山田洋次
テンプレート:Mboxテンプレート:ActorActress 山田 洋次(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )は、日本の映画監督、脚本家。文化功労者、日本芸術院会員、文化勲章受章者。
川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の他人』でデビューする。以降、『男はつらいよ』シリーズなどの人情劇を発表する。評論家や文化人の支持も高く、現役でもっとも多くキネマ旬報ベストテンに入賞した監督である。中国などでも、日本映画界の第一人者として知られる。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科と立命館大学映像学部の客員教授。文化学院の特別講師でもある。
妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。次女はBS-TBSプロデューサーの山田亜樹(1963年9月14日 - 。元NHKアナウンサーの山田亜樹[1]は別人)。
目次
作風
落語等の影響を受けており、主に人間ドラマに焦点を当て、ユーモアとペーソスに溢れたものである。風景を美しくとらえながらも凝った映像表現は控え、一般人や社会の逸れ者のささやかな日常生活に潜む喜びと哀しみを丹念に描く。演出においては、「主役、脇役含めて全体として一体となった、わざとくささのない自然な演技」を要求するという。現場でのひらめきや勢いを大切にするため、事前にコンテをきっちり詰めるやり方も採らない。横長のシネマスコープ画面を愛し、画面中央で男女が語り合う片隅で犬が戯れていたりするのが映画の良さと語っている。
また、海外推理小説の熱心な読者でもあり、初期にはサスペンスやブラックユーモアの方面にも意欲を示していたが、その方面への資質には早々に見切りをつけたようである。「キネマの天地」などでミュージカル的なタッチも見せたが、やはり山田の領分ではなく、あくまで地に足をつけた日常の描写に真骨頂を発揮する。
来歴
- 1931年、大阪府豊中市に生まれる。満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした[2]。終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している[2]。
- 1943年、東京都立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)に入学するが、同年5月、空襲を避け、中国の大連へ移る。1947年、大連から引き揚げ、旧制宇部中学校(山口県立宇部高等学校)3年に編入する。翌年、旧制山口高等学校(現在の山口大学)に入学するが、在学中に学制改革を経験する[3]。1950年、東京都立小山台高等学校卒業、東京大学法学部に入学。怠学による出席日数不足で中退するところだったが、1954年に卒業して松竹に補欠入社する。野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた[4]。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした[5]。
- 大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立して行く中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』等のコメディを中心とした作品で企業内監督の道を歩む[5][4][6]。当初はハナ肇主演作品が非常に多く、才能を見抜く名人であるハナのご指名監督の感があった。
- 1961年頃から日本放送協会の『遺族』、TBSテレビの『泣いてたまるか』などテレビドラマの脚本を担当するようになり、1962年に放送された日本テレビ放送網の『一等寝台車のあいつ』などの一部の作品では「山田よしお」のペンネームを使っている[7]。
- 次第に喜劇作家としての評価が高まり、何本かの作品がキネマ旬報ベストテン入りするが、ヒットには恵まれない状態が続いた。
- 1968年、フジテレビの連続テレビドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。テレビドラマのヒットにより同作は1969年、松竹で映画化されることになる。当初は観客動員も地味であったが高い評判を呼んだ。輪番であった監督が山田単独となる頃から尻上がりに観客も増え、その後27年間に全48作が製作される大ヒットシリーズとなり、毎年お盆と暮れの興行は日本人の風物詩、国民的映画とまで言われた。しかし、車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、後に甥の満男の出番を増やして寅次郎の出番を減らす決断をした。最終の第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演してもらったものである。渥美は公私混同を嫌っていたため、渥美の家族や個人的な連絡先は知らなかったと言う。知るようになったのは寅さんとのお別れ会の後である。渥美の死去によって『男はつらいよ』シリーズを失った4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを執る機会も減ってしまった。
