藤井システム
テンプレート:Pathnav 藤井システム(ふじいシステム)は、将棋の振り飛車戦法の一つである四間飛車の一種。将棋棋士の藤井猛が考案した[1]。これにより藤井は1998年の将棋大賞の升田幸三賞を受賞。
目次
概要
藤井猛が考案した四間飛車の戦法である。特に居飛車穴熊対策としての藤井システムは非常に注目され、藤井自身も第一人者として活躍した。
後述のように左美濃対策の藤井システムと穴熊囲い対策の藤井システムとがある。後者の特徴は、相手が穴熊を目指せばその前に戦いを仕掛け、穴熊を放棄して急戦となったときは囲いの堅さで優位に立つことができる戦法である。特定の駒の動きというよりは自陣全体の攻守の駒組みに特徴があり(「戦法」ではなく)「システム」と呼ばれるゆえんでもある。
従来は居飛車側が作戦として持久戦を選択する際、5筋位取り・玉頭位取りまたは船囲いから矢倉囲いなどへの発展系の囲いを選択することになり、特に横からの寄せ合いには脆さがあった。しかし左美濃・居飛車穴熊の発達により、居飛車が同等かそれ以上の堅さを手に入れたため、振飛車の勝率が極端に下がった。トップ棋士になるとこの傾向が顕著で、羽生善治・森内俊之・佐藤康光・渡辺明が居飛車穴熊を指したときの勝率(先後別)は、佐藤の後手番で0.588を除いて7割以上の高勝率であり、羽生は先後合計での勝率が9割を超えている[2](通常、先手番の勝率は五割を少し越す程度といわれている)。
そのため、左美濃・居飛車穴熊に対しての対策を持ちつつ、居飛車の従来からある右銀急戦などにも備えた包括的な指し方が必要となった。藤井システムにおいては、
- 左美濃に対しては、理想形を許さず、玉頭戦に持ち込むのを狙いとしている。
- 居飛車穴熊に対しては、そもそもその囲いに組ませない、あるいは囲いに組ませる前に戦いを起こすのを狙いとしている。穴熊囲いに組もうとする相手に居玉のまま攻撃をしかけたり、振り飛車から居飛車に戻したり、あるいは雀刺しのように端に勢力を集中させるといった戦い方も含んでいる。
小林健二九段のスーパー四間飛車や杉本昌隆七段の研究なども下敷きとなっている。
変遷
振り飛車党の減少
藤井システムが広く知られるようになる前、居飛車側は対振り飛車戦において急戦に自信がない場合、左美濃・居飛車穴熊で玉を固く囲う戦法が有効とされていた。これらの囲いは振り飛車側の美濃囲いと堅さが同じかそれ以上で、しかも持久戦模様になると居飛車側からのみ仕掛けの権利があった。これに対して振り飛車の有力な対策がなく、振り飛車を指す棋士が減少した。青野照市はこの頃の状況を、森下卓のセリフを引用して「矢倉の研究が忙しいから、振り飛車には穴熊と左美濃を交互にやってればいいんだ」と表現した[3]。
振り飛車党(四間飛車党)であった藤井も居飛車穴熊と左美濃への対応には苦慮しており、対左美濃戦において、振り飛車側も銀冠を見せて、その囲いの途中(2七銀・3九玉・4七金・4九金の状態)で飛車を右翼に戻して左美濃の玉頭に殺到する構想を試したことがある(1995年全日本プロ将棋トーナメント(のちの朝日オープン将棋選手権)、藤井猛対行方尚史戦)。この将棋は河口俊彦の『新対局日誌』に取り上げられ、藤井はこの構想を林葉直子が指していたものだとしている[4]。これは藤井システムが登場する前の将棋であるが、左美濃の玉頭を攻める構想は共通している。
対左美濃の藤井システム
本来の藤井システムは左美濃に対抗するための研究であった。左美濃、特に天守閣美濃は、その特異な形から振り飛車にとって攻略が難しかった。
この戦型の戦いでお互いに飛車先を突破した場合、そこからは横からの攻め合いになるが、振り飛車側の王が一・二段目にいるのに対して、居飛車側の玉は三段目にいるため、攻め合いになると手数で負けてしまうことが多い。そこで天守閣美濃の攻略にあたって横からではなく、弱点である玉頭を狙った縦からの攻めを織り交ぜるようになった。
4筋・6筋の歩を突き越し、▲3九玉の形で▲2六歩から▲2五歩と玉頭を攻める。特に▲4五歩で理想的な4枚高美濃に組ませず、玉頭を狙う。ただし▲2六歩を単純に早く決めすぎると△5三角から狙われるので、周到さが必要である。島朗がNHK杯で後手藤井システムに▲5七角から強引に高美濃に組み、桂頭を狙って勝利している。ここからよくある形としては、▲5六歩と突き、三間飛車に転換した後、角を▲6八に引くと角の利きが玉頭に直通するので、桂と角の利きで玉頭から攻撃できる。単に▲2五歩△同歩▲同桂とする手段も厳しく、角が3一にいないと銀を2二に引けず(▲2四歩がある)角道が通っている分、居飛車側が常に気を使う展開になる。
これは非常に完成された戦法であり、左美濃自体がプロの対局ではあまり見られなくなっている。
対穴熊の藤井システム
現在「藤井システム」の主流の変化となっているものは、居飛車穴熊への新たな研究として現れた、言わば新バージョンである。居飛車穴熊が完成する前に角筋を頼りにした縦からの攻めを軸として速攻を仕掛ける体勢と、居飛車側が急戦に持ち込んだときの対策の、両方を兼ね備えた作戦となっている[5]。
1筋の歩を突き越し、居玉のまま速攻を仕掛ける。△1二香と穴熊に囲おうとしたら、▲2五桂から▲4五歩と角筋を通して攻める。後手が急戦を仕掛けてきたら▲4八玉から▲3九玉と美濃囲いに移行する。
