宮澤喜一
テンプレート:表記揺れ案内 テンプレート:政治家 宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年(大正8年)10月8日 - 2007年(平成19年)6月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。
参議院議員(2期)、経済企画庁長官(第12・13・17・18・29代)、衆議院議員(12期)、通商産業大臣(第32代)、外務大臣(第103代)、内閣官房長官(第44代)、副総理、大蔵大臣(第88・89・105・106・107代)、内閣総理大臣(第78代)、郵政大臣(第56代)、農林水産大臣(第18代)、財務大臣(初代)、自由民主党総務会長、自由民主党総裁(第15代)などを歴任。
来歴・人物
出生から学生時代まで
宮澤裕・こと夫妻の長男として東京に生まれた。本籍地は広島県福山市[1]。母・ことは司法大臣、鉄道大臣等を歴任した小川平吉の二女。父の裕は当時山下汽船に勤務していたが、すでに政界を志し、広島県から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた[2]。
東京高師附属小学校、旧制武蔵高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中の1939年(昭和14年)、日米学生会議に参加のため渡米した。
宮澤三兄弟の幼少の頃を知るいとこの和田貞子によれば、「三人はいずれも二歳違いで、とても仲の良い兄弟でした。住まいは東京でしたが、夏になると伯父(裕)の故郷であるこの福山に帰ってきて、海水浴などにでかけていました。お母さんのいうことをよく聞き、礼儀正しい子でしたね。とくに喜一先生は小学校高学年のころから議論好きで、何かというと議論していました。高校、東大に通われるころ、私は東京の家にお手伝いにいっていたのですが、そのころは勉強ばかりしていたのが印象的です」という[3]。
学生時代のことを、宮澤は次のように語っている。「私達の学生時代はご承知のような時代だったから、あんまり思い出というほどのものもないが、よく能をみて歩いた。ただ、家があまり裕福でなかったのに能の切符はその頃一円ぐらいして非常に高かったので、それを買うのが大変だった。能が好きになったのは両親の影響もあったのだろう。母が謡をやっていて、私も中学から大学まで謡をならった。若いときにやったから一応はちゃんとうたえるようになった。能のほかには当時の学生と同じようによく映画をみ、レコードを買ってきいた。神田の神保町に中古のレコード屋があって、よく買いにいったものだ…」[4]。
大蔵官僚として
1942年(昭和17年)1月、大蔵省に入省。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当していた。1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳とともに津島壽一蔵相秘書官となる。1949年(昭和24年)には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わる。1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加。
政界入り
1952年(昭和27年)に池田通産大臣がいわゆる「中小企業発言」で不信任されたのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官。本人はすぐに政界にというつもりではなかったと語るが、池田の強い勧めで翌1953年(昭和28年)、第3回参議院議員通常選挙に広島県選挙区から出馬し当選。
参院議院運営委員長などを経て、1962年(昭和37年)の第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライト(新保守)を代表する若手政治家として注目される。1967年(昭和42年)衆議院に鞍替え出馬して第31回衆議院議員総選挙に当選。以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。
「ニューリーダー」
党内では池田派(宏池会)に所属し、早くから総裁候補と目された。ポスト田中角栄で総裁に推す声が一部で上がった他、大平後継では本命の一人だったが、当時まだ隠然たる影響力を持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなり実現せず、同じ宏池会で田中と近かった鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣(及び同改造内閣)では内閣官房長官を務め、次代の中曽根内閣期まで、安倍晋太郎・竹下登らとともに「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。
派内では、宮澤に対抗意識を燃やす田中六助と「一六戦争」と呼ばれる後継争いを繰り広げるが、田中が持病の糖尿病を悪化させ病没後の1986年(昭和61年)、宏池会会長となり派閥を継承。プラザ合意とその後の急激な円高を巡り、中曽根の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曾根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。大幅な介入やベーカー財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、円高は加速した。
1987年(昭和62年)秋には中曾根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988年(昭和63年)、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。
総理大臣就任
