10.19

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テンプレート:参照方法 10.19(じってんいちきゅう)とは、1988年10月19日川崎球場ダブルヘッダーにより行われた日本プロ野球パシフィック・リーグロッテオリオンズ[注 1](以下、「ロッテ」)対近鉄バファローズ[注 2](以下、「近鉄」)の試合である。

近鉄が連勝すれば近鉄のパ・リーグ優勝が決定し、近鉄が1つでも敗れるか引き分けるかで西武ライオンズ[注 3](以下、「西武」)の優勝が決定するという状況のもと、近鉄が第2試合で引き分けて、西武のリーグ優勝となった。川崎球場は超満員となり、第2試合途中から急遽全国的にテレビ中継が放送され(近鉄の地元、関西地区では第1試合開始当初から中継)、高視聴率を記録した。[1]

2010年に日本野球機構が行った「最高の試合」「名勝負・名場面」調査では、監督およびコーチ、報道関係者の両者が「最高の試合」の第2位にこの試合を選んでいる[2]

後述の通り、「10.19の続編」などと言われることがある#翌年の10.12もこの項で述べる。

10月19日直前の状況

テンプレート:Notice テンプレート:Main 近鉄バファローズは、1988年6月、主砲のリチャード・デービスが大麻不法所持により逮捕、退団となり、デービスに代わる選手として当時、中日ドラゴンズ第三の外国人選手だったラルフ・ブライアントを、6月28日金銭トレードで獲得した。同日、首位の西武ライオンズと2位近鉄は8ゲーム差だった。9月15日の段階で、首位西武と2位近鉄は6ゲーム差ついていた。

しかし、その後ゲーム差が少なくなり、10月4日には西武が負けて近鉄が勝ったため、2位近鉄に優勝へのマジック14が点灯、翌日の試合にも勝ち、首位に立っている。

その年の雨の影響もあり対ロッテオリオンズ戦の雨天順延が続いた一方、10月22日に日本シリーズの開幕が決まっていたため、近鉄は10月7日から19日にかけての13日間で15連戦(10、19日はダブルヘッダー)、一方の西武も7日から16日まで10連戦を戦った。7日・8日に近鉄と西武の直接対決で西武が連勝し再び首位となり近鉄と2ゲーム差となるが、そこから13日までに西武は4勝1敗、近鉄が対ロッテ戦6試合に全勝として、近鉄のマジックが点灯のまま減っていった。14日から16日はともに勝ち、負けが続き、16日、西武は全日程を終了した。

近鉄は17日に阪急に敗れたため、優勝するためには残る対ロッテ戦3試合に全勝するしかなく、引き分け1つも許されない状況に追い込まれた。近鉄は阪急西宮球場から宿舎(京都)に移動するバスの車内で、佐々木修が音頭を取り、近鉄バファローズの球団歌を全員で合唱した[3][4]。翌日の18日、近鉄は川崎球場で行われた対ロッテ戦に12対2で勝利し、10月19日を迎える。

ダブルヘッダー第1試合

15時試合開始。川崎球場は快晴だった。

出場選手

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試合内容

初回にロッテは愛甲猛の2ラン本塁打で2点を先制。ロッテ先発投手小川博の前に5回二死まで無走者・無得点に抑えられていた近鉄は、5回2死から鈴木貴久の本塁打で1点を返した。7回裏にロッテは2四球により二死一・三塁となったところで佐藤健一が二塁打を放ち1点を追加、再び2点差とした。鈴木の本塁打以降再び無走者・無得点に抑えられていた近鉄は、8回表一死から鈴木がチーム2本目となる安打、続く吹石徳一の代打加藤正樹が四球で出塁して一死一・二塁となったところで、山下和彦の代打村上隆行が2点適時二塁打を放ち3-3の同点に追いつく。続く真喜志康永の代打栗橋茂は三振の後、大石第二朗新井宏昌が連続四球で満塁となるが、ブライアントが三振に倒れ、同点のまま9回表を迎えた。当時のパ・リーグは「ダブルヘッダー第1試合は延長戦なし。9回で試合打ち切り」という規定があったため、近鉄はこの9回表に勝ち越さなければ西武の優勝が決まる状況であった。

その9回表、一死後淡口憲治が二塁打で出塁し、代走に佐藤純一が送られた。ここでロッテはリリーフ牛島和彦を投入。続く近鉄の鈴木は右翼手前に安打を放つ。三塁ベースコーチ滝内弥瑞生は本塁突入を指示したが、前進守備だった右翼手からの返球もあり、佐藤純一は三本間に挟まれ、捕手小山昭吉触球されて憤死。二死二塁となった。

