軍楽隊
軍楽隊(ぐんがくたい) とは、一般的には軍隊に属する音楽隊のこと。
目次
概要
野外で演奏されることが多く、大きな音量を必要とするため歴史的に管楽器と打楽器からなる吹奏楽の編制が採られることが多い。概ね第一次世界大戦以降は戦闘ドクトリンの進化や無線通信の普及によって、ビューグル(喇叭)とともに戦場での音楽による情報伝達任務は廃れたものの、パレード(観兵式・閲兵式・観閲式)や栄誉礼などの式典や行事における演奏任務、将兵の慰安や士気昂揚のための音楽演奏(軍歌・軍楽や行進曲を主体にジャンルは多彩にわたる)では今なお現役である。なお軍隊内にジャズ・バンドやロック・バンド、合唱団が置かれることもある。
他方、戦時平時を問わず大衆的な音楽演奏の役割を担ったため、民間にも管打楽器編制の音楽隊が結成された。特に、アメリカでは軍の活動であっても民間の団体に演奏を委ねることが多く、またイギリスでは労働者階級に広がった金管バンド(brass band)との区別もあって、ミリタリー・バンド(military band)の語を、軍隊に属していない民間の吹奏楽団に対しても用いることがある。本項では軍に属する狭義の意味での軍楽隊、特に日本の軍楽隊について詳述する。民間の音楽隊については吹奏楽を参照。
日本軍
日本軍においては、1871年(明治4年)に陸軍及び海軍に軍楽隊が発足し、1872年(明治5年)の鉄道開業式では早くも公の場での演奏を行っている。明治期には鹿鳴館での奏楽なども担当した。
明治2年9月、薩摩藩の青年30人が、横浜に駐屯していたイギリス歩兵軍楽隊(楽長はフェントン)について軍楽を修習したのが最初である。明治4年、陸海軍の制度が成立すると、この30人が陸海軍に別属させられた。陸軍においては兵学寮のフランス式喇叭と合同され、明治6年、鎌倉における天覧野外演習にさいして喇叭教官としての雇教師ダクロン(フランス人)の指揮により天皇に聞かせた。これが軍楽隊の御前演奏の最初である。明治8年、軍楽隊にかんする条例が制定され、官等級も他兵科に準じて規定された。明治10年、西南戦争で討伐軍団に属して従軍させられた。これにさきだって明治6年、岡崎城下にあった徳川の旧臣の二男三男のなかから軍楽隊が召募され、その翌年からは毎年、地方から新兵が召募された。明治13年、総員は2隊に分けられ、第一軍楽隊および第二軍楽隊がそれぞれ設けられ、第一軍楽隊が馬場先門外に、第二軍楽隊が和田倉門外に、それぞれ置かれた。
明治17年、フランス軍楽隊長ルルーが聘され、軍楽隊が革新され、明治21年、両隊に卒業生が加えられて3分され、1は基本隊とされ教導団に、1は近衛鎮台に、1は大阪鎮台に、それぞれ設置された。明治24年、軍楽基本隊は陸軍戸山学校に移転させられた。明治23年、ルルーが帰国し、翌年、ドイツのエッケルトが聘され、ドイツ軍楽が研究された。日清戦争では、3個隊の軍楽隊が従軍させられた。明治33年、義和団の乱では、日本軍楽隊は北京に駐屯し、各国軍楽隊とともに国際的演奏をおこなった。日露戦争でも、各軍楽隊は従軍させられた。戦後、朝鮮および旅順に駐箚軍楽隊が設置された。明治43年、ロンドンにおける日英博には各隊から35人が選抜され、代表軍楽隊としてイギリスに行き国際的演奏をおこない5か月間滞在した。