1991年(平成3年)、海部俊樹首相の退陣に伴う総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任した。参議院議員経験者としては初めての内閣総理大臣である。
保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営はままならなかった。在任中の施策としてはPKO協力法の成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。その過程で派遣された文民警察官と国連ボランティアが殺害された際に「PKO要員の殺害は止むを得ない。」と発言し批判を浴びた。
訪中した際には反日団体から生卵を車列にぶつけられた。1986年に中国で起きた中国共産党政府による天安門事件での民衆殺戮に対し日米欧が行っていた多岐の制裁を覆す為に江沢民は宮沢内閣に天皇陛下の訪中を要請し実現させ日本は真っ先に中国への制裁を解除しその後、米欧も制裁解除に連なった。首相退任直前に慰安婦問題についての河野談話を発表し謝罪の意向を表明したが、一部の保守派論壇から非難された。
またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、側近であった浜田卓二郎の進言を容れて、1992年(平成4年)8月中旬に日銀総裁であった三重野康と歩調を合わせて東証閉鎖・日銀特融による公的資金投入というシナリオを密かに模索したが、大蔵省の反対により一旦断念。なおも30日の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助発言をする。地価や株価等の資産価格の大幅な下落から、今までの景気後退とは質が違うとし、公的資金を投入しても不良債権を早期に処理する必要性があると発言したものであった。しかし官庁、マスコミ、経済団体、そして当の金融機関自身からの強い反対にあい実行に至らなかった。その結果、宮沢喜一はその決定を取り下げなければいけなくなり、この事により銀行への公的資金投入による不良債権処理はタブーとなり、その後は何年にもわたり日本の政治家は誰一人としてこの事を言えなくなってしまった。宮沢がこの発言をした背景には、英経済紙フィナンシャル・タイムズが日本の不良債権額を、大蔵省の発表額の数倍である50兆円に達すると報じたのを目にしていたことがあったが、そのような危機意識を国内で共有していたのは、三重野など限られた人物以外に存在しなかったという。
折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが、自身は必ずしも小選挙区制をはじめとする政治改革に積極的ではなかった。竹下派から分かれた小沢・羽田グループ(改革フォーラム21)は宮澤のそのような姿勢に反発を強め、1993年(平成5年)6月に内閣不信任案が提出されると賛成にまわり同案は可決された。自民党は大量の離党者を出したまま総選挙を行うも新生党、新党さきがけなど自民党から離れた議席を回復することが出来ず日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川護熙に政権を明け渡す。宮澤は自民党長期支配38年の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。
再び大蔵大臣に
その後は村山内閣で外相在任中の河野洋平から駐米大使を打診されたが固辞、1996年(平成8年)初めて小選挙区比例代表並立制で実施された第41回衆議院議員総選挙では重複立候補していない新進党公認柳田稔との現職対決に圧勝で再選、1998年(平成10年)に小渕内閣が発足すると、未曾有の経済危機に対処するため小渕恵三首相は宮澤に大蔵大臣就任を要請。当初は難色をしめしていたが、小渕の強い熱意のもと就任を受諾。戦前に活躍した高橋是清以来の異例の総理経験者の蔵相就任となったため、「平成の高橋是清」といわれた。総理経験者の閣僚就任は第1次吉田内閣の幣原喜重郎国務大臣・復員庁総裁以来51年ぶりのことだった。
折からの金融危機に対処するため金融再生関連法・金融健全化法を成立させ、またアジア通貨危機にあたっては「新宮澤構想」に基づき300億ドルに及ぶ経済支援を行った。続く森内閣でも蔵相に留任し、初代財務大臣となる。
小渕・森内閣両期を通じて巨額の恒久的減税の一方で財源として一貫して大量の赤字国債を発行し続け、財政赤字は膨大なものとなった。こうした極端な積極財政を主導したことも、高橋是清になぞらえて呼ばれるようになった理由の1つである。金融危機を脱した後は経済は概ね好調だったが、森内閣の退陣とともに宮澤も退任した。
政界引退後
2003年総選挙の際、小泉純一郎自民党総裁は、衆院比例候補・定年73歳の徹底と「世代交代、若返り」という選挙運動方針を定め、それに則って中曽根・宮澤両元首相に対して、総選挙への立候補断念及び代議士引退を要請した。宮澤は当初難色を示したがこれを受け、代議士の引退を決断(2000年第42回衆議院議員総選挙の時点で自らの福山の地盤を甥の宮澤洋一に譲って比例単独候補に転身していた。なお、比例名簿で終身比例名簿1位から退いたことで比例当選最下位順位の佐藤信二が復活当選している)。これは最後まで引退に抵抗しようとした中曽根とは対照的である。
宮澤自身は政界引退後も元首相、戦後政治の証言者として経済や安全保障のご意見番となり、様々な形で活躍していた。細川護煕内閣に組閣のアドバイスをしていたほか、ハト派政治家である一方自民党内タカ派とも以前に比べ仲が良く、人当たりも温和になっていた。
2005年(平成17年)夏に体調を崩し、入院をした。退院後は容貌が一変するほどに痩せ、周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けてきた。2006年(平成18年)7月に自宅で転倒して足を骨折して以降、表立った活動を控えていたが、翌2007年(平成19年)2月の政界関係者の会合には車椅子姿で参加。スピーチも行うなど元気な姿を見せたが、これが公の場に姿を見せた最後となった。
