だった。
- この日は、阪急ブレーブスの身売り発表や、貨物列車脱線事故などニュースがあり、またこの日に予定していたニューヨークからの中継を中止した。
1990年代
- 1991年2月21日
- 番組開始から出演していた初代コメンテーターの小林一喜が1991年2月19日に亡くなり、この2日後に番組の冒頭で20分間にわたり追悼特集を組み、終盤では小林夫人が記した手紙を小宮が読み、号泣した。
- 1995年2月17日
- 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の発生から1ヶ月後の1995年2月17日、神戸市中央区のポートアイランドにあるサンテレビジョン本社からニュースステーションを放送した。サンテレビはテレビ朝日系列の朝日放送の放送区域である兵庫県をカバーしている系列外の独立UHF放送局である(朝日放送とは業務提携関係にあった)。震災の主たる被災地の地元局であることから、この日のみサンテレビジョンと共同で番組を制作・放送したものである。またサンテレビジョンのニュース番組である『ニュースEyeランド』の関西向け天気予報なども全国のANN系列でそのまま流されるなど、報道番組としては極めて異例の取り組みが行われた。
- 1999年2月1日
- 同日の特集により所沢ダイオキシン騒動(後に訴訟沙汰となる)が発生。
- 久米の降板
- 久米はテレビ朝日との間で契約更新に合意できなかったため、1999年10月7日から年末まで番組を降板する[16]。
- この期間は渡辺宜嗣と渡辺真理の2人で進行する。
- この期間の久米についてテレビ朝日は「休暇」としているのに対し、久米の著書・サイトなどではこの期間を「無職」としている。
2000年代
- 2000年1月4日
- 久米が3ヶ月ぶりに番組に復帰。同時に番組オープニング、タイトルロゴ、スタジオセットがリニューアルされた。この時久米は口ヒゲを生やし、それまで黒く染めていた髪を白髪のままにするなど、イメージチェンジを遂げた。
- 2000年5月3日
- ほぼ全編西鉄バスジャック事件の立てこもり現場の中継に終始。
- 2001年7月23日 - 27日
- 福岡市で開催した世界水泳の独占放送権をテレビ朝日が取得。世界水泳の中継が午後9時24分に終わってしまうため、ちょうど第19回参議院議員通常選挙が行われる直前ということもあって、この間「SPECIAL WEEK」とし、午後9時36分からの放送となった。
- 2001年9月11日 - 13日
- 久米が遅めの夏休みをとり、真理と萩谷だけで放送していた11日。午後9時45分、世界貿易センタービルに飛行機が突入したことを報じた(アメリカ同時多発テロ事件)。
- 12日、『はぐれ刑事純情派』を休止。午後9時から11時30分までの放送で、全編テロ報道となる。
- 13日、休暇中の久米が夏休みを切り上げて復帰。番組欄の最後に「久米宏」と書いてアピール。プロ野球速報も伝え、放送時間の拡大も無かったが、11日・12日より高い視聴率を記録した。
- 2002年5月14日
- ミャンマーで軍事政権により軟禁されているアウンサンスーチーと久米が5分間の電話対談を行い、録音した音声を放送した。なお、久米はミャンマーの軍事政権を嫌い、国名を旧国名の「ビルマ」と伝えていた。
- 2002年6月14日
- 2002 FIFAワールドカップで日本が初めての決勝トーナメント進出を決定したこの日は、この日チュニジア戦が行われた大阪市長居陸上競技場にほど近い大阪・ABCスタジオから生放送が実現した。
- 2003年12月19日
- 同じ六本木ヒルズ内に本社を置くJ-WAVEの『Jam the WORLD』と同時放送(午後9時から30分ほど。年内最後の放送という事もあり1時間早めて放送)、久米とパトリック・ハーランがニュース原稿を読み、久米がJ-WAVE社内の様子をリポート、平井堅が六本木ヒルズ内から中継で『見上げてごらん夜の星を』を披露した。
最終回(2004年3月26日放送)
オープニングでは番組開始と同じ年に植えられたアークヒルズの桜並木から夜桜中継をした。
エンディングでは久米が、民間放送の在り方について、視聴者をはじめ広告代理店の電通、歴代のスポンサー・スタッフなどへ感謝の言葉、小学生時代の自らの通知表の内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交えて過去18年半のニュースを振りかえり、中国語によるパロディ予告編「久米的電視台」が放映された。
最後は、一人手酌のビールを一気に飲み干し、(降板していた時期があったため)「本当にお別れです。さようなら」との挨拶で番組を終えた。
