君が代
テンプレート:Infobox anthem 君が代(きみがよ)とは、日本の国歌である。
明治維新後の1880年(明治13年)に曲がつけられ、以後は国歌として扱われるようになった。1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で正式に国歌に制定された。元は平安時代に詠まれた和歌である。
目次
歌詞
テンプレート:Sister1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、日本の国歌として「君が代」が採用された。この国歌のテーマは皇統の永続性であり、歌詞は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである[1]。
日本の国歌の歌詞およびその表記は、国旗及び国歌に関する法律別記第二では以下の通り[注 1]。
バジル・ホール・チェンバレンは、この日本の国歌を英語に翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する[2]。
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった:
皇祚連綿兮久長
万世不変兮悠長
小石凝結成巌兮
更巌生緑苔之祥
歴史(制定までの経緯)
日本における君が代の認識
国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村裕庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[3]
つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した[注 2]ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[3]。
こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。
和歌としての君が代
テキストと作者
作者は未詳。
歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。
我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[4][5]。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている[6]。
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[6]。
解釈
万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのか、はたまた別の王朝なのかどうかということがしばしば問題にされる。
『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない[7]。
『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 3]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[8]。
これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 4]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[3]。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[8]。
国歌になるまでの君が代
元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。
江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指すテンプレート:要出典)に変形されて隆達節の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる[9])、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた[10]。
明治維新から「君が代」制定まで
テンプレート:Sister 1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された[4][11]。国歌の概念が無かった日本人に対してフェントンがどのような説明を行ったかは定かではないが、国王を言祝ぐ英国国歌"God Save the King"が手本にされたのであろうと言われているテンプレート:要出典。
ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが海軍内で異論があり海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただしこの説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られているテンプレート:要出典。
当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[4][5][11]。
同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[5][11]。
その後の1893年(明治26年)8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[5][12]。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている[12]。また1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[5]。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。