2007年(平成19年)6月28日午後1時16分、老衰のため東京都渋谷区神宮前の私邸で死去。87歳。参院在職12年3ヶ月、衆院在職36年9ヶ月で国会議員在職合計49年0ヶ月。あと12ヶ月国会議員を務めた場合は櫻内義雄に次いで史上2人目の衆参両院合算による国会議員在職50年に到達して名誉議員有資格者となるところであった。
在任期間が一年を超える首相経験者は大勲位菊花大綬章を受勲する事が慣例となっているが、遺族は本人の意向により勲章等は辞退した。8月28日に、安倍晋三首相を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われた。
エピソード
池田勇人との関わり
宮澤の前半生は池田勇人抜きに語ることは出来ない。広島県出身の父・裕は同郷で政友会の重要な政治家望月圭介の秘書官を務めたことがあり、また裕の義父(つまり喜一の祖父)小川平吉も望月と親交があった。他方池田家は広島における望月の有力な支援者であり、望月を介する形で池田家と宮澤家は縁を深め、裕が池田勇人の最初の結婚の世話をするなど、彼らは単に郷里の友人以上の関係となっていった。もともと外務省か内務省を志望していた裕の長男・喜一は、父を通じた池田の強い勧めで大蔵省に入省。以来二十余年に及ぶ池田との縁の始まりであり、とくに戦後池田の秘書官となって以後はその死まで常に側近として仕えた。
政界入りにも池田の意向が大きく働いた。池田通産大臣の不信任に殉じるように大蔵省を退職した宮澤に対して、池田は勧めて参議院選挙に出馬させた。この時池田が「2区の俺の地盤と3区の君のお父さんの地盤をあわせれば参議院広島選挙区で当選できるよ」と言ったという逸話が残っている。
官僚であった占領時代に通訳や渉外担当としてGHQなど米国各機関との折衝に関わった基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の訪米(1950年)やサンフランシスコ講和会議(1951年)、また参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る池田・ロバートソン会談(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田-ケネディ会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会った為に、「戦後政治の生き字引」[5]などと言われる[6]。
政治スタンス
ハト派的な政治家とされることが多く、自衛隊の海外での武力行使は自衛の場合に限るべきという見解を基本的には維持していた(「憲法9条が禁じているのは海外での武力行使であり、それ以外は何でも出来る」という逆説的な言い方ではあるが)。しかし一貫した親米派・日米同盟論者でもあり、1996年には既に集団的自衛権の限定的行使は合憲であると述べ、違憲論を「学者ばか」の議論だと批判していた。[7]
穏和そうな外見もあり大人しめの印象を与えるが、それとは裏腹に負けず嫌いで毒舌家な一面も知られている。1970年代の外務大臣在任時、旧ソ連の古強者グロムイコ外相との北方領土交渉では、のらりくらりと話をはぐらかそうとするグロムイコを恫喝して席につかせたという伝説がある(北海道新聞でグロムイコが「なんと頑固か」と述べた)。また1984年3月、当時64歳だった宮澤は立正佼成会の会長秘書を騙る自称「ジャーナリスト」の男(当時54歳)とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、灰皿で殴られるなど全治3週間の負傷をしながらも一人でその男を取り押さえたという事件がある。
保守本流の有力者として期待され続け、42歳での経企庁長官就任を皮切りに早くから閣僚を歴任していったが、政府経験の豊富さとは裏腹に党務にかかわることは少なく、保守合同以前の吉田派以来の党人派や、池田・大平と同世代の政治家に専ら党務は委ねていた。中曾根内閣において、派としてしばしば宮澤の幹事長就任を要求したにもかかわらず、中曽根が一本釣りで田中六助を三役入りさせるなどした背景には、中曽根の宮沢嫌いに加え、そうした仕事が向かないと判断されたこともあろう。また派内掌握については、大平正芳・前尾繁三郎に加え鈴木善幸といった有力な政治家がしのぎを削る中、積極的に行動を起こすことは少なく、同世代で早くから派閥を継承した田中角栄や中曾根康弘には大きく遅れをとることになった。宏池会内では、前尾繁三郎と比較的親しく、大平正芳とは微妙な関係であった。佐々木義武、伊東正義など大平側近とは、世代間対立もあり総じて関係は悪く、また、田中六助とは一六戦争と呼ばれる抗争を巻き起こしている。伊東らとは後年和解しているが、これは田中角栄や中曾根に対する大平側近の反抗意識の結果、宮澤が担がれたという消極的理由に発する所が大きい。
加藤紘一は大平側近として知られ、個人としての宮澤は加藤よりも河野を後継に望んだとされるが、いわゆるKK戦争における宮沢の煮え切らない態度は、河野洋平の離脱による派閥分裂を招いた。加藤の乱では、田中六助直系の古賀誠と結ぶ形で、加藤を失脚させている。加藤の乱では、大平女婿の森田一は加藤についており、宏池会内抗争の系譜が現代まで影響を及ぼした側面もある。
総理退陣直前、田中秀征の仲介で次期総理となる細川護煕と軽井沢で会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。のみならず、2009年に田中が明らかにしたところによると、細川は頻繁に宮沢と合って政権運営について指南を受けており、細川政権は実質的に宮沢との共同運営だったとされる。非自民連立政権の内実に関する重要な証言といえよう。
早坂茂三の『宰相の器』によると、田中角栄は「彼(=宮澤)は秘書官だ。秘書官としては一流だった。しかし、それだけだ。政治家ではない」と評したという。
石原慎太郎は政治家として宮澤を嫌っており、『国家なる幻影 わが政治への反回想』(上・下、文藝春秋のち文春文庫)で強く批判している。
