大石大二郎
テンプレート:Infobox baseball player 大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督、野球指導者、野球解説者、野球評論家。テンプレート:Byからテンプレート:Byまでの登録名は、大石 第二朗(読みは同じ)。
目次
経歴
アマチュア時代
静岡県静岡市(現在の同市駿河区)で、鮮魚の小売・仕出し業を営む家庭に生まれた[1]。中学校では2学年上の兄が野球部主将を務めており、同じ部となる事を嫌がられたため当初は柔道部に入ったが、1年生の6月に野球部に移り本格的な野球を始めている[1]。
高校も兄と同じ静岡商業高校に進み、部員50人を超す大所帯で1年生の夏からベンチ入り。1974年夏の選手権に出場し、大石本人の出場機会はなかったものの、3年生のエース高橋三千丈の力投もありベスト8進出。翌年は1番打者として春の選抜に出場し、ベスト8進出に貢献している。3年生時には同級生で後にプロとなる久保寺雄二が遊撃手を務め、自身は3番・三塁手となりチームは県予選で本命視されていた。しかし一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、チームは夏の県大会に出場できなかった[1]。
高校卒業後は競輪選手になる事を考えていたが、父親の勧めで亜細亜大学に進学[2]。テンプレート:Byの3年次の春季リーグ戦では17盗塁をマークし、当時の東都大学リーグ新記録を樹立した[3]。大学4年間では通算91試合出場、344打数99安打、打率.288、4本塁打、25打点、44盗塁を記録している。また、ベストナインには2回選出されている。大学卒業後は今度こそ競輪選手になるつもりだった[4]が、1980年のドラフト会議で近鉄バファローズに2位で指名され、野球部監督の矢野祐弘の勧めもあり近鉄に入団した。
プロ野球選手時代
1年目のテンプレート:Byは代走や守備固めの出場が多く、77試合の出場で打数はわずか19だった。同年は西本幸雄の監督最終年で、無我夢中のまま厳しい練習で鍛えられた[2]。翌テンプレート:Byはオープン戦で負傷した二塁手のビクター・ハリスが外野手にコンバートされると、オープン戦で3割以上の高打率を記録して二塁手のレギュラーとなる[2]。同年はレギュラーシーズンで打率.274、12本塁打、47盗塁の成績を残し、新人王とダイヤモンドグラブ賞を獲得した。
3年目のテンプレート:Byは60盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、福本豊の連続盗塁王記録を13年で止めた。同年から1番・二塁手に定着し、2年連続のダイヤモンドグラブ賞に加えてベストナインにも選出された。翌テンプレート:Byも盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞、ベストナインを獲得し、パ・リーグを代表する二塁手となっていった。1984年のオールスターゲーム第3戦ではそれまで8連続奪三振を続けていた江川卓と対戦してセカンドゴロを打ち、江夏豊に並ぶ9連続奪三振の記録を阻止した。
テンプレート:Byには3回目の盗塁王を獲得したが、この頃から右肩痛が続いた。このためテンプレート:Byは10.19の後の11月に大阪厚生年金病院で右肩の手術を行い、12月8日には都ホテル大阪で結婚式を挙げている[5]。テンプレート:Byは年明けから夫人も帯同してハワイやサイパンでリハビリに取り組み、その後もチームのキャンプには参加せず石川県小松市の温泉で単独トレーニングを行った。8月3日の対オリックス戦で右ふくらはぎの肉離れが起きるなど、同年は出場が109試合に減少したものの、打率.277などトップバッターとしてまずまずの働き[6]でチームの優勝に貢献した。現役時代の出来事では、この優勝と前年の10.19が最も思い出に残っているという[7]。なお、同年の日本シリーズ初戦では、斎藤雅樹からシリーズ史上唯一の第1戦初回先頭打者本塁打を放っている。しかし、その後は打撃が湿り、当時シリーズワーストとなる21打数連続無安打という記録も残している。この記録は2011年の日本シリーズで中日の谷繁元信が更新したが、奇しくもその瞬間を相手チームのコーチという立場で大石自身も目の当たりにすることとなった。