1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した[13]。
国歌としての君が代
第二次世界大戦前
大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。 修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記された。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、君が代の斉唱を全面的に禁止したテンプレート:Sfn。その後GHQは厳しく制限しつつごく特定の場合に掲揚・斉唱を認めテンプレート:Sfn、1947年(昭和22年)5月3日の憲法施行記念の式典で斉唱された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。例えば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない。」とした上で「新国歌が作られなくてはならない。」と主張した[14]。
日本国政府の公式見解は、国旗国歌法が提出された際の1999年(平成11年)6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[15]。
学校・教育現場では、1946年(昭和21年)に国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されたが、 「祝日には学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することが望ましい」とする天野貞祐文部大臣「談話」が1950年(昭和25年)10月17日に全国の教育委員会に通達され、1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどからテンプレート:Sfn、 学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱を義務付けている[16]。
君が代の現状
君が代は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査[注 5]において、対象者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5%だった[17]。
意見の対立
前掲のとおり、君が代が日本の国歌にふさわしいという世論調査の一方で、君が代の歌詞への反対意見はしばしば取り上げられる。主に日本教職員組合や傘下の教職員労働組合による、教育現場での「君が代伴奏」「君が代斉唱」反対運動も存在する。主な肯定的/否定的意見には以下のようなものがある。
肯定的意見
- 事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視すべき
- 政治的背景とは無関係に日本的な曲であって国歌に最もふさわしい
- 国民は愛国心を持つべきであるから「君が代」を歌うことでその意識を高めなければならない
- 君が代によって天皇陛下への忠誠心を涵養(かんよう)する
否定的意見
- 大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い(「君」は天皇を指すため)
- (「天皇の治世」という意味の国歌は)天皇が絶対的権力者だった大日本帝国憲法には相応と言えても主権在民の現憲法にはふさわしくない
著名人の意見
- 1999年(平成11年)に石原慎太郎は「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか」と答えている[18]。
- 1999年(平成11年)に菅直人は「厚生大臣を務めていたときは終戦の日の戦没者慰霊式や、日本青年会議所のセレモニーに招かれたときにも歌った。」と、歌うことについては肯定的な一方で、君が代そのものに対しては「もう少し明るい歌でもいい。歌詞も(解釈が)わかりにくい部分があり、1回議論してみるのは良いことだと思う」と述べた[19]。
- 2004年、『東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について「強制になるということでないことが望ましいですね」と発言された。』[20]
国際スポーツ競技
テンプレート:節stub 国際競技大会やオリンピックの表彰式・FIFAワールドカップの試合前などで、国旗掲揚・国歌斉唱が厳粛に行われている。しかし、国歌斉唱をしない選手への対処が問題になっている。
フランスのサッカー代表・ローラン・ブラン監督は、UEFA欧州選手権2012初戦までにフランス国歌を歌えるようにするよう通達を出した。「微妙な問題だが、私個人の考えで明日の試合で国歌を歌うように選手に促した。…誰にも行動の自由はあるが、国歌を知っているのなら歌わないと」[21]。
君が代に関しては、例えばサッカー日本代表の試合前の吹奏(または独唱・斉唱)時には、ユニフォームの胸に手を当てながら君が代を歌う選手の姿が見受けられる。その他の競技でも国歌吹奏等の際に特段の混乱は生じていない。
放送局での君が代の演奏
1951年(昭和26年)9月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し正式に日本が独立国に復帰して以降、日本放送協会(NHK)のラジオ放送で連日放送終了後にオーケストラによる「君が代」の演奏が始まった。テレビではNHKが開局した1958年(昭和33年)2月の時点ではなかったが、同年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。