2005年に出版された『ハト派の伝言 ― 宮澤喜一元首相が語る政治的認識』(中国新聞社刊)では、当時の小泉純一郎首相に対して、靖国神社参拝について国民に対する説明責任を果たしていないと批判したり、憲法改正問題について国民の間で議論が尽くされていないと指摘し、国際協力についても,日本は自衛隊による武力協力よりも経済的協力が得意分野だと指摘するなど、当時の自由民主党で主流になっていた政治的指向を批判していた。そのため現実主義者としての政治家の顔をのぞかせていたといえる。
酒乱と数々の放言
宏池会の政治家に多い酒豪、ないし酒乱で知られ、酒にまつわる逸話には事欠かない。
大平正芳が総理に就任した頃、宮沢は酔った勢いで「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言い放ち、これを伝え聞いた大平は宮澤のことを毛嫌いし始めた。二人は元同僚で池田勇人の秘書官時代からの仲だが、宮沢は池田の盟友・前尾繁三郎に近く、大平は前尾が継承した宏池会を実力で奪い取った経緯があることから、微妙な関係にあった。大平は苦学して東京商科大学(現一橋大学)を卒業後、大蔵官僚となっており、大平の方が宮澤よりも9歳年上で、派内の人望も大平が勝り、池田も宮沢以上に大平を好んだといわれる。宮沢が大平に時折みせた屈折した優越感は、そうした政界における劣等感の裏返しであったのかもしれない。
海部俊樹が首相在任中には、「海部さんは一所懸命おやりになっておられるけど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」と発言し、この発言を伝え聞いた海部はいたく立腹したという[8]。
「人に会うと学歴を聞く」などと言われ、出身大学にまつわる放言も多かった。東京農業大学出身の金丸について「偉い方ですよ。大学を出ているんですね。知ってました?」、竹下登について「あの方、県議出身でしょう。あのころ早稲田は無試験でした。僕の義父(伊地知純正)が商学部の部長でしたから嘘ではありません」などと酒席で語ったのを田勢康弘が伝えている[9]。竹下は無試験のネタを直接宮沢に言われたこともあり、「あれは許せない」と怒っていたというが、その話を伝え聞いた佐々淳行が「早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」と尋ねたところ、竹下は「それがね、無試験だったんだよ」と白状したという[10]。
日韓W杯招致に尽力
旧制中学時代にサッカー経験があり、サッカー好きで国内である大きな試合にはよく顔を出していた。このため1994年(平成6年)12月に発足した超党派のワールドカップ招致国会議員連盟の議員会長に就任した(副会長、森喜朗、久保亘、小沢一郎)。超党派というのは、これ以前、1992年(平成4年)3月に小沢らを中心に国会議員招致委員会が、これに先んじて発足したものの、新進党主導で運動が始まったことで自民党が反発、運動は盛り上がらなかったため。1994年(平成6年)の超党派招致連盟の発足で政界も一致団結し大きな運動となっていった[11]。
世界中を駈けずり回ったのは長沼健日本サッカー協会会長(当時)らだが、国際的にも顔が広い宮澤も多くの国を訪問し、実現に向けて協力を行った。また共催に向けての重要な局面に於いてもアドバイスを送り、最終的に日韓共催を決断した鳩首会談に長沼、岡野俊一郎、川淵三郎、小倉純二、衛藤征士郎、釜本邦茂と参加し、共催を後押したことでも知られている[12][13][14][15][16]。
英語屋の面目
「政界随一」と謳われた宮澤の英語力だったが海外留学や英語の専門教育を受けた経験などはない。本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分かり、一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、英語が「敵性語」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。戦後の占領が始まると、GHQとの交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、毎日のように英語を使う日々が続いたという。
議員になってからも、議員会館の食堂やロビーでは英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった。あるとき背後から、いきなり強い口調で「日本の国会議員なら、日本語の新聞を読みなさい!」と叱咤されたことがある。宮澤が振り向くと、そこには当時まだ新人議員だった浜田幸一が眉を吊り上げていた。しかしいちゃもんを付けた相手が宮澤と気づいて今度は浜田の方が大いに慌てた。そんな浜田に向かって宮澤は、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。浜田はこれに感化されて、しかし自分は英語はまるでダメなので、代わりに息子の浜田靖一をアメリカの大学に留学させることにしたという[17]。
外国首脳や大臣との会談の席では、外交プロトコル上かならず通訳を同席させることが決まりごとになっているが、宮澤はそれでも米・英・豪・加などの首脳とは、いちいち通訳の言うことを待たずに一対一で会話を主導した。あるとき大臣として外遊した際、同行した別の閣僚に付いていた通訳に不安を感じた宮澤は、その一言一句をしっかりと横耳で聞いていて、誤訳があると間髪入れずに訂正を入れたという逸話もある。そうした完璧主義が災いしてか、宮澤の英語力を煙たがる官僚や代議士が永田町には少なくなく、特に宮澤嫌いだった田中角栄からは「英語屋」と呼ばれて通訳並みに見下されていた。
