羽田耕一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox baseball player 羽田 耕一(はだ こういち、1953年6月19日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物

三田学園高校では2年生の時、遊撃手として1970年春の選抜に出場。1年先輩の淡口憲治クリーンナップを組み準々決勝に進出するが、鳴門に敗れる。同年夏の甲子園県予選では準決勝で滝川に、翌年夏の県予選では準々決勝で津名に敗退。高校同期に中西弘明がいる。ちなみに2年先輩には山本功児がいた。

1971年ドラフト4位で、近鉄バファローズに入団。同期入団組に佐々木恭介梨田昌孝平野光泰らがいる。また同世代のチームメイトとして梨田の他、吹石徳一藤瀬史朗がいる。

入団2年目の1973年から三塁手レギュラーポジションを獲得。この年は12本塁打を放つなど、パンチ力のある打撃で売り出す。1974年就任した西本幸雄監督の若手育成、抜擢に応え、1975年からは移籍した主砲土井正博の後を受けて、背番号3をつけた。1977年には22本塁打、75打点で、チーム二冠の成績。1979年も13本塁打[1]1980年には自己最多の30本塁打・80打点を上げそれぞれチームのリーグ優勝に貢献した。1982年には22本塁打(栗橋茂と同数)、自己最多の85打点と再びチーム二冠の成績を上げ、永く中心選手として活躍した。

しかし、1986年から金村義明の台頭により控えに回るようになり、1988年の伝説の「10.19」では、ダブルヘッダー第2試合の10回表、一死1塁の場面で登場。この回に勝ち越さないと近鉄は優勝を逃すというシーンに、羽田は併殺打に倒れてしまう。1989年のリーグ優勝を機に現役引退。

引退後は、一軍・二軍打撃コーチ、フロントでの編成担当などを務めたが、球団合併に伴い、2005年からはオリックス・バファローズ大阪営業部に在籍し、少年野球教室「オリックス・ベースボール・アカデミー」校長も務める。2006年から2013年現在に至るまでNPB12球団ジュニアトーナメントでオリックス・ジュニアの監督を務め、2007年の大会では優勝に導いた。

2009年6月3日には京セラドーム大阪にて『サラリーマンノック』のノッカーに選ばれる。午後11時という遅い時間からの開始にも関わらず集まった約50人のサラリーマンに対し、熱烈なるノックで応えた。