しかし、近年になりNHKが24時間放送を積極的に行うようになったため、現在は毎日の録音演奏はNHKラジオ第2放送と NHK教育テレビ(現NHK Eテレ)それぞれの終了時のみで流れる。ただしNHK Eテレは24時間放送を行っていた2000年(平成12年)から2006年(平成18年)4月までは放送休止を行う時(毎月第2・4・5週の日曜深夜の放送終了時とそれが明けた月曜5時前)に流れていた。NHK総合テレビでは各放送局の減力放送・放送休止明け(歌詞についてはテロップ表示される局とされない局がある)に流れる(放送局管内の一部地域での休止の場合は流れないこともある)。
また民放のニッポン放送でも以前は毎日演奏(ジャンクション)を放送していたが、1998年(平成10年)4月より毎週月曜日の放送開始時と土曜日の5時前に限って放送している。また、以前はAFNでも毎日0時のニュース明けに、FNN/FNS・NNN/NNS系列のテレビ大分とFNN/FNS系列のテレビ熊本でも放送開始・終了時に日章旗掲揚と共に、それぞれ演奏されていた。なおAFNでは君が代に引き続いてアメリカ国歌も演奏されていた。
スカパー!217chで間借り放送をしているチャンネル桜では、間借り放送開始時と終わりの時に、日章旗と共に「君が代」の演奏が流れる。
フジテレビで放送された世界フィギュア選手権の女子フリーで2007年(平成19年)・2008年(平成20年)・2010年(平成22年)と日本人選手が優勝したにも関わらず、国旗(日章旗)掲揚及び国歌(君が代)演奏・斉唱がカットされた一方、2009年(平成21年)に韓国人の選手が優勝した際に韓国の国旗掲揚・国歌斉唱が放送され、放送局の姿勢と合わせて批判されたこともある。
教育現場
「君が代」の教育現場での扱いについては一部で議論になることが多いテーマである。
1998年(平成10年)頃から教育現場において、文部省の指導で日章旗(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「君が代」斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する日教組教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つのきっかけとして「国旗及び国歌に関する法律」が成立、政府は国旗国歌の強制にはならないとしたが日教組側は実際には法を根拠とした強制が教育現場でされていると指摘、斉唱・掲揚を推進する教育行政並びにこれを支持する保守派との対立は続いてきた。職務命令が発せられていること自体は事実で、職務命令の服従を拒否した結果懲戒処分を受け、その取消を求める訴訟も頻発している。しかし近年、国民の大多数に受け入れられている現実から日教組の姿勢も軟化し入学式や卒業式での国旗掲揚国歌斉唱の実施率は上昇している(君が代に対する意見の対立については、国旗及び国歌に関する法律を参照)。
日教組は、「日の丸・君が代」を拒否しているが、「君が代」に代わる新しい国歌の制定を主張していない。ただし、独自に新たな「国民歌」を公募したことがある。
君が代に代わる国歌制定運動
第二次世界大戦後の1950年代初頭、「君が代」に代わる新たな「国民歌」を作ろうと日本教職員組合と壽屋(現:サントリー)がそれぞれ募集し、別々に「新国民歌」を選定し公表した。日本教職員組合が「緑の山河」、壽屋が「われら愛す」という楽曲をそれぞれ選出したが、その後、これらのいずれも定着には至らなかった。
起立斉唱問題
「新学習指導要領 第6章 第3の3[22]」を法的根拠として、国歌斉唱時に起立するよう指導するかしばしば問題になっている。ただし学習指導要領自体は法律ではなく「告示」という形式であり、どの程度の法的拘束力があるのかまでは判断されていない。
2007年(平成19年)2月27日の最高裁判決(日野「君が代」伴奏拒否訴訟)、2011年(平成23年)5月30日の最高裁第2小法廷判決(須藤正彦裁判長)[23]、2011年(平成23年)6月6日の最高裁第1小法廷判決(白木勇裁判長)[24] 、2011年(平成23年)6月14日の最高裁第3小法廷判決(田原睦夫裁判長)[25]、2011年(平成23年)6月21日の最高裁第3小法廷判決(大谷剛彦裁判長)[26] のいずれも「校長の職務命令は思想及び良心の自由を保障した憲法19条に違反しない」と合憲の判断を下し、最高裁の全小法廷が合憲で一致した。「思想・良心の自由の間接的な制約となる面がある」と認定する一方、命令が教育上の行事にふさわしい秩序を確保し、式典の円滑な進行を図るという目的から「制約には必要性、合理性がある」とし、起立・斉唱の職務命令の正当性を幅広く認めた。読売新聞は「教育現場における「憲法論争」は決着した」と報道した[27]。朝日新聞は一部裁判官の補足意見(少数意見)を紹介。「処分を伴う強制は教育現場を萎縮させるので、できる限り謙抑的であるべきだ」(須藤正彦裁判官)、「司法が決着させることが、必ずしもこの問題を解決に導くことになるとはいえない。国旗・国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要だ」(千葉勝美裁判官)など。朝日新聞は「(合憲で決着の)司法判断だけに頼らない議論が求められる」と報道した[28]。
最高裁判決への識者の評価
西原博史早稲田大学教授
- 判決は起立命令が思想・良心の自由に対する制約となり、合理性・必要性がなければ許されないことを明らかにした。そこが不明確だったピアノ伴奏判決よりも理論的には進化したが、どんな合理性・必要性があったのかは必ずしも明らかではない。「公務員として生徒に模範を示すべきだ」と判決が指摘したことは、生徒ら一般国民に起立義務が及ばないと考える根拠にはなる。だが、この命令が、上への忠誠よりも個人の信条が優先すると教えようとする教師を排除する「踏み絵」だった事実は最高裁に伝わっていない[29]。
奥平康弘東京大学名誉教授