番組終了後、同日中に競合番組である『筑紫哲也 NEWS23』内のコーナー「多事争論」で筑紫哲也が久米への言葉を述べたことをはじめ(その日のタイトルは「さようなら、NS」)、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙でも報道されるなど、報道番組としては極めて例外的な扱いを受けた[17]。
本番組終了でプロダクションのオフィス・トゥー・ワンは、同時間帯の報道番組制作から撤退することになる。
後番組『報道ステーション』は本番組とは全く別の番組という位置付けがなされ、花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。
最終回の視聴率は19.7%(関東地区)。
番組構成
番組内で久米が番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定にするようアピールしてきた。番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。10時開始だった2000年3月までの番組構成を例に挙げると、スポーツは22:30頃、天気予報は22:50頃に放送。
主なコーナー
- ニュースフラッシュ
- 番組終盤に放送。その他のニュースを1項目20秒程度で一気に流した。久米とサブキャスターがまとめてもしくは交互に読み上げるか、サブキャスターが(1995年から1998年まで金曜日のみ小宮とスタジオサブキャスターが交互に)読み上げる。1990年代までは16項目表示できる電光ボードを使用。2000年代はスタジオ演出を用いずVTRのみで構成。この時久米が「できるだけニュース」と言うのが定番だった。
- 天気予報
- 天気キャスターが読み上げる。2001年1月から番組終了までは上山がスタジオサブキャスターと兼任して読み上げる。中期になると季節の変わり目等の節目節目に有名な産地や名所へ行ったり、後述の夜桜中継や滝中継・紅葉中継と合わせて行うこともあった。
- 特集
- 様々な政治・経済・社会・事件などを取り上げる。この他、後述の企画、各月の行事や最新の流行もの、話題のものに関するものまで多種多様にわたって取り上げている。2000年代は気になる現代社会問題のニュースや最近のニュースに関連した内容を取り上げる「NEWS IN-DEPTH」というコーナーもあった。
スポーツ
野球
プロ野球に関しては当日の試合速報が番組の主力コンテンツとしてあり続けた。2月の「キャンプフラッシュ」、3月の「順位予想」、10月の「日本シリーズ予想&解説」が恒例。日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が解説者として出演することもあった。
- プロ野球速報
- 番組初期、プロ野球のある日は「日本一速いプロ野球速報」をウリにしていた『スポーツTODAY』に対抗すべく22:25頃から「プロ野球速報」として放送していた。試合速報は取材した放送局が編集・ナレーションを行い、各リーグの順位表が初代セットの一部に組み込まれていた。
- 試合映像は各放送局から配信(ナレーションも原則各放送局アナウンサー。地方球場遠征の場合、系列局がない地域ではテレ朝か近隣系列局アナウンサーが行う場合あり)しており、試合の映像が終わってから、東京のスタジオから詳細なスコアテーブルを全画面表示して、選手・監督のコメント、記録などの一口メモを流すという体裁だった。
- 当初から独自のコーナージングル[18]を採用しており、アニメ番組の主題歌のイントロを加工したもの[19]も使用されたりした。
- また、1992年のシーズンからチームの呼称を報道番組としては初めて愛称名(「ジャイアンツ」「ライオンズ」など)のみとした。その後一時「親会社名+愛称名」のフル名称になった時期もあったが、「巨人」あるいは親会社名のみの呼び方は番組終了までされなかった。この呼び方は後番組の『報道ステーション』には受け継がれていない。ペナントレースの優勝チームの決定が近づくとくす玉がセットに吊り下げられ、優勝が決まるとそれを割って祝福するシーンもあった。
- 日刊スポーツとの中継
- 番組開始当初、1990年代まで木曜日の放送では「マユゲのノーさん」こと日刊スポーツ編集委員・野崎靖博記者と同社東京本社(築地)と中継回線をつないで、プロ野球解説や翌日の紙面の紹介を行っていたことがあった。2000年1月の久米復帰後も出演を続けたが、レギュラー最後の出演時期は未詳。
- プロ野球1分勝負
- ニュースフラッシュのあとに放送された名場面(珍プレー)を中心に、その日のプロ野球を1分でまとめたコーナー。1999年のシーズンまで放送された。
- クドちゃんナベちゃん キャンプフライデー
- 1987年の春季キャンプシーズン、西武ライオンズに当時在籍していた工藤公康と渡辺久信によるコーナー。