- シリーズの合間をぬって2、3年おきに『家族』『同胞』など、ややシリアスな作品も、おおむねオリジナル脚本で発表。いずれも高い評価と手堅い成績を収め、山田の映画作家としての地位を固めていく。ほとんどが倍賞千恵子主演であり、『男はつらいよ』のさくら役、シリーズ開始以前の多くの主演作を含めると、実に六十数本で主演、準主演に迎えている。この世界にも稀な親密さは、ある意味、山田が「生涯同じ歌を繰り返し歌い続ける」タイプの作家である証左ともなっている。
- 2002年、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。山田にとって、『運がよけりゃ』に続く2度目の時代劇[8]であり、藤沢作品を初映画化したものであった。他の時代劇では無視され続けてきた“位の低い”武士の苦悩を描いた物語である。構想に10年を掛け時代考証に徹底して拘った。登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずが無いから、剃った部分に髪が生えてくる等の実に細かい部分をリアルに丹念に描き、「第76回アカデミー賞」外国語映画部門にノミネートされた。
- 2004年、再び藤沢原作の時代劇『隠し剣 鬼の爪』を発表し、「第7回ジンバブエ国際映画祭」最優秀作品賞を受賞した。
- 2004年1月に横綱審議委員に就任し、2014年1月の退任まで5期10年を務め上げた。[9]2006年には「部員不足解消に役立つなら」と、OBである東京大学相撲部の名誉顧問となった。京都大学との交流戦を観戦し、「初心者にしか見えない学生が鼻血を出しながら立ち向かう姿が愛しい」と興奮した。
- 2007年、自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。
- 2008年、小津安二郎以来、映画監督で二人目の芸術院会員となる。
- 2010年、小津映画の『麦秋』を舞台化。初の舞台演出[5][10]。
- 2010年、JR東日本が動態復元する蒸気機関車C61 20の復元工事の作業をドキュメンタリー映像として記録開始。父が鉄道ファンであった影響から幼少時より山田自身も鉄道ファンとなり、2011年6月4日の復活運転開始までの間、収録を行った。復活運転開始の日には、高崎駅で開催された復活記念セレモニーのスペシャルゲストとして招かれ、「東北で活躍したC61が復活したことには、大きな意義がある」などといったメッセージを送り、東日本大震災からの日本復興に向かう象徴の一つとするC61 20の復活を祝った[11]。なおこの作品は、同2011年7月16日にNHKスペシャル『復活 〜山田洋次・SLを撮る〜』と題してテレビ放送された[12]。
- 2011年、監督生活50周年記念作として『東京物語』のリメイク作『東京家族』の製作を予定していたが、脚本など東日本大震災の経験を踏まえた作品にしたいという山田の意向により、製作の延期を発表[13]。
- 日本共産党のパンフレットに推薦文をしばしば寄せている。自作で政治性を前面に出すことは少ないが(そのため自民党議員にもファンは多い。一方で新左翼系評論家からは目の敵にされ続けている)、代表作のひとつ『同胞』は、共産党系の統一劇場を描いた作品である。「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めている[14]。
- 2012年12月15日、山田のこれまでの歩みを紹介する「山田洋次ミュージアム」がオープンした[15]。
エピソード
- 祖父は官軍として西南戦争に従軍した。
- 幼少時は満州で育ったが、近くの道路はアスファルトで舗装され、故郷と呼べる美しい景色を見て育たなかったという。
- 東大に入学したのは上京したいという理由から。そのために必死に勉強している。法学部を選んだのは卒業が楽そうだと思い込んでいたためで、実際に入学すると授業がつまらなく、ほとんど出席せずに退学寸前のところで卒業した。
- 渥美清の葬式では長年の付き合いから弔辞を読み、無理に出演させた事を詫びている。
- TVシリーズの『男はつらいよ』最終回で、主人公を殺してしまったため、ファンから大量の苦情が来た[6]。これは寅さんがハブに噛まれての凄惨な死ということもあったが、それまでパッとしなかったのにと、これで強い印象を受けた。ヒット作に恵まれず、テレビドラマの映画化なら一定の観客が見込め、低視聴率だったのでテレビ局から映画化権がスムーズに同意が得られたことから映画版を新作として作ることにした。ただし同時に「テレビで殺したのはこんな人は、この社会では生きていてはいけないんだ。生きられないんだ」と話して新たに顰蹙をかった。(シリーズ定着時のNHKテレビインタビュー)
- 寅さんの舞台・葛飾区柴又は、作家・早乙女勝元の紹介で最終的に決定された。
- 最終作の撮影現場で体調を崩して楽屋で寝込んでいた所、その頃は既に自分の死が近いことを悟っていたのか渥美清から「山田さん大丈夫ですか?あなたは体を大事にして長生きしなければなりませんよ。」と言われたのが今でも心に残っていると言う。
- 近年ではロケ地に行くと「男はつらいよを何本でも作れそうだ」と語っている。
- 小説家の八木義徳から「あなたは“典型”をお作りになった」「寅さんみたいな男といえば、共通したイメージがわく。文学ならドン・キホーテや坊ちゃん。あなたは映画でなさった。誇りをもっていい」[16]と評された。
- 小津安二郎の映画に対し、「毎回同じような内容ばかり」「何も起きずつまらない」と批判していたが、敬愛する黒澤明が自宅で小津映画を熱心に鑑賞しているのを見てショックを受ける。近年では自作の中に小津の影響を少なからず認めている[5][16]。
- 好きな作家は藤沢周平、どの主人公も慎ましく生きている姿が胸を打たれるという。
