女流棋士 (将棋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

女流棋士(じょりゅうきし)は、将棋を職業とし、女流棋戦に参加する女性のことを指す(引退者も含む。退会者は含まない)。女流棋士には、日本将棋連盟所属の者、日本女子プロ将棋協会(LPSA)所属の者、フリー(無所属)の者がいる。

概説

棋士と女流棋士

元来、将棋の棋士の制度は男女の区別がなく、新進棋士奨励会(通称「奨励会」)に入会して所定の成績を収めて四段になれば、棋士となる。しかし現在まで棋士になった女性は一人もいない。

将棋の女流棋士の制度は、女性だけに適用されるもので、棋士の制度から分離されたものである。

現在、女流棋士と奨励会の掛け持ちは認められている。しかし、1998年途中から2011年途中までの間は認められておらず、奨励会に籍を置く際には女流棋士を休会しなければならなかった(1998年の甲斐智美の休会が初のケース)。それ以前は、中井広恵碓井涼子(現姓・千葉)、矢内理絵子らが、奨励会と掛け持ちをしていた。その後、2011年5月に、当時19歳で既に女流タイトルを6期獲得し、女流棋士として顕著な実績を上げていた里見香奈が、特例による奨励会の1級編入試験を受験し合格した[1]のを機に、掛け持ちが解禁されることとなった[2]

1961年に蛸島彰子が女性として初めて奨励会に入会した際は、男性よりも緩やかな昇級昇段基準を適用され、1966年に初段に昇段した。以降、後に女流棋士となる者を含め多くの女性が奨励会に入会したが、長年奨励会1級の壁を突破できる者が現れなかった。
2011年に里見香奈が上記の通り、女流棋士としての実績を認められ、編入試験により1級として2011年5月に奨励会入会すると、8か月後の2012年1月に、女性としては初めて正規の基準によって初段昇段した。その後2013年7月に二段昇段し、同年12月に三段へと昇段した。
西山朋佳は2014年1月に18歳で初段昇段した。西山は2010年3月に14歳・6級で関西奨励会に入会(2014年3月より関東に移籍)しており、編入せずに奨励会入会した女性としては初めて正規の基準で初段に昇段した。
加藤桃子は2006年9月に関東奨励会に入会し、2014年5月に19歳で初段に昇段した。これに先立ち、2011年には第1期女流王座戦に奨励会員として参加し、初の非女流棋士としての女流タイトルホルダーとなって防衛1回、初段昇段の直前にはマイナビ女子オープンで里見から女王位を奪取しており、初段昇段前に女流棋士ではない身分で女流タイトルを3期獲得していた。

女流棋士が棋士となるためのもう一つの方法としては、2006年に制度化されたフリークラス編入試験[3]がある。もしも合格すれば、奨励会を経由せずに、即、四段の棋士となることができる。ただし、受験資格を得るためだけでも、女流棋戦でトップクラスの活躍をして棋士の公式戦に女流枠から出場する権利を得た上、さらに棋士と入り混じっての戦いで規定の活躍をしなければいけない。

活動

女流棋戦

女流棋士は、棋士の棋戦とは区別された女流棋戦に参加して対局を行うことが、原則として義務である。

女流棋戦の一覧は、棋戦 (将棋)#女流棋戦 を参照。

現状、「棋士」は男性しかいないため、便宜的に、棋士は「男性棋士」、棋士の棋戦は「男性棋戦」などと呼ばれる場合もある。

棋士の棋戦のうち女流枠のある棋戦

女流タイトル保持者など成績優秀な一部の女流棋士は、棋士の棋戦のうち、女流枠を設けている棋戦にも参加することができる。たとえば、7つのタイトル戦のうちの5つ(竜王戦など)が該当する。それぞれ1名から6名の女流棋士が出場し、大体は予選1回戦で低いクラスの(順位戦C級やフリークラスに所属する)棋士と対戦する。

