衛藤晟一
テンプレート:政治家 衛藤 晟一(えとう せいいち、1947年10月1日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)、内閣総理大臣補佐官(国政の重要課題担当)、自民党大分県連会長。過去に、自民党参議院幹事長代行、衆議院議員(4期)。
目次
来歴・人物
学生時代
大分市立碩田中学校、大分県立大分上野丘高等学校を経て、大分大学経済学部に入学[1]。大学在学中、別府大学の井脇ノブ子と共に全国学生自治体連絡協議会を結成。自身も大分大で保守派の「学生協議会」を率いた。“学園の正常化”を掲げて全日本学生自治会総連合と対峙。
政治家としての活動
1973年、大分市議会議員に当選。1979年には大分県議会議員に当選し、障害者の自立を促す福祉政策や、家族と地域社会を護る政策を推進するテンプレート:要出典。また、子供の教育政策にも取り組んだテンプレート:要出典。
1986年7月、第38回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。1990年2月、第39回衆議院議員総選挙に初当選(当選同期に岡田克也・佐田玄一郎・中谷元・森英介・福田康夫・石原伸晃・河村建夫・塩谷立・細田博之・古屋圭司・松岡利勝・小坂憲次・山本拓・赤城徳彦など)。3期連続当選したが、2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では民主党の釘宮磐に敗れ落選。
2003年11月の第43回衆議院議員総選挙では無所属(民主党推薦)の吉良州司に敗れたが、比例九州ブロックで復活当選。2004年9月、厚生労働副大臣に就任。2005年7月5日の郵政国会では、造反して反対票を投じたため副大臣を罷免された[2]。同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、自民党大分県連が衛藤の公認を申請していた[3]が、自民党本部は佐藤錬の公認を決定した[4]。衛藤は無所属で大分1区から出馬したが、民主党に入党していた吉良に再び敗れ落選。
2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙で比例区からの立候補を希望し、自民党に公認を申請したことが引き金となって前年末に続く郵政造反組復党問題が起こる。党内では前年末の「造反組議員」復党で内閣の支持率が下がったことなどから根強い反対意見も有ったが、総裁・安倍晋三が自民党の総裁推薦候補(自民党には比例代表選挙に際して総裁が自らの推薦候補を1名だけ指名できる慣例がある)を衛藤にすることに強い意志を表明した。自民党党紀委員会では賛成10票、反対7票という異例の多数決となったが、復党が実現して比例代表候補となった。
地盤が狭い元衆議院議員が参議院比例区に立候補する場合、通常は地元の票固めを行う。しかし衛藤の支持層を比例区で取り込もうと考えていた公明党への配慮から、自民党本部は復党にあたって地元大分での選挙活動を認めないなどの厳しい制約を課した。衛藤は福岡県に選挙事務所を置こうとしたが、公明党はそれについても「九州内では意味がない」と反発したため、最終的に東京・渋谷に選挙事務所を置くことになった[5]。2007年6月11日に東京で開かれた「えとうせいいち君を激励する会」では、文部科学大臣の伊吹文明や自民党幹事長の中川秀直、政調会長の中川昭一などが支援を表明した。地元大分で活動できない中、202,314票を獲得して党内13位で当選。
2007年12月12日、参議院本会議において野党提出の郵政民営化凍結法案の採決で棄権したため、自民党参議院議員会長の尾辻秀久から厳重注意処分を受けた[6]。衛藤は「ボタンの押し忘れ」などと主張した[6]。
2008年4月14日、自民党大分県連により、県連復帰が承認された[7]。これに対して、公明党大分県本部代表の竹中万寿夫が同日の自民党県連年次大会出席を急遽取り止めた。竹中は衛藤の県連復帰により、「自公の信頼関係が崩れ、今後の自公協力が厳しくなる」と述べた。
2010年1月、議員グループのぞみに参加。自民党障害者特別委員長を務める。2011年、自民党参議院幹事長代行に就任。2012年12月、第2次安倍内閣の内閣総理大臣補佐官(国政の重要課題担当)に就任。
2013年4月23日、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会の一員として靖国神社に参拝[8]。
同年7月21日、第23回参議院議員通常選挙に比例区から出馬し204,404票を獲得して党内10位で再選。
政策・主張
- 人権擁護法案に対し、「人権の名の下に言論の自由や表現の自由を抑圧し、ひいては「人権ファシズム」を惹き起す恐れがある」などと主張し、元自民党幹事長の古賀誠ら推進派に反発した。
- 婚外子の相続差別撤廃に反対し、2013年12月5日に可決された婚外子の相続分規定改正案に、自民党の党議拘束に反して賛成票を投じなかった[9]。
- 教育問題の一環として歴史教科書問題にも取り組んでいる。2004年10月、イギリスにおける歴史教科書問題を時のサッチャー政権が教育基本法を改正することで「自虐偏向」を「正常化」したとされる事例を現地調査するための、与野党合同の「イギリス教育改革調査団」を設立。2005年4月に、PHP研究所から中西輝政監修、自民党幹事長代理(当時)の安倍晋三らと共著で『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道』を上梓した。