ここで仰木彬監督はこの年での引退を決めていた梨田昌孝を代打に送る。一方のロッテは捕手を小山から袴田英利に交代した。一塁が空いており、敬遠も考えられる状況だったが、牛島は梨田との勝負を選んだ。ボールカウント1ボールからの2球目、梨田は中堅手前に落ちる安打を放つ。二塁走者の鈴木は三塁を回り本塁へ突入。中堅手からの返球が届き、クロスプレイとなるも、鈴木は本塁に滑り込んで生還、近鉄が勝ち越し点をあげた。生還した鈴木は両手を広げて飛び出した中西太ヘッドコーチの胸に飛び込み、二人は抱き合ったまま倒れ込んで喜んだ。梨田は、二塁ベース上でガッツポーズをした。冷静沈着な梨田としては珍しいガッツポーズだった[5]

9回裏、抑えの吉井理人が先頭打者袴田の代打丸山一仁への投球がボールと判定されたことを不服としてマウンドから駆け降り、球審に詰め寄った。結果丸山へは四球を与え、続く水上善雄の代打山本功児に対しても2ボールと0ストライクとなった。ここで仰木監督は吉井に代えてリリーフに、2日前の試合で9回完投し128球を投げていた阿波野秀幸を送った。阿波野は、一塁走者丸山の守備妨害などもあり二死一塁としたが、佐藤健一にこの試合4安打目となる二塁打を許し、続く愛甲も2ストライクと追い込みながらも死球を与え、二死満塁となった。

阿波野は次打者森田芳彦を三球三振に仕留めて[6]試合終了。終了時刻は18時21分で、試合時間は3時間21分。近鉄の勝利により、優勝の行方は130試合目である第2試合に持ち越されることとなった。また、ロッテはこの試合に敗れたことで対近鉄戦9連敗となった。

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ダブルヘッダー第2試合

第1試合終了から23分後の18時44分に第2試合が開始された。

出場選手

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試合内容

当時のパ・リーグは(9回で打ち切りとなるダブルヘッダー第1試合を除き)9回終了時点で同点の場合、最大12回までの延長戦を行うことになっていたが、「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了をもって打ち切り(ただし8回完了前に4時間を経過した場合は、9回終了まで続行)」という規定もなされていた。

試合はロッテが2回裏に先頭打者ビル・マドロックの本塁打で1点を先制。しかし、試合中度々ストライクの判定をめぐって仰木監督や中西ヘッドコーチがベンチから飛び出し抗議を行うなど、球場内に不穏な空気が漂いながら試合は進んでいった。愛甲によると、第2試合が始まった直後自打球を足に当てて動けなくなったロッテの選手に対し、仰木監督が聞こえよがしに「痛かったら代われば?」と声を掛けたのがロッテ側が憤激するきっかけとなったという[7]

ロッテ先発園川一美に5回まで2安打に抑えられていた近鉄は、6回表二死一・二塁からベン・オグリビーの適時打で同点に追いつく。続く7回表には、一死から吹石、二死から真喜志がいずれもソロ本塁打を放ち2点を勝ち越した。一方、ロッテも7回裏、先頭打者の岡部明一が本塁打。その後、近鉄は投手を先発高柳出己から吉井に代えたが、ロッテは二死から西村徳文の適時打で同点に追いついた。

8回表、近鉄は一死からブライアントがソロ本塁打を放ち4対3とし再びリードを奪った[注 4]

近鉄は8回裏から第1試合に続いて阿波野を起用した。しかし、一死から高沢秀昭が阿波野の決め球スクリューボールを捉えてソロ本塁打を放ち4対4の同点となった。打たれた阿波野はマウンド上で下を向いて膝に両手をついて体を支えていた状態で、その直後の試合展開の記憶がないという[8]。捕手の山下のサインはストレートであったが、阿波野自身はストレートの調子が良くないとこれを拒否していた。阿波野は「なぜ山下さんがサインを出してくれたストレートを……信じられなかったのか」と後悔したという。なお、高沢は後に「ストレートを待って右翼方向に打とうと準備していたところにスクリューボールがきて、バットがうまく返った」と述懐している[3]。9回表、近鉄は二死後、大石が二塁打を放ち二死二塁とした。次打者新井の打球は三塁線を襲うも三塁手水上の好守に阻まれ無得点。

9回裏、ロッテは先頭打者古川慎一が出塁。続く袴田の犠牲バントの打球を阿波野と梨田が一瞬譲り合い交錯、内野安打となり無死一・二塁となった。ここで阿波野は二塁へ牽制球を投じた。牽制球は高めに浮き、大石が三塁寄り方向にジャンプして捕球。その体勢のまま、二塁走者の古川と交錯しながら触球。二塁塁審の新屋晃は触球の際、古川の足が二塁ベースから離れていたとしてアウトを宣告。古川は新屋塁審に抗議し、ロッテ有藤通世監督もベンチを飛び出して「大石が古川を故意に押し出した」と走塁妨害を主張した[注 5]