宮澤が総理在任時の1992年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が来日した。ところが二日目の総理官邸での晩餐会の席上、ブッシュは突然隣に座っていた宮澤の膝の上に嘔吐したうえ、椅子から崩れるように倒れるという椿事が出来、しかもその映像が全世界に配信されたため各方面に衝撃が走った。翌朝、官邸に詰めかけた内外のプレスを相手に宮澤は一人で記者会見に臨み、30分近い状況発表と質疑応答のほとんどを英語で行った。宮澤の説明は、現在の大統領の容体から、来日前からインフルエンザで体調不良だったこと、日中に皇居内で天皇と皇太子を相手にテニスをしたことで体力を消耗していたこと、そして晩餐会席上の様子や食事の内容にいたるまで、極めて詳細かつ専門的なものだったが、その語り口は沈着冷静でいかにも堂に入った様子だった。前代未聞の大統領の醜態に蜂の巣を突いたような状態になったアメリカのメディアも、膝に吐かれた当の総理本人がこうこうしかじかと、淡々と説明しているの見て、これなら心配はないだろうとすぐに落ち着きを取り戻している。次のクリントン大統領は宮澤と一度だけ会談しているが、その際にもこのときの宮澤の対応ぶりを賞賛している。
国際会議や交渉の場を重ねるうちに、宮澤はフランス語の重要性をも痛感して中年を過ぎてからその勉強を始めている。本人は「志半ばで終わった」としているが、官僚、国会議員、閣僚、そして総理と、長年にわたって多忙な日々を送っていたにもかかわらず、常日頃から仕事の合間には勉強を怠らなかったことは、多くが認める宮澤の徳目のひとつである。
皇室
宮中における内閣の認証式の際、天皇を前にした宮澤は極度に緊張していたという。他人に対して時に尊大な態度を取ることもあった宮澤だが、皇室尊重の念は人一倍強かったものとされる[18]。
漢詩
英語通とされるが宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用する。宮澤は「わたしは英語通となっていますが、実は小さいころ漢学を習いましてね、どちらかといえば東洋的な思想が好きなんです。その漢学に王道と覇道というのがあるんです。つまり総理大臣という一国の宰相になるには自分でなろうとしてなるものでなく人から押し上げられて就く天命みたいなものだと思ってます。人を押しのけてまでというのは、わたしの性にあいませんね」と述べている[19]。
また総理退陣の時の心境として、王昌齢の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げた。
揮毫
中央省庁再編で大蔵省が財務省と名称変更されることになると、当時蔵相だった宮澤は大蔵官僚から「ぜひ銘板に揮毫を」と頼まれる。それまで門前にかかっていた「大蔵省」の銘板が、新憲法下で初の蔵相を務め宮澤の師でもあった池田勇人の筆によるものだったからだ。しかし宮澤はそれを断り、コンピュータの楷書体の文字の中からいろいろと注文をつけながら書体を選定[20]、頼まれれば嬉々として誰にでも揮毫する他の大臣とは一線を画した格好となった。曰く、「王羲之という人で書はもう完結しちゃったと思うんですよ。これ以上は書けない …… だから、役所の長く残る看板の字を書くなんてことは、とても素人の手に合う話でない」。
ある時、達筆で知られる宮澤が「政界で一番書く字が上手なのは岸(信介)さんでしょう」と述べると、政治部の記者が「田中(角栄)氏や福田(赳夫)氏や大平(正芳)氏の書く字はどう思われますか」と質問した。すると宮澤は小首をかしげて「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返したというエピソードがある[21]。
激怒
一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や、自己の生まれを隠蔽(いんぺい)し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒した。
『芸備人権新報』(1999年9月10日号)には、「(小森)……ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだという べきでしょうね……宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね……」とある。
小説
宮澤は城山三郎の二つの小説のモデルになっている。学生時代の宮澤をモデルにしたのが『友情力あり』、大臣時代をモデルとしたのが『官僚たちの夏』に登場する「矢沢経済企画庁長官」である。
やる
総理時代、テレビ朝日『サンデープロジェクト』に出演し、田原総一朗から政治改革法案問題に関して「今の国会(1993年通常国会)でやるのか」と訊かれ、「私はやるんです。この法案(政治改革関連法案のこと)を何としても成立させたいんです」と冷静な宮澤にしては珍しく気色ばんで答えた。これがきっかけとなって自民党内が混乱し、1993年の政界再編の引金となったといわれる(参照:嘘つき解散)[22]。
感想
森内閣で国土庁長官の扇千景が作業服の地味さに苦言を呈し、もっと見栄えの良いものにするよう部下に指示した。その後、新しい作業服を扇自らが着用してマスコミに披露したが、その件について感想を求められた宮澤は「あの方は何を着ても似合うから」と答え、その場を沸かせた。一方2000年5月の「神の国発言」のときは、やはり記者会見で首相の発言に対するコメントを求められた際に、「神様は大蔵省の管轄外だから」と返答して記者団の笑いを誘った。
地盤 福山市の軽視
広島県福山市が地盤ではあったが、「世界の宮澤」を自称し地元の要望の実現には消極的であり陳情を軽視した。福山市周辺の自治体では島根(竹下登)、岡山(橋本龍太郎)、庄原(亀井静香)、鳥取(石破茂)と有力者が多く、地元の陳情を反映した道路網が整備されたが、福山市においては道路網の整備が遅々として進まず、その影響は現在になっても依然として残っている。そのため地元での評判は必ずしも良好ではない。
略歴
- 1919年(大正8年)10月:東京市に生まれる 本籍地は広島県福山市金江町金見
- 1928年(昭和3年):東京高等師範学校附属小学校入学
- 1932年(昭和7年):旧制武蔵高等学校尋常科入学(入試の成績は81人中27番)
- 1936年(昭和11年):旧制武蔵高等学校高等科文科甲類(文系英語クラス)入学