棋士の棋戦の一覧と各々の女流枠については、棋戦 (将棋)#棋士の棋戦 を参照。

女流棋士の特筆すべき活躍としては、斎田晴子が1996年に銀河戦(当時は非公式戦)で決勝トーナメント(ベスト8)に進出したこと(2連勝でブロック内最多勝ち抜き)、清水市代が1997年と1998年に早指し新鋭戦(30歳以下の棋士の成績優秀者が選抜出場した)において若手強豪棋士を相手に2年連続で1回戦を突破してベスト8入りしたこと、中井広恵が2003年にNHK杯で、A級在位中の青野照市に勝ったこと、2013年にタイトル戦の王位戦予選で甲斐智美がこれもA級在位中の深浦康市に勝ったことなどがあげられる。

また、石橋幸緒は2009年7月、王座戦の予選で1勝、朝日杯の予選で2勝し、単月で棋士相手に3勝0敗という快記録を作った。

しかし、下記の通り、棋士を相手にした女流棋士の勝率は2割弱である。1回戦敗退が大半であるため、対局相手のほとんどは新四段やフリークラスの棋士である。

参考

棋士公式戦に女流枠で出場時の対男性棋士通算勝敗(2014年3月20日現在[4]

女流棋士名 対局数 勝数 負数 勝率
清水市代 175 29 146 0.166
中井広恵 98 20 78 0.204
石橋幸緒 43 11 32 0.256
斎田晴子 37 9 28 0.243
甲斐智美 40 9 31 0.225
矢内理絵子 37 5 32 0.135
里見香奈 20 4 16 0.200
岩根忍 7 3 4 0.429
上田初美 28 3 25 0.107
中村真梨花 11 1 10 0.091
千葉涼子 13 0 13 0.000
鈴木環那 5 0 5 0.000
蛸島彰子 3 0 3 0.000
長沢千和子 3 0 3 0.000
長谷川優貴 3 0 3 0.000
本田小百合 3 0 3 0.000
山下カズ子 2 0 2 0.000
早水千紗 2 0 2 0.000
香川愛生 2 0 2 0.000
山口恵梨子 1 0 1 0.000
室谷由紀 1 0 1 0.000
合計 534 94 439 0.176

棋士と女流棋士との駒落ち対局

白瀧あゆみ杯争奪戦(非公式戦)では、第4回(2009年)から棋士が参加し、女流棋士と角落ちで対局している。

第4回では田中悠一四段と佐藤慎一四段が出場。田中は渡辺弥生女流2級、井道千尋女流初段、山口恵梨子女流1級を破って優勝。佐藤は香川愛生女流1級を破った後に山口に負けている。

第5回(2010年)では永瀬拓矢四段のみが出場。井道千尋女流初段、上田初美女流二段、竹俣紅アマを破って優勝した。

エピソード

斎田晴子は第8期銀河戦(1999年)で2連勝し、師匠の佐伯昌優と対局した。女流棋士が一般公式戦でプロ棋士の師匠と対局した最初の例で、かつ、2012年現在で唯一の例。 石橋幸緒は、女流棋士の清水市代が師匠であるため、タイトル戦を含め、多数の師弟対局がある。

待遇

女流棋士には日本将棋連盟から(定額の)給料は出ていなかった[5]。 タイトル保持者など一部の女流棋士を除いては、個人で独立した生計を営むことは非常に難しい[6]。こうした状況などから、後述する日本将棋連盟からの独立への動きが発生した。

また、坂東香菜子(日本将棋連盟に残留)が「大学を卒業して就職をしたために1年目は対局日に仕事を休めそうにないから」という理由[7]で、2008年度以降休場し続け、公式戦に復帰することなく2014年3月31日に引退した例もある。

正会員

従来、女流棋士は日本将棋連盟の正会員ではなかった。しかし、2010年11月12日に行われた日本将棋連盟臨時総会で、「女流四段以上またはタイトル経験者」である女流棋士を正会員とすることが決議された[8]。同日時点での該当者は、甲斐智美女王・女流王位、里見香奈女流名人・女流王将・倉敷藤花、清水市代女流六段、関根紀代子女流五段、長沢千和子女流四段、斎田晴子女流四段、矢内理絵子女流四段、千葉涼子女流三段(タイトル経験者)、および、引退女流棋士の谷川治恵女流四段であり(肩書・段位は2010年11月12日現在)、日本将棋連盟所属の存命女流棋士42名のうち9名が正会員となることが決まった。これ以降にタイトルを獲得した上田初美(女王)、香川愛生(女流王将)も「タイトル経験者」として正会員となり、2014年6月現在の日本将棋連盟正会員たる女流棋士は11名である。なお、LPSA所属およびフリーの女流棋士(中井広恵女流六段、蛸島彰子女流五段、山下カズ子女流五段、石橋幸緒女流四段ら)は日本将棋連盟を退会しているため対象外である。