大正元年11月、第三師団軍楽隊が名古屋に設置された。大正7年、シベリア出兵にさいしては第三師団軍楽隊、第四師団軍楽隊、近衛師団軍楽隊および戸山学校軍楽隊から2隊の臨時軍楽隊が編成され、従軍させられた。しかしそのいっぽうで、大正4年、旅順および朝鮮駐箚軍楽隊が撤廃され、大正11年、軍縮により第三師団軍楽隊が廃止され、大正12年、近衛および第四師団軍楽隊が廃止され、戸山学校軍楽隊のみとなった。当時、戸山学校軍楽隊は定員135名、毎年10名の軍楽生徒が採用され、軍楽生徒は満16年から20年までの者の志願によって入校させられた。
陸軍
陸軍では主に軍楽隊の総本山であった陸軍戸山学校で軍楽教育が行われ、ここで組織された軍楽隊を陸軍戸山学校軍楽隊(名称は何度も改称されており、これは8個目となる)と称する。なお、1937年(昭和12年)に陸軍戸山学校軍楽隊は陸軍軍楽隊に改称されているものの、旧称である「陸軍戸山学校軍楽隊」は内外で引き続き使用されている[1]。
「抜刀隊」や「陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)」を作曲したシャルル・ルルーがフランス人であり、また帝国陸軍は一貫してフランス軍とドイツ軍に倣っていた事もあり、主要軍楽隊員はフランス・ドイツに留学する事が慣習であった。1910年(明治43年)には日英博覧会のため、永井建子陸軍戸山学校軍楽隊々長以下、戸山学校軍楽隊員・各師団軍楽隊員・戸山学校軍楽生徒らから選抜された35名からなる軍楽隊がロンドンに派遣されている(フランス経由)。大正末期から昭和初期には宇垣軍縮の影響をまともに受け、近衛師団(東京)、第3師団(名古屋)、第4師団(大阪)の各軍楽隊が解散となり、第4師団軍楽隊は後に大阪市音楽隊(現・大阪市音楽団)に改組された。後に中止されるものの、吹奏楽のみならず弦楽器に関する教育も行われており、ワーグナーやシューベルトの交響曲などもレパートリーにしていた。
なお、演奏のみならず、部隊歌といった軍歌・軍楽の作曲も盛んに行っており、著名なものとしては1940年(昭和15年)当時の南支那方面軍軍楽隊が作曲した「飛行第64戦隊歌(加藤隼戦闘隊)」がある。太平洋戦争中は戸山学校などから隊員を捻出したり、各軍楽隊を統合するなどし、関東軍・支那派遣軍・南方軍といった総軍に軍楽隊を増設していった。
敗戦による陸軍解散後、陸軍軍楽隊(陸軍戸山学校軍楽隊)は禁衛府皇宮衛士総隊奏楽隊となり、禁衛府廃止後はNHKに合流しNHK吹奏楽団となったが短命に終わった。しかしながら、一部の軍楽隊員自体は日本交響楽団(NHK交響楽団)等に合流、中でも山口常光元陸軍軍楽隊々長(元奏楽隊々長)は警視庁音楽隊創設に参画し初代隊長に就任、須摩洋朔元南方軍軍楽隊副隊長らは警察予備隊音楽隊、保安隊音楽隊を経た陸上自衛隊音楽隊創設に参画し、須摩は陸上自衛隊中央音楽隊初代隊長に就任している。また、航空自衛隊音楽隊創設にも多くの元軍楽隊員が参画しており、航空自衛隊航空中央音楽隊々長は初代(松本秀喜)から第4代(斎藤高順元陸軍軍楽上等兵)に至るまで、元陸軍軍楽隊出身者が務めている(また、松本と斎藤は退官後に警視庁音楽隊々長に就任)。
出身者で「戸楽会(とがくかい)」が結成されている。
海軍
海軍では鎮守府に軍楽隊を置くことが決められており、横須賀海兵団軍楽隊から隊員を派遣する形をとっていた。またこれとは別に、横須賀海兵団東京分遣所が海軍軍楽隊の総本山であった。軍縮時代には舞鶴鎮守府が一旦閉鎖となり、軍楽隊も引き上げられたが、再度鎮守府が置かれた際に再び設置されている。練習艦隊や行事等で海外に派遣される軍艦には、選抜された隊員で組織された軍楽隊が乗り組み、諸外国を歴訪した。技量優秀な者は東京音楽学校に特修生として派遣され、より高度な教育を受けることが出来た。海軍においても吹奏楽のみならず、弦楽器に関する教育も行われ太平洋戦争敗戦まで教育が続けられ、ベートーヴェンの交響曲などもレパートリーにしていた。