羽田殴打事件

  • 本人はいたって大人しい性格であったが、そのため伸び悩んでいると見た西本幸雄1974年から1981年まで近鉄監督)によるいわゆる「羽田殴打事件(球団広報誌「近鉄バファローズニュース」1995年9月号では「ポカリ事件」と記載)」が1975年後期に発生している。阪急ブレーブスとの対戦中、阪急の投手山口高志を攻めあぐねていたため、西本監督はナインに初球には手を出さないよう指示した。ところがその回の先頭打者だった羽田は、西本監督が指示を出していた円陣に加わらずに打席に立っていたため、指示を知らずに初球に手を出してしまい空振り、結局その打席では打ち取られてしまった。これに怒った西本監督は、その場で羽田を殴打した。このシーンには近鉄のみならず阪急の選手も一瞬動きを止めてしまったという。指示を直接聞いていない羽田を西本が殴打するのは不条理な面もあるが、西本からしてみれば羽田のふがいなさもさることながら羽田を育てきれていなかった自分への怒りが込められており、羽田も西本の自分に対する期待を切に感じていたことから、西本に反抗することなく殴打を甘んじて受けたシーンであった。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 近鉄 104 391 371 29 89 17 1 12 144 34 3 2 1 2 13 0 4 59 8 .240 .273 .388 .661
テンプレート:By2 130 541 501 54 124 12 0 14 178 55 9 3 3 6 29 1 2 68 22 .248 .291 .355 .647
テンプレート:By2 126 483 448 47 99 9 0 15 153 46 12 4 3 2 25 0 5 66 16 .221 .270 .342 .611
テンプレート:By2 125 393 359 35 87 9 2 6 118 39 7 3 7 2 23 0 2 48 11 .242 .292 .329 .620
テンプレート:By2 130 535 498 62 132 16 1 22 216 75 9 4 3 5 28 1 1 75 14 .265 .306 .434 .739
テンプレート:By2 130 463 419 41 100 8 4 9 143 47 8 6 3 8 32 0 1 70 10 .239 .294 .341 .636
テンプレート:By2 119 405 351 56 96 13 3 13 154 49 11 2 4 5 42 1 3 46 7 .274 .356 .439 .795
テンプレート:By2 115 446 401 71 109 13 1 30 214 80 6 2 3 4 38 2 0 52 7 .272 .335 .534 .869
テンプレート:By2 107 342 304 39 71 6 1 17 130 39 3 2 1 3 34 0 0 47 9 .234 .311 .428 .738
テンプレート:By2 123 500 430 69 119 18 2 22 207 85 9 5 1 5 62 1 2 62 11 .277 .370 .481 .852
テンプレート:By2 123 476 414 61 110 22 2 14 178 66 6 0 3 7 51 1 1 78 16 .266 .348 .430 .778
テンプレート:By2 115 444 393 55 107 13 1 16 170 50 8 4 4 2 42 0 3 42 7 .272 .347 .433 .780
テンプレート:By2 114 450 399 64 106 14 0 18 174 62 2 1 4 5 41 0 1 56 15 .266 .332 .436 .768
テンプレート:By2 90 213 192 30 42 9 0 8 75 34 3 0 1 2 15 0 3 31 4 .219 .283 .391 .674
テンプレート:By2 74 156 147 11 31 6 2 4 53 17 0 1 1 1 6 0 1 24 2 .211 .245 .361 .606
テンプレート:By2 72 165 156 17 42 9 0 4 63 17 1 0 0 1 8 1 0 21 6 .269 .303 .404 .707
テンプレート:By2 77 181 156 20 40 9 2 1 56 17 1 1 0 2 23 0 0 31 3 .256 .348 .359 .707
通算:17年 1874 6584 5939 761 1504 203 22 225 2426 812 98 40 42 62 512 8 29 876 168 .253 .313 .408 .721
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1980年6月12日、対西武ライオンズ前期11回戦(西武ライオンズ球場)、5回表に山下律夫から左越2ラン ※史上111人目
  • 1000試合出場:1981年5月2日、対西武ライオンズ前期4回戦(日生球場)、7番・三塁手として先発出場 ※史上221人目
  • 150本塁打:1982年8月15日、対日本ハムファイターズ後期8回戦(平和台球場)、4回裏に川原昭二から左中間へ2ラン ※史上68人目
  • 1000本安打:1982年9月4日、対南海ホークス後期11回戦(大阪球場)、5回表に山内和宏から中前安打 ※史上126人目
  • 200本塁打:1985年8月23日、対阪急ブレーブス17回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に山沖之彦から2ラン ※史上47人目
  • 1500試合出場:1985年9月17日、対南海ホークス24回戦(大阪球場)、3番・三塁手として先発出場 ※史上80人目
  • 1500本安打:1989年8月5日、対西武ライオンズ15回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に山根和夫から中前安打 ※史上57人目
その他の記録
  • 4打数連続本塁打:1974年4月29日(対阪急戦)~5月1日(対太平洋戦)の2試合で達成 ※日本タイ記録
  • オールスターゲーム出場:3回 (1974年、1982年、1983年。後の2回はファン投票選出)

背番号

  • 30 (1972年 - 1974年)
  • 3 (1975年 - 1989年)
  • 84 (1990年 - 1999年)
  • 71 (2000年、2004年)
  • この他、2005年以降、球団職員としてのイベント参加時にオリックスのユニフォームを着用した際の背番号は136 だが、正式登録ではない。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:パシフィック・リーグ ゴールデングラブ (三塁手)

テンプレート:近鉄バファローズ1971年ドラフト指名選手
  1. チームが初めてリーグ優勝を果たした1979年広島東洋カープとの日本シリーズでは、最終戦の名場面「江夏の21球」に先頭打者として登場して江夏豊の1球目をヒット、ドラマのきっかけを作った。ストライクを取りにいった甘いボール、江夏は「あの場面、あの状況で、初球を打つか?」と回顧している。