女流棋士になる条件

日本将棋連盟の規定

女流棋士になるには、以下の3つのいずれかを満たせばよい。

研修会から女流3級を経て女流棋士へ(通常のコース、2009年度から)
研修会でC1クラスへ昇級し研修会入会後48局以上の対局数を満たしていると女流3級[9]になる資格(権利)を得る。C1クラスに昇級しても、対局数を満たさないと資格を得ることはできない[10]。この制度で女流3級の資格を得た初のケースは、室谷由紀であり(2009年6月28日に関西研修会でC1に昇級)[11]、2011年5月8日に相川春香が2人目の女流3級資格者となった。2011年9月25日に長谷川優貴が資格を得たが[12]、後述3項を満たしていたため2級でプロとなった[13]。2012年7月22日に竹俣紅が資格を得たが[14]、長谷川と同じく既に後述3項を満たしていたため、2級でプロとなった。飯野愛は、2013年6月24日に女流3級資格を得、10月1日付で女流3級となる予定であったが、8月17日マイナビ女子オープンの本戦入りにより、女流棋士昇段級規定の女流1級に該当した場合の条件を満たし、10月1日より女流2級となった[15]
申請をすると、ひとまず女流3級になり、女流の公式戦に参加する。女流3級から正規の女流棋士(女流2級)になるためには、下記のいずれかの条件を満たすことが必要である[12]
  1. 1年間で参加公式棋戦数と同数の勝星を得る。
  2. 2年間で参加公式棋戦数の4分の3以上の勝星を得る。
  3. 女流棋士の昇段級規定の「女流1級」に該当した場合。
2年間で上記のいずれも満たせなかった場合は、女流3級の資格を取り消され、研修会C2に戻ることができる。
2011年度現在、女流3級が参加できる女流公式棋戦は、6つの女流タイトル戦(マイナビ女子オープン女流王座戦女流名人位戦女流王位戦女流王将戦倉敷藤花戦)なので、1年目か2年目で年間6勝するか、2年間で通算9勝すれば、女流2級になれる。
新進棋士奨励会員(2級以上)から女流棋士へ(2003年度から)
奨励会を2級以上で退会した女性には、即、女流棋士になる権利が発生する。この権利を行使すると、奨励会退会時の奨励会員としての段級位が、そのまま女流棋士としての段級位になる。この制度を利用して女流棋士になった初のケースは、岩根忍である(奨励会1級→女流1級、2004年4月1日)。
アマチュアから女流3級を経て女流棋士へ(2013年度から)[16]
アマチュア出場枠のある公式棋戦(2013年現在はマイナビ女子オープン、女流王座戦、女流王将戦、倉敷藤花戦の4つ)で本戦ベスト8に進出した場合に、研修会・奨励会を経ずに女流3級になる資格(権利)を得られる。ただし申請時点で27歳未満であること、連盟所属の場合は師匠がいること(不在の場合は半年以内に師匠を決めること)、未成年者の場合は親権者または保護者の同意があることが必要。また申請は資格取得から2週間以内に行う必要がある。
女流3級になってからの処遇は基本的に研修会経由の場合と同じだが、例外規定として、前記の棋戦でそのまま本戦ベスト4に進出した場合は即時女流2級に昇級する。また資格を失った時に研修会に入会できる規定はない。
なお資格を失った場合、再度公式棋戦で前述の条件を満たせば、最大3回まで資格(権利)を再取得することが可能。

かつての制度

  • 女流育成会で所定の成績を収めること。
    • 2003年後期 - 2008年度後期の条件: 女流育成会で昇級点(=1位)を累積2回
    • 2003年前期までの条件: 女流育成会Aクラスで1位を1回