- 1939年(昭和14年):旧制武蔵高等学校高等科文科首席卒業、東京帝国大学法学部政治学科入学
- 1941年(昭和16年)12月:東京帝国大学法学部政治学科卒業[1]
- 1942年(昭和17年)1月:大蔵省入省[1]
- 1943年(昭和18年)11月:伊地知庸子(父・純正は早稲田大学教授)と結婚
- 1945年(昭和20年)8月:津島壽一蔵相秘書官事務取扱(同時に大平正芳が秘書官をつとめている)
- 1949年(昭和24年)1月:池田勇人蔵相秘書官[1]
- 1951年(昭和26年)8月:サンフランシスコ講和会議に全権随員として出席[1]
- 1953年(昭和28年)4月:退官し広島地方区より参議院議員選挙に出馬、当選[1](〜1965年7月)
- 1962年(昭和37年)7月:第2次池田内閣第2次改造内閣で経済企画庁長官[1](〜1964年7月)
- 1966年(昭和41年)12月:第1次佐藤内閣第3次改造内閣で経済企画庁長官[1](〜1967年11月)
- 1967年(昭和42年):衆議院議員選挙で初当選[1](〜2003年10月)
- 1970年(昭和45年)1月:第3次佐藤内閣で通商産業大臣[1](〜1971年7月)
- 1974年(昭和49年)12月:三木内閣で外務大臣[1](〜1976年9月)
- 1977年(昭和52年)11月:福田赳夫内閣改造内閣で経済企画庁長官[1]
- 1980年(昭和55年)7月:鈴木内閣で内閣官房長官[1]
- 1984年(昭和59年)10月:自民党総務会長[1]
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)11月:竹下内閣で副総理兼大蔵大臣[1]
- 1988年(昭和63年)12月:副総理・大蔵大臣を辞任
- 1991年(平成3年)11月:自民党総裁、内閣総理大臣[1]
- 1993年(平成5年)
- 1998年(平成10年)
- 2000年(平成12年)4月:森内閣で大蔵大臣(留任)
- 2001年(平成13年)1月:省庁再編により最後の大蔵大臣から初代財務大臣に就任(〜4月)
- 2003年(平成15年)11月:政界引退。
- 2007年(平成19年)
- 6月:私邸で死去。
- 8月:内閣・自民党合同葬。
家族・親族
宮澤家
- 父・裕(山下汽船社員、政治家)
- 1884年(明治17年)1月生~1963年(昭和38年)5月没
- 父・宮澤裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)の小さな農家に生まれた。宮澤によると「父は小さな百姓の長男でね、いまでもその生家が残っていますが、山の中の本当の一軒家です。とにかく私が参議院に出てから(昭和28年)はじめて電灯を引いてもらったようなところなんですよ」という[23]。祖父の宮澤鹿吉の時代は、生活は楽でなかった。
- 裕は苦学して東京帝国大学政治学科を卒業、長野県庁勤めを経て、実業界に入り海運王山下亀三郎の山下汽船(現・商船三井)に入社。亀三郎の盟友だった小川平吉に見込まれ、その女婿になった[24]。昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任した[25]。
- 1897年(明治30年)1月生~没
- 小川平吉は明治36年に弁護士から代議士に転じ、激烈な対露強硬論をぶち上げた“国士”タイプの政治家で、実業への足掛かりはもたなかったが、特筆ものの閨閥を残した[26]
- 弟
- 弘(内務・自治官僚、政治家・広島県知事、参議院議員、法務大臣)
- 1921年(大正10年)9月生~2012年(平成24年)5月没
- 加藤の祖父は、元労相の加藤常太郎、父はその長女鎮子の婿養子になったカトーレック社長の加藤達雄[28]
- 妻・庸子(英語学者・伊地知純正(早稲田大学名誉教授)の二女)
- 長女・啓子(夫はアメリカ合衆国のクリストファー・ラフルア元駐日代理大使、娘はタレントのラフルアー宮澤エマ)
- 長男・裕夫(建築家[29])
他家
伊地知純正━━━━━庸子 ┃ ┏━宮澤 裕夫 ┣━━┫ ┃ ┗━━━━啓子 ┏━宮澤喜一 ┃━━━ラフルアー宮澤エマ 宮澤鹿吉━━━━宮澤裕 ┃(元首相) クリストファー・ラフルア ┃ ┃ ┣━━╋━宮澤 弘━━━宮澤 洋一 ┃ ┃ ┃ ┃ 小川平吉━━━━━こと ┗━宮澤 泰 ┃ ┏━━━━その ┣━━┫ ┃ ┗━━━━ゆり 児島喜久雄━━━━━汪子
評価
岸田文武によると「たしかに宮沢一族には官僚が多いですね。別に意識してそうなったわけでなく、強いていえば環境でしょう。親族の冠婚葬祭などで全員が集うと、まるで官僚あるいは官僚OBの集まりといった具合です。」という[31]。
作家の神一行によると、「いまや宮沢家は超名門エリートと思われているが、もとから宮澤家が名門であったわけではない[32]。竹下、安倍が大地主で酒造業、醤油製造業を営んでいたのに対して、宮沢の場合はぐっと落ちて小農の出である[32]。宮沢は東京生まれであるが、父裕は広島県沼隈郡金江村(現在の福山市)に生まれた[32]。取材当時その実家を訪れてみたが、福山市とは名ばかりの山の中にそれはあった[32]。」、「宮沢一族の閨閥は、系図でもわかるように、ただただ華麗としかいいようがない。系図には約九十人の人物が登場するが、そのなかから宰相になった者が五人、国会議員となった者が二十人、はては麻生家を通じて皇室まで連なる“一大名門閨閥”を築きあげている[33]。」という。ただし、麻生家は喜一のいとこの夫の姉の嫁ぎ先であり、かなりの遠縁ではある。
主な著書
単著
- 『東京 ― ワシントンの密談』(実業之日本社、1956年/中央公論社[中公文庫]、1999年)
- Secret Talks between Tokyo and Washington: the Memoirs of Miyazawa Kiichi, 1949-1954, translated and annotated by Robert D. Eldridge. (Lexington Books, 2007).
- 『社会党との対話 ― ニュー・ライトの考え方』(講談社、1965年)