- 3人の補足意見を見ると「起立命令の合憲性はぎりぎりだ」という悲鳴が聞こえてくるようだ。結論はピアノ訴訟と同じだが、裁判官たちの判断の経緯に苦労がうかがえ、実質的に違憲判決に近くなった印象を受ける[30]。
石井昌浩教育評論家・元国立市教育長
- 1審判決は、ひとたび少数派が「内心の自由が侵された」と叫べばどんな主張もまかり通るようなおかしな内容だった。国旗・国歌をめぐる訴訟では原告教師らがメディアに出ては、行政当局や校長がはじめから教員を処分する悪意を持っていたかのように断罪をする。しかし、実態はそうではない。はじめにあったのは国旗と国歌に対する彼らの執拗かつ陰湿な妨害行為であって、これを正すために職務命令が持ち出されたにすぎない。教育基本法改正で法的に問題は決着しており、後は学校現場が学びにふさわしい環境と秩序を取り戻すことだ[31]。
百地章日本大学教授
- 妥当な判決。学習指導要領に基づいて生徒を指導すべき教師が職務命令に違反した以上、厳しい処分はやむを得ない。この判決で、国歌斉唱時の起立を巡る混乱が収束することを期待する[32]。
大阪府・大阪市における条例
橋下徹の地域政党『大阪維新の会』の主導により、大阪府と大阪市で公立小中高校の教職員を対象に斉唱時に起立することを義務付けする国旗国歌条例が成立した[33]。
異説
九州王朝時代を起源とする説
九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している[34][35]。
- 「君が代」は、金印(漢委奴国王印)が見つかった福岡県・志賀島の志賀海神社で4月と11月の祭礼(山誉め祭[36])として以下のような神楽歌として古くから伝わっている。なお、この山誉め祭は、民族学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の無形文化財に指定されている。
- 糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の王墓とされる平原遺跡の近隣に細石神社の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元の方が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。
- 細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、桜谷神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。
上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良?)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。
- 『古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集が醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『平家物語』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
- 糸島・博多湾一帯[37]は参考資料[38]」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと考えられる。
もとは挽歌であるとする説
藤田友治を中心として唱えられている、およそ以下のような説[39]。古田説の亜流であり、「古田の助手のような青年」と言われる[40]古賀達也も支持している。
- 国歌の元歌とされる古今集の賀歌は『万葉集』の挽歌を本歌にしたものであり、もともとは挽歌である。
- 本来挽歌であったものを賀歌にしたのは、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の個人的創作活動である。
- したがって国歌になった「君が代」も挽歌なのだと認識すべきである。
歌としての論評
「小さな石が大きな岩になる」という内容が非科学的であるとの批判がある。これに対して、以下のような反論がある。
- これは地質学的に一般的な現象である。小さな砂粒が大きな石になる例には細石やストロマトライトなどが知られており、またチャート(SiO2)や、石灰質岩により他の岩石破砕物を固結する例もよく見られることである。堆積岩、水成岩である砂岩や礫岩などは、砂の粒子が大きな岩体に固結する仕組みとも言える。これらは必ずしも近代的な知識ではなく、少なくとも部分的には古くから知られていたことが「さざれ石」の名からわかる。非科学的という誤解は歌詞の正確な理解を欠くことによる。
- これはそもそも文学表現である。「起こらないことが起こるまで」とは「永遠に」を意味するありふれた修辞である。
「メロディが歌いづらい」「歌詞が陰鬱だ」などといった意見がある。特に原譜では前奏が存在せず一斉に歌いだしにくいため、最初の2小節を繰り返して前奏付きとするアレンジを行うことがある。ただ、この曲調は、雅楽の中でも大陸文化がもたらされる以前の形式である神楽歌が基調とされていることに起因する。
左翼を公言する永六輔は「大勢で歌うと揃わない歌」だとして、特に「さざれ石」の一息が続かずに「さざれ」で息継ぎをして後が微妙に遅れる者が出やすいと述べた[41]。ちなみに朝鮮半島のパンソリふうに歌うとピタリとはまるとも述べた。母音で伸ばすのはパンソリの歌い方だという永の意見に対しては、パンソリでなくとも母音で伸ばす歌唱法はあると内藤孝敏が指摘している[42]。また音階にレとラが無い琉球音階を伝統とした沖縄にとって、メロディの半分がレとラの「君が代」は諸事情を別にしても合わないとして、全国に一県でも歌いにくいところがあるなら国歌とするのはどうなのかと述べてもいる[41]。
関連する楽曲
- 君が代
- 君が代行進曲
- 唱歌版君が代
- 箏曲・君が代変奏曲(宮城道雄作曲)