この抗議の時点で試合時間は3時間30分を過ぎていた。近鉄ベンチから仰木が飛び出し有藤に迫り、客席からも罵声や怒号が飛び交うなど騒然とする中、有藤の抗議は9分間に及んだ[注 6]。仰木は、自著『燃えて勝つ』で有藤の抗議を「信義に悖るものだった」と振り返っている[4]。逆に有藤は2012年『週刊現代』のインタビューにおいて「第2試合の初回に第1試合で4安打した佐藤健一デッドボールをぶつけられたが、仰木監督が謝りもせず、もう休めと言った。これがきっかけで仰木監督の人間性を疑い、9回の抗議の伏線になった」と話している[9]。結局判定は覆らず一死一塁から試合再開となる。その後ロッテは西村の二塁打などで二死満塁としたが、愛甲が打った詰まった飛球を、左翼手淡口憲治が地面スレスレで好捕し、勝負は延長戦に突入した。

延長10回表、この回先頭のブライアントの二塁ゴロを捕った西村の送球を、ベースカバーの投手の関清和が後逸し出塁を許す。代走に安達俊也を送る。続くオグリビーは三振で一死。羽田耕一の打球を、二塁手の西村が補球。そのまま二塁を踏み、一塁へ送球、併殺打で三死となった。

西村のこの時のプレーについて、仰木は「西村が定位置で守っていたら羽田の打球は前に抜けていただろうが、西村が二塁ベースよりに守っていた」と振り返っている[4]。また、この試合のテレビ放送の実況を担当した安部憲幸は、西村から聞いた話として「西村は、西武よりできれば近鉄に優勝させたいという心境になり、羽田は右狙いだと読んで、予め二塁近くで守っていたが、結果として打球がそこに来たと言っている」旨を述べている(安部[10]

時刻は22時41分。試合開始から3時間57分が経過していた。残り3分で10回裏のロッテの攻撃を終わらせることは不可能であり、この時点で近鉄の優勝の可能性が事実上消滅し、西武の優勝が確実なものとなった。

しかし、優勝の可能性は消えても試合は続き、近鉄ナインは10回裏の守りに就いた。マウンドに上がった加藤は投球練習を省略し、少しでも試合を早く進めようとしたが、22時44分、西武の4年連続リーグ優勝が正式に決まる。先頭の丸山は四球、代走に伊藤が送られた。続くマドロックは捕邪飛に倒れた。次打者岡部に対して近鉄は投手を木下に交代、ロッテは代打に斉藤巧を送る。そして木下が斉藤と最後の打者古川を三振に討ち取り4-4の同点のまま22時56分、時間切れ引き分けで試合は終了した。仰木監督は最後までベンチ中央に仁王立ちして指揮を執った。「悲劇の10回裏」と称された。

試合終了後、仰木監督をはじめ、近鉄ナインはグラウンドに出て整列し、三塁側とレフトスタンドに陣取ったファンへ頭を下げ、挨拶を行った[4]。そのナインの姿に観客席で観戦していた上山善紀球団オーナー代行は立ち上がって拍手を送り[11]、ファンからは「よくやった」「ご苦労さん」などの温かい声がかけられた[12]。試合時間は4時間12分。第1試合の3時間21分との合計7時間33分は、ダブルヘッダーの試合時間としては、NPB史上歴代2位(当時)の長時間試合となった[13][14]

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  • 最終順位(西武と近鉄のゲーム差は0、西武が勝率差で優勝)[注 7]
  1. 西武 73勝51敗6分 勝率.589(.5887)
  2. 近鉄 74勝52敗4分 勝率.587(.5873)

最終順位は1位西武、2位近鉄。最終ゲーム差0.0、勝率差は僅かに.002(一厘未満四捨五入。正確には.0014)だった。監督就任1年目にして10.19を演出した仰木監督は「悔しいが、これだけの粘りを見せた集団と一緒にやれた幸せをしみじみと感じる」[15]「こんな立派な試合ができて、私自身も感動したし、ファンの方にも感動を与えることができたのでは。残念だけれど悔いはない」」[16]とコメントを残している。

近鉄関係者は、宿舎である東京都港区内のホテルに戻るときも裏方も含めて泣いており、祝勝会の準備が行われていたホテルの宴会場で、佐伯勇オーナーも顔を出して「残念会」を行った[4]。骨折で戦列を離れていた金村義明は「みんな、すみませんでした」と土下座して見せた[3]。またこの試合を最後に退団したオグリビーは、トイレで人目をはばかりながら涙を流していた[4]。仰木は10.19の時のチーム一体感について、自著『燃えて勝つ』でも振り返っている[4]。この試合に出場した近鉄の選手達が現役引退する際、「選手生活で一番印象に残る思い出は」という質問に対して、ほとんどの選手が「10.19のダブルヘッダー」と答えている[17]

この後、時間制限や引き分け制度への懐疑論が相次ぎ、パ・リーグでは4時間の時間制限が撤廃されている。セ・リーグは1990年から延長15回引き分け再試合制を導入したが、2001年から延長は12回として、引き分けを復活させた。その後、テンプレート:Byテンプレート:By東日本大震災による電力供給不足へ対応するための特別ルールとして、セ・パ共に時間制限が再導入されたことがあり、テンプレート:By以降も、今後の電力供給事情の変化によっては何らかの対策を検討することにされた[18]