日本女子プロ将棋協会の規定

日本女子プロ将棋協会(LPSA)においては、2014年5月に棋士規程を改定し[17]、棋士規程は連盟のものとほぼ同一となっているが、LPSAの規程では師匠の有無が不問であること、アマチュアから直接3級でプロ入りする際の年齢制限が「満40歳未満」である点が異なる。

2012年7月1日から上記改定までは[18]、以下のLPSA主催棋戦の戦績をもって2級ないし3級になるものとしていた[19]

  • 日レス杯または天河戦:優勝1回ないし準優勝2回
  • 1dayトーナメント:個人戦で優勝3回
  • 女子アマ王位戦・小学生中学生女子将棋名人戦:優勝3回ないし準優勝4回以上

これに伴い、渡部愛が「1dayトーナメント優勝3回」の成績によりLPSAから女流3級として登録される[18]ものの、日本将棋連盟が渡部をプロとして扱うことを当初認めておらず、LPSA代表理事の石橋幸緒マイナビ女子オープンにおける対局放棄など対立が深刻化した。その後日本将棋連盟は2013年7月1日に、渡部を特例で女流3級と扱うことを発表した。テンプレート:See also

引退

「自らの意志による引退」(現役のまま故人となったケースは2012年現在無い)と、詳細は公開されていないが「『女流棋士総則』の『降級点規定』による引退」が存在する。引退すると公式戦に出場することはできなくなるが、引退しても日本将棋連盟から退会しなければ、女流棋士を名乗ることができる。日本女子プロ将棋協会(LPSA)所属の女流棋士も同様である。降級点規定により引退させられた初のケースは、2009年3月31日付の伊藤明日香[20]と、神田真由美[21]である。また2014年3月31日付で坂東香菜子が自らの意思により引退し、「自らの意思による引退」の規定が初めて適用された。

LPSA所属の山下カズ子は規定により2012年3月31日付で(女流棋士としての)公式戦出場資格が無くなったが、LPSA公認プロ資格である「ツアー女子プロ」に転向した。LPSA公認棋戦や準公認棋戦には引き続き出場することが可能となる[22]

ただ引退後も、公式戦にアマチュアとして出場することは可能である。過去に女流王座戦アマチュア予選では、藤田麻衣子・山下カズ子(本名の「中川カズ子」名義)がアマチュアとして出場したことがある[23]

歴史

レッスンプロ時代

プロ棋士は男女ともに開かれた職業であるが、これまでのところ女性が新進棋士奨励会(奨励会)を勝ち抜いて棋士となった例はない。このため、女性への将棋の普及が遅れていたが、この状況を打開するために女流棋士の制度が作られた。

1962年昭和37年)、蛸島彰子高柳敏夫(名誉九段)門下で奨励会に入会するが、1966年に初段で退会する(奨励会では「指し分けで昇級」という特別ルールが適用されていたので、奨励会に所属した他の女流棋士とは条件が異なる)。将棋年鑑などでは、これを初の女流プロとしているが、当時「女流」の概念や呼称は存在しなかった[24]。この時期に山下カズ子が女流1級として活動を開始しているが、蛸島同様にレッスンプロであった。当時はレッスンプロとして棋士(いわゆる「男性棋士」)相手に聞き手を行う等の方法で生活をしていた。

蛸島のそれ以後の将棋の普及への貢献、さらに昭和40年代から女性を対象とした大会が増えるにいたって、女流棋士創設の機運が高まっていった。1965年(昭和40年)に開始された全国高校将棋選手権では、個人、団体共に女子の部が創られ、1968年(昭和43年)には女流名人戦(女流棋士会発足後、「女流アマ名人戦」に改称)が始まった。将棋専門誌である『将棋世界』『近代将棋』では、女性が著名将棋ファンとの対局を企画したりと、女流棋士の礎が築かれた。

しかし、対局によって生計を立てていくには、資金と棋戦を主催してくれる会社が必要であった。

女流プロ誕生

1974年(昭和49年)に、報知新聞からプロ野球のオフシーズンの女流棋戦の開催を打診された。当時、女性への普及の企画を模索していた日本将棋連盟にとってもありがたい話であって、女流棋戦開催にこぎつけるまで2か月という驚異的スピードで話は進んだ。