- ジャイアンツエイド
- カープファンの久米宏が、巨人ファンの著名人を招いて、巨人が優勝するための策などを主張させ合った。
- 宜嗣とドラゴンズ
- プロ野球キャンプ取材では、大の中日ファンである渡辺宜嗣が中日の北谷キャンプを訪れ、監督らにインタビューし、「燃えよドラゴンズ!」を大熱唱することが恒例となっていた。
サッカー
川平慈英が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演した。Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。1998年サッカーW杯では川平がフランスから連日放送。2002年W杯ではテレビ朝日が担当した日本対チュニジア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。
放送日にJリーグの試合がある場合、他のスポーツニュースでは試合映像の終わりのところでその試合のスコア結果を字幕出ししていたが、この番組はプロ野球と同じ要領で、試合映像を最初に映した後、映像が終わってから別のカットで詳細なスコアテーブルを全画面表示して、そこに川平が選手・監督談話や記録などの一口メモを述べる体裁をとっていた(一部の日、1-2試合程度しか行われなかった場合は除く)。
- マンデーJ/MJ
- 水曜の常時開催が無くなると月曜に名シーンを放送する「MJ(Monday J League)」を放送。日本人選手の海外進出や2002年W杯人気もあり、海外リーグの話題も伝えた。特に1999年J2リーグ発足以後からは、週末に行われたJ2の試合を他のスポーツニュースよりも詳しく伝えた(J1は注目のカード数試合を抜粋して放送)。これには川平は登場しない。
- 川平慈英のJ2めぐり
- この「マンデーJ」との連動で、1999年のJ2発足当時に、「J2のオリジナル10」といわれるチームを川平が訪問し、そのチームのJリーグでの取り組みや試合の観戦レポートを紹介するコーナーがあった。
- 都並さんといっしょ
- 当時サッカー解説者であった都並敏史が登場し、川平とともに、サッカーについてのミニ知識などを解説したコーナー。
- レインボー
- Over The Rainbowのエレキギター演奏と共に、ゴールシーンの映像を振り返り、ボールの軌道を虹なぞらえて演出する。日本代表試合での日本代表選手のゴールシーンなどに使用。
- 「次はいつ?」
- 川平にはお馴染みのフレーズが多く存在した。「いいんですか?いいんです!」や心酔した時の「くぅーーー!」など。ハイテンション過ぎて、久米から「次はいつ来るの?」と冷やかし半分に訊かれ、未定だと「(呼ばれれば)いつでも!!」と締める事が多かった。
その他スポーツ
- 特集
- スポーツ特集は野球・サッカー以外の幅広い競技にも及ぶ。マイナースポーツの取材数では他のスポーツニュース番組より圧倒的に多く、さらに毎年継続して取り上げた(パリ・ダカール・ラリーやアメリカスカップなど)。スポーツ特集には宮嶋泰子がディレクターとして取材。
- スポーツ中継告知
- テレビ朝日で放送されるスポーツ中継の告知は色々な形で行われた。ル・マン24時間レースや全英オープンゴルフや全米オープンゴルフ(男女・シニア)のある時期は開催先から解説陣が最新の様子を伝えるなど、告知は怠らなかった。また、全英オープンの際の久米と青木功の掛け合いも名物であった。
- ネーミング
- なにかとダジャレや気の利いたフレーズを使うことが多かった。Jリーグ順位掲示板「回転くん」「かめすけ」や、2002 FIFAワールドカップカウントダウンの「あと韓日くん」など。
- 角澤ポジション(角ポジ)
- 2000年1月4日の久米復帰に合わせたスタジオリニューアルに合わせ、ブーメランテーブルの手前に、当時のスポーツ担当であった角澤照治の専用席が設けられ、以降、角澤担当曜日のみその専用席に角澤が位置してスポーツコーナーを進行する形になった。これにより、角澤は久米・真理・上山の3人を背にして進行を行う形になり、各出演者の表情も一緒に覗うことができるようになった[20]。基本的にはコーナー全体を通して専用席で進行するが、最初は専用席で進行し、途中からブーメランテーブルに移動して進行を行うこともあれば、以前と同じように一貫してブーメランテーブルで進行することもあった。この専用席は通称「角澤ポジション」と呼ばれた。
- なお、角澤以外の女性スポーツキャスターは従来通りブーメランテーブルで進行していたが、角澤不在時の代行担当者らが「角ポジ」を使用するとカビラーバや上山地方といった名称がついた。
名物企画・シリーズなど
- 夜桜中継