- 『戦後政治の証言』(読売新聞社, 1991年)
- 『聞き書宮澤喜一回顧録』(御厨貴・中村隆英編、岩波書店、2005年)
共著
- (中山伊知郎)『将来経済の構想』(筑摩書房、1969年)
- (高坂正堯)『美しい日本への挑戦』(文藝春秋、1984年/文春文庫, 1991年)
- (中曾根康弘)『対論改憲・護憲』(朝日新聞社, 1997年/朝日文庫、2000年「憲法大論争 改憲vs.護憲」に改題)
参考文献
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』、鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート(153-157頁) 角川書店 1983年
- 浜田幸一 『日本をダメにした九人の政治家』講談社 1993年 ISBN 406206779X
- 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社 2000年 157、173、340頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 446-448、463頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』、第10章 宮沢家-高級官僚・政治家を輩出する華麗なる一族(197-211頁) 角川書店 2002年
演じた人物
テレビ・映画
舞台
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
海部俊樹
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第78代:1991年 - 1993年
|style="width:30%"|次代:
細川護煕
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
金丸信
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国務大臣(副総理)
1987年 - 1988年
|style="width:30%"|次代:
渡辺美智雄
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 財務大臣
初代:2001年
|style="width:30%"|次代:
塩川正十郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
竹下登
松永光
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大蔵大臣
第88・89代:1986年 - 1988年
第105・106・107代:1998年 - 2001年
|style="width:30%"|次代:
竹下登
財務省に再編
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
伊東正義
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房長官
第44代:1980年 - 1982年
|style="width:30%"|次代:
後藤田正晴
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
池田勇人(事務取扱)
佐藤栄作(事務取扱)
倉成正
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 経済企画庁長官
第12・13代:1962年 - 1964年
第17・18代:1966年 - 1968年
第29代:1977年 - 1978年
|style="width:30%"|次代:
高橋衛
菅野和太郎
小坂徳三郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
木村俊夫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第103代:1974年 - 1976年
|style="width:30%"|次代:
小坂善太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大平正芳
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 通商産業大臣
第32代:1970年 - 1971年
|style="width:30%"|次代:
田中角栄
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
田名部匡省
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 農林水産大臣
第18代:1993年(兼任)
|style="width:30%"|次代:
畑英次郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
小泉純一郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 郵政大臣
第56代:1993年(兼任)
|style="width:30%"|次代:
神崎武法
テンプレート:S-par
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
斎藤昇
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 参議院議院運営委員長
第20代 : 1961年 - 1962年
|style="width:30%"|次代:
小沢久太郎
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
海部俊樹
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総裁