- 入社以来、一貫して松竹大船撮影所のみで仕事を続けた。期間としては実に47年間である。同撮影所の閉鎖後は松竹京都撮影所を拠点とし、『武士の一分』で木村拓哉が東京を長期間離れることが不可能だったため、東宝撮影所を使用したのが生まれて初めての他社撮影所での仕事である。映画会社の専属監督制が崩壊し、制作会社、配給会社、撮影所の組み合わせもフリー化したのが1970年代であることを考えると、その後も21世紀までただ一人ひとつの撮影所に固執した彼の姿勢は、その作家性と重ね合わせることもできる。
受賞・栄典
- 芸術選奨文部大臣賞(1969年)
- 菊池寛賞(1972年)
- アジア映画祭最優秀喜劇賞(1980年)
- 都民栄誉賞(1982年)
- ウィーン市ヨハン賞(1989年)
- 上海国際映画祭最高監督賞(1999年)
- 勲四等旭日小綬章(2002年)
- 第21回川喜多賞(2003年)
- 文化功労者(2004年)
- 第7回菊島隆三賞(2004年)対象作品「隠し剣 鬼の爪」
- アジア映画終身監督賞(2008年)
- アジア・フィルム・アワード特別功労賞(2008年)
- ベルリナーレカメラ賞(ベルリン映画祭特別功労賞)(2010年)[17]
- 文化勲章(2012年)
- 葛飾区名誉区民(2012年)
- 第36回日本アカデミー賞 協会栄誉賞(2013年)
- 第37回日本アカデミー賞 優秀監督賞(『東京家族』)[18]
映画
監督作品
- 二階の他人(1961年)
- 下町の太陽(1963年)
- 馬鹿まるだし(1964年)
- いいかげん馬鹿(1964年)
- 馬鹿が戦車でやって来る(1964年)
- 霧の旗(1965年)
- 運が良けりゃ(1966年)
- なつかしい風来坊(1966年)
- 九ちゃんのでっかい夢(1967年)
- 愛の讃歌(1967年)
- 喜劇 一発勝負(1967年)
- ハナ肇の一発大冒険(1968年)
- 吹けば飛ぶよな男だが(1968年)
- 喜劇 一発大必勝(1969年)
- 男はつらいよ(1969年)
- 続・男はつらいよ(1969年)
- 男はつらいよ 望郷篇(1970年)
- 家族(1970年)
- 男はつらいよ 純情篇(1971年)
- 男はつらいよ 奮闘篇(1971年)
- 男はつらいよ 寅次郎恋歌(1971年)
- 男はつらいよ 柴又慕情(1972年)
- 男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972年)
- 故郷(1972年)
- 男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973年)
- 男はつらいよ 私の寅さん(1973年)
- 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ(1974年)
- 男はつらいよ 寅次郎子守唄(1974年)
- 男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年)
- 男はつらいよ 葛飾立志篇(1975年)
- 同胞(1975年)
- 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976年)
- 男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976年)
- 男はつらいよ 寅次郎と殿様(1977年)
- 男はつらいよ 寅次郎頑張れ!(1977年)
- 幸福の黄色いハンカチ(1977年)
- 男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく(1978年)
- 男はつらいよ 噂の寅次郎(1978年)
- 男はつらいよ 翔んでる寅次郎(1979年)
- 男はつらいよ 寅次郎春の夢(1979年)
- 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980年)
- 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌(1980年)
- 遙かなる山の呼び声(1980年)
- 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎(1981年)
- 男はつらいよ 寅次郎紙風船(1981年)
- 男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋(1982年)
- 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎(1982年)
- 男はつらいよ 旅と女と寅次郎(1983年)
- 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎(1983年)
- 男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎(1984年)
- 男はつらいよ 寅次郎真実一路(1984年)
- 男はつらいよ 寅次郎恋愛塾(1985年)
- 男はつらいよ 柴又より愛をこめて(1985年)
- 男はつらいよ 幸福の青い鳥(1986年)
- キネマの天地(1986年)
- 男はつらいよ 知床慕情(1987年)
- 男はつらいよ 寅次郎物語(1987年)
- 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日(1988年)
- ダウンタウン・ヒーローズ(1988年)- ベルリン国際映画祭コンペティション参加
- 男はつらいよ 寅次郎心の旅路(1989年)
- 男はつらいよ ぼくの伯父さん(1989年)