テンプレート:Byには肩が完全に回復してキャンプから順調な調整を見せ、6月26日の対ロッテ戦では伊良部秀輝からサヨナラ満塁本塁打を放っている[7]。同年はリーグ2位となる打率.314、20本塁打という好成績を収めた。テンプレート:Byで新井宏昌が引退すると、山本和範が加入するテンプレート:Byまでの間、チームの最年長選手となっている。また、同年の契約更改で年俸が1,300万円増の1億500万円(推定)となり、近鉄史上初の日本人の1億円プレイヤーとなった[8]。35歳となるテンプレート:Byには6年ぶりとなる盗塁王を獲得し、同タイトルの最年長記録に並んだ[9]。テンプレート:By頃からは準レギュラーとなり、「40歳までの現役と2000本安打の達成」を目標として掲げていた[10]。しかし39歳となるテンプレート:By夏からは監督の佐々木恭介に起用される機会が急減し、9月には球団からも引退を勧められる雰囲気となった[10]。このような球団の姿勢をあっさり受け入れ、同年限りで現役を引退している。[11]
解説者・コーチ時代
引退後は近鉄から二軍守備・走塁コーチへの就任を打診されたが固辞、関西テレビ・フジテレビ野球解説者、日刊スポーツ野球評論家となった[12]。テンプレート:Byから近鉄の守備走塁コーチに就任。キャンプではスライディング練習にビデオを導入して選手とともにプレーを確認し、個々人の塁間走タイムやセーフティーリードの幅を計測して走塁の具体的なイメージを明確にさせた[13]。3月28日の開幕戦の初回からタフィ・ローズがノーサインで盗塁を成功させるなど、同年はチームの盗塁が大きく増えている。
テンプレート:Byに近鉄が球団統合されると、二軍のサーパスの総合チーフコーチに就任した。さらに監督の加藤英司が腰痛のため休養すると監督代行となり、翌テンプレート:Byにはサーパス監督に就任している。一軍監督の中村勝広とはキャンプ中から二日に一度は電話するなど密に連絡を取り合い、キャンプでは自身やスカウトも打撃投手を務めるなど精力的な指導を行った[14]。球場では常に全力でプレーし、考えて練習に取り組むことを二軍の選手に求め[14]、前年最下位だったチームを上位争いに食い込ませた。
テンプレート:Byからは一軍のヘッドコーチとなり、テンプレート:Byからは内野守備走塁コーチも兼任している。同年5月21日にシーズン途中でテリー・コリンズが監督を辞任すると、一軍監督代行に就任した。コリンズの辞任を球団から聞いたのはその2日前だったという[15]。
オリックス監督時代
監督代行に就くとそれまでのチーム方針を一変し、先発投手の1試合100球制限の撤廃、休日や早出の練習推奨などを打ち出し、また前監督が行わなかった二軍視察も積極的に行った[15]。二軍からは小瀬浩之や森山周らを昇格させ梶本達哉を支配下登録するなど、積極的に若手を発掘するとともに細かな指導をしている[15]。一方でタフィ・ローズとアレックス・カブレラの両ベテランには実績を尊重して自主的な調整を認め、両者も合わせて76本塁打、222打点の活躍で待遇に応えた。また同年限りで引退した清原和博についても、大差の場面では出さないなど起用方法には気を配っていた[16]。
就任時に借金7で5位だったチームは7月下旬に自力1位が消滅したものの、復調して上位争いに加わったことから8月2日には監督に昇格した。これにより旧・大阪近鉄バファローズOBとして初のオリックス・バファローズ監督となり、あわせて翌テンプレート:Byも続けて指揮を執ることが発表された[17]。チームは9月上旬に2位に浮上してそのままレギュラーシーズンを終え、最終的に貯金7でクライマックスシリーズ進出を決めた。同シリーズは第1ステージで日本ハムと対戦し、同年15勝を挙げた小松聖を初戦ではなく2戦目に先発させる奇策を取ったが、エラーや不運な打球もあって敗退した。第1戦に近藤一樹を先発させたことに悔いはないが投手交代をもう少し早くすべきだった、と述べている[16]。
2008年の秋季キャンプではかつて同僚だった野茂英雄を臨時投手コーチとして招聘した。また2009年は前年からの清川栄治、赤堀元之に加え、現役時代から長年の付き合いがある佐々木修を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制としている。しかし同年のチーム防御率は12球団ワーストと低迷し、4人の外国人選手(ローズ、カブレラ、ラロッカ、フェルナンデス)が死球などで全員骨折・長期離脱するなどで長打力も不振だった。結局6月に4勝14敗、勝率.222と大きく負け越すなどシーズン終了まで再浮上のきっかけをつかむことができず2年ぶりの最下位に終わり、責任を取る形で球団本部長の中村勝広(9月30日限り)とともに解任された。
オリックス監督退任後