- 「夜桜中継」は例年春に行われた大規模な中継である。初期に担当した若林正人は、久米の進行が気に食わないことが多く、契約が終わると久米批判で知られるようになった。夜桜中継は他系列の南海放送や四国放送も中継に協力していた(裏送り)。正式なANNのネットワークニュースではないために協力が得やすかったと言われる。このほかに夏の「滝中継」、秋の「紅葉中継」も行われた。
- 立松和平こころと感動の旅
- 作家・立松和平が自然の中を旅するリポート。須賀潮美による水中リポートも織り込まれることがあった。立松の独特の語り調子と、須賀の酸素ボンベでの呼吸音が話題を呼んだ。初期は、須賀の実父がカメラマンとして同行していた。
- 金曜コンサート
- 若林正人がクラシック音楽を紹介した企画。
- 最後の晩餐
- 『最後の晩餐』は、久米が著名人に「人生最後に食べたいもの」というテーマでインタビューするという企画。のちに単行本化された。なお、久米の夏季休暇が3週間で定着してから考え出された企画で、初期は休暇3週目に放送されていた。
- シリーズ日本の駅
- 国鉄分割民営化が目前に迫っていた1986年当時、日本の様々な駅を紹介した。中島みゆきの「おだやかな時代」がテーマソング。国鉄民営化をもってコーナーも終了した。
- シリーズ新・日本の駅
- 小林旭の「駅」がテーマソング。
- マンハッタン瓦版
- ニューヨーク支局の内田忠男が、地元紙の気になる記事を紹介するコーナー。渡辺みなみが代役を務めることもあった。
- 絶滅危惧商品
- 忘れかけた頃に放送されるシリーズ。戦後復興期に使われ、その後使用されなくなった商品の今昔を、ナレーターがその商品に扮して伝える。
- 小泉武夫の○○の快楽
- 発酵食品の研究で知られる小泉武夫教授が、さまざまな地域の地元食を訪ねるもの。これを端に、発酵食品だけにとらわれず、いろいろな地元食を扱った。
- 業界新聞
- あまり目に触れることのない、業界内向けの新聞に着眼点を置き、その新聞の生い立ちや、取り扱う業界について探る。
- 登山シリーズ
- テレビ朝日のディレクター・大谷映芳(『渡辺篤史の建もの探訪』プロデューサーなどを歴任)による登山紀行。ムスタン取材は何回かに分けて放送、これ以降は江守徹がナレーターを務める。後に日曜午後に放送される番組の先行ダイジェスト版という形式をとる。
- ビートルズ映像公開
- ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に出演した映像や、アップルコンピュータがリマスタリングした際に作成した日本で1回しか放送できないミュージックビデオなど貴重な映像を放送。
- チャンスの前髪
- 渡辺真理が、話題の人物にインタビューする企画。
- 轡田隆史のぶらり旅
- 朝日新聞の論説委員でかつてコメンテーターだった轡田隆史が各地を旅するという企画。
所沢ダイオキシン問題
1999年2月1日に「汚染地の苦悩 農作物は安全か?」と題した特集で、民間の環境測定コンサルティング企業である株式会社環境総合研究所(1986年設立、本社・品川区、青山貞一社長)が1998年に独自に計測したデータから、『所沢市の“ホウレンソウをメインとする野菜”/“葉っぱものの野菜”から1グラム当たり3.8ピコグラムのダイオキシン濃度が検出された』と、青山社長がコメンテーターとして久米と対談のうえセンセーショナルに報道した。予てから埼玉県所沢市東部の関越自動車道沿いに広がる「くぬぎ山」と称する雑木林周辺で産業廃棄物の小型焼却炉や中間処分場が1990年以降多数立地するようになり、排煙や焼却灰に含まれるダイオキシンによる大気汚染・環境問題が懸念されていた。1997年に厚生省が全国の野菜に含まれるダイオキシン濃度を検査したことを受け、JA所沢(現:JAいるま野)は地元産のホウレンソウや白菜など野菜5品目を測定するも公表しなかった。そこで番組はこれら周辺の状況を絡めて報じたのである。
この結果、ホウレンソウを始めとする所沢産の野菜がダイオキシンに汚染されていると食品スーパーなど小売業各社が認識し、所沢・入間郡産はもとより、一部で県北部の深谷ネギなど埼玉県産の農作物全般で自主的に販売停止措置を講じて締め出されるという騒動に発展。農作物の出荷は継続されるも青果市場で埼玉県産農作物の卸価格が半値以下に下落する被害が出た。
テレビ朝日は『ザ・スクープ』で1995年から1998年にかけて所沢市の産業廃棄物処理場とダイオキシン汚染による健康被害など環境問題を7回取り上げており(判例より)、初回放送直後の放送回でコメンテーターの菅沼は「この報道をやめて(ダイオキシン問題を)救えるかってんだ!」と生放送の番組内で怒鳴るなど誤りを認めなかった。