さらに、棋戦が開催されるにあたって、女流棋士は連盟が候補を挙げ打診するという方向で行われ、女性教室の実力者などに参加の意向を呼びかけた。その結果、女流棋士第1号になった蛸島彰子、レッスンプロになっていた山下カズ子の他、アマチュア大会で優秀な成績を残した女流強豪、及び女性教室より計4人(関根紀代子多田佳子寺下紀子村山幸子)、計6人の女流棋士が誕生した。蛸島は三段、関根、多田が二段、山下、寺下、村山が初段でスタートした。

1974年10月31日、将棋会館において第1回女流名人位戦が始まった。この年が女流棋士の誕生であり、「発足*年パーティ」でも逆算するとこの年である。最初の公式戦は寺下対村山、関根対山下の2局であった。なお、蛸島は別格とされ、他5人の優勝者との3番勝負で名人位を争うことになっていた。挑戦者決定戦は、寺下対関根となったが、関根が対局中盤上から落としたと思われる香車を持ち駒として使ってしまい、反則負となった。これが女流棋戦初の反則負けである。

結局、寺下と蛸島が3番勝負を戦うことになり、第1局は11月18日、第2局が11月26日に行われ、蛸島が2連勝して、第1期女流名人位に就いた。その後、新加入の面々を加えて行われたが、蛸島の実力は抜けていて、そのまま女流名人位戦3連覇を果たした。しかし、第4期で挑戦した山下に公式戦初黒星をつけられると、そのまま奪取された。

1978年(昭和53年)に第2のタイトル戦、女流王将戦が始まった。蛸島は山下を2-1で下し、初代女流王将に就く。そして、女流名人位戦では8期まで蛸島・山下がそれぞれ4期ずつとっており、しばらく2人の二強時代が続いた。しかし、1980年(昭和55年)、当時まだ中学生だった林葉直子が女流2級として入会し、翌年には女流王将を奪取する(第4期女流王将戦)と、中学生タイトルホルダーとして話題を呼び、女流棋士の認知度を大いに高めた。その後、林葉は女流王将を10連覇、これは、現在、未だに破られていない同一女流タイトル連覇記録である。他にも女流名人位4期、初代倉敷藤花を獲得。80年代 - 90年代前半を代表する女流棋士となった。

初期は、女流棋士になるには、ある程度の実力を持ち、棋士の推薦があればよかったが、1983年(昭和58年)、育成組織として女流育成会が発足し、そこで所定の成績を収めなければならなくなった。その卒業生第1号が清水市代である。

1989年には、女流棋士発足15周年パーティが開催されたのを契機に、女流棋士会が発足した。

棋士との対局開始

1981年(昭和56年)からは棋士(いわゆる「男性棋士」)の公式戦に参加が認められ、第12期新人王戦で蛸島彰子が飯野健二四段(当時)、山下カズ子が高橋道雄四段(当時)と戦ったが、2人とも敗れた。女流棋士が公式戦で初勝利を挙げたのは、1993年平成5年)12月9日に行われた中井広恵池田修一戦(竜王戦6組)である。実に35戦目にしての対男性棋士初勝利であった。

なお、非公式戦では林葉直子1991年(平成3年)6月3日に白星を挙げている(銀河戦、当時は非公式戦)。

女流棋士の公式戦参加は平成に入ると急増する。1990年(平成2年)に王座戦に女流棋士の出場枠が設けられると、1993年(平成5年)NHK杯、竜王戦にも設けられた。そして、女流棋士に門戸が開かれた直後、前述の中井の公式戦初白星が竜王戦で挙げられた。

現在は出場権は基本的にはタイトルホルダーや挑戦者になった女流棋士に与えられる場合がほとんどだが、新人王戦については、26歳以下・年間成績によって選抜される。これにより、2005年の同棋戦では中村真梨花が史上最年少の18歳(当時)で公式戦に出場した(2007年10月現在、最年少出場記録は第37期同棋戦の里見香奈の15歳)。王座戦の一次予選では2006年から出場する女流棋士4名の初戦の対局が同日一斉に行われるようになり、大盤解説会やネット中継なども行われる。