- 男はつらいよ 寅次郎の休日(1990年)
- 息子(1991年)
- 男はつらいよ 寅次郎の告白(1991年)
- 男はつらいよ 寅次郎の青春(1992年)
- 学校(1993年)
- 男はつらいよ 寅次郎の縁談(1993年)
- 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様(1994年)
- 男はつらいよ 寅次郎紅の花(1995年)
- 学校II(1996年)
- 虹をつかむ男(1996年)
- 虹をつかむ男 南国奮斗篇(1997年)
- 学校III(1998年)
- 十五才 学校IV(2000年)
- たそがれ清兵衛(2002年)- ハワイ国際映画祭グランプリ、香港電影金像奨アジア映画賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ベルリン国際映画祭コンペティション参加
- 隠し剣 鬼の爪(2004年)- ジンバブエ国際映画祭最優秀作品賞、イスタンブル映画祭グランプリ、ベルリン国際映画祭コンペティション参加
- 武士の一分(2006年)- ベルリン国際映画祭パノラマ部門オープニング作品参加、特別部門参加
- 母べえ(2008年)- ベルリン国際映画祭コンペティション参加
- シネマ歌舞伎 人情噺 文七元結(2008年)
- シネマ歌舞伎 連獅子(2008年)
- おとうと(2010年)
- 京都太秦物語(2010年)
- 東京家族(2013年)
- 小さいおうち(2014年)- ベルリン国際映画祭コンペティション参加、最優秀女優賞(銀熊賞)受賞
その他の映像作品
- 蜂の子(1957年未公開作品、津田不二夫監督、東映) - 脚本
- 月給13,000円(1958年3月11日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- モダン道中 その恋待ったなし(1958年7月13日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 明日をつくる少女(1958年12月7日公開、井上和男監督、松竹) - 脚本
- 暁の地平線(1959年9月20日公開、井上和男監督、松竹) - 脚本
- 黄色いさくらんぼ(1960年3月18日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- ゼロの焦点(1961年3月19日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 恋の画集(1961年6月21日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 寛美の我こそは一等社員(1962年1月29日公開、生駒千里監督、松竹) - 脚本
- 九ちゃん音頭(1962年7月1日公開、市村泰一監督、松竹) - 脚本
- あの橋の畔で(1962年7月1日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- あの橋の畔で 第2部(1962年9月30日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- あの橋の畔で 第3部(1963年1月6日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- あの橋の畔で 完結篇(1963年7月27日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 続・拝啓天皇陛下様(1964年1月1日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 暖流(1966年4月29日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- おはなはん(1966年7月30日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- おはなはん 第二部(1966年10月1日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 女の一生(1967年11月11日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- みな殺しの霊歌(1968年4月13日公開、加藤泰監督、松竹) - 構成
- 喜劇 女は度胸(1969年10月1日公開、森崎東監督、松竹) - 原案
- 男はつらいよ フーテンの寅(1970年1月15日公開、森崎東監督、松竹) - 脚本、原作
- 新・男はつらいよ(1970年2月27日公開、小林俊一監督、松竹) - 脚本、原作
- 望郷(1971年3月20日公開、大嶺俊順監督、松竹) - 監修
- 喜劇 女は男のふるさとヨ(1971年5月19日公開、森崎東監督、松竹) - 脚本
- 泣いてたまるか(1971年10月1日公開、宮崎晃監督、松竹) - 原作
- 喜劇 社長さん(1972年6月10日公開、大嶺俊順監督、松竹) - 脚本
- 東京ド真ン中(1974年6月1日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 砂の器(1974年10月19日公開、野村芳太郎監督、松竹) - 脚本
- 俺たちの時(1976年11月6日公開、水川淳三監督、松竹) - 原作
- ふたりのイーダ(1976年11月6日公開、松山善三監督、映画「ふたりのイーダ」プロダクション) - 脚本協力