テンプレート:By11月25日に、福岡ソフトバンクホークスからヘッドコーチへの就任を発表[18]。4年間コーチを務め、テンプレート:Byのリーグ連覇・日本一に貢献し、テンプレート:Byシーズン限りで退団した[19]。テンプレート:Byからは再び関西テレビの解説者(本数契約でテレビ西日本の解説も兼務)、日刊スポーツ(日刊スポーツ新聞西日本)の評論家を務める。
プレースタイルなど
身長166cmと体格には恵まれなかったが、優れた守備・走塁の技術と長打も期待できる打撃で近鉄の1番打者として長く活躍した。通算415盗塁はNPB史上第7位(テンプレート:Byシーズン終了時)。
なお、大石は福本豊を史上最高のプロ野球選手に挙げており、走攻守の総合的な能力では王貞治や長嶋茂雄にも勝るとしている[20][21]。現役時代は福本に近づくことを目標とし、走塁に関してだけは7合目ぐらいまで到達できたと述懐している[20]。
打撃
いてまえ打線のトップバッターとして、ホームランを意識して打席に臨んでいた[7]。テンプレート:Byには29本塁打を記録している。20代の頃は1,120グラムもあるすりこぎ型のバットを使っていたが、右肩のケガを機に1,060グラムのものに変更した[22]。バッティングに関しては特に教えられた記憶がないといい[7]、グリップを上げて叩きつける打法を持ち味としていた[22]。
トップバッターは.330から.350程度の出塁率を目指すべきと語っており、一般的に長打を警戒した四球が少ない分、クリーンナップより出塁率が上がりにくいと分析している[21]。また、初回をはじめとして試合展開の中で得点のチャンスがほしい場面で確実に出塁することを重視していた[21]。
走塁
プロ入りを初めて意識したのは大学3年の春に東都大学リーグ新記録の17盗塁を記録した時だといい、近鉄入団時にも特に足を評価されていた[7]。プロでは盗塁王のタイトルを通算4度獲得し、福本豊の連続盗塁王の記録を止める存在となった。また盗塁だけでなく、走力によって単打を長打にすることにもこだわった[2]。三塁にいる場面では外野フライが飛んだ瞬間にタッチアップの判断ができたという[21]。
なお「足にスランプはない」という見解については否定的で、投手の癖が分からなかったり体調不良の時には積極的な走塁が難しかったと述べている[21]。特に、右肩痛に苦しんだ時期は痛みが走塁にも悪影響を及ぼしていた[6]。
大石が記録した415盗塁は近鉄の球団記録[23]。
守備
同時期にパ・リーグで同じ二塁手として活躍した辻発彦や白井一幸には、俊足を生かした守備範囲の広さを高く評価されていた[24]。テンプレート:Byからは3年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。守備に際しては打者ごとの打球の傾向を把握し、さらに試合の状況も考慮に入れて守備位置を決めていた[25]。打ち分けのうまい打者の場合は予測がしにくいので、捕手のサインを見て投球モーションに入ってから動いていたという[25]。打球に予測には長年の経験が非常に重要で、さらにその打球を処理する良いイメージを持つことを大切にしていた[26]。
試合中に細かく変わる守備位置については、他の内野手にその都度知らせて互いの守備や送球を円滑にする事を心がけていた[25]。また、二塁走者がリードしている時はスタートの癖を観察し、二塁への牽制を一回で決めるために役立てていた[27]。スタートを遅らせたい場面では、牽制もしくはそのサインを繰り返していたという[27]。なお、二塁手は常に起こりうる全ての状況を想定しておく事が特に重要だと考えており、非常に頻度の低い例として走者一塁でバントが小フライとなった場合、ノーバウンドでダブルプレーを取るのが難しければワンバウンドで一塁に送球されるので、二塁手は一塁を踏む前に走者にタッチすることをあらかじめ頭に入れておくする必要がある、と語っている[27]。
その他
現役時代、打席に立つと「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、鉄腕アトムが原曲の応援歌が流された。息子が2人おり、1990年生まれの長男が競輪選手を目指している[28]。また、次男の大石崇晴は2012年に四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスに内野手として入団し[29]、2013年まで2年間在籍した[30]。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 近鉄 | 77 | 20 | 19 | 14 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 11 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | .316 | .350 | .316 | .666 |