これを受け、同月5日に埼玉県が事実確認を行う旨公表し、テレビ朝日以外のキー局は番組名を伏せて情報番組などで騒動を取り上げるようになった。同月6日にJA所沢(現:JAいるま野)が検査結果を公表する動きを見せ、同月8日にJAと地元農家がテレビ朝日を訪問し抗議。同月10日にJAは野菜のダイオキシン濃度はきわめて低いとする詳細な検査結果を公表。これより番組中で久米が「野菜」と表現したダイオキシンが検出された農産物は、実際は煎茶であったことが判明し、テレビ朝日は不手際があった事を認めた。煎茶は乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、飲用では健康に悪影響はないものだった。なお、ホウレンソウも同時に計測されており、1グラム中最高0.75ピコグラムであったことが後日公表されており、青山や久米が“ホウレンソウをメインとする葉っぱものの野菜”と抽象的で曖昧な表現に歪曲して批評したことから報道被害を招いたとされている。
同月12日に中川昭一農水相がテレビ朝日報道局長宛に調査を行うよう申し入れを行い、翌2月13日、久米が番組内で農家に謝罪。「検査対象が茶だとは知らなかった」と弁明したが、その後、批判対象は環境汚染の元凶である産廃施設とそれを管轄する行政(所沢市・埼玉県)にあるとする動きを見せた。
所沢市周辺の食品スーパーでは徐々に野菜の販売が再開されたが、それ以外の埼玉県内を含む首都圏の食品スーパー・百貨店では農作物の販売再開に慎重な動きを示した。また逆に狭山茶など埼玉産の煎茶が販売自粛に追いやられ、鹿児島県や静岡県は煎茶のダイオキシン濃度を自主的に検査する動きを見せた。後に中川農水相や小渕恵三首相が所沢産野菜を食して安全宣言を出すパフォーマンスを行う事態になった。
農家側は同年に風評損害を受けたとして、1999年9月に当初376人の原告団を結成して全国朝日放送と環境総合研究所に対して謝罪広告の要求を兼ねた損害賠償請求の集団訴訟を提訴し(浦和地裁 平成11年(ワ)1647号)、民事事件へと発展した。この一連の騒動は販売停止の解消と提訴が行われるまで地元紙の埼玉新聞でほぼ連日報道されていたが、同時期に桶川ストーカー殺人事件や本庄保険金殺人事件など皮肉にも埼玉県を事件現場とする凶悪事件が立て続けに発生したことから各マスコミでの報道は急速に縮小した。
訴訟では2001年判決の1審と2002年判決の2審(東京高裁平成13年(ネ)第3301号)がテレビ朝日側が勝訴、最高裁で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された((一小)平成14年(受)第846号)。番組終了後の2004年6月16日に、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立。原告団は900万円を三宅島噴火被害による農業振興に役立てて欲しいと三宅村に、100万円を食育活動へ役立てて欲しいと所沢市に寄付した。環境総合研究所に対しては測定内容が事実であったことから1審・2審ともに敗訴が確定している。
『ザ・スクープ』の報道後の1997年に所沢市は「ダイオキシンを少なくし所沢にきれいな空気を取り戻すための条例」など幾つかの条例を施行していたが、この騒動を受けて埼玉県は野焼きの自粛要請・産業廃棄物排出事業者の公表を、政府レベルでは「ダイオキシン類対策特別措置法」・「循環型社会形成推進基本法」が施行され、廃棄物や焼却炉に対する規制が強化された。また、くぬぎ山に所在する産業廃棄物の焼却炉は不燃物を粉砕する中間処理施設への転換が相次いだ。
テーマ曲・コーナー別使用音楽
- 1985年10月7日 - 1987年9月25日:「ANNニュースのテーマ」(松岡直也)
- 他の『ANNニュース』でもこのテーマ曲に変更。
- 他の『ANNニュース』ではこのオープニングから派生したCG画像を使用していたためそれらの映像は通称「青屏風」と呼ばれている。ちなみに元であるオープニングは青屏風の上に地球儀が乗っかったデザインだった。
- 1987年9月28日 - 1989年1月27日:曲名なし(前田憲男)
- 週末の『ナイトライン』や『チェック・ザ・ステーション』と共通でテレビの三原色を示す光線が放たれた(後者はテーマ音楽も同じ)のみスタジオ風景が細切れに現れたところでタイトルというCG混在映像が使われていた。
- 1989年1月30日 - 1993年4月16日:「Good evening」(本多俊之)
- このころから、オープニング曲・CM前ジングル以外に番組内で使われる音楽もトータルにコーディネートされ始めるようになった。
- 天気予報のBGM、スポーツコーナーのテーマ(「JUNP UP」)なども本多が担当。
- このころから、オープニング後に日付表示がなされるようになった。