- 分校日記 イーハトーブの赤い屋根(1978年2月25日公開、熊谷勲監督、富士映画) - 製作
- 俺は田舎のプレスリー(1978年8月12日公開、満友敬司監督、松竹) - 原案
- 俺は上野のプレスリー(1978年12月27日公開、大嶺俊順監督、松竹) - 原案
- 俺たちの交響楽(1979年3月3日公開、朝間義隆監督、松竹) - 原案
- シュンマオ物語 タオタオ(1981年12月28日公開、島村達雄監督、松竹) - 監修、原案
- いとしのラハイナ(1983年8月6日公開、栗山富夫監督、松竹) - 原案
- 泣き虫チャチャ(1987年2月21日公開、花輪金一監督、松竹) - 原作
- 椿姫(1988年6月4日公開、朝間義隆監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌(1988年12月24日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- ハラスのいた日々(1989年11月18日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌2(1989年12月27日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌3(1990年12月22日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌4(1991年12月23日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌5(1992年12月26日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌6(1993年12月25日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌スペシャル(1994年7月16日公開、森崎東監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌7(1994年12月23日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 時の輝き(1995年3月18日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚色
- サラリーマン専科(1995年12月23日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚色
- 釣りバカ日誌8(1996年8月10日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- サラリーマン専科 単身赴任(1996年12月28日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚色
- 釣りバカ日誌9(1997年9月6日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 新サラリーマン専科(1997年11月22日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌10(1998年8月8日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 花のお江戸の釣りバカ日誌(1998年12月23日公開、栗山富夫監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌イレブン(2000年2月5日公開、本木克英監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌12 史上最大の有給休暇(2001年8月18日公開、本木克英監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!(2002年8月10日公開、本木克英監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌14 お遍路大パニック!(2003年9月20日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?(2004年8月21日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- 珈琲時光(2004年9月11日公開、侯孝賢監督、松竹) - 衣裳デザイン
- 釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪♪(2005年8月27日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌17 あとは能登なれハマとなれ!(2006年8月5日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- 出口のない海(2006年9月16日公開、佐々部清監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束(2007年9月8日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌19 ようこそ!鈴木建設御一行様(2008年10月25日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- 釣りバカ日誌20 ファイナル(2009年12月26日公開、朝原雄三監督、松竹) - 脚本
- いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜(2012年7月14日公開、海南友子監督、クレストインターナショナル) - エグゼクティブプロデューサー
テレビドラマ
演出
- 東芝日曜劇場(TBSテレビ)
- 「24才」シリーズ(1967年 - 1969年)
- 「父」(1971年)
- 「続・父」(1971年)
- 「初恋」(1971年、北海道放送)
- 「放蕩一代息子」(1973年)
- 「嫁」(1973年)
- 「恋人」(1974年)
- 「裏長屋愛妻記」(1974年)
- 「ふれあい」(1976年)
- 「幸子の恋」(1976年)
- 「ひとり娘」(1977年)
- 「放蕩かっぽれ節」(1978年)
- 「伜」(1979年)
- 「出航」(1981年)
- 「ああ、たらちねの母」(1985年)
- 「ぼくの椿姫」(1985年、北海道放送)
- 「くもりのちハーレー」(1988年)
- 泣いてたまるか(TBSテレビ)
- 第12回「子はかすがい」(1966年)
- 第27回「なつかしいあいつ」(1967年)
- 最終回「男はつらい」(1968年)
- 男はつらいよ(1968年、フジテレビ)
- 祝辞(1971年、NHK)
- 遥かなるわが町(1973年、TBSテレビ)
- 松本清張のゼロの焦点(1983年、TBSテレビ) ※橋本忍と共作
- 泣いてたまるか(西田敏行版、TBSテレビ)
- 第1回「花嫁のお父ちゃん」(1986年)
- 第3回「結婚に向かない二人」(1986年)
- 遥かなるわが町(1990年、TBSテレビ)
- 祖国(2005年、WOWOW)
脚本
- 遺族(1961年8月16日、日本放送協会) - 野村芳太郎との共作
- 一等寝台車のあいつ(1962年1月2日、日本テレビ放送網) - 山田よしお名義
- 裁く(1963年2月9日、NHK教育テレビジョン) - 山田よしお名義、熊谷晋との共作
- 浮気はつらいよ(1964年8月22日、日本テレビ放送網)
- おれの番だ!【第7話 ホラ安の唄】(1965年6月7日~7月12日、TBSテレビ)
- レモンのような女【第6話オムニバス「もしもその時雨が降っていなかったら」】(1967年6月14日、TBSテレビ)
出演作品
- 映画
- テレビ
- 100年インタビュー(NHKBS2、2007年11月15日放送)
著書
- 山田洋次作品集(全8巻、立風書房)
- 息子、家族(岩波書店 同時代ライブラリー)
- 学校(岩波書店 同時代ライブラリー)
- 映画をつくる(大月書店)
- 寅さんの教育論(岩波書店 岩波ブックレット)
- 寅さんの学校論(田中孝彦との対談、岩波ブックレット)
- 寅さんの人間論(同上)
- 映画館(こや)がはねて(中公文庫)
- 放蕩かっぽれ節―山田洋次落語集(ちくま文庫)
- 男はつらいよ(全5巻、ちくま文庫)
- 対話山田洋次 1・2(旬報社) - 各著名人8名との対談
- 遥かなるわが町(上・下、集英社文庫)
参考文献
脚注
関連項目
- 田坂具隆
- ちひろ美術館
- 山田洋次監督が選んだ日本の名作100本(2011年からNHKBSプレミアムで毎週日曜10時から放送している)
外部リンク
テンプレート:日本映画監督協会理事長 テンプレート:山田洋次の監督作品 テンプレート:毎日芸術賞 テンプレート:ブルーリボン賞監督賞
テンプレート:毎日映画コンクール監督賞- ↑ こちらの山田亜樹は、俳優の山田吾一の娘である。
- ↑ 2.0 2.1 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (2)」 『毎日新聞』 2010年1月19日、12版、9面。
- ↑ 「私の履歴書 山田洋次⑧⑪」『日本経済新聞』1996年10月8、11日付。
- ↑ 4.0 4.1 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (1)」 『毎日新聞』 2010年1月18日、13版、5面。
- ↑ 6.0 6.1 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (5)」 『毎日新聞』 2010年1月26日、12版、10面。
- ↑ 一等寝台車のあいつ テレビドラマデータベース
- ↑ 『たそがれ清兵衛』を、「山田監督初めての時代劇」と紹介するのは誤りである。ただし『運が良けりゃ』は、「時代喜劇」とも呼ばれるもので、設定は江戸時代であるものの、筋のメインは喜劇であり、正統派の時代劇ではない。よって、『たそがれ清兵衛』を「山田監督の初めての時代劇」というのも、全くの誤りとは言えない。
- ↑ 山田洋次監督、横審委員退任に感慨深げ「濃密な10年。朝青龍、八百長問題…」 デイリースポーツ 2014年01月27日21時42分
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:PDFlink
- ↑ 松竹が正式発表 山田洋次監督新作の製作延期 - スポーツ報知、2011.4.14
- ↑ 「世田谷・9条の会」申し合わせ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 16.0 16.1 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (6)」 『毎日新聞』 2010年1月27日、12版、9面より引用。
- ↑ 山田洋次監督、ベルリン特別功労賞に1600人が拍手「一生の記念」映画.com
- ↑ テンプレート:Cite web