球場の状況

ロッテは1978年に川崎球場を本拠地として以来、慢性的に観客動員数が伸び悩んでおり、この1988年も前年より観客動員数は増えているが12球団最下位であった[19]。球団は当時、1シーズン全試合有効の無料招待券(1枚につき、シーズン中任意の1試合に入場可)を近隣住民をはじめ多くの人々に大量に配布していた[20]

なお、当時、プロ野球の観客動員数の発表は実数によるものではなく、上記のような球団の公式発表による数値はあくまでも公称値である。特にロッテは当時、年間予約席(シーズンシート)の席数などを含めて「3,000人」などと公式発表するケースが多かった。

だが、この日は朝から無料招待券を持った客が大挙して川崎球場に詰め掛け、当初の予想に反して球場の定員を大幅に上回る人々が集まった。入場できなくなった人は球場に隣接する雑居ビル、マンション、アパート等の上の階に観戦場所を求めて集まり、右翼側場外にあるマンション「ハウスプラザ角倉」は階段や踊り場、さらには屋上までが人で一杯になったほどだった[20]。第一試合に近鉄が勝利したことでさらに過熱、満員札止めになった入場券売り場には入場できない人が殺到。

無料招待券で入れる自由席に入場制限がかけられ、さらに指定席は、普段観客の入らない川崎球場は、定員分の券を予め用意していなかった。また当時川崎には指定席の発券システムがなく、不足した分は窓口の係員が座席表を確認しながらゴム印で席番を打った後観客に手渡すという手作業で行われていたため、チケットを求めて集まった観客の列に発券がいよいよ追いつかなくなった。指定席にはまだ余裕があった時点で混乱を避けるため急遽席番無しの立ち見券を発行するという異例の対応を実施した。さらには「大人用」の台紙を使い切ってしまったため、「小人用」の台紙の「小人」の表記をペンで消去して使いまわすなど、係員は終始発券の対応に追われた[20]。それでもチケットを求めるファンが球場敷地外まで長蛇の列を作る状況を捌ききれず、第1試合開始の15時前にはチケットは売り切れになった[21]

さらに売店は、当時の川崎球場は施設そのものの老朽化が進んでいた上に普段から観客数が少なかったことから設置数が元々少なく、全ての売店がメインスタンドのネット裏周辺のみに集中して設けられており、外野スタンドには物販スペースが一切設けられていなかった。また売り子による巡回販売も行われていなかったため、観客は自ら売店へ足を運ぶ必要があった。そのため、1階スタンド下の売店と場外のうどん店・ラーメン店・お好み焼き店や自動販売機には場内の観客が次々と詰め掛けて長蛇の列をつくった。更に第1試合と第2試合の間のインターバルが夕食の時間とほぼ重なったため、第2試合が始まる頃にはほとんどの食べ物、飲み物が売り切れ、食事をとるのに支障が出てしまった[20]

また当時の川崎球場のトイレは全て男女共用で、実際に女性が利用できる場所はネット裏1階の実質1箇所のみであった(川崎球場の項目も参照)。

この日の川崎球場には「本日仰木胴上げ日」という横断幕を掲げて応援するファンもいた[21]。観客の9割近くが各地から動員された近鉄ファンなど近鉄を応援する人々であった。また、ホーム側の応援席にはロッテの勝利を願う西武ファンもいたため、本来のロッテファンが占める割合はさらに少なかったことになる。

テレビ中継

  • 第1試合
実況:西野義和朝日放送) 解説:岡本伊三美(当時朝日放送解説者、前近鉄監督)
  • 第2試合
実況:安部憲幸(朝日放送) 解説:小川亨(当時朝日放送解説者、元近鉄選手)
※ベンチリポーターは2試合とも戸石伸泰が担当、制作クレジットは協力:テレビ朝日 製作:朝日放送と表示された。

結果を待つ西武

監督の森祇晶は、10月17日には近鉄が敗れた時点で近鉄が残り3試合に全勝しない限り西武の優勝が決まる状態の時は平静な心境であったが、翌18日に近鉄がロッテに大勝する。ここに至って、森は近鉄に10月だけで7敗目のロッテのあまりの不甲斐なさに呆然とし、動揺が生まれたという[22]

結果待ちとなった西武は当日、西武ライオンズ球場・1塁側内野席を無料開放し、スコアボードの大型映像装置でロッテ対近鉄戦を生中継した(現在でいうパブリックビューイング)。監督以下選手たちも西武球場に待機していた[5]

第1試合の7回裏、ロッテが2点リードすると選手たちはユニフォームに着替え、胴上げのためベンチ入りした。しかし、森は事が決まるまではとユニフォームを着ることを拒んだ。第1試合が近鉄の勝利となって第2試合が始まる頃、森は試合に一喜一憂するより、来季に向けた話し合いをした方が気が休まるとして、秋季キャンプの会議を始めた。だが会議後、内野守備走塁コーチの伊原春樹は精神的苦痛のためか、一旦帰宅したといい、森は球場の駐車場に停めてあった自分の車に乗り込み、ラジオで試合の行方に耳を傾けていた。延長10回裏、西武の優勝が確実になった状況で、新聞記者たちが集まってきたのに対して森は、「まだロッテの攻撃時間がある」と押しとどめ、「ロッテよ、攻撃に時間をかけてくれ」と祈り、後に自著で「待つ身の辛さ」を振り返っている[23]