- 歴代のテーマ曲の中ではこの曲が長く使われている(約4年3か月、作曲者だけでも含めると約7年8か月)。
- 1993年4月19日 - 1996年10月4日:「Harmony」(本多俊之)
- 1996年10月7日 - 1998年5月8日:「36度線」(ASKA)
- 「36度線 -1995夏-」 (CHAGE and ASKA) 参照。
- 天気予報のBGM(違う曲)も提供。
- 1998年5月11日 - 1999年12月23日:「靴は履いたまま」(ゴスペラーズ)
- これ以降、オープニング映像で日付を表示。この時期のオープニング映像はその日のニュース映像が使われた。
- 重大ニュースがあった際は定時開始でもこの曲を使用せず、ピアノ曲が使われた(パキスタン核実験)。
- アルバム『Vol.4』収録(オリジナルバージョンのみ)
- スポーツ「イントロ'98」 - アルバム『Vol.4』収録
- 2000年1月4日 - 2002年3月29日: 「NS2000(NEW STREAM 2000)」(福岡ユタカ)
- オープニングのCG映像は小島淳二が手がけた。サイバースペースを表現したようなフル3DCG映像となり、その日の放送する複数のニュース映像素材をCG映像内のウインドウ部分にデジタル合成しダイジェスト形式で短時間流すとともにカテゴリーや放送予定時間を英文表示するスタイルに変わった。
- これ以降、オープニングCGの中で放送内容の告知を行う(Char演奏のW杯バージョンを除く)。
- 2001年ではこの曲のニューバージョンとして「NS2001」が使われた時期もあった(アルバム『Calling -The Latest Best-』収録)。
- 導入当初は30秒あったが、2000年3月27日のフライングスタート開始時から1フレーズカット(5秒ほど)。
- 第19回参議院議員通常選挙直前の「SPECIAL WEEK」期間中の午後9時36分からの放送となった2001年7月23日 - 7月27日の間はアニメ『機動警察パトレイバー』のものを使用した。
- スポーツ「Trance Zone」 - アルバム『Calling -The Latest Best-』収録
- ニュースフラッシュ「5scenes from a Dizzy day」 - シングル「NEW STREAM 2000」、アルバム『Y・Voices』収録
- 2002年4月1日 - 2002年6月28日:「A FAIR WIND」(Char)
- この期間内に、日韓共催のサッカーFIFAワールドカップがあり、このテーマ音楽に乗せ、川平慈英のナレーションで1回目からのW杯の歴史を振り返る特別バージョンで、決勝戦とともに終了。
- 2002年7月1日 - 2003年9月26日:「サラバンド」(サラ・ブライトマン)
- アルバム『ハレム』、『輝けるディーヴァ 〜ベスト・オブ・サラ・ブライトマン〜』収録(共にフル・ヴァージョン)
- スポーツ「ハレム」 - アルバム『ハレム』収録
- オープニング映像は近未来風の世界を彩った映像を使用し、「NS2000」の時と同様にその日の放送する2項目のニュース映像素材を交えてダイジェスト形式で短時間流すものになった。
- 2003年9月29日 - 2004年3月26日:U2の演奏、選曲、監修による以下のテーマ曲
- オープニング「Where The Streets Have No Name (約束の地)」
- スポーツ「Lady With The Spring Head (スピニング・ヘッド)」
- ニュースフラッシュ(「できるだけニュース」)「Discotheque (ディスコティック)」
- エンディング「Electrical Storm (エレクトリカル・ストーム)」
平均視聴率ベスト10
- 関東地区のもの
位 | 視聴率 | 放送年月日 | 備考・放送内容 |
---|---|---|---|
1 | 34.8% | 1994年10月26日 | 日本シリーズ「西武対巨人」戦終了後 |
2 | 31.9% | 1995年10月24日 | 日本シリーズ「ヤクルト対オリックス」戦終了後 |
3 | 30.6% | 1988年10月19日 | いわゆる「10.19」当日。上記を参照 |
4 | 28.2% | 1995年4月24日 | オウム真理教の村井(元)幹部刺殺事件発生など |
5 | 27.6% | 1995年5月8日 | オウム真理教幹部への単独インタビュー放送など |
6 | 26.7% | 1989年6月26日 | 歌手・美空ひばり死去など |
7 | 26.3% | 1989年2月13日 | リクルート事件でリクルート江副浩正前会長逮捕など |
8 | 1995年3月23日 | 地下鉄サリン事件発生など | |