- 信号ラッパ譜・君が代(戦前の陸軍・海軍のバージョン違いの2種類に、戦後制定のものの3種類存在する)
- 皇子さま(久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲) - 今上天皇が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。
- 君が代(忌野清志郎)
- 「君が代」の主題によるパラフレーズ 作品96(アレクサンドル・グラズノフ)
参考音源
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- 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。
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- 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。
- Kimigayo50.mid Media:Kimigayo50.mid </span>
- 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。
脚注
出典
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book(非売品)
- テンプレート:Cite book - 光風館書店(1934年(昭和9年)刊)の復刊。
- 『君が代のすべて』キングレコード、 2000年
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関連項目
外部リンク
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テンプレート:Link GA- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ チェンバレンの英訳は、『国歌君が代の研究』より。この英訳を和訳した歌詞は、シロニー (2003)、30頁。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 テンプレート:Cite book
- ↑ 4.0 4.1 4.2 テンプレート:Cite book
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 テンプレート:Cite video
- ↑ 6.0 6.1 テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 8.0 8.1 テンプレート:Cite book収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』
- ↑ 川口和也「『君が代』の履歴書」批評社、2005年、3章「封印された『君が代』」
- ↑ 山田孝雄『君が代の歴史』宝文館出版、昭和31年、9章「この歌は古来如何に取り扱われたか」、10章「江戸時代に於ける「君が代」の歌」
- ↑ 11.0 11.1 11.2 テンプレート:Cite book
- ↑ 12.0 12.1 テンプレート:Cite book
- ↑ 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈(「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン)
- ↑ [1]「日の丸」「君が代」に関する戦後年表
- ↑ テンプレート:Cite press release
- ↑ 毎日新聞(1999年(平成11年)3月13日付)のインタビュー)
- ↑ 論座 1999年8月号より
- ↑ 日経電子版
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 新学習指導要領・第6章特別活動 文部科学省ホームページ
- ↑ が代訴訟、起立命じる職務命令「合憲」 最高裁初判断 朝日新聞 2011年5月30日付
- ↑ 君が代起立命令、別の小法廷も「合憲」 最高裁判断 朝日新聞 2011年6月6日
- ↑ 国旗国歌の起立訴訟 3度目の「合憲」 最高裁全法廷判断出そろう 産経新聞 2011年6月14日
- ↑ 君が代起立、4件目の合憲判断…最高裁 読売新聞 2011年6月21日
- ↑ 卒業式で国歌の起立斉唱命令、最高裁が合憲判断 読売新聞 2011年5月30日付
- ↑ 朝日新聞2011年5月31日
- ↑ 朝日新聞2011年5月31日
- ↑ 毎日新聞2011年5月31日
- ↑ MSN産経2011年5月30日
- ↑ 毎日新聞2011年5月31日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 参考:独創古代|君が代の源流
- ↑ 参考:志賀海神|社山誉祭
- ↑ l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸
- ↑ 参考資料:福岡|歴史的視点から見た干潟環境の変化と 人との係わりに関する研究 ―福岡・今津干潟を例にー
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 『偽書「東日流外三郡誌」事件』
- ↑ 41.0 41.1 永六輔 『芸人』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年10月20日、133-136頁。
- ↑ 内藤孝敏 "「国歌」となった「君が代」" 2009年(平成21年)9月8日 閲覧(内藤孝敏「「歌唱(ウタ)」を忘れた「君が代」論争」『諸君!』 文藝春秋社、1999年10月号 所収)
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