22時44分、正式に西武の優勝が決まると森は、西武球場に集まった数百人のファンの前で、選手たちに胴上げされた。森は「首位のつらさ学んだ」[15]「近鉄の壮絶な戦いに身ぶるいするほどの感動を覚えた、この世界に生きる人間として頭が下がる」[24]とコメントしている。

1988年の日本シリーズ中日ドラゴンズと対戦して日本選手権を制したが、その時に清原和博のコメント「これで近鉄に顔向けができる」を、仰木が聞いて、自著『燃えて勝つ』でも、「パ・リーグの繁栄につながる視点」「感激」などとして書いている[25]

中日、および日本シリーズを控える側の反応

この年のセ・リーグ優勝チーム、中日ドラゴンズ監督の星野仙一は、「選手たちも(1982年の日本シリーズで負けた)西武とやりたいと言っていた」「横綱に胸借りる」などのコメントを出した[15]

シリーズに備えて合宿中の同球団は、選手たちは宿舎でテレビ中継を見ていて、この日は夕食後のミーティングも行われなかったという[26]

パ・リーグの優勝決定はこの近鉄の最終戦までもつれたが、西武・近鉄両球団とも日本シリーズの前売入場券の台紙を予め作成していた。またナゴヤ球場開催分の入場券は、対戦カードを「中日 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」と表記した(日本シリーズのチケットは、原則として全てシリーズ開始前に発売される)。

ベースボール・マガジン社は、日本シリーズの公式プログラムを長年作成しているが、パ・リーグの優勝決定がもつれたため、「西武優勝版」と「近鉄優勝版」の2種類を予め作成。また同社出版の雑誌「週刊ベースボール」などでも同じ対応をおこなった。

テレビ朝日での中継

テレビ朝日系列である大阪府朝日放送(以下ABC)がロッテから2試合のテレビ中継権を取得し、ABCは第1試合開始の15時から完全中継を行った。[27]福岡県九州朝日放送(KBC)と、宮城県東日本放送(KHB)も、ABCの中継を第1試合からネットした。

一方で関東地方では当初この試合の中継予定は無く、ABCの中継に技術協力を行ったテレビ朝日は『パオパオチャンネル』『ニュースシャトル』内で随時川崎球場からの中継を差し込んで放送。一方で少しずつ試合中継を放送するうちに「もっと見たい」「(プロ野球の)中継を続けてくれ」と視聴者からの電話が殺到した。

並行してテレビ朝日編成局は20時以降の試合中継の実施について協議を行う。20時からの『ビートたけしのスポーツ大将』と、21時からの『さすらい刑事旅情編』の差し替えが検討され「局内どこへいっても、みな、裏送りのロッテ-近鉄戦をみている」と差し替えを主張するものもいたが、差し替えはせずに21時から10分間だけ中継を行い、『さすらい刑事』は10分遅れでスタートとした[注 8]。「10分遅れ」にはニュースステーションからのクレームもあったものの、スポンサーや系列局への折衝も済ませ、第2試合途中の21時から全国放送に踏み切った[28][1]

しかし10分で切り上げる予定だった中継は15分、30分と時間延長をかさね、21時30分を前にして『さすらい刑事』を中止して22時までの延長を決定。結果として21時台はCMなしの中継が続き、スポンサーぬきの“自主番組”となった。

さらに、22時から開始の『ニュースステーション』(以下『Nステ』)でもメインキャスターの久米宏が番組冒頭から「今日はお伝えしなければならないニュースが山ほどあるのですが、このまま野球中継を続けます」「伝えなければならないニュースもあるし、誰か助けてください」の一言と共に当初予定していた放送内容を全て飛ばして中継を続けた。『Nステ』開始の22時の時点で試合は3時間16分を経過、9回表、近鉄の攻撃中であった[21]

この日の『Nステ』では「ブラックマンデー」から1年が経過したことからウォール街からの中継を予定していたがこの日は中止となり、主なニュースは攻守交代の時間を縫って放送した。[28]

阪急身売り発表とマスコミの対応

この日の夕方、阪急ブレーブスがオリエント・リース(翌年4月、社名をオリックスに変更)に売却されることが発表された。この日のスポーツマスコミは「10.19」の行われていた川崎球場からも各社の遊軍記者が大阪に向かうなど「阪急身売り」の対応に追われた[1]

阪急はこの発表の記者会見で、「パ・リーグの優勝決定の日に」ということを詫びる趣旨の発言をした[29]ものの、近鉄優勝争いに話題が集中していた10.19の数日前、阪急の取材を行っていた日刊スポーツ大阪本社の人物に対し、阪急球団幹部が「こっちもドカンと行ったるわい」と発言していたという[21]