- 慰安婦問題に関しては、1997年に結成された「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の幹事長に就任。存在肯定派と否定派の両派の有識者を招いて意見を聞く勉強会を主催し、それを同年12月に『歴史教科書への疑問』(展転社)にまとめた。
- 拉致問題については、重大な人権侵害であるとともに日本国の主権を侵害する行為であるとし、2004年4月に結成された「拉致議連」にも結成と同時に加入。拉致議連では事務局長を努め、関係省庁や家族会をはじめとした各種団体とのやりとりや、政府による対北朝鮮政策の策定に裏方として関わったテンプレート:要出典。
- 2008年11月11日、自民党の国防関係合同部会にて、歴史認識に関して政府見解を否定する論文(「真の近現代史観」懸賞論文)を発表して航空幕僚長を更迭された田母神俊雄を擁護。「歴史認識を教育するなんてことを言ってもらったら困る」と述べ、歴史教育の在り方を見直す考えを示すとした防衛省側を批判した[10]。
- 鳩山由紀夫内閣の選択的夫婦別姓法案に反対した[11]。
- 自社さ連立政権時代に、与党福祉プロジェクトチームに所属。 自自公連立政権時代には、「これからは、老夫婦をみる子どもの数は3分の1に減り、介護期間はいまの10倍になります。掛け算すると30倍の負担です。介護保険やめたら家族の美風は崩壊してしまいます」と述べ、介護保険の成立に力を尽くした[12]。
エピソード
村山富市の首班指名をめぐって
1994年、羽田内閣の総辞職後の内閣総理大臣指名選挙について、総裁の河野洋平や幹事長の森喜朗が日本社会党委員長の村山富市を推したため、自民党両院議員総会は大いに紛糾した。しかし、旧大分1区[13]で村山と直接のライバル関係にあった衛藤が賛意を表明したことから、議論の流れが大きく変わり、村山首班指名で決着した[14]。この結果、自社さ連立政権が成立し、自民党は11ヵ月ぶりに政権に復帰した。
安倍晋三との関係
安倍晋三とは「盟友中の盟友」とされる[15]。1993年に衛藤が再選した時、安倍は初当選の新人議員だったが、共に憲法改正や教育問題、歴史認識に関して政治理念が一致していたため、行動を共にすることが多かった。衛藤は自民党社会部会長を務めていた頃、テンプレート:要出典範囲、安倍を厚生行政に関わらせるように動いた[15]。1999年、それまでポストに恵まれなかった安倍は小渕内閣の改造・党人事で社会部会長(現・厚生労働部会長)に抜擢されたが、テンプレート:要出典範囲。
衛藤は第44回衆議院議員総選挙の際に自民党を離党し、選挙で落選したが、第1次安倍内閣が発足すると、首相に就任していた安倍の強い意向により、落選者としては唯一自民党に復党した[15]。
参院選での得票数を巡る事件
2013年(平成25年)7月21日執行の第23回参議院議員通常選挙で、衛藤は比例区において、全国から20万4,000票以上を獲得したが、香川県高松市においては衛藤の得票数ゼロという、奇妙な集計結果が出た。この結果について、衛藤の支持団体の一つである香川県遺族連合会などは、開票ミスによるものであるとして、高松市選挙管理委員会に対し、票の再点検を求めていたが[16]、高松市選挙管理委員会は応じなかった。その後高松地方検察庁へ告発があり、同地検が捜査を進めた所、当時の高松市選挙管理委員会の選挙管理委員長ほか当時の高松市職員3名が、集計済の白票約300票を再度白票として入力させ、後で見つかった衛藤の312票は集計せずにダンボールに梱包し[17]、8月になってからそれを無効票の箱に移し替え、その他にも同年9月と2014年(平成26年)1月にも2010年の第22回参議院議員通常選挙の投票用紙を無効票の箱に入れたり、白票に文字を書き込む[18]などの隠蔽工作が発覚し、同地検は2014年(平成26年)6月25日に、同3名(うち1名は定年退職済)を、公職選挙法違反(投票増減)の疑いで逮捕し[19]、7月15日に高松市の市職員6人を、公職選挙法違反と刑法の封印等破棄罪で起訴した。衛藤は「信じられない。日本でそんな事が起こり得るのかとびっくりしている。自分は間違いなく入れたという方の声が無視されたのは非常に残念。」と述べた[20]。
米国への「失望」表明
安倍晋三首相が2013年12月26日におこなった靖国神社参拝に米国政府が「失望」を表明したことについて、2014年2月16日に『約束を果たした首相の靖国参拝[21]』の題名でYouTubeに投稿した動画で、「我々の方が失望した」という内容の批判をおこなった[21][22]。衛藤は動画の中で、安倍の靖国神社参拝前に、自身が2013年11月の訪米や同年12月初旬の米国大使館訪問で参拝への理解を求めていたことを説明[22][23]し、「安倍政権は、民主党政権で崩れた日米関係修復に非常に大きな力を割いてきた。米国は同盟関係にある日本をなぜ大事にしないのか[23]」「米国はちゃんと中国にものが言えないようになりつつある。米国の声明は、中国に対する言い訳にすぎない[23]」と米国を非難した。
2月19日、菅義偉官房長官は、衛藤の発言について「(衛藤氏の)個人的見解だ。日本国政府の見解ではない」と述べた上で、衛藤に発言の取り消しを指示した[24]と述べた。同日、衛藤は発言を取り消し、動画を削除した[21][24][25]。