女流棋士界の現在

一方、女流棋士による棋戦も拡大を見せ、女流名人位戦女流王将戦の2つのタイトル戦に続き、1987年に公式棋戦レディースオープントーナメント(2007年に、タイトル戦「マイナビ女子オープン」へ発展移行)、1990年にタイトル戦女流王位戦1993年(平成5年)にタイトル戦大山名人杯倉敷藤花戦1996年に公式棋戦鹿島杯女流将棋トーナメント(2006年で終了)、2007年に公式棋戦大和証券杯ネット将棋・女流最強戦、2011年にタイトル戦女流王座戦が創設され、2011年に棋戦数が最大のタイトル戦6、公式棋戦1の合計7棋戦となったが、2013年に大和証券杯ネット将棋・女流最強戦が休止され、タイトル戦6のみとなった。

2008年10月に、同年度(30期)限りでの女流王将戦の休止が決まったが、2009年7月に再開が決定し、2009年度女流王将戦(31期)が実施され、女流タイトル戦の減少が回避された。女流王将戦#休止と再開参照。

2012年4月現在、現役の女流棋士の人数は48人である。

1980年代後半から活躍している清水市代・中井広恵の二強時代が長く続き、2人とも前例のない女流六段まで上り詰めた。

一方、1997年に女流王位を獲得し、2006年からは女流名人や女王の座についた矢内理絵子1999年に女流王将を獲得し、2008年に女流王位を連覇した石橋幸緒(清水の弟子としても知られる)、2006年に女流王将を連覇した千葉涼子の「花の55年組」「若手三羽ガラス」が、二強の牙城に割って入るようになった。

なお、2006年には、清水・中井より少し年上の斎田晴子が清水市代から倉敷藤花を奪取することにより一時4タイトルを4人が分け合う形になった。

2011年現在では、20代から10代の若い世代がタイトルを占めている。甲斐智美は、2006年の鹿島杯と2008年のネット将棋・女流最強戦で優勝し、2010年には女王・女流王位を相次いで獲得した。里見香奈は、史上3番目の若さ(16歳8か月)で2008年に初タイトル(倉敷藤花)を獲得し、一躍、スターとなった。里見より少し年上の上田初美は、2011年に甲斐から女王を奪った。2011年には、女性奨励会[25]の女流棋戦参加が解禁された[2]ことにより、奨励会1級の加藤桃子が初代女流王座に輝いた(加藤は16歳9か月で女流王座を獲得した。初タイトル獲得時の年齢では、里見に1か月遅れるのみである)。他に、岩根忍中村真梨花長谷川優貴らの若手がタイトル戦に登場している。

こうした若手の活躍により、1992年3月に女流王将を獲得して以来、タイトルを維持してきた清水は、2010年10月の女流王将戦三番勝負で防衛失敗して、18年7か月ぶりに無冠となった。中井は2007年の女流名人位戦以降はタイトル戦番勝負から遠のいているが、ネット将棋・女流最強戦で2008年から三連覇して健在ぶりを示している。

分裂・独立

2006年11月、女流棋士会日本将棋連盟から独立する動きが報じられた。女流棋士は対局料などの面で棋士と格差があること、棋戦を自ら運営できないこと、連盟の意思決定に参画できないこと、などの点で待遇改善を求める声があった。また、将棋連盟としては引き止めるどころかむしろ、独立を促すような言動があったとされている[26]。女流棋士会側ではこれ以前から制度委員会を発足させており、独立も視野に入れて体制改革への意見集約が進められていた。

同年12月1日、女流棋士会は臨時総会を開き、独立に向けた新法人設立のための設立準備委員会の設置を賛成多数で可決した。しかし、「これで独立が決まった」と解釈する者と「単に設立準備委員会の設置のみが決まった」と解釈する者とがいた[27]。独立に至る過程で、準備委員会と連盟理事会との間の交渉が難航し、また、女流棋士の中の意見も一つにまとまらなかったため、結果的に56名(引退女流棋士を含む)中39名の女流棋士が残留を表明し、女流棋士会は分裂することとなった。2007年4月24日に、連盟の米長邦雄会長、西村一義専務理事、田中寅彦常務理事から正式な説明と発表がなされ[28]、5月30日には、連盟への残留を希望しない女流棋士17名によって、有限責任中間法人日本女子プロ将棋協会(LPSA)」が設立された(2013年現在は公益社団法人)。