駒組みが特徴的なため、真似るのは容易であると思われがちだが、指しこなすのはプロでも非常に難しく「藤井でないと藤井システムは指せない」と言われることもある。
藤井が初披露したのは、1995年12月22日の対・井上慶太戦であり、47手の短手数で井上を投了に追い込んだ(中図は途中図)。しかし、すぐに有名になることはなく、1997年度のNHK杯戦で屋敷伸之が羽生善治に対して類似の形を指したときは、羽生が自玉のコビンを攻められ思うように居飛車穴熊に組めずに長考し(右図がその局面)、解説の田中寅彦もうなったが、ようやく指された羽生の次の一手は△3二玉と戻す手であった[6]。
1998年、藤井はこの戦法を用いて谷川浩司から竜王位を奪取する。振り飛車は将棋界で息を吹き返し、さらには、ほかの振り飛車の戦法も指されるようになった。
藤井システムとミレニアム囲い
藤井システムに対しては居飛車穴熊に組むのが難しいため、色々な対抗策が考えられた。そのひとつが2000年頃に現れたミレニアム囲いである。堅さでは穴熊に及ばないものの、玉を(後手の)2一に囲うため、角筋の直射を受けないのが特徴である。
今までの振り飛車は角道を頼りに穴熊を崩していた。近年に開発された三間飛車の中田功XPも、角道が居飛車穴熊の玉への脅威となっていた。しかし初めから角道の攻撃を避けるミレニアム囲いは、藤井システムの狙いに少なからず影響を与えた。
ミレニアム囲いは藤井システムに対して新たな展開を見せたが、手数がかかる割には穴熊ほど堅くなく、組み上げる手間を逆用して振り飛車側が穴熊に組む対応を見せられ、藤井システムに対する完全な対抗策には至らなかった。こういった経緯から、この戦法は数年で全く指されなくなってしまった。
新たな対策と藤井システムの進化
藤井システムは、居飛車側が穴熊囲いでも急戦を仕掛けてきても、どちらにも対応できる戦法として猛威をふるった。居飛車側の対抗策としては、穴熊にするか急戦を目指すかの態度をぎりぎりまで決めず、振り飛車(藤井システム)側の動きによってどちらの駒組みにするかを決めるようになった。
これに対し、振り飛車側も▲6七銀と▲1五歩を保留し(▲7八銀と▲1六歩で止める)、その2手を▲4八玉から▲3九玉と囲いにかけるようになる。このため駒組みの上では藤井システムの特徴であった「1筋の突き越し」「居玉」がなくなり「藤井システムは消えた」と言われるようにもなった。
藤井システムに対する研究と改良が加わった結果、後手番での藤井システムは不利、先手番ではほぼ互角に戦えるであろう、とする結論に至っている[7]。プロ間では2004年頃から、先手番の藤井システムに居飛車で対抗する将棋が減り、代わりに相振り飛車が流行するようになった。
藤井自身も模索を続けており、2008年には矢倉囲いも実戦で試すようになった(ただし通常の矢倉の定跡手順ではなく、相振り飛車も視野に入れたものである)ため、当時の『週刊将棋』紙に「矢倉党に転向」と紹介されたこともあった[8]。藤井自身、藤井システムを「ファーム落ち」と表現しているが、藤井システムを捨てたわけではなく「いつ一軍で投げさせるか、わかりませんよ」としている[9]。事実、藤井は2012年になって先手後手の双方で複数回藤井システムを指し、第53期王位戦では、挑戦者決定リーグで高橋道雄と牧野光則を、挑戦者決定戦では渡辺明を藤井システムで破って羽生王位への挑戦権を得た。2014年5月12日の王位戦で居飛車穴熊の木村を終盤若干もたつきはあったものの撃破。 A級は陥落したものの、研究は怠っていないところを見せた。
脚注
参考文献
- 『将棋世界』2006年3月号「勝又教授のこれならわかる! 最新戦法講義」藤井システムはどこに消えた? の巻
- 勝又清和『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8)
- 『将棋世界』の連載をまとめたもの。藤井システムについては2章を割いて解説している(第3講 後手藤井システムの話(57 - 94ページ)、第4講 先手藤井システムの話(95 - 118ページ))。
関連項目
外部リンク
テンプレート:将棋の戦法- ↑ 藤井は1998年度のNHK将棋講座で本戦法の解説を行い、その直後に谷川浩司から竜王位を4勝無敗で破り、奪取。
- ↑ 勝又清和『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8)、108ページ。2006年春までのデータである。
- ↑ 『将棋世界』2007年9月号、「新手魂」23ページ。青野照市・勝又清和・上野裕和による対談より。
- ↑ 河口俊彦『新対局日誌 第八集 七冠狂騒曲(下)』(河出書房、2002年、ISBN 4-309-61438-8)、12 - 15ページ。
- ↑ 藤井猛『最強藤井システム』(1999年)によれば、▲1五歩と端に2手かける手は急戦相手だと緩手になると考えられがちであるが、終盤で自玉が広い(端に逃げ道が大きく空いている、と言った感じの意味)ため、十分戦えるとされている。
- ↑ 田中寅彦(居飛車穴熊を得意としていた)は、「何か変だな」と何度もうなった。羽生の△3二玉を見て、司会・聞き手の藤森奈津子は思わず「あ!戻った!」と声を上げた。
- ↑ 後手番については勝又『最新戦法の話』90 - 94ページ、先手番については同書118ページ。
- ↑ 『週刊将棋』2008年8月6日、7ページ。
- ↑ 勝又『最新戦法の話』116ページ。