9 | 1995年4月10日 | オウム真理教幹部各地で逮捕など | |
10 | 1995年4月13日 | オウム真理教施設一斉捜索など |
ネット局
本番組の放送が始まった頃のANN加盟フルネット局はキー局テレビ朝日を含めて12局。クロスネット加盟である福井県の福井放送と、宮崎県のテレビ宮崎と、長野県のテレビ信州(現日本テレビ系)ではその関係上NNN(日本テレビ系)の夜の最終ニュース『NNNきょうの出来事(現:NEWS ZERO)』を放送していた。テレビ信州は、在長民放では4局目に開局した長野朝日放送(abn)の開局まで、ANNのネットニュースは昼枠と夕方枠しかネットしておらず、結果的にテレビ朝日のネットをabnに譲るような形でネットニュースを全てNNNに切り替えた。
ANNは、テレビ放送ネットワークとしては他の放送系列よりも系列局の設置などにはばかるほどの起伏に当たるばかりになってしまい、その後、日本テレビとフジテレビの人気番組の勢いが圧倒的になると、各地のローカル局は人気ネット番組の整理に追われるようになる。1989年のKAB熊本朝日放送の開局を皮切りに、テレビ朝日はNET時代に大頓挫した全国ネットワーク構築を再展開。それまで他系列とのクロスネットを組んでたローカル局ともネット関係をほぼ断ち切るようになり、政府の提案した民放四波化推進の条件にまでは達していないものの、フルネット24局体制を『Nステ』の放送期間中に完成させ、「Nステ」は、北海道から沖縄までテレビ朝日の放送が視聴できる体制づくりにも貢献した[21]。なお、後番組の「報道ステーション」に関しては、ANN完全系列24局が放送開始当初からネットしている。
しかし、系列局発のローカルニュースがその日の最終版ニュースの位置づけではないためか、番組の放送中などに挿入しにくい状態であるため、系列局今日最後のニュースは、番組の放送終了後か、深夜枠に回されている(とは言え深夜枠は日付が翌日になったあとに系列局が放送する例が多く、実際は日付が変わったあとのニュースと捉えなければいけないようである。これは「報ステ」に移行した今日にも至っている)。
放送対象地域 | 放送局名 | 系列 | 放送時間 | 放送開始・備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | テレビ朝日(EX) | テレビ朝日系列 | 放送時間を参照 | 制作局 |
北海道 | 北海道テレビ(HTB) | 番組開始から | ||
青森県 | 青森朝日放送(ABA) | 1991年10月1日開局から | ||
岩手県 | 岩手朝日テレビ(IAT) | 1996年10月開局から | ||
宮城県 | 東日本放送(KHB) | 番組開始から | ||
秋田県 | 秋田朝日放送(AAB) | 1992年10月開局から | ||
山形県 | 山形テレビ(YTS) | ANNに再加盟しANNのフルネット局となった1993年4月1日から | ||
福島県 | 福島放送(KFB) | 番組開始から | ||
新潟県 | 新潟テレビ21(UX) | |||
長野県 | 長野朝日放送(abn) | 1991年4月開局から | ||
静岡県 | 静岡朝日テレビ(SATV) | 1993年9月30日までは静岡県民放送 | ||
石川県 | 北陸朝日放送(HAB) | 1991年10月開局から | ||
中京広域圏 | 名古屋テレビ放送(NBN) | 2003年4月からの対外呼称は「メ〜テレ」 | ||
近畿広域圏 | 朝日放送(ABC) | 番組開始から | ||
広島県 | 広島ホームテレビ(HOME) | |||
山口県 | 山口朝日放送(yab) | 1993年10月開局から | ||
香川県 岡山県 |
瀬戸内海放送(KSB) | 番組開始から | ||
愛媛県 | 愛媛朝日テレビ(eat) | 1995年4月開局から | ||
福岡県 | 九州朝日放送(KBC) | 番組開始から | ||
長崎県 | 長崎文化放送(NCC) | 1990年4月開局から | ||
熊本県 | 熊本朝日放送(KAB) | 1989年10月開局から | ||
大分県 | 大分朝日放送(OAB) | 1993年10月開局から | ||
鹿児島県 | 鹿児島放送(KKB) | 番組開始から | ||
沖縄県 | 琉球朝日放送(OAB) | 1995年10月開局から |
※1993年1月19日のみ、山形放送が皇太子妃雅子の婚約に伴い60分間のみネットしている。
関連番組
- 『ニュースステーション』開始から1年後の1986年10月24日から毎週金曜日20時台に放送されている関口宏→タモリが司会を務める音楽番組。番組タイトルに「ステーション」を持つ『Nステ』の派生番組。初代番組ロゴは『Nステ』の初代番組ロゴと共通のデザインだった。