テンプレート:By2 | 129 | 573 | 492 | 86 | 135 | 16 | 1 | 12 | 189 | 41 | 47 | 12 | 23 | 2 | 55 | 1 | 1 | 42 | 7 | .274 | .347 | .384 | .731 | |
テンプレート:By2 | 130 | 592 | 506 | 90 | 145 | 23 | 6 | 10 | 210 | 46 | 60 | 14 | 14 | 2 | 62 | 1 | 8 | 64 | 4 | .287 | .372 | .415 | .787 | |
テンプレート:By2 | 130 | 598 | 528 | 97 | 149 | 22 | 5 | 29 | 268 | 65 | 46 | 19 | 10 | 0 | 58 | 5 | 2 | 58 | 5 | .282 | .355 | .508 | .863 | |
テンプレート:By2 | 83 | 375 | 321 | 62 | 99 | 21 | 4 | 11 | 161 | 45 | 19 | 4 | 12 | 2 | 35 | 1 | 5 | 32 | 3 | .308 | .383 | .502 | .884 | |
テンプレート:By2 | 130 | 595 | 538 | 95 | 156 | 16 | 12 | 16 | 244 | 55 | 24 | 14 | 12 | 6 | 33 | 3 | 6 | 47 | 5 | .290 | .334 | .454 | .788 | |
テンプレート:By2 | 130 | 586 | 532 | 75 | 141 | 26 | 4 | 5 | 190 | 42 | 41 | 9 | 10 | 3 | 39 | 1 | 2 | 58 | 6 | .265 | .316 | .357 | .673 | |
テンプレート:By2 | 128 | 558 | 488 | 65 | 123 | 13 | 9 | 5 | 169 | 34 | 16 | 9 | 18 | 1 | 51 | 0 | 0 | 55 | 4 | .252 | .322 | .346 | .669 | |
テンプレート:By2 | 109 | 471 | 401 | 70 | 111 | 22 | 1 | 8 | 159 | 33 | 14 | 4 | 21 | 0 | 48 | 1 | 1 | 46 | 4 | .277 | .356 | .397 | .752 | |
テンプレート:By2 | 125 | 541 | 471 | 93 | 148 | 25 | 6 | 20 | 245 | 69 | 20 | 4 | 15 | 4 | 49 | 0 | 2 | 51 | 8 | .314 | .378 | .520 | .898 | |
テンプレート:By2 | 125 | 548 | 459 | 77 | 123 | 22 | 3 | 6 | 169 | 42 | 12 | 7 | 18 | 4 | 62 | 0 | 5 | 65 | 7 | .268 | .358 | .368 | .727 | |
テンプレート:By2 | 130 | 576 | 487 | 76 | 131 | 24 | 6 | 6 | 185 | 47 | 39 | 13 | 23 | 1 | 62 | 1 | 3 | 56 | 4 | .269 | .354 | .380 | .734 | |
テンプレート:By2 | 127 | 547 | 470 | 69 | 121 | 10 | 2 | 10 | 165 | 49 | 31 | 7 | 23 | 0 | 51 | 0 | 3 | 65 | 6 | .257 | .334 | .351 | .685 | |
テンプレート:By2 | 84 | 320 | 274 | 44 | 74 | 15 | 0 | 2 | 95 | 33 | 11 | 1 | 12 | 1 | 31 | 0 | 2 | 37 | 7 | .270 | .347 | .347 | .694 | |
テンプレート:By2 | 102 | 354 | 303 | 43 | 73 | 13 | 1 | 4 | 100 | 21 | 11 | 6 | 9 | 2 | 38 | 2 | 2 | 52 | 5 | .241 | .328 | .330 | .658 | |