米国務省の副報道官は、「日本政府は個人的見解であり政府見解ではないと説明している」として、問題視しない考えを示した上で、安倍の靖国神社参拝に「失望」声明を出したことについては、「米国の立場は明確だ」とも述べた[26]。
不祥事
- 国民年金保険料未納
衆議院厚生労働委員長在任中の2004年5月14日、国民年金保険料の未納が判明した[27]。議員年金に加入すれば同時に国民年金にも加入していることになるものと誤解していた衛藤は、衆議院議員に初当選した1990年2月から11年11か月間、保険料を納付していなかった[27]。
- 運動員の逮捕
2005年の衆議院選挙において、大分市内の住宅街で法定外の文書を配布したとして、衛藤の運動員が3名逮捕された[28][29][30]。
- 外務官僚水かけ事件
2011年5月24日、自民党本部で開かれた同党外交部会で、外務省アジア大洋州局審議官の北野充が横を向いて同僚と話した瞬間に激高し、「いい加減にしろ。本気で国益を守ろうと思っているのか」と叫んで、数メートル離れた場所からコップの水を浴びせ掛けた[31]。「自分が話している最中に横を向いていた」とのこと[32]。大韓民国の国会議員が北方領土を訪問する計画を立てており、これについて内閣総理大臣の菅直人が日韓首脳会談において言及しなかったことに外交部会で批判が続出。北野は理由として「事実関係を確認中だった」と答えていた。
所属団体・議員連盟
- 日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(幹事長)
- 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(事務局長)
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
- 創生「日本」
- 真の人権擁護を考える懇談会
- 平和を願い真の国益を考え靖国神社参拝を支持する若手国会議員の会
- のぞみ
- 神道政治連盟国会議員懇談会
- 教育基本法改正促進委員会(委員長)
- 日本の水源林を守る議員勉強会
- 国籍問題を検証する議員連盟
- 正しい日本を創る会
- 憲法20条を考える会
支援団体
テレビ出演
放送日 タイトル 2009年11月7日 このホームルーム政治を如何にせん
脚注
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 6.0 6.1 時事通信2007年12月14日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 2013年12月5日参議院本会議
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 第174回国会参議院予算委員会議事録 6号 平成22年03月05日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 直近の第40回衆議院議員総選挙(1993年)は中選挙区制で、衛藤と村山がともに当選。
- ↑ 森喜朗・亀井静香「対談 毅然と対決、死闘十一か月の攻防」『月刊自由民主』平成17年3月号、自由民主党、2005年。
- ↑ 15.0 15.1 15.2 テンプレート:Cite journal
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ニュース再生:高松市選管の不正、票操作 二重集計で水増し 毎日新聞 2014年7月22日 大阪朝刊
- ↑ 衛藤氏の票312あった/選挙後も隠蔽工作か 四国新聞 2014年7月16日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 21.0 21.1 21.2 テンプレート:Cite news
- ↑ 22.0 22.1 テンプレート:Cite news
- ↑ 23.0 23.1 23.2 テンプレート:Cite news
- ↑ 24.0 24.1 テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 27.0 27.1 テンプレート:Cite news
- ↑ 毎日新聞 2005年9月22日
- ↑ 毎日新聞 2005年9月25日
- ↑ 毎日新聞 2005年10月28日
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news金曜日朝刊第3面記事
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
中山成彬
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院厚生労働委員長
2003年 - 2004年
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鴨下一郎
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谷畑孝
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|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 厚生労働副大臣
西博義と共同
2004年 - 2005年
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