敗戦による海軍解散後、横須賀海兵団東京分遣隊は山田耕筰らが中心となって組織された東京都音楽団に合流したが短命に終わった。この他、内藤清五元海軍軍楽中尉らが東京都吹奏楽団に合流し、東京消防庁音楽隊創設に参画、また、一部の軍楽隊員は海上自衛隊音楽隊創設に参画している。
出身者で「楽水会(がくすいかい)」が結成されている。
終戦時の主な軍楽隊
陸軍
- 陸軍軍楽隊(陸軍戸山学校軍楽隊)
- 関東軍軍楽隊
- 支那派遣軍軍楽隊
- 南方軍軍楽隊(新)(サイゴン)
- 第2総軍軍楽隊(広島)
- 北支那方面軍軍楽隊
- 第14方面軍軍楽隊
- 第16軍軍楽隊(ジャワ島)
- 第23軍軍楽隊
- 第25軍軍楽隊(スマトラ島)
- 第28軍軍楽隊
- 第29軍軍楽隊
第29軍軍楽隊は日本人は隊長のみであり、残りは現地採用の楽器が使えるインド人や中国人などで編成されていた。
海軍
- 横須賀海兵団軍楽隊東京分遣隊
- 横須賀海兵団軍楽隊
- 呉海兵団軍楽隊
- 佐世保海兵団軍楽隊
- 舞鶴海兵団軍楽隊
- 大阪警備府軍楽隊
- 支那方面艦隊司令部附軍楽隊(上海)
- 第四艦隊司令部附軍楽隊(トラック島)
- 南西方面艦隊司令部附軍楽隊(フィリピン)
南西方面艦隊司令部附軍楽隊は総員の3分の2が戦死・戦病死して生存者は隊長を含む11名のみであった。
階級
テンプレート:See also 終戦時の陸軍軍楽部・海軍軍楽科の階級は次の通り。
陸軍軍楽部
海軍軍楽科
- 士官(将校相当官) - 海軍軍楽少佐
- 特務士官 - 海軍軍楽特務大尉・海軍軍楽特務中尉・海軍軍楽特務少尉
- 准士官 - 海軍軍楽兵曹長
- 下士官 - 海軍上等軍楽兵曹・海軍一等軍楽兵曹・海軍二等軍楽兵曹
- 兵 - 海軍軍楽兵長・海軍上等軍楽兵・海軍一等軍楽兵・海軍二等軍楽兵
著名な軍楽隊出身者
陸軍
- 永井建子 - 陸軍軍楽隊長。「道は六百八十里」・「元寇」・「雪の進軍」・「拓殖大学校歌」などを作曲。
- 古矢弘政 - 陸軍軍楽隊長。「國の鎮め」・「命を捨てて」などを作曲。日本人として初めてフランス・パリでオーボエを学び、パリ万国博覧会にも出演した人物。
- 辻順治 - 陸軍軍楽隊長。「爆弾三勇士の歌(当時の楽長補大沼哲との合作)」・「上海派遣軍の歌」・「庄内農業学校校歌」 などを作曲。
- 大沼哲 - 陸軍軍楽隊長。「奉祝前奏曲」・「立派な青年」などを作曲。
- 須摩洋朔 - 南方軍軍楽隊副隊長。「噫呼聖断は降りたり」・「壮行譜」・「戦陣訓の歌」・「鬨の声」・「千代田城を仰いで」・「大空」・「祝典ギャロップ」などを作曲。戦後は陸上自衛隊中央音楽隊初代隊長に就任。
- 山口常光 - 陸軍軍楽隊長。吹奏楽に関する教則本、陸軍軍楽隊の歴史などを執筆。戦後は警視庁音楽隊初代隊長に就任。
- 松本秀喜 - 陸軍軍楽隊員。「慰霊の曲」などを作曲。戦後は航空自衛隊航空中央音楽隊初代隊長に就任
- 團伊玖磨 - 陸軍軍楽隊員。
- 斎藤高順 - 陸軍軍楽隊員。「ブルー・インパルス」「オンリー・ワン・アース」「銀翼」、小津安二郎作品映画音楽(「東京物語」等)などを作曲。戦後は航空自衛隊航空中央音楽隊第4代隊長に就任。