新聞社では「阪急身売り」の内容が夕刊紙には間に合わず、号外を出して対応した。

この日ダブルヘッダーを戦っていた近鉄ベンチにも第1試合と第2試合の間の頃に、伝わったという[4][3]

なお、この年阪急と南海が売却された事によって、パ・リーグ創設の1950年以来経営母体を一度も変更していなかった球団は、近鉄のみとなった。 テンプレート:Main


翌年の10.12

ベースボールマガジン社『プロ野球70年史』は、1989年のパ・リーグを「10・19の雪辱果たして…」としている[30]

9月までの概要

1989年のパ・リーグペナントレースは、オリックスが開幕8連勝と開幕ダッシュに成功し、6月末時点で2位近鉄に最大8.5ゲーム差をつけた。ここから近鉄が猛追、7月を14勝6敗1分けで大きく勝ち越しオリックスを捉え、8月に首位にたつと一時は2位に4ゲーム差をつけた。しかし、その後足踏みし西武、オリックスに差を縮められる。西武は序盤最下位に低迷したが、6月オレステス・デストラーデの加入で勢いを取り戻し、8月は16勝7敗1分、9月は15勝6敗と猛追、オリックス、近鉄に追いつき9月15日には首位にたつが、近鉄、オリックス、西武ともに混戦から抜け出せないまま10月を迎える。この年近鉄・オリックス・西武は「熱パ三強」と呼ばれた。9月29日の時点で首位西武と2位オリックスは2.5ゲーム差、西武と3位近鉄とは3.5ゲーム差の状態だった。

10月

9月30日10月1日西武ライオンズ球場での西武対オリックス2連戦は、4-5、5-10でオリックスが連勝しゲーム差を0.5ゲームに縮めた。10月1日の試合後オリックス・上田利治監督は「これで面白くなるぞ」と記者団へコメント[31]

10月3日から、藤井寺球場での近鉄対オリックス最終4連戦。3日は3-0、阿波野秀幸完封で近鉄が勝利。10月4日は8-11でオリックスが勝利。

10月5日は4-5でオリックスが勝利。首位オリックスに3ゲーム差となり、自力優勝が消滅した近鉄は、同日、球団創立以来のオーナー佐伯勇が逝去、チームには試合終了後に知らされた[32]。一方の西武はダイエー戦で、3回までに8-0とリードするが、9回表に一挙8点(このときのダイエー8人連続得点は当時の日本記録)を失い、12-13で敗北、監督であった森は退任後の自著で5日の逆転負けが後記する10.12の連敗以上に痛かったと書いている[33][34]

10月6日の近鉄対オリックス戦は、10回裏、ハーマン・リベラサヨナラ3ラン本塁打により5-2で近鉄が勝利。リベラは「このホームランを、妻とおなかの中の子と、きのう亡くなった佐伯オーナーにささげる」とコメントした[35]

近鉄は、日本ハムに、10月7日は4-3で、10月8日は4-0で連勝。8日は近鉄・阿波野と日本ハム・西崎幸広の初の先発直接対決となった。

10月9日、ゲーム差無しで迎えた西武対オリックス最終戦は11-2で西武が勝利。近鉄はロッテに6-7で敗れたため、近鉄は残された西武との4試合のうち2敗を喫した時点で優勝が消滅するという状況に追い詰められた。

10月9日の段階で首位西武と2位オリックスは1ゲーム差、西武と3位近鉄とは2ゲーム差の状態で、10月10日からの西武球場での西武対近鉄直接対決3連戦を、オリックスは川崎球場でのロッテとの4連戦を迎えた。

10月10日、西武対近鉄戦。西武が敗れオリックスがロッテに勝利すれば、オリックスにマジック4が点灯する状況だった。試合は西武先発渡辺久信と近鉄先発山崎慎太郎の緊迫した投手戦となったが、8回表、リベラの勝ち越しソロ本塁打により3-2で近鉄が勝利した。山崎は「負けたら終わりなんだと思えば自然と力が抜けて気負いが無くなった」とコメント[36]。 また、オリックスは4-17でロッテに敗戦。この日近鉄の自力優勝が復活した。

10月11日は雨のため、西武対近鉄戦、ロッテ対オリックス戦共に試合中止、両試合とも急遽翌日にダブルヘッダーが組まれた。その2組のダブルヘッダーで、西武が連勝し、オリックスが1引き分け、また西武が1勝1分の場合は、オリックスの1敗または2分で西武の優勝決定という状況であった[37][38]

10月12日

この日について、第2試合に先発登板した阿波野は、10.19でも負けていないことからダブルヘッダーと決まった時点で「よーし」となったと振り返っている[39]。一方、監督の仰木は、最終戦となる西武戦まで考えて「最悪でも一つ勝つ」と考えていた一方で、「パ・リーグはすごいんだぞ、という舞台づくりを念じていたことが現実になった」と思ったという[40]

