東日流外三郡誌
テンプレート:基礎情報 書籍 『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は、古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされていた、いわゆる和田家文書を代表する文献。ただし、学会では偽作説が確実視されており、単に偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難いと言われている。しかし関係者の間では「古文書」という呼び方が定着しているため、本項目もそれに従うことにする。
内容
東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場した。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていた、という内容である。また、アラハバキを「荒覇吐」としたうえで遮光器土偶の絵を載せ、アラハバキのビジュアルイメージは遮光器土偶である、という印象を広めたのも、本書が「震源」である。
同書によれば、十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地(津軽・北海道・樺太など)に存在していた時の事実上の首都と捉えられ、満洲や中国・朝鮮・欧州・アラビア・東南アジアとの貿易で栄え、欧州人向けのカトリック教会があり、中国人・インド人・アラビア人・欧州人などが多数の異人館を営んでいたとされる。しかし、1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)または1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)の大津波によって十三湊は壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという。
経緯
和田がこの文書群を青森県北津軽郡市浦村に提供し、市浦村は1975年(昭和50年)から1977年(昭和52年)にかけて、『市浦村史 資料編』(上中下の三部作)として刊行した。だが後にその内容をめぐって論争が相次ぎ、大反響を呼んだ。
和田による古文書の「発見」は、1949年(昭和24年)頃から始まっている。ただし初期の古文書は地中から掘り出したとされていた(当時、和田家邸宅は藁ぶき屋根で、まだ天井裏がなかった)。1983年(昭和58年)に北方新社版『東日流外三郡誌』の刊行が始まった際、「東日流外三郡誌」はそれまでに和田が発見した古文書の総称とされ、かつては地中から掘り出したとされていた文書もその中に加えられた[1]。その後の構想の拡大で、明確に「東日流外三郡誌」以外の題を冠した古文書(実際には偽書)も和田喜八郎の手元からぞくぞくと出てくるようになった。「東日流六郡誌絵巻」「東日流六郡誌大要」「東日流内三郡誌」「北鑑」「北斗抄」「丑寅日本記」「奥州風土記」などである。ちなみに「東日流外三郡誌」と題さないそれらの文書も上記の内容を共有している。そのため、和田喜八郎の手元から出た古文書には「東日流外三郡誌」と題する題さないを問わず、共通の用語や重複した説話が多々見られる。 結局、和田は1999年(平成11年)に世を去るまで約50年にわたってほぼ倦むことなく(本人の主張では天井裏にあった箱から)古文書を発見し続けた。
和田喜八郎没後、遺品として遺された文献は段ボール箱で20個分ほど、その大部分は刊本であり、肉筆によるものは巻物が25点、冊子本が46点だった(ただしこの冊子には実際に江戸時代に書かれた写本小説も含まれている)[2]。
しかし、その中には喜八郎の生前に活字化された内容と同じ『東日流外三郡誌』の底本は含まれていない(和田は論文盗用をめぐる裁判において『東日流外三郡誌』の底本は紛失したと主張)。喜八郎が生前に個人や自治体に事実上売却した「古文書」も多数あったため、それらをも含めた総数はつかみにくいのが現状である。
真偽論争
東日流外三郡誌(およびその他の和田家文書)については、考古学的調査との矛盾(実際の十三湊の発掘調査では津波の痕跡は確認されておらず、また十三湊の最盛期は津波が襲ったとされる時期以降であったらしい)、「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」や「冥王星」「準星」など20世紀に入ってからの天文学用語が登場する[3]など、文書中にあらわれる言葉遣いの新しさ、発見状況の不自然さ(和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはない)、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある(「秋田孝季」とは何者なのか?)、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書ではないかという指摘がなされた。これに対し、真書であると主張する者もおり、偽書派・真書派間で対立した。とくに、偽書派の安本美典と真書派の古田武彦との間では、雑誌・テレビ・論文雑誌等で論争が行われた[3]。
しかしながら、原田実が真書派から偽書派へと転向するなど、偽書であるという説のほうが有力であった。一番の問題は、和田喜八郎が公開した資料は、あくまで和田喜八郎の祖父である末吉による写本(と喜八郎が主張したもの)であり、肝心の「原本」の公開を拒んでいたことであった。
1999年(平成11年)に和田喜八郎が死去した後、和田家は偽書派により綿密に調査がなされた。この結果、天井裏に古文書を隠すスペースなど確かに存在せず(後日公開された和田家内部写真[4]によれば、膨大な文書を収納できるようなスペースはなかった)、建物内には原本がどこからも発見されなかったうえ、逆に紙を古紙に偽造する薬剤として使われたと思われる液体(尿を長期間保管したもの)が発見され、偽書であることはほぼ疑いがないという結論になった。青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』[5]には、「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、現在では公的団体も偽書であることを公表している。
2007年(平成19年)、古田武彦は東日流外三郡誌の「寛政原本」を発見したと発表、2008年(平成20年)には電子出版された[6]。しかしこれについて原田実は、その筆跡はことごとく従来の和田家文書と同じであると主張している[7]。「寛政原本」はすでに活字化された東日流外三郡誌のいずれとも対応しておらず、その意味では(活字化されたものの)テキストに対する原本とはいえない。
擁護派
現在も真作説を主張する論者および真作説に好意的な論者としては古田武彦、北村泰一、笠谷和比古、平野貞夫、吉原賢二、古賀達也、水野孝夫[8]、棟上寅七、竹下義朗、福永伸三、大下隆司、佐々木広堂、前田準、上岡龍太郎、飛鳥昭雄、高橋良典、内倉武久、松重楊江、久慈力、竹田侑子、西村俊一[9] 、佐治芳彦、上城誠、合田洋一などがあげられる。この中には大学に職を得ている者や著名人、政治家などもいるが、偽書であるという定説をくつがえすに至っていない。
社会に与えた影響
テンプレート:要出典範囲また1993年(平成5年)度のNHK大河ドラマ「炎立つ」(原作・高橋克彦)は、本文書の歴史観を取り込んだものであった。
テンプレート:要出典範囲が、前述の「1980年代後半から」という時代は、いわゆる新左翼の「壊滅」の後、いわゆる「ポストモダン脱構築左翼」の時期であり、カルスタ的価値観が体制内的に受容されはじめた時期である。
フィクション作品への登場
内田康夫による『十三の冥府』(2004年発表)では、『東日流外三郡誌』をモデルとした『都賀留三郡史』が登場している。内容は『都賀留三郡史』を偽造した神主の周辺人物が次々と怪死する連続殺人事件で、『都賀留三郡史』を取材に訪れた浅見光彦が真相を解明するものである[10]。
高橋克彦原作の『竜の柩』全6巻の1巻目「聖邪顔編」において『東日流外三郡誌』、『竹内文書』が引用されている[11]。内容は龍神伝説を追う主人公と仲間達が、日本だけに留まらず、世界を舞台に『古事記』、『日本書紀』、『東日流外三郡誌』、『竹内文書』、『風土記』等に残る偶話・神話に考察を加える伝奇・SF小説。
脚注
書誌情報
参考文献
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関連文献
関連項目
外部リンク
- 偽書『東日流外三郡誌』事件
- 「東日流外三郡誌」 偽書騒動のその後
- 和田キヨエさんの配布文書
- 「古代ギリシア祭文」の史料批判
- 原田実Cyber Space - 偽史列伝
- 『東日流外三郡誌』関連論考
- 「寛政原本」の正体―『東日流外三郡誌』擁護論の自爆―
- 『真実の東北王朝』
- 東日流tenchuukun筆跡
- 寛政原本と古田史学