- 国政選挙の開票速報番組。1986年7月の衆参同日選挙から2003年11月の第43回衆議院議員総選挙まで久米宏を中心として放送された。
- 1987年10月4日から1988年4月3日まで、日曜日午前11時台に放送された。渡辺みなみが司会を務め、若林正人が経済解説をした。テーマ曲も当時の『ニュースステーション』と同じであり、「金曜チェック」の再放送が目玉の一つだった。
- ドキュメント天皇崩御 昭和から平成へ
- 「平成」改元が行われた1989年1月8日(日曜日)12時から2時間にわたって放送された報道特別番組。久米宏と小宮悦子が司会を務め、『ニュースステーション』のスタジオセット(ただし背景は昼の風景)から放送した。
- ニュースチャレンジステーション
- 1996年と1997年に放送された『熱血27時間!!炎のチャレンジ宣言』の番組内ニュースコーナー。通常編成における『ANNニュース』の代用的位置付けであり、1996年放映版はニュースステーションのタイトルロゴをアレンジしたものだった。キャスターはタレントの雛形あきこと高井正憲。
- 『ニュースステーション』の後番組。『Nステ』とは別番組の位置付けではあるが、『Nステ』の制作手法などの名残りを受け継いでいる。
- TBS系列で平日23時台に放送されている報道番組。1989年10月2日より放送開始。『Nステ』同様平日最終版のニュースの概念を大幅に変えた番組。同時間帯で何かと比較された。また、久米宏と筑紫哲也は双方とも早稲田大学の出身で、広島東洋カープのファンでもあった。ちなみに、双方の古巣は久米宏はTBS、筑紫哲也は朝日新聞であった。また、渡辺真理もTBSアナウンサー時代、この番組に出演していた。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:ニュースステーション テンプレート:テレビ朝日系列の報道番組
テンプレート:スポーツニュース番組- ↑ 1.0 1.1 2007年4月5日スポーツニッポン「小宮悦子、2度目の離婚 10歳“姉さん婚”から12年--「女性セブン」報じる」
- ↑ 嶌信彦『メディア 影の権力者たち』1995年4月講談社 ISBN:4062076284
- ↑ 読売新聞夕刊 1985年10月16日。
- ↑ しかし、番組開始に伴う番組編成の改編で、平日夜22時台に放送されていた番組を中心に放送時間が変更され、これに伴う視聴者離れで『特捜最前線』、間接的だが番組編成上の圧力で『必殺シリーズ』が終了に追い込まれた。これらの改編に加え、『アフタヌーンショー』の「やらせリンチ事件」が影響してか、1980年代後半から1990年代はテレビ朝日ではヒット番組に恵まれず視聴率において、終始4位(民放キー局、NHK総合テレビ除く)だった。そのため、「テレ朝は『ドラえもん』と『ニュースステーション』しか誇れる番組が無い」と揶揄されたこともあった。
- ↑ これを見ていた当時NHK記者の池上彰がこれを応用し、1994年4月に『週刊こどもニュース』をスタートさせた。
- ↑ テンプレート:PDFlink
- ↑ 朝日新聞縮刷版の番組表を確認。
- ↑ 2009年1月 - 6月、金曜21時に『必殺仕事人2009』として放送。
- ↑ 中国で起きた高知学芸高等学校の修学旅行生を載せた列車が脱線した事故に関するニュースが中心。
- ↑ 『サンケイスポーツ』2003年8月23日付
- ↑ 2001年2月1日から2014年1月31日まで。
- ↑ 『週刊現代』2005年2月5日号の報道より。
- ↑ 広瀬道貞社長 定例社長会見要旨(2003年9月30日)
- ↑ 14.0 14.1 テレビ朝日では1985年10月7日から1987年5月29日までは『ニューヨーク情報』、1987年6月1日から2001年9月28日までは『世界の車窓から』。なお、『世界の車窓から』は2001年10月1日より23:10 - 23:15に移動。
- ↑ 1982年の第1回熱闘甲子園のみ21時開始。1983年の第2回以降1989年まで22時開始がずっと定着していた。
- ↑ 1995年頃から事ある毎に週刊誌で「久米降板」説が取り沙汰された。
- ↑ 2004年3月26日「さようならN.S」
- ↑ 荻野目洋子『湾岸太陽族』、B'z『LOVE & CHAIN』など。
- ↑ 「機甲戦記ドラグナー」OP『夢色チェイサー』、「からくり剣豪伝ムサシロード」ED『てなもんだ人生』など。
- ↑ コメンテーターは基本的に映ることはないが、3人のうち1人が不在の場合は、コメンテーターも背にして進行を行うこともある。
- ↑ 但し、石川県以外の北陸・山陰・四国・九州などごく一部の地域ではフルネットを未だに開局できていない地域がある。