第1試合は、近鉄は、ラルフ・ブライアントが西武先発郭泰源から、0-4の4回表にソロ、6回表に同点に追い付く満塁本塁打を放つ。そして5-5で迎えた8回表、再びブライアントに打席が回り、西武・森監督は、ブライアントをこの年14打席8三振、また来日以来被本塁打0に押さえ込んでいた渡辺久信を登板させた。しかし、ブライアントは1ボール2ストライクから、内角高めの速球を右翼スタンド最上段にソロ本塁打を放ち勝ち越し。打たれた渡辺はマウンド上で膝をついてしゃがみこんだ[41][42]。第1試合は6-5で近鉄が勝利。ブライアントは自ら、この時点で「アンビリーバブル」と叫んでいた[43][30]

続く第2試合は、2-2の3回表、ブライアントが西武先発高山郁夫から均衡を破るソロ本塁打を放つと、西武の戦意が失われたかのように近鉄ペースで試合が進み[40]、14-4で西武に連勝した。ブライアントは第2試合のソロ本塁打で4打数連続本塁打(1回表は敬遠四球)を達成[43]。「奇跡の4連発」と語り継がれている[41]。オリックスはロッテとのダブルヘッダーを10-2、14-2と連勝した。

10月12日終了時、首位は近鉄、ゲーム差なしでオリックスが続き西武は1ゲーム差の3位に後退した。この日近鉄にマジック2が点灯、オリックスと西武の自力優勝が消えた。

「まさかの」連敗で優勝が一転困難になった西武の森監督は、第2試合終了後なかなか報道陣の前に姿を現そうとしなかった[44]。そして「これで絶望的になった、ということだな」とコメント[45]。また、第1試合で決勝本塁打を打たれた渡辺は、降板して引き上げるところを追いかけて来た森監督から「なぜフォークボールを…」と叫ぶように言われたことから、監督としてのショックの大きさへの理解を前提に、後に指導者になった時に「結果だけを見て(選手に)話すことは絶対にしない」こととしたという。なお、この渡辺の配球は、ブライアントから三振をとるには高めの速球が有効というデータに基づいたという[42]。一方、郭が満塁本塁打を打たれたのも高めの速球で、『プロ野球70年史』はこうした投球を「魅入られたように」と表現している[30]

この3連戦では、当時“猛牛キラー”と称された西武のドラフト1位ルーキー・渡辺智男は登板しなかった。10月9日の対オリックス戦に先発して8回1/3を投げて勝利投手になった渡辺智は、前年10月に受けた右肘の軟骨除去手術との関係で登板間隔を考慮する必要があった。優勝(順位)争いも、15日の近鉄対西武最終戦まで続く可能性があった。なお、この最終戦に先発した渡辺智は、延長12回を完投して5-6で勝利投手となった。

<ダブルヘッダー第1試合>

西武―近鉄24回戦 開始14時30分 西武13勝11敗 観衆32,000人 テンプレート:Linescore

<ダブルヘッダー第2試合>

西武―近鉄25回戦 開始18時11分 西武13勝12敗 観衆50,000人 テンプレート:Linescore

この3連戦は10月10日(テレビ朝日・放送時間19:00 - 21:48)と10月12日の第2試合(フジテレビ・(放送時間19:00 - 20:54)が全国ネットでテレビ中継され、12日の第1試合も関東ローカルではあったが、フジテレビが録画ハイライトと生中継を混ぜて担当した(放送時間16:00 - 18:00)。12日の試合はテレビ埼玉でも(第1試合開始の14:30から)生中継した。同試合に順延となった11日は本来TBS(全国ネット・放送時間19:00 - 20:54)の担当予定だったが、委譲された。なお、川崎球場のロッテ対オリックス戦もテレビ神奈川を中心に第1、第2試合共に生中継されている。

12日のダブルヘッダーの視聴率について報ずるスポーツニッポンの記事では、ビデオリサーチ社発表によると第1試合10.2%、第2試合21.9%であったということなどについて、終盤の優勝争いの放送に向けての実績づくりのために1990年当初はパ・リーグの中継が多くなることの可能性に言及している[46]

近鉄の優勝へ

10月13日、川崎球場でのロッテ対オリックス最終戦。オリックスはロッテ先発園川一美から3点を先取するが、先発佐藤義則が5回裏、愛甲猛に3ラン本塁打を打たれ逆転。8回表一死から登板の伊良部秀輝に反撃を封じられ、オリックスは5-3で敗戦。近鉄のマジックは1になった。この試合はTBSテレビが19:30 - 20:54の時間帯で全国中継を行った。この試合の勝利投手となった園川は先述のとおり「10.19」の第2試合の先発だったもので、コメントは「敵役は慣れているもの」だった[47]。この日試合のなかった近鉄監督の仰木は、「園川」に因縁を感じたという[48]