テンプレート:By2 | 80 | 271 | 224 | 36 | 49 | 7 | 3 | 2 | 68 | 19 | 11 | 1 | 10 | 5 | 29 | 1 | 3 | 44 | 4 | .219 | .310 | .304 | .614 | |
テンプレート:By2 | 73 | 183 | 151 | 24 | 40 | 6 | 0 | 2 | 52 | 13 | 2 | 2 | 6 | 3 | 22 | 1 | 1 | 22 | 2 | .265 | .356 | .344 | .700 | |
通算:17年 | 1892 | 7708 | 6664 | 1116 | 1824 | 281 | 63 | 148 | 2675 | 654 | 415 | 131 | 236 | 36 | 725 | 18 | 47 | 798 | 81 | .274 | .347 | .401 | .749 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By | オリックス | 2位 | 95 | 54 | 40 | 1 | .574 | 2.5 | 152 | .262 | 3.93 | 50歳 |
テンプレート:By | 6位 | 144 | 56 | 82 | 2 | .394 | 26.0 | 118 | .274 | 4.58 | 51歳 | |
通算:2年 | 239 | 110 | 126 | 3 | .466 | Aクラス1回、Bクラス1回 |
- 2008年は5月23日からテリー・コリンズに代わり指揮を執る。
- 表中の斜体字はシーズン通年での成績
タイトル
- 盗塁王:4回 (1983年、1984年、1987年、1993年)
表彰
- 新人王 (1982年)
- ベストナイン:3回 (1983年、1984年、1990年)
- ダイヤモンドグラブ賞:3回 (1982年 - 1984年)
記録
- オールスターゲーム出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年 - 1987年、1989年 - 1990年、1992年 - 1993年)
- 初記録
- 初出場:1981年4月8日、対南海ホークス前期2回戦(日生球場)、7回裏に有田修三の代走で出場
- 初盗塁:1981年4月11日、対西武ライオンズ前期1回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に二盗(投手:松沼雅之、捕手:大石友好)
- 初安打:1981年4月26日、対日本ハムファイターズ前期4回戦(後楽園球場)、8回表に岡部憲章から単打
- 初先発出場:1981年7月22日、対ロッテオリオンズ後期5回戦(石川県立野球場)、9番・二塁手で先発出場
- 初打点:1982年4月12日、対ロッテオリオンズ前期3回戦(日生球場)、2回裏に奥江英幸から適時打
- 初本塁打:1982年5月5日、対西武ライオンズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に永射保からソロ
- 節目の記録
- 1000本安打:1989年6月7日、対福岡ダイエーホークス10回戦(平和台球場)、8回表に村田勝喜から ※史上155人目
- 1000試合出場:1989年7月16日、対オリックス・ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上287人目
- 100本塁打:1990年4月22日、対西武ライオンズ5回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に渡辺久信から先制ソロ ※史上158人目
- 300盗塁:1991年5月19日、対ロッテオリオンズ8回戦(秋田市営八橋球場)、9回表に二盗(投手:園川一美、捕手:青柳進) ※史上19人目
- 350盗塁:1993年4月11日、対日本ハムファイターズ2回戦(藤井寺球場)、9回裏に二盗(投手:山原和敏、捕手:田村藤夫) ※史上13人目
- 1500本安打:1993年6月4日、対福岡ダイエーホークス8回戦(日生球場)、8回裏に木村恵二から左前安打 ※史上67人目
- 1500試合出場:1993年8月1日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)、1番・二塁手で先発出場 ※史上108人目
- 200犠打:1994年4月9日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に郭泰源から ※史上12人目