第15代:1991年 - 1993年
|style="width:30%"|次代:
河野洋平
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
金丸信
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総務会長
第28代:1984年 - 1986年
|style="width:30%"|次代:
安倍晋太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
鈴木善幸
|style="width:40%; text-align:center"|宏池会会長
第5代:1986年 - 1998年
|style="width:30%"|次代:
加藤紘一
テンプレート:S-dip
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ヘルムート・コール
ドイツ
|style="width:40%; text-align:center"|主要国首脳会議議長
1993年
|style="width:30%"|次代:
シルヴィオ・ベルルスコーニ
イタリア
- 転送 Template:End
テンプレート:内閣官房長官 テンプレート:外務大臣 テンプレート:財務大臣 テンプレート:農林水産大臣 テンプレート:総務大臣 テンプレート:経済産業大臣 テンプレート:経済財政政策担当大臣 テンプレート:参議院議院運営委員長 テンプレート:自由民主党総裁 テンプレート:自由民主党総務会長 テンプレート:宏池会会長
テンプレート:自由民主党 (日本)- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 宮澤喜一 略歴
- ↑ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』48頁
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 206頁
- ↑ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』69頁
- ↑ これらの体験の多くは、著書『東京-ワシントンの密談-シリーズ戦後史の証言・占領と講和〈1〉』(中公文庫)に収められている。
- ↑ 6月号 「宮沢喜一と戦後日本」 - 三井物産戦略研究所 | 寺島実郎の発言
- ↑ 佐瀬昌盛『集団的自衛権』(PHP新書)参照。また2001年に行われたサンフランシスコ講和会議50周年の式典では、会議出席者唯一の生存者としてスピーチを行い、「個別的自衛権の論理的延長として、集団的自衛権を位置づけることを提案する」と述べ、部分的な集団的自衛権の行使を容認すべきだと主張、それを日米関係の21世紀への遺言であるとした。
- ↑ 「政治とカネ 海部俊樹回顧録」(新潮新書、2010年)
- ↑ 宮沢さんの無愛想の魅力「FACTA」2007年8月号
- ↑ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』(文春文庫)
- ↑ この時、誘致の「顔」を宮澤に譲るよう小沢に頭を下げに行ったのが、当時文教族の中堅だった麻生太郎(讀賣新聞、2009年2月22日、4頁)。
- ↑ 宮沢喜一氏(元首相)が老衰のため死去 - おくやみ : nikkansports.com
- ↑ 私の履歴書 川淵三郎
- ↑ W杯共催と宮沢氏の思い出 - 六川亨のフットボール覚書
- ↑ 『新時代へのキックオフ』仮野忠男著、角川書店、2001年9月。
- ↑ 『サッカー批評』長沼健回顧録、32号、33号、34号、双葉社、2006〜07年。
- ↑ 浜田がテレビや雑誌のインタビュー、著作などで度々紹介しているエピソード。
- ↑ 『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店、2005年)でも、昭和天皇への尊敬の念を語っている。
- ↑ 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 204頁
- ↑ 平成12年12月21日武藤事務次官記者会見の概要
- ↑ 田勢康弘『豊かな国の貧しい政治』
- ↑ 田原総一朗はこの件について「結果として宮澤さんに迷惑を掛ける事になってしまった」と宮澤の死後、雑誌『リベラルタイム』で語っていた。
- ↑ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』49頁
- ↑ 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 445頁
- ↑ 福山誠之館・宮沢裕
- ↑ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 442頁
- ↑ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 446-447頁
- ↑ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 447頁
- ↑ 日比谷高から早大を経て建築家 『文藝春秋』(2010年10月号)
- ↑ 30.0 30.1 30.2 30.3 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』59頁
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』』 209頁
- ↑ 32.0 32.1 32.2 32.3 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 205頁
- ↑ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 209頁