- 奥村一 - 陸軍軍楽隊員。
- 芥川也寸志 - 陸軍軍楽隊員。
芥川らが陸軍軍楽隊(陸軍戸山学校軍楽隊)に生徒として入隊したのには、次のようなエピソードがある。大戦末期、東京音楽学校関係者が山口の元を訪れ、「学徒動員で狩り出されるなら、むしろ音楽技術を以って戦争協力させたい」と申し入れ、山口が承諾して戸山学校軍楽隊に昭和19年生徒として入隊したのである。結果的に最後の卒業生となり、芥川が総代を務めた。
海軍
- 田中穂積 - 「勇敢なる水兵」、「美しき天然」などを作曲。
- 瀬戸口藤吉 - 海軍軍楽隊長。「軍艦行進曲」・「愛国行進曲」などを作曲。
- 斉藤丑松 - 海軍少尉。行進曲「太平洋」・大行進曲「大日本」など。「鹿倉節」と呼ばれる独特の作風で知られる。
- 江口源吾(江口夜詩) - 「艦隊勤務」(俗称「月月火水木金金」)、「憧れのハワイ航路」などを作曲。
- 大森盛太郎 - 「嵐を呼ぶ男」など映画音楽を多数作曲
- 塚原信夫(原信夫) - ビッグバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」リーダー
自衛隊
陸上自衛隊では、音楽科の職種の隊員によって充足され、各方面音楽隊、各師団・旅団・混成団等に音楽隊が置かれている。音楽科部隊は有事の際には警務科部隊の支援を実施する。全国の音楽科隊員の教育も実施している陸上自衛隊中央音楽隊(朝霞)は、陸自のみならず陸海空の三自衛隊を代表する音楽隊として、国賓等に対する栄誉礼の奏楽を担当している。また民間においても東京優駿やジャパンカップ等、中央競馬の一部GI競走における発走前のファンファーレ演奏等を行っている
海上自衛隊では、東京(上用賀)及び大湊・舞鶴・横須賀・呉・佐世保の各地方隊毎に音楽隊(隊長は2等海佐ないし1等海尉)が置かれる。海上自衛隊東京音楽隊には教育科が置かれて音楽隊員の教育も行われる。海士特技課程(音楽課程)・中級海曹特技課程(音楽課程)は東京音楽隊でそれぞれ約16週間の教育が行われる。
航空自衛隊では、航空自衛隊航空中央音楽隊(立川)を主体として、北部(三沢)・中部(浜松)・西部(春日)・南西(那覇)の各航空方面隊に音楽隊が置かれている。
このほか、自衛隊の駐屯地・基地には、所属隊員が同好会的な音楽部・太鼓部を構成しているところもあり、一般公開時に演奏を行っている。
世界の著名な軍楽隊
- オスマン帝国軍楽隊 - 世界で最古のもの。
- イギリス近衛連隊軍楽隊
- イギリス海兵隊コマンド部隊軍楽隊
- アメリカ陸軍士官学校軍楽隊
- アメリカ海兵隊軍楽隊
- ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団(フランス共和国親衛隊音楽隊)
- ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団(国王附近衛軍楽隊)
脚注
関連項目
参考資料
- 山口常光『陸軍軍楽隊史〜吹奏楽物語り〜』三青社、1968年。
- 楽水会『海軍軍楽隊 日本洋楽史の原典』国書刊行会、1984年。
- 針尾玄三・常数英男『海軍軍楽隊 花も嵐も・・・・・・』近代消防社、2000年。
- 谷村政次郎「行進曲『軍艦』百年の航跡」大村書店、2000年、ISBN 4-7563-3012-6
外部リンク
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