- 1000得点:1994年7月16日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(グリーンスタジアム神戸)、6回表にラルフ・ブライアントの適時打で記録 ※史上26人目
- 400盗塁:1995年8月30日、対日本ハムファイターズ22回戦(東京ドーム)、9回表に二盗(投手:西村基史、捕手:山下和彦) ※史上7人目
背番号
- 43 (1981年 - 1982年)
- 4 (1983年 - 1997年)
- 81 (2003年 - 2009年)
- 80 (2010年 - 2013年)
登録名
- 大石 大二郎 (おおいし だいじろう、1981年 - 1987年9月14日、1991年 - )
- 大石 第二朗 (おおいし だいじろう、1987年9月15日 - 1990年)
関連情報
出演
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:オリックス・バファローズ歴代監督 テンプレート:Navboxes
テンプレート:近鉄バファローズ1980年ドラフト指名選手- ↑ 1.0 1.1 1.2 朝日新聞、1998年06月14日付朝刊、静岡地方面
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.115
- ↑ 1987年の春季リーグ戦で野村謙二郎が18盗塁し、記録を更新している
- ↑ 週刊ベースボール、1988年1月10日号、P.36
- ↑ 週刊ベースボール、1989年5月1日号、P.53
- ↑ 6.0 6.1 週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.185
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.116
- ↑ 読売新聞、1992年12月20日付朝刊、P.14
- ↑ それまでの記録は1982年の福本豊
- ↑ 10.0 10.1 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.114
- ↑ 同時期に他球団で二塁手だった福良淳一、西村徳文、仁村徹らも引退。
- ↑ 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.117
- ↑ 週刊ベースボール、2003年6月3日号、P.22
- ↑ 14.0 14.1 週刊ベースボール、2006年3月27日号、P.88
- ↑ 15.0 15.1 15.2 Number、2008年11月27日号、P.82
- ↑ 16.0 16.1 Number、2008年11月27日号、P.83
- ↑ 2010年に監督就任した岡田彰布も旧ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。
- ↑ 大石大二郎ヘッドコーチ入団のお知らせソフトバンク球団公式サイト2009年11月25日配信
- ↑ コーチの退団についてソフトバンク球団公式サイト2013年10月11日配信
- ↑ 20.0 20.1 週刊ベースボール、1996年6月18日号、P.116
- ↑ 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 週刊ベースボール、2000年6月12日号、P.20
- ↑ 22.0 22.1 週刊ベースボール、1990年6月18日号、P.114
- ↑ 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ
- ↑ 週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.183
- ↑ 25.0 25.1 25.2 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.20
- ↑ 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.23
- ↑ 27.0 27.1 27.2 週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.22
- ↑ 週刊ベースボール、「2009年プロ野球選手名鑑」
- ↑ 高知ファイティングドックス 大石崇晴、中澤政登の両選手を支配下登録 - 独立リーグドットコム(2012年5月1日)
- ↑ 退団選手のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2013年11月19日)