2012年時点では「マイナビ女子オープン」と「女流王位戦」の主催者にLPSAが加わっていた。

2009年4月1日、日本将棋連盟が、棋士・女流棋士の両方を含む新たな棋士会を創設[29]したのに伴い女流棋士会は連盟棋士会の中の組織とされ[30]、女流棋士会の役員会は発展的に解消された。

2009年6月15日、北尾まどかがLPSAから退会し、「フリーの女流棋士」、日本将棋連盟の「客員女流棋士」を経て、2011年4月1日付で連盟に復帰した。「客員女流棋士」は、2014年現在北尾が唯一の事例である。 テンプレート:Main

2014年1月23日、中井広恵がLPSAから退会しフリーとなる。

ただし、連盟またはLPSAを退会し、同時に女流棋士としての身分を完全に放棄した「元女流棋士」は、2014年3月現在で連盟退会者が5名、LPSA退会者が3名存在する。将棋の女流棋士一覧#女流棋士一覧を参照。

脚注

  1. 里見香奈女流名人・女流王将・倉敷藤花、奨励会1級編入試験に合格(日本将棋連盟 2011年5月21日)
  2. 2.0 2.1 「奨励会と女流棋士の重籍に関する件」について(日本将棋連盟 2011年5月27日)
  3. フリークラス編入試験の制度は、女流棋士とアマチュアで変わりはない。
  4. テンプレート:Cite web
  5. 女流棋士会分裂の経緯のご説明(日本将棋連盟女流棋士会)「その1」を参照。
  6. 女流棋士会の独立 (北海道新聞『もっと知りたい』)
  7. CS放送『囲碁・将棋チャンネル』「将棋まるごと90分」2008年3月25日初回放送
  8. 臨時総会について(日本将棋連盟 2010年11月12日)
  9. 2009年4月制度変更の当初は「女流棋士仮会員」という名称であったが、同年7月に「女流3級」に名称変更された。「女流棋士仮会員」の名称変更について(日本将棋連盟)
  10. 山根ことみ研修会員が女流棋士3級の資格を取得(日本将棋連盟 2013年9月10日)
  11. 室谷由紀研修会員が女流棋士仮会員の資格を取得(日本将棋連盟 2009年6月30日)
  12. 12.0 12.1 長谷川優貴研修会員が女流棋士3級の資格を取得(日本将棋連盟 2011年9月26日)
  13. 長谷川優貴さんが10月より女流2級に(日本将棋連盟 2011年9月29日)
  14. 竹俣紅研修会員が女流棋士2級の資格を取得(日本将棋連盟 2012年7月23日)
  15. 飯野愛さんが10月から女流2級に(日本将棋連盟 2012年8月19日)
  16. 女流棋士仮会員(女流3級)資格付与規程 - 日本将棋連盟・2013年10月1日
  17. 公益社団法人日本女子プロ将棋協会 棋士規程(2014年5月30日版)
  18. 18.0 18.1 テンプレート:Cite web
  19. 公益社団法人日本女子プロ将棋協会 棋士規程
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. テンプレート:Cite web
  23. アマチュア予選 - 第4期リコー杯女流王座戦<リコー>
  24. この点について山下カズ子も「女流という肩書きはついていませんでしたよ」<中島一『女流棋界ヒストリー』(1) - (3)(『近代将棋』2004年1月号 - 3月号連載)>、と語っている。なお、本項では日本将棋連盟の定義を踏襲し、この呼称を使う。
  25. 2011年4月現在3名が在籍している
  26. 将棋連盟から女流棋士が独立/自立促した財政改革(Web東奥・特集)
  27. 女流棋士会分裂の経緯・公式見解(日本将棋連盟女流棋士会)
  28. 女流棋士独立問題について(日本将棋連盟 2007年4月24日)
  29. 新棋士会発足について(日本将棋連盟 2009年4月6日)
  30. 女流棋士会についてのご案内

参考文献

  • 中島一『女流棋界ヒストリー』(1) - (3) (『近代将棋』2004年1月号 - 3月号連載)

関連項目

外部リンク

テンプレート:将棋の現役女流棋士