10月14日藤井寺球場での近鉄対福岡ダイエーホークス戦。近鉄は1回裏に鈴木貴久犠牲フライで1点を先制、4回裏に山下和彦新井宏昌の適時打による3点、5回裏にリベラのソロ本塁打で、計5点を挙げた。中1日で先発して6回まで無失点の加藤哲郎が7回表に1点を返され一死一・二塁となったところで、仰木監督は投手をこれも中1日の阿波野に交代。スタンドからは阿波野コールが沸き起こり[49]、阿波野は後続を断った。8回表は1点を返され、なおも一死一・二塁のピンチだったが、岸川勝也の投手強襲の打球を阿波野が好捕、一塁に送球し併殺に切り抜けた。

9回表は、鈴木が山本和範の右中間大飛球をフェンスに激突しながら好捕。続いて二塁手大石大二郎藤本博史のイレギュラーバウンドした打球をジャンピングキャッチと連続ファインプレーで二死(阿波野は後年「みんな研ぎ澄まされた状態に」と表現している)[39]。続く伊藤寿文に対しての阿波野は、「10.19」第2試合で打たれた本塁打を意識し、速球を投げ続けて三振に打ち取り、近鉄が5-2で勝って試合終了[3]。近鉄はオリックスをゲーム差なしの勝率1厘差で上回り、9年ぶり3度目のリーグ優勝を果たした。

近鉄と1989年の日本シリーズを戦うこととなった読売ジャイアンツの監督の藤田元司監督は報道陣に近鉄の優勝について質問が及ぶと、まれに見る3球団混戦を勝ち抜いたことへの敬意を示し[50]、近鉄とは初めての日本シリーズとなることについて聞かれると(近鉄は)投手陣、打撃陣共にすばらしいものがある。手ごわい相手だが胸を借りるつもりでいくと述べた[51]

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この試合はレギュラー番組[注 9]を休止して、当日19:00からABCテレビを制作局としてANN系列で生中継され(ただし青森放送山形放送山口放送テレビ大分など当時のNNN系列とのクロスネット局を除く)、29.5%(ビデオリサーチ、関東地区)の高視聴率を獲得した。実況はABCの太田元治が担当し、前年10.19の第2試合を実況した安部憲幸は近鉄ベンチレポートを担当した。ANN系列は、前年に引き続き、近鉄が勝てば優勝決定という試合を全国ネットで放送したこととなった。

  • 最終順位(近鉄とオリックスのゲーム差は0、近鉄が優勝)
  1. 近鉄    71勝54敗5分 勝率.568
  2. オリックス 72勝55敗3分 勝率.567
  3. 西武    69勝53敗8分 勝率.566

#参考文献のうち、仰木『燃えて勝つ』では、2年続きの激しい優勝争いについて「日本人の持つ情の部分へ強く訴えるものがあったのだろう」と仰木自身の思いが書かれ(130頁)、同書や森『覇道』の、本項目で引用される部分には、勝敗数・順位の推移など僅差の優勝争いへの意識を示す記述が多数見られる。

脚注

注釈

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出典

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参考文献

  • 佐野正幸 『1988年『10・19』の真実―平成のパリーグを変えた日』 新風舎、1999年5月、205ページ、ISBN 4-7974-0930-4
  • 仰木彬『燃えて勝つ』学習研究社、1990年3月、241ページ、ISBN 978-4051045821
  • 森祇晶 『覇道―心に刃をのせて』 ベースボール・マガジン社、1996年2月、283ページ、ISBN 4-583-03277-3
  • FLASH第980号「生きる伝説「10・19」19年目の真実」 光文社、2007年10月
  • 「“10・19” 起きなかった暴動」(『プロ野球乱闘読本』所収) オークラ出版、2008年4月
  • 『日本野球25人 私のベストゲーム』 文藝春秋、2008年8月、(ブライアントP.108 -、阿波野P.200 -)、ISBN 9784167713263
  • (ビデオソフト)「最終戦 10.19 川崎球場~優勝を賭けた近鉄の死闘7時間33分」 朝日放送文藝春秋 Sports Graphic Number Video、ISBN 4-16-911044-7
  • (DVD)「10.19 近鉄バファローズの悲劇~伝説の7時間33分~」 朝日放送 

関連項目

外部リンク


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  1. 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite book548頁-551頁 1988年10月19日を日本プロ野球史上「最も熱い1日」と形容している。
  2. 「最高の試合」「名場面・名勝負」監督、選手らが選ぶ記憶に残る試合 日本野球機構特別ウェブページ「ここに、世界一がある。」
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 Sports Graphic Number 790 35頁-39頁
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 仰木『燃えて勝つ』 22頁-33頁
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  6. 『古今東西ベースボール伝説』 ベースボールマガジン社 23頁
  7. 愛甲猛『球界の野良犬』ISBN 978-4796671903、115p-116p
  8. #外部リンク)阿波野秀幸「ホームランの後の記憶がないんです」
  9. テンプレート:Cite journal
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  43. 43.0 43.1 “続10・19”!ブライアント、獅子の息の根止める4連発!、日本経済新聞1989年10月13日p.33『ブライアント爆発 4発7打点』など
  44. 日本経済新聞1989年10月13日p.33
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  48. 仰木『燃えて勝つ』116頁
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